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2005/04/24

日本人の歴史観の原点(1)

 前々前回、洗脳的教育を考えるで、中国や韓国の教育と、日本の対応というのを私なりに少し考えてみました。その中で、日本人には日本のみを正当化するような洗脳的教育をタブー視することが本能になっており、行き過ぎれば、右の方の言う「自虐的史観」とか「反日的日本人」ということになってしまうということを書きました。ということで、このあたりの「日本人の歴史観の原点」はどこにあるのかを考察してみました。本日はその第一回です。第二回があるかどうかはよくわかりませんが・・・・。
 
 そもそも、右の方の言う「自虐的史観」という言葉の原点はどこにあるのでしょうか。いろんな意見はあるでしょうが、おそらく「東京裁判(極東国際軍事裁判)」に対する批判(東京裁判史観)がおおもとだと考えられます。つまり、「東京裁判は、アメリカによる日本への復讐裁判であり、その裁判を正当化するために、アメリカが正義、日本が極悪というイメージを徹底的に日本人に植えつけた。大本営発表に代表される国の情報が嘘ばっかりだと気付いた国民は、このアメリカのイメージ作りにまんまとのってしまった。」という考え方で、自虐的になるよう洗脳されてしまったという意見です。すなわち、戦前からの日本の所行、特に朝鮮半島を併合したあたりから(場合によっては秀吉の朝鮮出兵のことまで・・・)の日本の所行に関し、あることないこと全てが悪いと考るようにされてしまったということでしょうか。
 
 例えば、「南京大虐殺」というのがあります。東京裁判において突然提起されたこの虐殺事件に関して、石原東京都知事をはじめ、でっち上げ説を唱えている方が少なからずいます。しかし、一般的な日本人はどう考えているのでしょう。私自身が日本人のスタンダードかどうかは怪しいのですが(笑)、私が中学生や高校生の頃について思い出すと、この虐殺事件がなかったなんてことは全く考えてもいませんでした。まず、あったことが前提でしょう。私の記憶が確かなら(今はどうか知りませんが)、教科書において南京大虐殺という言葉は、本文中に書かれることはなく、欄外に小さな字で「南京で多数の一般市民が殺されたと言われています」てな説明で書かれていたと思います。むしろ、二十万とも三十万とも言われる市民が殺されたという知識を持っていた私にとっては、具体的数字を出さず、「多数」という言葉でごまかしていること、事実を「言われている」というあいまいな言葉にしていること、そして、本文中に示さず欄外に書かれていること等から、”お国”が「南京大虐殺」という事実を隠蔽しようとしている、あるいは程度をごまかそうとしていると考えていました。そんな考えのまま成長し、大人になった私ですから、「南京大虐殺なんてなかった」と唱える人たちの気が知れなかったわけです。まあ、南京大虐殺を否定するなんていう歴史観は、自虐的史観に対して、「何でもかんでも正当化史観」とでも言うのでしょうか。そんなイメージを持っていたと思います。
  
 しかし、最近になって、とある”右的”な方の歴史認識に関する書物(自虐史観を批判している書物)を読ませていただきました。まあ、正直言えば、左の方からはけちょんけちょんに言われている(のを、とあるブログでみました・・・)方が書かれた本です。私にしてみれば、一体全体どういう理論を持ってすれば南京大虐殺をでっち上げといえるのか、そこに大変興味があったわけです。この本全体を眺めてみると、基本的には上で書いた「何でもかんでも正当化史観」であり、おいおい、そこまで日本人に都合よく考えちゃいかんだろうと思える部分は多々ありました。しかし、南京大虐殺に関する記述に関しては、もちろん正当化史観がちりばめられているのは事実ですが・・・・、正直言って、20数年の私の歴史観を変更せざるを得ない事態に陥ってしまいました。もしかして、大虐殺なんてなかったかも・・・と考えはじめたのです。その書物によれば・・・・、当時の南京の人口が兵士合わせて25万人程度であったということ。ってことは間違っても30万人殺すことはできません。25万人殺されたとすると、皆殺しって事になります。これは相当に努力しないと殺せません。アウシュビッツ並に施設を充実させないと、死体の処理を含めて厳しいものがありそうです。また、当時はアメリカを含めて外国人記者が南京にいたこと。日本に敵対していたアメリカにとっては、この残虐行為は国際社会に日本の悪行を知らしめる上で格好のニュースになります。しかし、当時世界にこのニュースが配信された形跡がほとんどないというのはちょっと変な話です。その他いろいろ書いてあったわけですが、総合的に判断して、私の認識は「虐殺はあったかもしれないが(数万人規模の虐殺はあったかもしれない、なかったのかもしれない)、20~30万人規模の”大”虐殺はおそらくなかっただろう」と変わりました。「大」の字がつくかどうかは大問題で、つかないとなれば、まさにでっち上げということになってしまいます。
 
