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2004/11/10

無駄論は無宗教

 私はいわゆる日本人にありがちな無宗教です。まあ、慣習的な仏教徒ではありますが、お願い事するときの神道と、年末のキリスト教への信仰も忘れてはいません。これが本当の多神教???、だったりして(笑)。
 ところで、イラクで大規模な戦闘が再開されました。この戦争の可否についてはここでは書きませんが、そもそも宗教的な要素がこの戦争を泥沼化していることは否定できないでしょう。しかし、何で宗教はいがみ合うのでしょうか。なんとなく宗教=平和のイメージがありますが、大昔から戦争の理由になり大儀になってきました。これが私には全く理解できません。
 日本国憲法には、信教の自由が明記されています。以前、オウム真理教のことを例に出したことがありますが、あの一連のオウム事件の報道の中で、彼らオウム真理教の言い訳に興味深い言葉がありました。彼らは彼らの信仰そのものが批判されると、「我々には信教の自由がある、否定される覚えは無い」と答えていたのです。いやいや、しかしこんな不思議な話はありません。各宗教はそれぞれの宗教が唯一無二の宗教と考えているはずです。だから、他の宗教を認めるわけがありません。つまり、各宗教の中に信教の自由が無いのは言うまでもありません。だから、宗教を信仰するものが「信教の自由」などと言うのは信仰そのものに矛盾します。ここは「我々の信仰は誤っていない」と正々堂々と言うべきで、「信教の自由があるから・・」と言うのは一宗教の使う言葉ではなく、国や裁判所が不当な宗教弾圧に対して使うべき言葉です。
 しかしそう考えると、よっぽど宗教より日本国憲法のほうが度量が広いと思いませんか?。何でも認めますって言うんですから。その懐の広さは、どの宗教を見渡してみても決して存在しません。信教の自由のもとで信仰されている宗教は、日本国憲法以上の大きさにはなりえません。我々は、当たり前のように「信教の自由」って言いますが、それが当たり前でないことは、それこそ中東の国で言ってみればわかります。「俺達には信教の自由が・・」と叫んだところで、「あるわけ無い!」と言われるだけなのは言うまでもありません。この宗教の度量の狭さは何もオウム真理教に限ったことではないでしょう。全ての宗教が内包する矛盾でもあり、宗教同士が対立する原因ではないかと私は考えています。
 ここまでの話は、昔から私が思っていた禁断の屁理屈ですが、こんな屁理屈を、いや、宗教の内包する矛盾を、あのローマ教皇ヨハネパウロ2世は真剣に考えていたようです。無宗教の私は、ただのお飾り的なおじいさんだと思っていましたが、アメリカのイラク侵攻を止めようと活動していたことがNHKの番組で放送されていました(かなり前です。途中しか見てないので番組の題とかわかりません)。イラク侵攻を止め、イスラム教徒との戦いを回避し、真の平和を実現しようとすること、それはキリスト教の象徴であるローマ教皇が、イスラム教という異教を認めることに他なりません。簡単そうでできないことと、あのご老体の偉大さに心打たれたことを思い出します。もちろん、ご老体の活動が無駄になったのはご存知の通りです。
 アメリカのブッシュ大統領はキリスト教系の大圧力団体を支持母体の1つにしていると聞いています。一体全体、あのご老体の気持ちを完全に踏みにじった大統領自身がどんな信仰を持ち、その圧力団体は一体何を求めているのでしょうか。私はこれまた理解できません。信仰の大切さについて否定するつもりは毛頭ありませんが、私自身は対立の起きようの無い慣習的仏教で十分です。むしろ日本国憲法の精神を大事にしたいと考えています。
 ちなみに無駄論は宗旨宗派を問いません。どなたにご参加いただいても大丈夫です。対立のための無駄論ではありません。別の考え方や別の見方をもつこと、広い視野で物事を考えること、それが無駄論の一側面なのですから。

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