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2005/02/20

無駄論的幕末維新

 本日は明治維新のお勉強・・・といいたいところですが、残念ながら私には皆様にお話しするほどの正確な知識を持ち合わせていないのが正直なところです。というか、明治維新ははっきり言ってよくわからない!というのが本音です。そこで、逆に素人的にどこがわかりにくいのか、問題提起をしてみようと思います。
 
 私は完全に戦国マニアなので、今まで明治維新のことはあまり興味が湧きませんでした。なぜ興味が湧かないかといえば、それはやはりわかりにくさにあると思います。戦国時代は「天下を獲る」という明快な目標があり、それに向かって動いていくので、極めて明快です。しかし、幕末、明治維新というのは、素人的にはっきりとした目標が見当たりません。「尊王攘夷」ってのも、現代人の私から見ると極めて不可解なスローガンです。また、人物の名前はよく聞くのですが、何をやったのか、その後どうなったのかさっぱりわからない人もよくいます。

 例えば、高杉晋作。名前はよく存じておりますし(笑)、奇兵隊なんてのもよく知っています。中学のときの高杉ファンの先生が息子に「晋」と名づけたことも知っています(笑)。しかし、それで、奇兵隊が何をやって、どうなって、高杉がどうなったのか、これ相当興味を持って調べないとわからないわけです。
 水戸藩っていうのも、最初そのさきがけのように出てきますが、その後さっぱり出てこなくなってしまいます。これまたよくわかりません。
 そして、戦国時代との最大の相違点?だと思うのが、薩長両藩が倒幕し、新政権を樹立した?らしいのに、薩摩や長州のお殿様(島津さんや毛利さん)はどこにいっちゃったの?ッてとこでしょうか。そんなもろもろのことがわかりにくさの原因だと考えられます。

 しかし、現代日本を理解しようとするとき、幕末日本から明治維新を理解することは避けて通れません。そんなことで、私自身何とか幕末、維新を理解しようと思い立ち、「お~い!竜馬」を読んで(マンガですけど、大笑)その突破口を開き、その後司馬遼太郎の幕末シリーズを一通り読んで、昨年「新撰組」みて(あまり参考になりませんでしたが)、うっすらと明治幕末の流れをつかみかけた感じです。結論から言うと、戦国時代は傍から見ていても理解できるのですが、幕末維新の時代は、それぞれの立場から、つまり薩摩藩、長州藩、土佐藩、幕府、会津、新撰組等、それぞれの目線で多角的にみないとその流れがつかめないのではないかと考えています。そんな中で、長州藩から見てみると、高杉晋作がいなかったら明治維新そのものが成立しなかったかもしれないと理解できますし、土佐藩から見てみれば、坂本竜馬という存在の奇跡が理解できてくるわけです。
 
 さて、私の今回の問題提起は、「尊王攘夷」というスローガンです。これが私を悩ましています。維新の始まりは、ペリーの来航に伴う開国、不平等条約の締結にあると考えられますから、「攘夷(外国を打ち払う)」はなんとなくわかります。しかし、「尊王(天皇を敬う)」はどこから来たのでしょうか。
 これが水戸藩で盛んだった皇国史観が元になってるようなんですが、これまた、皇国史観が水戸藩からでてきたのもよくわかりません。幕府というのは確かに朝廷・天皇の下にある武家の体制です(このあたりの正確な言い回しに誤りがあるかもしれませんが素人ですのでご勘弁を)。ですから、立場上、武家が天皇を敬うということは理解できます。しかし、実質的には、朝廷から権力を奪い、形ばかりの存在にして、武家が天下を動かしているのですから、あまり「尊王」を言い過ぎると、徳川幕府の存在そのものが不敬ということにならないのでしょうか。それを徳川御三家である水戸藩からいい始めるというのはいったいどうなんでしょう。なんとなく自分で自分の首を絞めてるような気がしてならないのは私だけでしょうか。
 
 また、短絡的に、そんな私の発想からいきますと、「尊王=倒幕」ということになります。しかし、尊王攘夷を掲げる過激派たちや、有力諸藩が最初から明確に「倒幕」を意識して行動していたかどうかは怪しいものがあります。というか、当初は主導権争いに終始していただけでしょう。実際、明確に「倒幕」となるまでに無駄な命がものすごい数散ったわけで、まさに悲劇としか言いようがありません。そう考えると、やっぱりスローガンとしての「尊王」とは一体何を意味していたのでしょうか?。
 
 また、「攘夷」は理解できるといいましたが、これは開国か鎖国かという問題とは全く関係がありません。歴史を知っている立場の私から言えば、攘夷するためには開国が不可欠です。海外の圧倒的に進んだ技術を盗むしか、諸外国に追いつく方法がないんですから。しかし、開国派と呼ばれる人は、過激派浪士の格好の天誅の標的になったというのですからこれまた理解できません。開国ということが短絡的に諸外国になびくことと考えられたようですが、これまたこんなことで無駄な命が多く流れたかと思うと、本当に悲劇ですね。
 
 私は、なんとなく明治維新というと、ペリー来航から、倒幕、新政府樹立まで、一本調子にことが進んだものだと勘違いしていました。しかし、歴史を振り返ってみると、ペリー来航から、幕府が倒れる10数年の間は決して一本調子ではなく、時には佐幕派が優勢になり、そしてあるときは討幕尊皇派が優勢になりと何度も波が起きています。おそらく、当時の人々は決して、「今何をしてどう世の中を変えればいいのか」なんていう明確な答えをもっていなかっただろうと思います。そして漠然と与えられた方程式が「尊皇攘夷」というスローガンであり、その解釈というか解は、それぞれの立場によって異なっていたということでしょうか。ある人の解は、倒幕だったでしょうし、ある人の解は佐幕だったでしょうし、ある人は外国人に切りつけることだったでしょうし、ある人は天誅をくらわすことだったのでしょう。その解が、すなわち日本が進むべき道が明確になった時には、すでに多くの血が流されてしまっていた・・・というのが実情なのでしょう。
 