 この南京”大”虐殺がなかったかもということに関して、「そもそも人口が20万から25万という数字が正しいのか?」「皆殺しが大変だからといって、しなかったという証拠になるのか?」「アメリカの記者がニュースを配信しなかったというのが、事件がなかったという証拠になるのか?」「そもそも(私が読んだ数冊の)本に事実が書かれているのか」等、しようと思えばいくらでも批判することができるでしょう。しかし、私がこの南京大虐殺に関して歴史観を変更したことというのは、「この事件がなかったこと」あるいは「言われているほど殺されていないこと」なのではなくて、この事件が「あった」ことを前提にする根拠が実はなかったことに気付いたということです。最低限、この事件が「なかった」と言っている人に「あった」というだけの根拠を持ち合わせていないのに、「なかった」ということ自体を悪として捉えてしまっていたわけですから、まさに東京裁判史観(日本は悪だと洗脳されている)そのものだったといえるのではないでしょうか。

 では、私はこの南京大虐殺の事例を引き合いに出し、現代日本人の持つ歴史観の原点を東京裁判史観に求めているのかというと、そうではありません。無論、上で書いたように、東京裁判史観が知らず知らずのうちに我々の心に入り込んでしまっていることも事実でしょう。しかし、そんな東京裁判史観が全てであり、それを否定することで過去の日本の歴史を一つ一つ正当化する「何でもかんでも正当化史観」には賛成できません。それは、日本人の持つ歴史観のもう1つの原点が欠落してしまっているからです。
 それで、その欠落している(と私が考えている)もう1つの原点を次回書こうと思うのですが、さてさて本当に次回があるのやらないのやら・・・・。期待させておいてたいしたことないと怒られそうですが、正直言ってたいしたことないです。期待せず無駄にお待ちください。本日もきわどい話題にお付き合いいただきありがとうございました。

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2005/04/21

私も偉くなりまして、エルメスから・・

 私は職業柄やぶ医者をやっているのですが、俗に世間では医者は金持ちだと思っている人が多いようです。ちなみに私は現在某大学病院に勤めていますが、大学病院から、いくらお給金をもらっていると思いますか?。個人情報についてうるさい昨今ですが、ばらしましょう。実はゼロ円です。ゼロ、ゼロ円です。もう一度言いましょう、ゼロ円です。要するに、

タダ働きさせていただいております。
そこらあたりの事情は、あまり語りすぎると、私の身が危険になるのでやめておきますが、医療の世界は社会主義経済なので、仕事量と給金は決して比例しない不公平な社会ということを小さな声で言わせてもらいました。ちなみに生活資金はアルバイトという形で得ておりますので、一文無しではありません。
 
