ほりえもんネタを考えているうちに、1つ考えてしまったことがあります。それは、ほりえもんが「メディアとインターネットの融合」ということを言っているようなので考えたことなのですが、素人的に、融合するとどうなるのってとこを単純に考えてしまいました。正直、どこかで語りつくされたネタのような気がしなくもないのですが・・・、そして、自分でも理解していた気になっていたのですが、実はよくわかっていなかったので改めて考え直してみました。
メディアっていってもいろいろあるので、いわゆる新聞とか、テレビとかを考えてみます。NHK問題の時に考えていたのですが、この大手メディアには「公共性、公(おおやけ)」という概念があります。つまり、あまり偏ったことや、片方の味方に立つような報道はしてはならないという意味でしょう。しかし、それは一体なぜなんでしょうか。そこにはいろんな意味はあると思うのですが、やはり「情報」の多くが新聞やテレビから国民に与えられるという概念があるからだと思われます。つまり一方通行的にメディアから国民に情報が与えられるため、そして、絶対的に与えられるため、報道によって国民が洗脳されてしまうこと(一つの意見に染まってしまうこと)を防ぐためという意味づけです。正に民主主義、自由主義の根本事項と言ってもいいかもしれません。各メディアがいわゆる大本営発表をするようでは困るということでしょうか。
しかし、こんな「きれいごと」というか、理想論から、メディアの「公共性」という概念がつくられたかというと、実は別の側面もあるような気がしています。NHKの問題や、今回のほりえもん騒動での政治家の発言をみて考えたのですが、実際には、「公共性」の縛りがなくなってしまうと、権力者や既得権益者に対する批判報道が非常に多くなってしまうという心配があるのではないでしょうか。基本的に人間たるもの、権力者や既得権益者には、いい意味でも悪い意味でも、何らかの形で反発したくなるものです。そう考えると、メディアに自由奔放に報道させるというのは、為政者達にとって実に頭の痛い問題になってしまいます。そこで出てきたのが「公共性」という言葉。この「公共性」という言葉によって、批判一色になってしまうのを防いでいる、実はそんな一側面もあるのではないでしょうか。長井風に言えば、
公正とか、公共性とかいうことをやたらと言うやつには気をつけろ!実は自分への批判をかわすために言ってるやつが多いんだ、間違いない!
ってとこでしょうか。ところが、そんな「公共性」という言葉による縛りが意味を成さなくなっているかもしれません。今までは情報の出口の多くが「新聞やテレビ」だったわけです。そのため、政治家などにとってみれば「新聞やテレビ」さえ押さえてしまえば、余計な情報を流されずに済んだわけです。また、国民がある情報に対してどう考えているかを知るには、せいぜい世論調査のような無味乾燥なものしかありませんでした。ところが、今では、インターネットによる情報発信が非常に大きな比率を占めるようになり、「新聞やテレビ」の情報あるいは影響力としての比率が相対的に下がってしまいました。さらに、このブログの世界を考えてみても、「彰の介の証言」を含めて、じつに多くの
素人が
ただで大量の情報を発信しています。しかも、素人なりにしっかり意見発信されているものも多く、テレビなどの街頭インタビューや、新聞の投稿欄の比ではありません。ですから、今回のほりえもん騒動のようなことがおきて、一体全体、国民はどう考えているのだろう?と思った時、テレビや新聞の「ほりえもん派が1つ意見を言えば、フジテレビ派が意見を1つ」って感じの報道を見るより、ブログサーフィンして、多くの素人の本音を見るほうが「本当の事実」がわかってしまうわけです。つまり、権力者や既得権益者による都合のいい「公共性」という概念をこのインターネットの世界に押し付けることはできないのです。
そんなことを考えてみると、このメディアとインターネットの融合というのは、権力者や既得権益者からみると実に恐ろしいものなのかもしれません。今までコントロール可能と思ってきたメディアが、全くコントロール不能になってしまう可能性があるのですから。インターネットとは直接関係ありませんが、自民党は党の総裁選の時、このコントロール不能の力によって、橋本元総理が総裁になるところを小泉さんが総裁に当選してしまうという経験をしています。議員さんによる投票だったら、間違いなく橋本さんだったでしょうに、党員という一般人(コントロール不能な人たち)に投票権を与えてしまったため、こんなことが起きてしまったわけです。これは、自民党の最大派閥という日本の政治で最も力があるはずの一団が、いとも簡単にその力を覆されたという点で、一般党員=ネット世界の大量の素人による情報発信と考えれば、ネット世界の持つ潜在能力に政治家がびくびくする1つの理由になった可能性があると私は考えています。
しかし、この「公共性」というのはなにも一政治家の個人的事情による「公共性」だけではありません。本来の意味である、偏らないという意味での「公共性」ももちろんあるわけです。したがって、メディアとインターネットの融合は、この本来の意味での「公共性」という「たが」をも外ずしてしまう可能性があります。私は、そんな必要な「たが」まで外れてしまい、極めて偏狭な素人論客人による偏った論調が既存メディアでも流されるかもしれないことをちょっとだけ気にかけています。これは、いいことか、悪いことか、その場になってみないと、またその事柄によって全くわかりません。いい方向に向かえば権力者や既得権益者に対する監視の強化につながるでしょうし、悪い方向に転べば、極端な左傾化や右傾化へつながってしまうかもしれません。
私個人的には、既存メディアの「公共性」とネット世界の「コントロール不能な情報発信」は並存すべきと考えています。こういう言い方は実に「おじん臭い」考え方ですけどね(笑)。ほりえもんが既存メディアに新しい力を注入してくれるのはいいことだと思いますが、ほりえもん自身の立場が、徐々に既得権益者の道へと進んでいることを忘れてほしくありません。当然、そんな既得権益者たる、ほりえもんへの監視の目もきつくなるわけですから、自分が作り上げた世界に自分自身が飲み込まれていき、「こんな世界は作らなきゃよかった・・・」なんて言い出さないことを願うばかりです。
本日も、ながながとした、おじん臭いネタにお付き合いいただき、ありがとうございました。
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ご連絡:3月に入りまして、私の仕事が予定通りめちゃくちゃ忙しくなりました。なんども書いておりますが、できうる限り時間を作り、この無駄なブログを継続していきたいと考えていますので、今後もご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。今後の予定ネタ:無駄論的坂本竜馬、無駄論的森のくまさん、を準備中です。
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