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2005/03/31

チクる。でも怖い。

 恐れながら申し上げます。 [ゴーログ]逆境こそが経営者の資質を磨く!の本文とは何も関係ありませんが、一部無駄論的に訂正させていただきます。
 「われに七難八苦を与えたまえ」と念じたという山内鹿之助の心境には到底・・・という文章がありますが、山内ではなく山中、鹿之助ではなく鹿之介(マニア的には鹿介)すなわち山中鹿之介だと思われます。
 山中鹿之介については無駄論的「信長の野望」で少し触れておりますので、無駄好きな方はご参照ください。
 ちなみに、人間たるものましてや経営者たるもの逆境にこそ真価が問われるのでしょうが、受け売りの受け売りで、順境に耐えるなんてのも書いておりました(FJ創刊時だったんですね・・)。
 ということで、ビビリながらチクらせていただきました。

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2005/03/30

機械の逆襲

 以前、私の友達からこんな話を聞いたことがあります。使っているパソコンを「そろそろ買い換えようかな?」なんて考えはじめると、突然そのパソコンが頻回にバグリ始める・・なんて話です。まだ、パソコンの出始めで、あまりみんな持っていない頃からパソコンにいそしんでいた私の友達ですが、「パソコンも自分が捨てられるのを敏感に感じて、急にスネはじめるんだよ」って言うんですね。パソコンなんて所詮心のない機械だと思っていましたが、微妙な心を持ち合わせている・・・、いや、むしろそれを使っている人自身が、そんな機械に心を吹き込んでいるので、まるでスネているように感じてしまう・・・というのが真相なんでしょうか。
 私は、あれこれ3代目というか3台目のパソコンを使っているのですが、残念ながら心が通じ合っていないのか、買い替えの際にスネられたことはありません。しかし、私の使っている別の機械がスネていることに気付きました。「深剃りの名はブラウン」で紹介しました全自動洗浄してくれるブラウン社製のひげ剃りです。私は先の文章の中で、この全自動洗浄について、いくつかの不満を漏らしていますが、その中のひとつに、「洗浄用アルコールの残量が減ってemptyランプがついたら絶対洗浄してくれない」というのがありました。正直言えば、emptyランプがついたとしても実際にはemptyではなくて、1/3位は残ってるんですね。残量的に洗浄に問題があるとしても1回や2回は洗浄してくれてもいいのに・・・なんて考えていたため、そんな不満をこのブログで書いたわけです。
 そしたらどうでしょう。これがまた最近は意地になったのか、「emptyの赤色ランプ」がつかなくなってしまいました。そろそろ本当に洗浄用アルコールが底をつきそうなのですが、ず~と、だいぶ減ったよマークの「黄色ランプ」がつき続けています。この記事を書く前に、電源を入れたり切ったりして5回ほど、この機械に残量について聞いてみましたが、やっぱりかたくなに「黄色ランプ」です。今までだったら、絶対にemptyの赤色ランプがついたはずの残量なのに今は決してつきません。いや~、おそらくこれは、怒ってますね、この機械。ドイツ人?というかドイツ製品?の融通の効かなさを批判したのが相当にこたえたとみえます。ここはブラウン様に「意地悪言ってごめんね」って謝って、さっさとアルコールタンクを取り替えますかね。とにかくきげんを直してもらわないとまずいです。機械といえどもちゃんとこころを持ち合わせているんですね。
 皆さんの中には、要するに壊れたのではないかと御疑念の方もおられるでしょう。しかしそこが大きな間違いです。今スネてるところに、壊れた?買い替え?なんて言ったら、今度は本気で怒っちゃいますよ、きっと・・。アルコールが爆発するとか、かみそり刃がボロボロになるとか、「時間短縮しろ」って言われたから短い時間にしたとか言って、いい加減な洗浄するとか・・・。そう、決して壊れてはいません。これからも長い付き合いです。愛情込めて、心を通じ合わせ、これからも使っていきたいと思っています。

 今回もメルヘンチックなお話にお付き合いいただきありがとうございました。

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2005/03/27

ほりえもんは嫌われもん!

 またしょうこりもなく、ほりえもんネタです。
このライブドアとフジテレビの問題は、当初ニッポン放送の筆頭株主に躍り出たライブドアほりえもんを正当化して、かたくななフジ側日枝会長を「旧勢力」とやゆする動きから始まったと思うのですが、いつの間にか、フジ側の対抗策が当たって、徐々にフジテレビ支配ができそうになくなってくると、やっぱりほりえもんのやり方が悪いという意見が優勢になってきたような気がします。
 