 要するに、世間のうわさほどはお金持ちじゃない私なのですが、なんとこの度、あの大ブランド「HERMES エルメス」様から、ネクタイのカタログが送られてきました。いや~、エルメスからそんなものが送られてくるなんて、私も偉くなったもんです。エルメスと言えば、目の玉飛び出て鼻血が止まらなくなる位値段の高いブランドですよね。なんか布っぽい生地みたいな物でできた、ぱっと見3000円位の小さなカバンが5万円も6万円もするでしょ。とても私にはついていけません。バックも軒並みウン十万~百万近く?しますよね、全く興味のない男の子の私からすれば、理解の範囲を大きく超えてしまっています。女性の方は感じ方がちょっと違うかもしれませんが・・・。
 実は一年ほど前、銀座のエルメスでネクタイを買ったんです。ネクタイ狂の父が「エルメスのネクタイがほしい」と言っていたので、誕生日だか父の日だかにプレゼントしました。目の玉飛び出る位の値段のものしか置いていないエルメスですが、ネクタイは(決して安くはありませんが)私の手の届く範囲だったので、買わせていただいたわけです。その時そういえば、私の個人情報をお店にばらしていたので、忘れた頃の今頃カタログが送られてきたのでしょう。しかし、興味がないと書いたいわゆるブランド物ですが、こうしてなんか「お得意様」(笑)かのようにカタログなんかが送られてきてみると、人間のあさはかなステータス根性が揺さぶられますね・・・。「私は銀座のエルメスでお買い物をする身分なんざます、オホホホホ・・・・」ってこれただの貧乏丸出し、田舎丸出しバレバレじゃ!!。
 ってことで、私は血統的にお百姓の家系ですので、今後も身分をわきまえた行動をとっていきたいと考えているしだいです・・・・。どうわきまえるかよくわかりませんが・・・・。

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2005/04/19

中国反日デモの思惑

 昨今の反日ブームですが、いや~、中国政府の対応にはびっくりしました。私は、そう簡単に中国が謝罪するようなことはないとは思いましたが、あの破壊行為について「中国は日本に謝罪するようなことはしていない」ときたもんだから、さすがに穏健派の私も久しぶりにおしっこちびってしまいました。
 本日は朝から晩まで、ニュース報道系番組ではこの反日デモの問題を取り上げていました。
そこで盛んに言われているのが、このデモによる破壊行為自体が中国にとって対外的に痛手であるという議論です。だから、中国自身でこの問題を早く解決しろって言うんですが、これ本当に中国にとって痛手なんでしょうか。確かに、全く暴徒を取り締まることもできず(できずというか、せずというか・・)、蛮行の映像が世界に配信されたわけですから、中国にとって決していいこととは言えません。しかし、これ中国政府が本気で痛手と思っているのであれば、暴徒がガラスを割ったことに対してぐらいは、海外向けに「遺憾だ」と言ってもよかったように思います。ところが、「謝る事はない」とまで言うのですから、一体なぜそこまで強気なんでしょうか。
 というか、中国での蛮行の映像が世界に流れたことは、中国にとってほとんど痛手になってないのではないでしょうか。確かに私を含めて日本人にしてみれば今回の映像はいい気持ちがしません。しかし、あの蛮行が報道された諸外国の皆様は、あの光景を見てどう思うのでしょうか(というか、そもそも諸外国にまともな報道がされているのでしょうか)。アメリカの何とかと言う新聞の論調はこうだったとか、イギリスではこうだったとか報道されてるんですが、当の諸外国の国民の関心事になりえるニュースとはとても思えませんし、ましてや各国政府が中国政府を非難するに至るとも思えません。正直言って、諸外国から見れば、所詮日本が叩かれてるだけですし、日本人が叩かれてるだけですし、日本企業が叩かれてるだけのことなんですから、自分の国とは無関係、敢えて日本の肩を持つ理由なんて何もないでしょう。むしろ、中国市場から日本企業が締め出しを食えばしめしめと思う国のほうが多かったりするかもしれません。いやいや、日本の肩を持ったら、その国の企業が「日本の味方だ」なんて言われて投石にあったりして、やばいかもと思うかもしれません。中国政府の強気な姿勢は中国の国内向けだと言われていますが、果たしてそれだけなのでしょうか。もっともっと対外的に計算しつくしたことなのかもしれませんよ・・・。日本の大問題が、諸外国にとって単純に同情を得るものとは限りません。むしろ迷惑で面倒くさい話に違いないと思うのですが・・・。
 また、中国政府がほとんど暴徒を取り締まらないことに関して、俗に中国国民の抱える怒りの「ガス抜き」だと解説されてるんですが、本当にただの国内向けのガス抜きなんでしょうか。私には、外交カードに使おうという中国政府の意図が見え隠れするのですが・・・。「こんなに国民が怒っていることを日本は今までやってきたし、反省もしていない。」ということを前面に出して、「だからガス田は中国のものだ、尖閣諸島も中国のものだ、中国国民をさかなでするともっと暴動は抑えられませんよ・・・・すべてあんたのせいだからね・・・」的な発想はないんでしょうか。つまり、日本には何も言わせない、少しでも何か日本の国益を主張すると、投石が待ってますがいいですか?ってなわけです。
 