 明治維新というのは、ある意味世界でも類を見ない、奇跡的なほど、合目的な革命であったと考えられます。中国では、アヘン戦争から数えても辛亥革命まで70年の月日が必要でした。それを日本は10数年でやってしまったことになります。しかし、相対的に合目的とはいえ、明確な目標と行動とを、力関係、利害関係の中から正確に見出していたわけではないということに、現代にも通ずる教訓を与えてくれているような気がします。

 本日もわけのわからない無駄な私のお話をお読みいただきましてありがとうございました。次回の無駄論は、坂本さん・・・かもしれません。お楽しみに・・・。

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コメント

>薩摩や長州のお殿様(島津さんや毛利さん)はどこにいっちゃったの?

これは、おいらの勝手な推測ですが、西郷隆盛・坂本竜馬等は武士とは言えども、下級武士の出身で、ほとんど農民と大差ない暮し向きであったことを考えれば、新政府設立時に担ぎ上げることもないわけであったからということでしょう。一応、華族という特権階級につけたんですがね。

>徳川御三家である水戸藩からいい始める

これに関しても、勝手な推測をすれば、そもそも御三家とは名ばかりの扱いだったことを考えれば合点が行きます(おいおい)

これらのことに関しては、後ほど、おいらのブログにて記事にするかもしれません。

投稿: でめ | 2005/02/20 04:51

そういえば、以前どっかで、毛利だか島津だかの殿様が倒幕後、しばらくの間、朝廷から征夷大将軍の下命を待っていたという話を読んだ記憶があります。
ということで、倒幕の立て役者になった下級武士層と殿様の間にはそういう意識差もあったようですよ。

よく幕末当時、「○○藩」レベルではなく、日本国のレベルで考えていたのは坂本龍馬くらいだろうという話をききますが、結局はそれに尽きるのかもしれませんね。自藩の利益を優先させて、各自が動いていたけど、結果的には何故か中央集権体制が出来上がったという感じなのでしょうか。
でも、明治政府といったって、結局は薩長閥で構成されていたということは、明治後も「○○藩」レベルの思考回路があって、それを諸外国との相対的関係から日本全国に広げただけかもしれないですね。
結局は、薩長の下級武士が政権とるための革命でしたが、世界的な流れに巻き込まれた結果、形(法律)だけでも議会制やら民主主義やらを整えてみたら、明治政府ができあがったとか(^_^;)

投稿: こに | 2005/02/20 10:32

でめ様、こに様、コメントありがとうございます。
 明治維新の原動力の1つが、身分制度にあったことは間違いなさそうですね。だから、維新が完成されたら、身分制度の崩壊が起きていた、お殿様はいつの間にか求心力というか権力そのものが消えてなくなっちゃってたってことなんですかね。
 なんか、形から入ったら、できちゃったというのは不思議なものですね。やっぱり明治維新は奇跡の革命です。たぶん。

投稿: 彰の介 | 2005/02/20 18:43

>なんか、形から入ったら、できちゃったというのは不思議なものですね。やっぱり明治維新は奇跡の革命です。たぶん。

でも、きっとそういう時代の要請があったのでしょう。だからなんかうまくいったのでしょう。でも結構こんなにうまくいったなあ、っていうのが、私の感想です(すいません、本当に明治維新はしろうとですが、明治維新は偉人○○の功績というのじゃなくて、「必然」だったのだろうと、そう考えています。)

投稿: mia | 2005/02/20 23:50

またどうも、弓木です。じっさい僕も、幕末維新史はねじれまくって、わかりづらいと思います。
それを無理やり整理すると、
①水戸家は、幕府主流派(尾張・紀伊派)を倒して自家から将軍を出す目的で、長州と「水長同盟」して「尊皇攘夷」を主張、政権を攻撃した。
②長州・吉田松蔭らは、自分たち「下層武士」が政権を奪る目的で、水戸と組んでテロに走った。
③水戸家はじっさいに将軍(慶喜)を出してしまうと、大義と現実が矛盾してしまい、混乱から内ゲバに陥って自滅した。
④薩摩の島津久光は、「内戦回避」「強国統一」を目指していた。それではじめ「雄藩共和」を図ったが、慶喜の妨害で挫折する。
⑤孤立した長州は、その薩摩の下層武士らを抱き込んで、「倒幕」戦線を確立した。
⑥英国(と米国)は、幕府が仏・蘭よりなので、その薩長を後押しして新政権を樹立させた。
⑦よってできあがった明治政府は、英米のコピー国となって、対露戦争に邁進した。
⑧だが中国の「分捕り」で、日本と英米は決裂する。それで太平洋戦争勃発…。

て流れになると思う(長くてすいません)。
ウチでも最近は信長や光秀の記事を書いてましたが、じき幕末ネタもやる予定です。ご高覧いただければ、幸いです。

投稿: 弓木 | 2005/02/21 00:21

mia様、弓木様、コメントありがとうございます。
時代の必然っていうのは、後世になってわかるんですよね。当時の人は混沌の中でもがいてたんでしょう。現代でも、進むべき方向が教えてもらえれば楽なんですがね・・・。
弓木様には、太平洋戦争までの流れをまとめていただきましたが、やっぱり幕末はねじれてますよね。相当にねじれているのに、出来上がりがすっきりって言うのが不思議なものです。

投稿: 彰の介 | 2005/02/21 00:52

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