 ところで、私が書いてきた過去記事を見てみると、「老人とほりえもん」では、

老人達は、ライブドアとの提携によるメディアの発展の可能性なんて全く考えてもいません。とにかく、ライブドア、ほりえもんは嫌だ!という感じです。これが、それこそ楽天による、ソフトバンクによる業務提携という話だったら、ここまでこじれたかどうか?。
なんて書いたのですが、これ予感的中?でしょうか。よりによって、ニッポン放送がソフトバンク関連企業(と言っていいのでしょうか?)にフジテレビの株を貸し出すとは・・・・、正直、フジ側も節操がない!と思うのですが、そんな意見は世間ではあまり聞かれませんね。フジテレビがライブドアに対して、提携のメリットがないといってきたのがどうやら嘘で、私の指摘したとおり、「ただ嫌いなだけ」というのが真相ってことなんでしょう。そこに理屈は無さそうです。ついでに言うと、
ただ、この老人達からの人気のなさの原因の解析をしないまま今までどおり老人無視で突き進んでいくと、いつか落とし穴にはまるような気がしてなりません。
とも書いているのですが、なんとなく昨今のほりえもんに対する世間の冷たさを考えると、こちらも予感的中で、落とし穴にはまり込んでいってるような気がしなくもありません・・・。ただ、「 未来を見通す天才」の中で、
現在のほりえもん的手法が正しいやり方なのか、それとも間違ったやり方なのか、それらは本来、結果論として後から評論されるべきものなのかもしれません。
とも書きました。世間は、徐々にライブドア危うしと感じて、現時点での結果論として、いじめのように、ほりえもんたたきに入ったような気もするのですが、まだ結果が出たとはいえないでしょう。私はライブドアがニッポン放送の株式を今後どうするかに注目したいですね。株をそれこそソフトバンクにでもすぐに売り払ってしまうようなら、残念ながらライブドアの負けです。これが、ただの一敗ならいいですが、拡大路線の企業が一度収縮してしまうと撃沈の道を歩んでしまうような・・・・。
 よく考えてみれば、本来の目的であるフジテレビの実効支配はすぐにはできなくなりそうな気配ですが、ニッポン放送を買収したんですから、まずはラジオの世界でほりえもんの手腕を発揮すればいいんじゃないでしょうか。むろん、投資相応の資金繰りが続けばの話ですが・・・。老人とも仲良くして、しばらく密かに地道に活動して、それが認められれば、支配はできなくとも5年後にはフジテレビの大株主になるんですから。ライブドアの、ほりえもんの野望も、実現できるかもしれません。でもそんなに待てないか・・・、プライドも許さないかも・・・。
 さあ、ほりえもんの未来やいかに。私のような凡人の予想が的中しないように、ほりえもんにはがんばってもらいたいものです。私のトロクサイ予想がバタバタと当たるようであれば、やぶ医者を辞めて、今後は評論家の道を歩みたいと思います。えっ、本当?。

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2005/03/24

無駄論的坂本竜馬

 無駄論的幕末維新では、幕末は複雑だって話と、「尊王攘夷」というスローガンについて考えてみました。本日は、日本の歴史上の人物でも、極めて人気の高い人物、坂本竜馬がもっと長生きしていたら・・・なんてことを考えてみました。
 
 そもそも、坂本竜馬のようなどちらかというと歴史の裏舞台を歩み、明治政府のできる直前で歴史から抹殺された人物を、歴史の表舞台に引っぱり上げた歴史家の皆さんには敬意を払いたいと思います。ただ正直言えば、坂本竜馬と一緒に殺された中岡慎太郎が、坂本竜馬と同等かそれ以上と言ってもいい働きをしているのに、あまり有名でないことを考えると、私のメジャーマイナー論的には、中岡慎太郎がちょっとかわいそうというのが本音です(笑)。

 まあ、それはともかく、例えば坂本竜馬といえば薩長連合を成し遂げた中心人物ということで歴史家に取り上げられています。しかし、よく考えてみれば中心人物というのはちょっと言い過ぎかもしれません。中心なのはあくまで薩摩と長州なわけで、人物で言えば西郷と、桂ということになるでしょう。つまり歴史的に「薩摩と長州は紆余曲折があったが、最終的には倒幕で意見が一致し、西郷と桂の決断で、薩長連合が成立した」とだけ記述されてもよかったはずです。
 しかし、あえて「坂本竜馬の仲介で薩長連合が成立した」(坂本がいなかったら薩長連合は成立しなかった)とし、むしろなかなか合意に達しなかった西郷と桂をやゆするように歴史が記述されたということに行き過ぎの感が無きにしもあらずと感じるわけです。もしかしたら、坂本竜馬がいなくても、仲介の中心人物である中岡慎太郎が西郷と桂の目の前で切腹し、両者へ反省を促すことで、薩長連合が成立したかもしれないのですから・・・・、そうしたら、もう少し中岡も歴史の表に出てきた?かも・・・(ここまでくるとめちゃくちゃ?、無理やりでも中岡をメジャーにしたい私でした)。私は、どちらかというと、坂本竜馬がここまで歴史の表舞台に引き上げられた理由というのは、その働きもさることながら、自由奔放な人間性や行動力、そしてその的確に日本の未来を見据えていた考え方にあるのではないかと思っています。
 