 さて、私のような凡人に、日本にとってのいい解決策が提案できるわけがありません。が、無駄に愚論を述べたいと思います。最初の「所詮日本の問題で諸外国にとって関係ない」のでは?ということに関しては、正に日本の外交力が試されていると思います。日本一国がいくら「うなった」ところで中国には痛くも痒くもありません。所詮今の日本の外交では、「所詮」日本だけの問題として捉えられるのが落ちです。貧疎な私の発想からは、多くの国から中国に向けた非難声明が出されるのを期待するしかないと思うのです。各国が腫れ物に触るようなことに敢えて賛同してくれるかどうか、そこが日本外交の力の見せ所と考えるわけです。しかしそんなセンスを持った外交官がいるのかどうか・・・・。なんとなく「一人でうなる」事ぐらいしかできないような気がするのは私だけでしょうか。
 もう1つ、「ガス抜きじゃなくて外交カード?」の問題に対しては、前回「洗脳的教育を考える」で書いたとおり、洗脳には正論で当たるしかないと思います。この中国の洗脳、煽動の連鎖は、日本が正論で当たり続ければ、あるとき自爆の道をたどる可能性があります。しかし、洗脳に洗脳で戦っていたら、おそらく中国に全てを持っていかれてしまうでしょう。歴史教育に関して右でも左でもなく、自信を持って正しい教育(正論)を受けていれば、誤った洗脳教育なんかに負けるわけがありません。しかし、残念ながら現在のあいまいな左やあいまいな右の交錯する歴史教育には洗脳教育に対抗しうるパワーがないような気がします。効果が出るのには随分時間がかかるかもしれませんが、根本的に一から教育を見直すことも必要でしょう。
 私は、イラク戦争が起きそうな頃から、日本はアメリカのポチではなく「外交大国」の道を歩むべきと考えていました。今のところ日本は世界のいじめられっこ状態ですが、今後の日本政府の働きに期待したいと思っています。日本政府がダメ男だったら、乱でも起しますか、インターネットで煽って・・・・・・。

 この記事は【ゴーログ】日本は護るべきスタンダードを持っているのか?へ無理やりトラックバックさせていただきました。

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2005/04/13

洗脳的教育を考える

 昨今、中韓で反日ブームが起こっています。さすがに穏健中道を自認する?私も、あの過激さには不快感を感じえません。何を怒っているかもわからない部分があり、日本人の私たちはいったいどうしたらいいのでしょう?。ところで、中韓が日本に対して怒っていることの1つに、教科書問題があるようです。中国の反日デモにも、歴史歪曲なんていうプラカードがあったようななかったような・・・。しかし、この教科書問題ついて、ふと考えたことがあります。教科書ってことは子供たちへ教育することが書いてある書物です。ところでこの教育の意味とは何なんでしょう。どうもこの教育という言葉には2つの意味があるような気がしてきました。

