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2004/11/26

無駄論的織田信長様

 久しぶりに無駄な歴史のお勉強です。お題は「神様、仏様、織田信長様」です。
さて、織田信長について、いちいち語る必要もないでしょう。それでは今日はこの辺で、さようなら・・・・、じゃなくて、実は前々から思っていた疑問がひとつあるんです。ややこしい疑問なので、少しずつ説明していきます。
 春日局(かすがのつぼね、おふく)をご存知でしょうか。江戸幕府、三代将軍徳川家光の乳母にして、大奥を牛耳り、権勢を振るった人物です。私見てないんですけど、今「大奥」ってドラマやってるんですかね。ところで、この家光の乳母にこのおふくが決まったのは、ちょっとおかしいのでは?って言われていたらしいです。家光のお母様(お江与の方)と、このおふくは相当けんかなどをしたでしょうから、それでとってつけたものかもしれないんですが、

おふくは、家光の母お江与の方から見て仇筋(かたきすじ)に当たる
というのです。仇に当たる人を息子の乳母に人選したのは許せないって言うんですね。どこがどう仇なのか、ややこしいんですが説明しますね。この家光の母、お江与の方のお父様は近江の国の大名だった浅井長政、お母様が織田信長の妹のお市の方。お市の方って美人だったって言われてますよね。つまり、お江与の方からみて織田信長様はおじさんということになります。そんで、おふくの方はというと、お父様が斉藤利三です。この方、織田信長を本能寺の変で殺した、あの明智光秀の一番の家臣なんですね。わかります?これ?、つまり、お江与の方からみて、おじさんである織田信長を殺した明智光秀の家臣の娘がおふくなわけです。だから、仇筋だっていう理屈です。かなりややこしいけど、確かに仇筋であることは間違いありません。
 それで、何が疑問なのかというと、この仇の話、どこかおかしいのです。何がおかしいかというと、このお江与の方のお父様である浅井長政が、ある人物に攻め滅ぼされています。居城の小谷城落城のさなか、浅井長政は自害、お市の方とお江与の方を含む三姉妹が逃げ出し、保護された話は有名です。誰に攻め滅ぼされたか?というと、そう、なにをいわん、おじである織田信長に攻め滅ぼされているではありませんか。つまり、おじさんである織田信長の仇筋だなんて言う前に、父親がそのおじさんに殺されているじゃないかと言いたいわけです。むしろ、おふくは、父の仇を討ってくれた筋じゃないかと思いたいくらいなんですが。これ、違いますか?。
 この疑問に対する私の考察は次の通りです。まず、当時から(現代もですが)明智光秀という人物は「主殺し」「反逆者」として、絶対的な悪者として認知されていたのではないか。また、逆に織田信長は、夢半ばにして倒れたとはいえ、実質的に天下を平定しつつあった絶対的な「戦国の英雄」と認知されていたのではないかということです。したがって、お江与の方にとって、この絶対的「戦国の英雄」にたてついた自分の父親のことよりも、この英雄の血を受け継いでいることの方が重要だったのでしょう。ただ、それはあくまで世間の一般論であり、お江与の方自身が、本当は信長のことをどう思っていたかはわかりません。幸せな家庭を、落城の憂き目に追いやったおじのことを、真から英雄視できたかどうか?。本当の気持ちを聞いてみたいものです。
 織田信長が、戦国の英雄であることは誰も異論がないでしょう。しかし、私的には、この信長を戦国の英雄に仕立て上げた人物は、明智光秀その人だったと思っています。実は、信長という人は本能寺の変で死ぬんですが、歴史を振り返ると、丁度いい時期に死んだのではないかと思うのです。信長は英雄である一方、戦国の習いとして相当にひどいこともしているでしょうし、伝統文化を否定するところもありました。あのまま信長が天下を取っていたら、現代まで続いている、いろいろな文化があの時代に途絶えていたかもしれません。しかし、そんな信長の悪いところは、明智光秀が反逆者のレッテルを貼られることで、すべて背負わされてしまったのではないかと感じます。あの時誰かが信長を殺さなければならなかったのではないかと思うのですが、しかし、その実行者は、歴史上「反逆者」の汚名をきせられることになってしまいます。そんな「ババ」をあえて引いた人物、それが明智光秀だったのかもしれません(ババ論について、ぜひ組織批判はしたけれどを参照してみてください)。
 最低限いえることは、春日局おふくが、父斉藤利三の世間から受けている評価に対して仇を討ったということでしょうか。そして、信長が英雄でいられるのは明智光秀様や斉藤利三様が悪者になったお陰じゃないの?って言うのが無駄論的結論です。それにしてもややこし~お話でした。ここまで読んでくれた方いるのかな?。

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 追加記事:斉藤利三を利光としていましたので、訂正しました。