 しかしそうは言っても、もしあの当時の日本に坂本竜馬がいなかったら・・・ということを考えると、それはまた恐ろしいことです。坂本竜馬の働きかけで成立したことといえば、上で書いた「薩長連合」と「大政奉還」等ですが、この重要な事件が起こらなければ明治維新なんて話になりません。
 またもし坂本竜馬がもっと生きていればなされていたであろうことは、「徳川慶喜を代表とする新政府の樹立」であったと考えられます。その意味するところは、混沌とした幕末の中で、力のある藩が主導権争いに明け暮れるのではなく、目標を「倒幕」の一点に絞らせること、さらに徳川自ら政権を返上させることによって、内乱無き新政府の成立を目指したということになるでしょう。
 坂本竜馬が、とにかく内乱を避けようと思ったのは、主に西欧列強による日本の植民地化の危険を回避するためでしょうが、その先には、民衆による身分制度のない西洋型の民主主義社会を見据えていたことにあるのではないでしょうか。そのためには、内乱で勝った者が大きな権力を握り、主導権をもつようではいけないと考えていたのではないかと思います。確かに戊辰戦争は西欧列強に植民地化されるほどの大きな内乱にはならなかったのは事実ですが、内乱に勝った薩長が最終的に主導権を握り、その藩閥軍閥政治がその後の日本をやや特異な方向へ運んでしまったのは、坂本竜馬の憂いが現実化したとも考えられます。
 
 歴史に「たらレバ」はありませんが、無駄論的に、坂本竜馬が暗殺されなかったらということを考えてみました。ただの作り話なので、無用なご批判は勘弁してください。
 おそらく、坂本の考えていた通り、武力倒幕にはならず、「徳川慶喜を代表とする新政府」が作られたでしょう。一見徳川を立てた形になりますが、実際にはそれは踏み台となるだけで、日本の基礎が固まった時点で、アメリカのような民衆選挙による大統領制へと進んだ気がします。そうすれば日本の真の民主化は、戦争に負けてアメリカに与えられるまでもなく、50年は早まったのではないでしょうか。坂本竜馬の不戦平等主義からはそんな世界が透けて見えてくるような気がします。
 
 また、日本は日清戦争と日露戦争を経て、朝鮮半島等を併合しました。私は、坂本竜馬が生きていたら、おそらくアジア人同士の争いや征服など決して許さなかったと思います。私が想像するに、坂本竜馬であれば、アジアが連合して西洋列強に対抗しようという運動を高めていったでしょう。このアジア連合というのは、全くの小国であった日本にしてみれば、本来当然考えるべき方針であったと思います。
 しかし、当時の明治政府の構想に、そんなちっぽけな考え方はありませんでした。日本も西洋列強と肩を並べる一勢力となるのが目標であり、西洋列強と同じアジアの併呑の方針をとったわけです。まあ、これは成功したからよかったものの、日清戦争で勝利できず、清国と痛み分けにでもなっていれば、それこそ西洋列強の思う壺で、弱体化した日本が列強の餌食になっていったかも知れません。そのあたりのリスクをどう考えていたのか、私には当時の明治政府の楽観的な方針が全く理解できませんが、結果的には日本の圧勝でした。結局アジアの中で(有色人種の中でと表現される方もおられるようですが)日本のみが西洋列強の仲間入りを果したわけで、その当時の日本にとってはよかったのでしょう。しかし第二次世界大戦を経た現代において、中国や朝鮮韓国の日本への嫌悪感を生んでいる元凶がこのアジア侵略なわけで、あの時、坂本竜馬が薩長連合のように「アジア連合」を成し遂げてくれていたら・・・ブーイング騒動も竹島問題も何もなく、「AC アジア共同体」なんてのができたかもしれません。
 
 そんなことで、私は、坂本竜馬の死はちょっと早すぎたと感じています。ちょっと早すぎたというか、日本にとっては、数百年に一度出るかで出ないかの極めて重要な人物を失ったような気がしてなりません。その死の大きさは、当時でなく現代になってしみじみと考えさせられるわけで、本当は坂本竜馬が作り上げた現代という世界に生まれたかったなあと感じる今日この頃です。
  
 本日も、内容のたいしたことのない無駄な坂本論にお付き合いいただきありがとうございました。明治についてはもう少し語るかもしれませんし、もうちょっと時代を進めるかもしれません。その辺り期待せず無駄にお待ちください。
 