 例えば、「進化論」について、日本人はなんの抵抗もなく教育されていて、人間はサルから進化したということに関して疑う人は少数でしょう。しかし、キリスト教国では、神が全てを創造したということになっているため(正確な言い回しに間違いがあるかもしれません)、基本的に進化論なんて信じていないというか、受け入れられないという意見が多いようです。最も科学の進んでいるはずのアメリカでさえ、キリスト教の団体(政府が無視できないような大きな圧力団体)が進化論を教育しないよう求めているといいます。
 さて、世の中にはいろいろな考え方の人がいるわけですから、私は別に進化論を否定するキリスト教の方を問題にする気はありません。問題にしたいのは、このキリスト教の方々の意見が取り入れられた場合、どういう教科書が作られるかということです。1つ目の可能性として、「進化に関する事項を一切扱わない」というやり方があります。2つ目の可能性として、「進化論なる考え方もあるが、証拠はなくむしろ否定的だ」という言い回しにする方法です。3つ目の可能性として、「万物は神がおつくりになった」とはっきり明記することです。さあ、一体キリスト教の方々はどう教育されるんでしょうか。
 私が考えるに、もしキリスト教の方々が、進化論について科学的には無視できないと感じていたとしたら、普通は1つ目か2つ目のやり方になると思います。一つ目のやり方はいわゆる「棚上げ」で、進化論者との間の意見の相違に関する論争を教科書という場では行わないという考え方です。ある意味、自分達の主張の非を明らかにしないという面もあるかもしれません。2つ目の方法だと、事実を教えた上で、自分達の主張を行うということで、うそは教えていないですし、(結論は自分達の考え方の方に持っていこうとしていますが)進化論者の考え方の存在を認める形になっており(「問題点の認知」)それなりに配慮したかたちになっています。ところで、キリスト教の方々が3つ目の方法を取ったとするとどうでしょう。進化は全く無視して自分達の主張のみをしているのですから、さすがに教育とはいえないかもしれません。これは、事実を抹殺して、徹底して信じ込ませる、疑いの余地を与えないという意味では、「洗脳」に近いかもしれません。

 こんな洗脳みたいな教育はこの世には存在しない・・・と思ったら大間違いです。これが国益が絡む領土問題や歴史認識問題では、いろんな国でされていることです。例えば竹島の領有に関して、韓国では明らかに洗脳的教育がされていると考えていいでしょう。洗脳というと言葉は悪いですが、自国領であると主張するには、確かにその正当性を徹底的に国民に教育することが必要かもしれません。さらに自国領と主張するには都合の悪い事実(すなわち日本が領有を主張していること)については、徹底して無視するか、別の事実で覆い隠して正当化し(過去に日本が朝鮮半島を併合したことと関連付ける・・・・等)、日本が領有を主張すること自体が極めて悪いことで、断固として戦わなくてはならないとも教育されていると考えていいでしょう。無論、中国も同様です。尖閣諸島の問題も、ガス田の問題も、本来明らかな問題がある(どちらが正しいということでなく問題が存在する)にもかかわらず、徹底した反日教育によって日中の問題は中国に正当性があるということを刷り込んでいます。
 
 私が考えた、教育の2つの側面・・・、1つは一般的な学問としての教育ですが、もう1つが、上であげたような例えばキリスト教としての考え方を、例えば国としての考え方を、洗脳的に徹底させる教育です。残念ながら、この洗脳的教育に対して、真っ当な議論は通じません。洗脳には洗脳で戦うしかありません。「竹島は日本領だが韓国も領有を主張している」なんていう甘っちょろい教育しても、韓国の洗脳教育に対してはなんの解決にもなりません。それこそ竹島のことを教科書で教えている韓国に対して、逆教科書問題をぶち上げるぐらいのことをしなければ本来対抗すらできないでしょう。そのため、日本の中でも、この洗脳的教育の不徹底を問題視する方々も増えているように思われます。ある意味、言ったもん勝ち、やったもん勝ち、やられっぱなしの現状からは、確かにそんな意見が出てきても不思議はないくらいです。

