日本人の歴史観の原点(1)
前々前回、洗脳的教育を考えるで、中国や韓国の教育と、日本の対応というのを私なりに少し考えてみました。その中で、日本人には日本のみを正当化するような洗脳的教育をタブー視することが本能になっており、行き過ぎれば、右の方の言う「自虐的史観」とか「反日的日本人」ということになってしまうということを書きました。ということで、このあたりの「日本人の歴史観の原点」はどこにあるのかを考察してみました。本日はその第一回です。第二回があるかどうかはよくわかりませんが・・・・。
そもそも、右の方の言う「自虐的史観」という言葉の原点はどこにあるのでしょうか。いろんな意見はあるでしょうが、おそらく「東京裁判(極東国際軍事裁判)」に対する批判(東京裁判史観)がおおもとだと考えられます。つまり、「東京裁判は、アメリカによる日本への復讐裁判であり、その裁判を正当化するために、アメリカが正義、日本が極悪というイメージを徹底的に日本人に植えつけた。大本営発表に代表される国の情報が嘘ばっかりだと気付いた国民は、このアメリカのイメージ作りにまんまとのってしまった。」という考え方で、自虐的になるよう洗脳されてしまったという意見です。すなわち、戦前からの日本の所行、特に朝鮮半島を併合したあたりから(場合によっては秀吉の朝鮮出兵のことまで・・・)の日本の所行に関し、あることないこと全てが悪いと考るようにされてしまったということでしょうか。
例えば、「南京大虐殺」というのがあります。東京裁判において突然提起されたこの虐殺事件に関して、石原東京都知事をはじめ、でっち上げ説を唱えている方が少なからずいます。しかし、一般的な日本人はどう考えているのでしょう。私自身が日本人のスタンダードかどうかは怪しいのですが(笑)、私が中学生や高校生の頃について思い出すと、この虐殺事件がなかったなんてことは全く考えてもいませんでした。まず、あったことが前提でしょう。私の記憶が確かなら(今はどうか知りませんが)、教科書において南京大虐殺という言葉は、本文中に書かれることはなく、欄外に小さな字で「南京で多数の一般市民が殺されたと言われています」てな説明で書かれていたと思います。むしろ、二十万とも三十万とも言われる市民が殺されたという知識を持っていた私にとっては、具体的数字を出さず、「多数」という言葉でごまかしていること、事実を「言われている」というあいまいな言葉にしていること、そして、本文中に示さず欄外に書かれていること等から、”お国”が「南京大虐殺」という事実を隠蔽しようとしている、あるいは程度をごまかそうとしていると考えていました。そんな考えのまま成長し、大人になった私ですから、「南京大虐殺なんてなかった」と唱える人たちの気が知れなかったわけです。まあ、南京大虐殺を否定するなんていう歴史観は、自虐的史観に対して、「何でもかんでも正当化史観」とでも言うのでしょうか。そんなイメージを持っていたと思います。
しかし、最近になって、とある”右的”な方の歴史認識に関する書物(自虐史観を批判している書物)を読ませていただきました。まあ、正直言えば、左の方からはけちょんけちょんに言われている(のを、とあるブログでみました・・・)方が書かれた本です。私にしてみれば、一体全体どういう理論を持ってすれば南京大虐殺をでっち上げといえるのか、そこに大変興味があったわけです。この本全体を眺めてみると、基本的には上で書いた「何でもかんでも正当化史観」であり、おいおい、そこまで日本人に都合よく考えちゃいかんだろうと思える部分は多々ありました。しかし、南京大虐殺に関する記述に関しては、もちろん正当化史観がちりばめられているのは事実ですが・・・・、正直言って、20数年の私の歴史観を変更せざるを得ない事態に陥ってしまいました。もしかして、大虐殺なんてなかったかも・・・と考えはじめたのです。その書物によれば・・・・、当時の南京の人口が兵士合わせて25万人程度であったということ。ってことは間違っても30万人殺すことはできません。25万人殺されたとすると、皆殺しって事になります。これは相当に努力しないと殺せません。アウシュビッツ並に施設を充実させないと、死体の処理を含めて厳しいものがありそうです。また、当時はアメリカを含めて外国人記者が南京にいたこと。日本に敵対していたアメリカにとっては、この残虐行為は国際社会に日本の悪行を知らしめる上で格好のニュースになります。しかし、当時世界にこのニュースが配信された形跡がほとんどないというのはちょっと変な話です。その他いろいろ書いてあったわけですが、総合的に判断して、私の認識は「虐殺はあったかもしれないが(数万人規模の虐殺はあったかもしれない、なかったのかもしれない)、20~30万人規模の”大”虐殺はおそらくなかっただろう」と変わりました。「大」の字がつくかどうかは大問題で、つかないとなれば、まさにでっち上げということになってしまいます。
この南京”大”虐殺がなかったかもということに関して、「そもそも人口が20万から25万という数字が正しいのか?」「皆殺しが大変だからといって、しなかったという証拠になるのか?」「アメリカの記者がニュースを配信しなかったというのが、事件がなかったという証拠になるのか?」「そもそも(私が読んだ数冊の)本に事実が書かれているのか」等、しようと思えばいくらでも批判することができるでしょう。しかし、私がこの南京大虐殺に関して歴史観を変更したことというのは、「この事件がなかったこと」あるいは「言われているほど殺されていないこと」なのではなくて、この事件が「あった」ことを前提にする根拠が実はなかったことに気付いたということです。最低限、この事件が「なかった」と言っている人に「あった」というだけの根拠を持ち合わせていないのに、「なかった」ということ自体を悪として捉えてしまっていたわけですから、まさに東京裁判史観(日本は悪だと洗脳されている)そのものだったといえるのではないでしょうか。
では、私はこの南京大虐殺の事例を引き合いに出し、現代日本人の持つ歴史観の原点を東京裁判史観に求めているのかというと、そうではありません。無論、上で書いたように、東京裁判史観が知らず知らずのうちに我々の心に入り込んでしまっていることも事実でしょう。しかし、そんな東京裁判史観が全てであり、それを否定することで過去の日本の歴史を一つ一つ正当化する「何でもかんでも正当化史観」には賛成できません。それは、日本人の持つ歴史観のもう1つの原点が欠落してしまっているからです。
それで、その欠落している(と私が考えている)もう1つの原点を次回書こうと思うのですが、さてさて本当に次回があるのやらないのやら・・・・。期待させておいてたいしたことないと怒られそうですが、正直言ってたいしたことないです。期待せず無駄にお待ちください。本日もきわどい話題にお付き合いいただきありがとうございました。
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