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2005/03/20

楽天、田尾監督のこと

 最近名古屋がやたらと注目されています。私は岐阜出身なのですが、無論岐阜も、文化的経済的に明らかな名古屋圏です。今までどちらかというと地元名古屋は馬鹿にされることが多かったような気がします。タモリさんがよく「みゃみゃーにゃにゃーー言葉が汚い」と言ってましたし、名古屋オリンピックは幻になりましたし、何でも「海老フリァ~」入れるとか、結婚式が派手すぎとか、味噌が黒くてからいとか・・・・、あることないこと(大半は当たりですが)いろいろ言われてきました。それが今では、バブル後の経済の停滞の中で最も元気な土地柄として注目され始め、地元トヨタ自動車の大発展、愛知万博の開催、最近では名古屋グルメ(味噌カツとか手羽先とか)なるものの東京進出が続いています。
 しかしそんな中、今ひとつマイナーッぽい扱いを受けているのが中日ドラゴンズです。それにしても昨年優勝したにもかかわらず、日本シリーズの扱いはひどかったな・・・・(マイナーなの?日本シリーズ)。今もスポーツニュース等でのオープン戦の結果なんか中日の扱いはちんけなもんですね。そう、新興球団の楽天の方がずっと大きく扱われているような気がするのは、私の得意な被害妄想でしょうか。しかしそんなお陰で楽天イーグルスの実情はよ~くわかります。そしてびっくりしたのが、レギュラークラスの選手の中日OBの多さです。関川、山崎、酒井、中村・・・、今年のストッパーは小山だそうで、ちょっとびっくり仰天気味です。そして忘れていけない中日OB、それが田尾監督です。私たちの世代だと、中日の選手の中で最も人気があったのが田尾選手でした。ちなみに私は大島選手(元日本ハム監督)の大ファンだったのですが・・・。私より少し若いイチローのあのバッティング前のバットをくるくる回すしぐさは田尾さんの真似からきているそうです。
 そんな田尾選手の中日時代の最大の思い出といえば、優勝決定のかかる最終戦での怒りの空振りです。昭和57年?、近藤監督率いる中日が優勝した年ですが、優勝決定は最終戦の大洋(現横浜)戦にもつれこみました。優勝争いも熾烈でしたが、首位打者争いも熾烈でした。最終戦を残し、首位打者は大洋の長崎選手、そしてそれを追うのが田尾選手で、実はあと一本ヒットが出れば逆転首位打者だったのです。ちなみに大洋は優勝争いとは何も関係ありません。中日が負けて優勝するはずだったのは巨人でした。この優勝には関係ない大洋は、試合の結果よりも長崎選手の首位打者獲得に全てを傾けました。すなわち、長崎はベンチ、田尾選手に対して一本もヒットを打たせないよう全打席敬遠したのです。試合は序盤から中日の圧勝ムードでした。何しろ、無条件で一番バッターが敬遠されるのですから・・・・。そして、田尾選手の最終打席、ここでも当然のように敬遠され、3ボールまでいった次の4球目、完全にはずされているボールに対して、田尾選手は抗議の空振りをしたのです。5球目も空振りしました。いやーこの時は子供ながらに興奮しました。勝負にかけるプロ根性をまざまざと見せ付けられた感じがしました。フルカウントからの6球目の前に、サードコーチャーの黒江さん(だったと思いますが)が田尾選手を呼んでなにやら説得したようで、結局次のボールは振らず、敬遠のフォアボールになり、田尾選手の首位打者はなりませんでした。私の物心ついてからの初めての中日の優勝でしたから、それはもううれしかったのですが、このことだけは釈然としないものが残り、あれこれ25年近くたった今でも鮮明に覚えているという次第なのです。
 ちなみに、田尾選手はその後電撃的に西武にトレードとなりました。残念ながら西武ではあまり活躍できなかったと記憶しています。トレード決定の時は泣きましたね。まあ、そんなことで、田尾監督に限りませんが、残念ながら寄せ集めチームになってる楽天の選手にはそんなドラマを残してきた選手がたくさんいます。仙台の皆さんにも、ぜひ選手一人一人の過去のドラマを知っていただいて、応援されることを提案します。そして私は、元中日の選手の活躍を祈りたいと思います。

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2005/03/17

若年寄というけれど・・

 本日、ランドセルをプレゼントした私の姪っ子(4月から1年生)から、お礼の手紙が届きました。おじさん冥利に尽きるというものですが、その文面からは、私を気遣う言葉が・・・・・。

いつまでも元気で、元気でいてね。
まだ、33才の若年寄の私ですが、元気で・・と言われてしまうとは。たまに会う私には、死相でも漂っているのでしょうか。まあ、「いつまでも長生きしてね」じゃなくてよかったのかな・・・・。