 しかし、日本にはこの洗脳的教育をある意味タブー視してきた歴史があると思われます。それは戦前戦中の徹底した洗脳教育が、日本に、そして日本人に何をもたらしたのかということを、日本人自身がよくわかっていて、すでに世代を超えて本能化し、洗脳されるような動きに関しては拒絶反応を示してしまうことが背景にあると考えられます。これは行き過ぎれば、よく右の方が言われる「自虐的史観」とか、「反日的日本人」と言うことになるのでしょう。しかし、私の個人的意見を言えば、確かに日本人の日本人によるこの自虐的あるいは反日的な気運が、この中韓の非を産んでしまったとしても、やっぱり同様の洗脳的教育による対抗は何の国益も生み出さないと感じます。非には非でしか対抗できないと書きながら、矛盾してるじゃないかといわれそうですが、だからといって非に対して黙認しろといっているわけではないのです。非には正論をぶつけるしかないと思います。そしてこの正論は洗脳教育の中では決して生まれてこないでしょう。
 
 本日は尻切れトンボの抽象論で筆をおきます。もし、賛否様々な意見がいただけましたら、さらに考察させていただきます。本日も無駄にお付き合いいただきありがとうございました。

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2005/04/05

大衆とマスコミの負の連鎖?

 あざらしサラダさんが活動を再開されています。相変わらず、切れ味鋭い問題提起をされて感心してしまいます。さて、そのあざらしサラダさんが誰が加害者で誰が被害者?というエントリーで、
「児童の成績控えなど盗難 教師がパチンコ中に」
という共同通信の記事を紹介し、報道のあり方に問題提起されています。簡単に要約すれば、ある学校の教師がパチンコしている間に車上荒しにあい、児童の個人情報を含む資料が盗まれてしまったというニュースなんですが、このニュースの書き方からすると、パチンコしてて個人情報を盗まれた教師がけしからん!ってことしか伝わらず、本来の加害者である車上荒しと、本来の被害者である教師の関係というか、立場はどうなっちゃったの?、マスコミはやっぱり受け狙い?しかできないの?という問題について、あざらしさんがマスコミ関係者の意見を求めたという次第です(内容違ったらごめんなさい)。
 私のこの共同通信の記事に対する感想ですが・・・ほぼあざらしさんと同意見だと思います(これまた全然違ったらごめんなさい)。マスコミの方の仕事というのは、膨大な量の情報の中から、今伝えなければいけない問題を拾い出すことにあると思います。歴史家が膨大な歴史資料の中から、これはと思うものを拾い出し、歴史書などを作る作業と似ていると思います。1192年に片田舎の農民の青年が村の庄屋さんの娘と駆け落ちしたという資料が残っていたとしても、それはそれで当時の民衆の生活をうかがい知る貴重な資料とはいえますが(笑)、やっぱり普通の歴史家が歴史書を作るためにピックアップするとすれば源頼朝が鎌倉幕府を開いたことを取り上げることになるでしょう。そう考えると今回のニュースは何がピックアップされたかといえば、「個人情報」ではなく、「パチンコ」がピックアップされた可能性があります。「幕府」じゃなくて「駆け落ち」がピックアップされたようなもんでしょうか。本来は個人情報保護法に絡んで、全く偶発的な事と考えられる「車上荒し」にあうことまでちゃんと考えて情報を管理する必要があるという一例(教訓)が示されたことを主題とすべきなのに、最大の問題は「パチンコしたこと」というか、「教師のくせにパチンコなんてしてるから問題起すんだよ!」ってな主張になってるような気がします。要するにこのニュースの最大の注目点は「パチンコ」という言葉の響きの問題になっていて、真に個人情報の漏洩を問題としたいのであれば、表題にまで「パチンコ中に」なんて言葉は必要ないでしょう。私なら「児童の成績控えなど盗難 教師が車上荒し(被害)で」ってな感じにするかな・・。まあ、ここまでの考えはあざらしさんに指摘されたあとに考えたことなんですけどね・・・。
 