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コメント

またお邪魔します、弓木です。
このあたり、歴史的に突っ込むと、かなり妙な疑問が色々とありますよね。またトンデモなことを言うと思われても仕方ないが、幾つか駄説を紹介させていただきます。
①「家光は、実は秀忠でなく家康の末子である」
家康は晩年にもずいぶん子を産ませてるが、自分の末子・家光を三代将軍にするために、秀忠の子として認知させた…という説があるのです。秀忠夫妻が家光を嫌って弟の方を愛したこととか、それを家康がひっくり返させちゃったこととか、これで説明ができてしまう。家光が父になじまず、むやみに家康を崇拝したのも、そのせいだというのです。
②「本能寺の変は、ほんとは信長が家康を殺すため仕組んだ」
信長が家康のパートナーシップを必要としていたのは、対武田対策だった-というのは有名な事実です。だが本能寺の三ヶ月前、武田家は滅亡した。そこで家康はもはや「用済み」と考えて、信長は彼を暗殺するために招待した。その刺客として選ばれたのが、光秀だったというのです。これは当時からあった説で、宣教師らも報じています。ただ光秀は「もうこの人にゃついていけねえ」と思って、逆に信長を襲撃したというわけで、これは③説ともリンクします。
③「家康の謀臣・天海は、じつは光秀後身である」
光秀の最期は不明瞭です。いっぽう天海は、前半生が全く不明で、とつぜん家康側近として登場してくる。その彼の造らせた日光東照宮に、あちこち「明智」の暗号が隠されているのは、知る人ぞ知る有名な事実です。また比叡の横川には「大阪の陣」ごろの年号日付で、なんと「光秀」銘の石塔が現存しています! 二人の共通点はかなり多いのです。
さてこの3説を考慮するなら、旧光秀筋の「おふく」が家光の乳母に抜擢された謎は解ける…と僕は思うのだが、どうでしょう? 証明しようもないことではあるのだけど。

天海 

投稿: 弓木 | 2004/11/26 04:01

弓木様、コメントありがとうございます。
それにしても、大変興味ある説ですね。全てを鵜呑みにするわけにはいきませんが、いろんなことを考えることができるのが歴史の醍醐味ということでしょうか。この説が当たってるとすると、信長も、家康も、光秀も、秀吉も、それぞれ自分勝手な謀略に謀略を重ねて過ぎて、逆にスマートな流れになっちゃった?ッて感じもしなくもないですね(笑)。
 また、いろいろ教えてください。まさに、ブログ冥利に尽きます。歴史って面白い!!。
 

投稿: 彰の介 | 2004/11/27 06:04

織田好きの私にはたまりませんでした。
しかしややこしいなぁ!
織田信長が英雄になったのは明智たちのお蔭?いやいや、とんでもない!そんな裁量、明智たちにはありませんよ~~!
しかし、歴史上の人物でも鼻がある人、そうでない人っているんだなぁって思います。全然関係なかったですね。
ごめんなさい。

投稿: コングBA | 2004/11/27 09:47

再び。
鼻じゃなくて花です。
送信しながら気がつきました。
すみません。

投稿: コングBA | 2004/11/27 09:48

コングBA様、コメントありがとうございます。
私も、評価としては、明智光秀の人物の大きさは、信長の足元にも及ばないとは思っています。しかし、歴史は勝者によって語られるので、まかり間違ってあの時明智政権が樹立していたら、これでもかというくらい信長は悪者にされていたということです。主殺しを正当化するために、信長がいかに悪人かというエピソードがうそも本当も両方ともに記録として残されたでしょう。そう考えると、信長が英雄でいられるのは、あっという間に光秀が死んでくれたお陰かなあと思いますし、ついでに光秀は信長の悪い部分まで背負って現在の評価を受けてるかなと思ったしだいです。要するに、私はいじめられて、人気のない光秀を少しでも救済したかったということです。そう、織田信長のこと書こうと思ったのに、実は光秀のことも書きたかったということをばらしてしまいました。

投稿: 彰の介 | 2004/11/27 11:46

しかし、よくご存知ですね~。
感心します。
改めて歴史、勉強したくなりましたよ!

投稿: コングBA | 2004/11/27 12:56

コングBA様、コメントありがとうございます。
一応、私は戦国マニアを自称していますが(笑)、弓木様の話などを聞くと、「ひよっこ」って感じです。私が戦国時代にはまったいきさつを、そのうちブログにします。お楽しみに・・。

投稿: 彰の介 | 2004/11/27 22:43

私は戦国時代の下克上は当たり前であって、やるかやられるか、正論がまかり通らない無常な世情だったのだろうと考えています。

私も安土桃山時代の日本史はとても好きで、一方的な武将の評価はどうだろうと、常々疑問に感じていました。
織田には織田の、明智には明智の、徳川には徳川のお家大事であるがゆえの究極の、ロシアンルーレット的名な毎日だったのではないかと推察します。
勝てば官軍、負ければ賊軍なんですね。
本能寺の変では明智と徳川の密約があって、変の後に毛利に届けられるはずの密書が秀吉に渡ってしまって、すべてが秀吉の知るところとなって、それもこれも秀吉にうまく利用されたらしい、ということも説としては存在しますし。。

投稿: 祇園 | 2004/11/28 18:11

祇園様、コメントありがとうございます。
歴史は勝者によって語られますから、悪役にされたり、評価の低い人物ってたくさんいると思うんですよね。少しでもそんな人物に光を当てることができればいいなと思っています。

投稿: 彰の介 | 2004/11/29 12:56

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