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2005/03/15

未来を見通す天才

 ご無沙汰のエントリーですが、結局、またしてもほりえもんネタにしてしまいました(以前のネタ 老人とほりえもん 「メディアとインターネットの融合」の意味って?)。ほりえもんネタに飽きている方申し訳ありません。
 私のほりえもんに対する評価なのですが、時代を切り開く力を持っていることに関しては、我々の想像をはるかに超えている天才だと感じます。しかし一方で、起きること起きること全てに「想定済み」と答えているところには、逆にかなりの危うさを感じてしまいます。そもそも、「想定済み」などと言えるほど未来が見えているのならば、ここまで問題がこじれることはなかったのですから。天才の天才たる条件の一つに、未来を見通す力を持つということがありますが、さてさて、現実にそんな天才はこの世に存在するのでしょうか・・・。
 私は、このブログの中で、織田信長について何度か書きました(無駄論的織田信長様明智光秀にきまっとる!)。歴史家の織田信長に対する評価を考えてみると、戦国時代の混沌を打ち破った日本史上稀有の天才というところでしょうか。新しい時代を見抜き、最新兵器である鉄砲を大々的に使用し、一気に京都を制圧して主導権を握り、古き遺物を捨て去り、天下統一の寸前までこぎつけました。ほりえもんと織田信長を同列にするのもなんですが、未来の可能性あるものを見抜き、一直線に古き物と戦いながら進んでいくほりえもんは、織田信長に似ている・・・かも知れませんが、そんなこというと信長ファンに怒られるのでしょうか。しかし、そんな天才と呼ばれ、まるで未来を先の先までお見通しだったとも思える織田信長ですが、最期の最期に大ちょんぼをしでかしました。そう、明智光秀による本能寺の変です。織田信長を題材としたドラマや映画を見ると、織田信長の最後は、「果敢に明知勢に弓を引き、これまでと思った時に敦盛を舞って自害」みたいなかっこいい死に様を用意してもらっているため悪いイメージがありませんが、よ~く考えてみれば、こんな間抜けな死に方はありません。自分の第一ともいえる家臣に、ほとんど無抵抗の形で完璧な暗殺をされたんですから、信長を「日本史上における稀有の天才」としちゃっていいものかどうか・・。それこそ、「想定外」の死に方をして、油断の代名詞になっている今川義元がかわいそうです・・・。ちょっと違う?・・・か?。
 ほりえもんは信長と同様、時代を切り開くという意味では天才なのでしょう。しかし、そんな時代を切り開いた先の、未来のほりえもんがどうなるか、そんなことは決してわかりません。わからないというのは、天下統一できるかもしれないし、途中で一文無しになるかもしれないし、それはそれこそどんな天才でもわからないという意味です。信長も天下統一目前で大ちょんぼしてしまいました。だから、ほりえもんが天才だから、ほりえもんのやり方が間違っていないから、ほりえもんの考える未来像がすばらしいから、だから、ほりえもんが天下を取る、とは限らないでしょう。あくまで、天下を取ってみたら、その手法が優れていた、そのビジョンがすばらしかったといわれるわけで、つまりは結果論です。信長は天下一歩手前まで行ったということと、弟子の秀吉が天下を取ったということで、その手法が結果論として今日評価されていると考えられます。ですから、現在のほりえもん的手法が正しいやり方なのか、それとも間違ったやり方なのか、それらは本来、結果論として後から評論されるべきものなのかもしれません。時代を切り開いて、バラ色の世の中をほりえもんが創り出してくれたのなら、その手法も含めてすべてが評価されるでしょうし、途中で撃沈したり、出来上がったものがつまらないものだったら、手法を含めて、ついでに人間性もふくめて何もかもが否定されてしまう可能性があるでしょう。
 実は、そんな結果論ですべてを白黒させようとしているのは、「想定済み」を連発しているほりえもん自身です。自らは全てを見通していると宣言しているのですから、白か黒しかありません。普通の日本人的には(これまた、おじん臭い意見ですが)、この「想定済み」という言葉は、どうしてもいやみに聞こえますし、後で救済の手を差し伸べる気にならなくなってしまう言葉です。本当に想定済みであれば、信長を超える真の天才と言えるわけですが、凡人の私が真の天才かどうかを見抜くことなんてできるわけありません。そのあたり、凡人は凡人なりに過去の天才と比べて、天才ほりえもんに危うさを感じているわけで、後になって、「撃沈するのも想定済みでした」なんて言わないことを祈るばかりです。
 この記事は[ゴーログ] ホリエモンはビジョナリーか?へ無理やりトラックバックさせていただきました。

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 おしらせ:更新久しぶりになってしまいました。今後も忘れた頃に更新しますので、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。お返事等もなかなかできず申し訳ありませんでした。