 ただ、私がふと考えたことなのですが、なぜゆえに「パチンコ」という言葉がピックアップされたかということです。それはやっぱり、ニュースとしての話題性が高まるためと考えられますが、確かに、いかにもこの教師が個人情報というものを軽く扱っていたかということを表現するために、「パチンコ」という言葉はもってこいです。私を含めて「教師たるものがパチンコで一攫千金考えてるなんてどうなってるんだ」という漠然とした倫理観を持っている人が少なからずいるでしょうから、このようなニュースの書き方をされると、ついつい、この教師の過失を大きく感じ取ってしまうわけです。この漠然とした倫理観を巧みに使って、ニュースの本質をある意味混同させて話題性を高める・・・というマスコミの態度は、確かに問題があるでしょう。しかし、私がふと感じたことというのは、これが全面的にマスコミの責任かどうかという問題です。「卵が先かニワトリが先か」という問題になりますが、実はこの話題性への期待というのは、そもそもニュースの受け手である大衆側が持っているものなのではないでしょうか。ただ情報が盗まれたでは面白くないので、「教師がパチンコ中に」っていうんだったら面白い、と考えたのは、マスコミが先か大衆が先か??。もしかすると”先”なのは上で書いた漠然とした倫理観を持ち合わせている私をはじめ大衆の側なのかもしれません。大衆が欲する話題をマスコミが提供する、そうすると期待にこたえて大衆の方が面白がる・・・、そしてますます面白いニュースをマスコミが提供する・・・・、そしていつの間にかニュースの本質は見失われ、面白そうな部分だけが残る・・・。そんな大衆とマスコミの負の連鎖が存在するのではないかと考えてみたわけです。
 例えば、長野のサリン事件では、無実の河野さんが犯人扱いされました。そもそも、犯人扱いしたのは警察です。なんか第一通報者のくせにぴんぴんしているやつがいる、家にはなんか薬品が積まれている・・・怪しい・・・、そしてマスコミもそれにのって、あいつが犯人に違いないとして報道し始めました。しかし、実はそんな話題を最も欲していたのは大衆だったのかもしれません。もっと犯人ではないかと疑わせるような情報を欲して、マスコミもそれに答えていろんな情報を流す。そしてますます犯人に違いないと核心しつつ、更なる情報を欲する・・・。これも怪しげな人物というか犯人像というかを欲したのは、マスコミが先か大衆が先か??、とりあえず、大衆が増幅器の役割をしなければ、マスコミも河野さんを犯人扱いする意味はなかったのではないでしょうか。ところが、大衆とは恐ろしいもので、河野さんが無実だとわかると、手のひらを返したように、警察やマスコミを批判する立場になりました。誤った一方通行的な情報を、さも正しいと報道された!我々はだまされた!と批判したわけですが、さてそこに大衆の罪というのは本当になかったのでしょうか・・・どうでしょう・・・。
 そういう意味では、こんな大衆とマスコミの負の連鎖を断ち切るような試みが、今回のあざらしさんの問題提起と本職の記者とのブログのやり取りだったような気がします。まずは我々が話題性を欲する大衆の一人であることを自覚することが必要でしょうか。そして、マスコミの情報に対して、誰かが問題の本質と話題性の混同に気付いて指摘する。そして大衆の側も、マスコミの側もその指摘について考察する。日本人の好きな反省会っぽい印象はありますが(笑)、大衆の側の反省があるとマスコミの反省も引き出せるのではないかという期待も持てます。これは真の報道を導く正の連鎖になりうるかもしれません。
 やぶ医者の浅知恵ではありますが、マスコミの世界の方にどんどんブログへ出向いていただいて、真の大衆を相手に真の報道をしていく試みをするってのはいかがなもんでしょう。やっぱり無理臭い???空論???。

 追加記事:記事書き終わったあとに、あざらしさんの記事のコメント欄を見て、自分の記事がガ島通信さんやあざらしさんのコメントのパクリになってることに気づきました(大汗)。パックった形にはなりましたが、同じような考えをしているやつもいるぞということでご勘弁の程、お願いいたします。

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