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2005/03/07

ああ、方向音痴症候群

 本日は、人生でも5本の指に入る?いや、3本の指に入る?(妖怪人間ではありませんが・・)大失態をしてしまったので、恥を忍んでご報告いたします。
 本日は、所用で那須塩原へ出かけました。用事自体はすぐに終わってしまうものなので、あらかじめ温泉につかってから帰ろうと密かに計画しておりました。インターネットの口コミ情報で割りと評判のいい日帰り温泉を発見し、新幹線の那須塩原駅からも割と近いので、用事が済んだところでその日帰り温泉に出かけました。
 まず第一の誤算は、駅から近いと思っていたその日帰り温泉が(地図上は5cmくらい・・・)、実は10キロほども離れていたことです。気軽にタクシーに乗ったのですが、休日料金なのか、田舎料金なのか、御用邸料金なのかメーターがぐんぐん上がって、東京~那須塩原間の新幹線代に近い位の料金がかかってしまいました。これなら、レンタカーを借りた方が正解でした。そもそも、タクシーの運転手さんにその日帰り温泉を教えても、知らなかったんですから、そんなところにタクシーで行く人なんかいないんでしょうね。まあ、私はお金持ちですから(笑)、そんなことはどうでもいいです(涙)。
 ところで、その日帰り温泉自体は、口コミ情報どおり、素人でもいいなあと思えるお湯で満足できました。いわゆる源泉かけ流しの湯ってやつで、お肌つるつる、湯質についてこんなにいいと感じたことはありません。ついでにマッサージも受けてきました。ところがこのマッサージのところで私がある失態をしていることを告げられました。
「お客さん、入場券買う時、お釣りどうしました?」
「ええと、マッサージ込み入場券を自動券売機で買って・・・、ああ!お釣りとり忘れた!」
「お客さん、よかったですね、受付の人が気付いてくれて。ここに届いてますよ。私もらってもいい?」
いやはや、私としたことが、うん千円という大金を券売機に置き忘れるとは情けない・・・。いやいや、そんなことはありません、私はお金持ちですから(笑)、お釣りくらい他人にくれてやってもびくともしません・・・たぶん・・・(涙)。まあ、そんなことはちゃんとお金が戻ってきたんですから、人生三本の指に入るような失態でも何でもありません。しかし、このお金がらみのもろもろが、帰りの私の心に微妙な影響を与えてしまいました。
 湯質にも、マッサージにも、従業員さんの対応にも、みんな満足してさて帰ろうと思ったのですが、よく考えてみると帰りの足がありません。無論タクシーを呼べばいいのでしょうが、ここで彰の介の「けち雄」パワーが炸裂しました。あまりにも高かったタクシー代のことが頭をよぎり、「少し歩いて、大通りまで出てから、運良くタクシーがあれば捕まえるか、コンビニがあったからあそこでタクシーを呼ぼう」と考えました。その大通りまではおよそ2キロです。ちょっと距離はありますが、何とかなるだろうと考え歩き出しました。そこは、那須高原、きれいな林があちこちにあり、先日降った雪が地面に少し残り大変風情があって、空気は澄み、ほんとに数キロの散歩道としては最高の場所・・・・のはずでしたが・・・・。
 さて、那須塩原の駅からこの日帰り温泉までは、長~い直線をひたすら直進し、一度左に曲がって、1キロ位行ったら、また左に曲がり、さらに1キロ位行くと着きました。わかります?。丁度数字の7の字を逆からなぞったような感じの道程です。ということは少し遠回りをして目的地に着いたのがお分かりいただけるでしょうか。私は、往きのタクシーの道程と全く同じに戻ればよかったのに、すこし遠回りしていると思って、少し早めに右に曲がりました。その道は舗装もされていない林道?だったのですが、何かに吸い込まれるようにその道に入ってしまいました。直進すれば上で書いた長~い直線道路に出るはずです。ところが、この林道、途中で雪が深くなりどろどろの道になってしまいました。直進は無理と考え、さて・・・、ここでも、往きの道に戻るべく左に曲がればよかったのですが、せっかく近道をしているのです。私は迷わず右に曲がりました。理論上、右に曲がり、左に曲がり、右に曲がり、左に曲がりという感じで行けば、いつか長~い直線に出るはずですから。ところが、そんな感じで林の中の道を30分程行けども行けども目的の道に出られません。周りは林、ところどころ家が建っていますが、いわゆる別荘地で人の影がありません。ましてや道案内や、お店とか全くありません。人に聞くにも聞けず、とにかく自分の理論を信じて、道を進みました。すると、やっと舗装された道に出て、なんとなく目的の道の方角に進んでいくではないですか。やれやれと思ったのですが、これまた30分程行けども行けども目的の道に出られません。日も徐々にに陰ってきて、さすがの私も生命の危機を感じた頃、私の歩いている道先に、車がやたらと通っている道がやっと見えたのです。さらに30分程歩き、随分流されたけど、やっと目的の道に出られた・・・と思ったら、この道、私の歩いていた道を高架して交差してるじゃないですか。これ目的の道じゃなくて高速道路だったのです(たぶん東北道)。が~ん、1時間半もかけて私は一体どこへ来てしまったのか?、どうすれば家に帰れるのか?、全く途方にくれてしまいました。「ここはどこ?、私は誰?」の八甲田山状態になり、動揺と不安感がピークに達しました
 しかし、ここに来てやっと民家がちらほら現れました。人気(ひとけ)は全くないのですが、ここまでにすでに1時間半ほど歩き続けて精神的にも肉体的にもくたくたになっていた私は、恥をしのんで民家に助けを求めました。一軒目、田舎の家だけに、玄関はガラガラっと開きます。「ごめんください、すいませ~ん」
しかしなんの返事もありません。うむむ、残念ながら誰もいないようです。次に2軒目のおうち、玄関をガラガラと開けさせていただくと、家の中からは煮物のいい匂いが・・・。これは誰かいるだろうと思ったのですが、こちらも応答なしでした。うむむ、さて三軒目、これは随分立派な家で、家の前には郵便ポストがあり、切手印紙の販売マークまでついているうちです。うむ、こんな公的な家なら期待が持てると思いつつも、びくびくしながら、
「ごめんください、あの~・・・」
そこは典型的な田舎のおうちで、玄関開けたら土間になっていて、上がりにコタツがあって、ご家族がコタツで団欒中でした。小心者の私がモジモジしながら、
「あの~、私東京から来て、モジモジモジ・・・・」
「温泉に行ったのですが、モジモジモジ・・・」
「道に迷って、方角も・・、モジモジモジ・・・」
「塩原の、新幹線の、モジモジモジ・・・」
あ~!、今思い出しても情けない、言いたいことは、大きな声ではっきり言えよ!彰の介のバカー!男だろ!お前は女かー!(女性差別?のつもりはありませんからお許しを)。
 ご主人が、モジモジしている私の事情を察して、
「歩いてきたの?、どこ?新幹線?、じゃあ、那須塩原の駅だな、おい、乗せていってやれよ」
あ~!、神様仏様、ご主人様!、みも知らぬ私を駅まで連れて行ってくださるなんて・・・とにかく感謝しかありません、ありがとうございます、すいません、申し訳ありませんを連発して、息子さんに車で那須塩原の駅まで連れて行っていただくことになりました。これまた息子さんがいい人で、いい人で、こんな若者日本にいたんだって言う位いい人で、本当に感謝感激、駅に着いても何度も申し訳ありませんといって、この息子さんとお別れしました。このお宅から駅まで車で10分以上はあったでしょうか。とにかくとんでもないところにたどり着いていたことだけは確かです。未だに私はどこをどう歩いて一体どこに行ってしまって、皆様にご迷惑をおかけすることになったのか、全くわかりません。
 迷惑ついでに、今から考えてみると、駅まで連れて行ってもらったのだから幾ばくかのお礼を支払わなきゃいけなかったのに、何もしないで車から降りてしまいました。さらに言うと、お世話になったお宅の住所や、お名前や(表札の苗字しか覚えていない・・・)電話番号や、そんなことすら聞くのを忘れるという大失態を犯していました。気が動転していたとはいえ、人間として情けない、あ~!、穴があったら入ってもう出たくな~いっていう感じです。人間失格、入水するか・・・・。
 ということで、インターネットの片隅のこのブログではありますが、情報があれば、お寄せください。なんとなく駅からの道程は覚えているので、時間があればお世話になったお宅へお礼に伺いたいとは思いますが、また道に迷って別の方にお世話になったりして・・・・。とにかくいろんな意味で反省です。そして、久しぶりに温かい人情に触れました。それにしても、「急がば回れ」というのは偉大な言葉だと再確認いたしました。
 ところで、方向音痴につける薬はあるのでしょうか・・・あればどなたか教えてください。

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2005/03/03

「メディアとインターネットの融合」の意味って?

 ほりえもんネタを考えているうちに、1つ考えてしまったことがあります。それは、ほりえもんが「メディアとインターネットの融合」ということを言っているようなので考えたことなのですが、素人的に、融合するとどうなるのってとこを単純に考えてしまいました。正直、どこかで語りつくされたネタのような気がしなくもないのですが・・・、そして、自分でも理解していた気になっていたのですが、実はよくわかっていなかったので改めて考え直してみました。
 メディアっていってもいろいろあるので、いわゆる新聞とか、テレビとかを考えてみます。NHK問題の時に考えていたのですが、この大手メディアには「公共性、公(おおやけ)」という概念があります。つまり、あまり偏ったことや、片方の味方に立つような報道はしてはならないという意味でしょう。しかし、それは一体なぜなんでしょうか。そこにはいろんな意味はあると思うのですが、やはり「情報」の多くが新聞やテレビから国民に与えられるという概念があるからだと思われます。つまり一方通行的にメディアから国民に情報が与えられるため、そして、絶対的に与えられるため、報道によって国民が洗脳されてしまうこと(一つの意見に染まってしまうこと)を防ぐためという意味づけです。正に民主主義、自由主義の根本事項と言ってもいいかもしれません。各メディアがいわゆる大本営発表をするようでは困るということでしょうか。
 しかし、こんな「きれいごと」というか、理想論から、メディアの「公共性」という概念がつくられたかというと、実は別の側面もあるような気がしています。NHKの問題や、今回のほりえもん騒動での政治家の発言をみて考えたのですが、実際には、「公共性」の縛りがなくなってしまうと、権力者や既得権益者に対する批判報道が非常に多くなってしまうという心配があるのではないでしょうか。基本的に人間たるもの、権力者や既得権益者には、いい意味でも悪い意味でも、何らかの形で反発したくなるものです。そう考えると、メディアに自由奔放に報道させるというのは、為政者達にとって実に頭の痛い問題になってしまいます。そこで出てきたのが「公共性」という言葉。この「公共性」という言葉によって、批判一色になってしまうのを防いでいる、実はそんな一側面もあるのではないでしょうか。長井風に言えば、

公正とか、公共性とかいうことをやたらと言うやつには気をつけろ!実は自分への批判をかわすために言ってるやつが多いんだ、間違いない!
ってとこでしょうか。ところが、そんな「公共性」という言葉による縛りが意味を成さなくなっているかもしれません。今までは情報の出口の多くが「新聞やテレビ」だったわけです。そのため、政治家などにとってみれば「新聞やテレビ」さえ押さえてしまえば、余計な情報を流されずに済んだわけです。また、国民がある情報に対してどう考えているかを知るには、せいぜい世論調査のような無味乾燥なものしかありませんでした。ところが、今では、インターネットによる情報発信が非常に大きな比率を占めるようになり、「新聞やテレビ」の情報あるいは影響力としての比率が相対的に下がってしまいました。さらに、このブログの世界を考えてみても、「彰の介の証言」を含めて、じつに多くの素人ただで大量の情報を発信しています。しかも、素人なりにしっかり意見発信されているものも多く、テレビなどの街頭インタビューや、新聞の投稿欄の比ではありません。ですから、今回のほりえもん騒動のようなことがおきて、一体全体、国民はどう考えているのだろう?と思った時、テレビや新聞の「ほりえもん派が1つ意見を言えば、フジテレビ派が意見を1つ」って感じの報道を見るより、ブログサーフィンして、多くの素人の本音を見るほうが「本当の事実」がわかってしまうわけです。つまり、権力者や既得権益者による都合のいい「公共性」という概念をこのインターネットの世界に押し付けることはできないのです。
 そんなことを考えてみると、このメディアとインターネットの融合というのは、権力者や既得権益者からみると実に恐ろしいものなのかもしれません。今までコントロール可能と思ってきたメディアが、全くコントロール不能になってしまう可能性があるのですから。インターネットとは直接関係ありませんが、自民党は党の総裁選の時、このコントロール不能の力によって、橋本元総理が総裁になるところを小泉さんが総裁に当選してしまうという経験をしています。議員さんによる投票だったら、間違いなく橋本さんだったでしょうに、党員という一般人(コントロール不能な人たち)に投票権を与えてしまったため、こんなことが起きてしまったわけです。これは、自民党の最大派閥という日本の政治で最も力があるはずの一団が、いとも簡単にその力を覆されたという点で、一般党員=ネット世界の大量の素人による情報発信と考えれば、ネット世界の持つ潜在能力に政治家がびくびくする1つの理由になった可能性があると私は考えています。
 しかし、この「公共性」というのはなにも一政治家の個人的事情による「公共性」だけではありません。本来の意味である、偏らないという意味での「公共性」ももちろんあるわけです。したがって、メディアとインターネットの融合は、この本来の意味での「公共性」という「たが」をも外ずしてしまう可能性があります。私は、そんな必要な「たが」まで外れてしまい、極めて偏狭な素人論客人による偏った論調が既存メディアでも流されるかもしれないことをちょっとだけ気にかけています。これは、いいことか、悪いことか、その場になってみないと、またその事柄によって全くわかりません。いい方向に向かえば権力者や既得権益者に対する監視の強化につながるでしょうし、悪い方向に転べば、極端な左傾化や右傾化へつながってしまうかもしれません。
 私個人的には、既存メディアの「公共性」とネット世界の「コントロール不能な情報発信」は並存すべきと考えています。こういう言い方は実に「おじん臭い」考え方ですけどね(笑)。ほりえもんが既存メディアに新しい力を注入してくれるのはいいことだと思いますが、ほりえもん自身の立場が、徐々に既得権益者の道へと進んでいることを忘れてほしくありません。当然、そんな既得権益者たる、ほりえもんへの監視の目もきつくなるわけですから、自分が作り上げた世界に自分自身が飲み込まれていき、「こんな世界は作らなきゃよかった・・・」なんて言い出さないことを願うばかりです。
 本日も、ながながとした、おじん臭いネタにお付き合いいただき、ありがとうございました。

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 ご連絡:3月に入りまして、私の仕事が予定通りめちゃくちゃ忙しくなりました。なんども書いておりますが、できうる限り時間を作り、この無駄なブログを継続していきたいと考えていますので、今後もご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。今後の予定ネタ:無駄論的坂本竜馬、無駄論的森のくまさん、を準備中です。

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