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2005/05/28

でもやっぱり、責任は現場が取らされる

 私の最近のキーワードは「現場」です。現在の私の職場が正に現場であり、管理職の皆様が、全然現場を見ていないのに文句ばっかりたれたり、どんどん働きにくい環境を作られるのには辟易してきます。
 
 そんな「現場」を考えさせるこんなニュースを見つけました (「橋梁談合 11社、14人を逮捕 三菱重工幹部も」)。税金にたかる悪徳企業にメスが入ってめでたしめでたしという話ですが、この逮捕された方々の肩書きを見てください。ほとんどが、各社営業部の部長さんやら、次長さんやらばっかりです。まあ、世間的には管理職であらしゃられる方ばかりではありますが、要するに「談合の現場」で話し合ってたメンバーが逮捕されたわけで、社長だ会長だという社の代表の方々が逮捕されるわけじゃないんですね。
 もちろん今後、捜査が進んで社の代表者が逮捕されるかもしれませんが、談合という性格上、社長が知らないはずはありません。でも、いざ逮捕となれば、簡単にしょっ引かれるのはまず「現場」であって、社長がとっ捕まるというのは相当に証拠を積み上げないとなされないんでしょう。いやいや、逆に談合というものが当たり前の日常業務で、いちいち社長が営業部に対して指示を出すまでもないくらいルーチン化していたとしたら、社長逮捕にはならないのかもしれません。法的に社長の責任??って一体どうなってるんでしょうか。
 
 私は職業柄やぶ医者をやっていますが、我々の世界でも以前こんなことがありました。慈恵医大青戸病院で、腹腔鏡による手術を行った泌尿器科医師3人が、患者を死なせたとして逮捕されました。この3人ともに腹腔鏡手術に習熟しておらず(学会規定の手術資格なし)、当時社会問題となりました。私は別にこの3人をかばおうとは思いませんし、逮捕もやむなしと考えます。しかしよくわからないのは、この泌尿器科の代表者たる泌尿器科部長が(書類送検はされましたが)逮捕されなかったということです。この泌尿器科部長がこの手術に頑強に反対し、それを押し切って彼らが勝手に手術を施行したというのであればわかりますが、そんなことはもちろんなかったでしょう。いやむしろ、(想像ではありますが)普段から手術にはタッチせず、「現場」たるその手術に立ち会わなかったからこそ、逮捕の難にはあわなかったわけで、熱心にope室に足を運び、手術に口を挟んでいたらアウトだったに違いありません。

 はっきりいって、責任者は、普段から責任を果さない方が責任を取らずに済む・・・ということでしょうか。なんだかんだいって、責任を取らされるのは「現場」です。まあ、現場に身を置く私としては、責任者の無責任ぶりは無視して、自分に課せられた責任を淡々とこなすしかありませんが・・・。
 
 趣旨が全然違うような気がしますが、週刊!木村剛 :上司の最低限の役割は責任をとることであるにトラックバックさせていただきました。

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2005/05/26

日本人の歴史観の原点(3)

 日本人の歴史観を、日本人の歴史観の原点(1) (2)で私なりに書いてきたのですが、どう続けようかと思ったときに、小泉首相が「罪を憎んで人を憎まず」発言をされたので、これを元に考察を続けようと思います。
 
 (1)では南京大虐殺を例に日本人の歴史観における東京裁判史観の位置を、(2)では、それにもまして、敗戦後の復興が、かの戦争を「誤った戦争」と位置づけたのではないかと考えました。
 私は、この(3)の中で、日本人が、戦争を遂行した責任者の方々の責任をどう問うてきたのか?その結果は?ということを考えたいと思います。責任論という意味では、一応、その責任者たちの多くが東京裁判にかけられ、責任を取らされています。しかし、これがまたアメリカによるアメリカのための裁判ですから、その正当性は横に置いたとしても、日本人が日本人自身で責任をとらせたわけではありません。その現実のなかで、日本人は、この戦争を遂行した責任者たちの責任は、この東京裁判でつけられたと考えているのでしょうか。いや、そもそもこの人たちに責任をとらせようなんて考えてきたのでしょうか。
 
 そんな中で、先日、小泉首相が靖国神社参拝について、自論を展開されました。

(戦没者の慰霊の仕方について)他国が干渉するべきではないでしょう。「罪を憎んで人を憎まず」というのは中国の孔子の言葉です。
罪を憎んで人を憎まずと言う言葉は、いわゆるA級戦犯に対して、「責任取らされて死んだのだから、死んでしまった人に対してお参りするのを、とやかく言うのはどうなの?」というふうに私は解釈しました。間違っていたらすみません。しかし、この自論を聞いて、私は小泉首相にぜひ聞いてみたいことがあります。それは、この孔子の言葉に関してなのですが・・・、まず「人を憎まず」という部分に対しては、何とかわかります。「死」に対して、純粋な慰霊という意味では、私も人を憎まずという言葉を否定しません。しかし、聞きたいのは「を憎んで」の部分です。A級戦犯に対して罪を憎んでと言うのであれば、一体「何が」だと言うのでしょうか。
 
 もしかして、小泉首相を含めて多くの日本の代表者が、中国やアジアへの侵略行為に関する日本の戦争責任についての謝罪を繰り返していることを考えると、A級戦犯の「罪」というのは、この日本の侵略行為のことを言っているのでしょうか。発言の文脈からいくと、どうもそれで間違いないようです。だとすれば、その侵略にあった中国に対して、「人を憎むな、干渉するな」という発言は随分むしのいい話です。ドイツ人がユダヤ人に、ヒトラーを(死んだのだから)憎まないでほしいし、ヒトラーの墓(があるのかないのか知りませんが)にお参り(公人がすることはないでしょうが)することに文句を言う権利はありませんよね・・・なんて言ったら怒られるでしょうね。つまり、中国人自身が、過去を忘れる、水に流すという意味で「罪を憎んで人を憎まず」というならともかく、罪を犯したほうの日本人がそれを押し付けるのはあまりに都合が良すぎます。
 
 しかし、罪を感じている小泉首相の考えとは違って、かの戦争や朝鮮半島の併合そのものに「罪はなかった」と考えている方も多いようです。私は個人的に、「罪はなかった」とはとても言えないと思っていますが、まあ、仮にかの戦争が正当な戦争であったとしましょう。だとして、もう1つ、戦争を遂行した方々には「罪」があるのではないかと考えています。それは「日本国民に対する罪」です。兵隊さんには人命軽視の攻撃をさせ、日本本土が空襲にあっているというのに広島・長崎に、原爆が落とされるまで戦争をやめようとしませんでした。このことは罪とはいえないのでしょうか。実は、(2)で書いたように、戦後、その敗戦による日本の大発展のため、その罪を問うことなんて忘れてしまっていたような気がしますし、また、アメリカが勝手に裁判やって当事者が裁かれしまったために、日本人は正にこの戦争の責任者の方々に対する総括をしてこなかったような気もします。
 
 私は、最低限、この方々の人となりは憎まなくとも、「罪=敗戦の責任」はとってもらわなければいけないと考えています。というのも日本人の自虐的史観の原因のひとつに、この責任論のあいまいさがあるような気がしてならないからです。それは、無意識的に、罪や責任は国民全体で抱えてしまっているということです。自虐的史観を「朝日」や「反日的日本人」のせいにするのは簡単ですが、それらの人の言うことを「国民の罪」として受け取る下地がなければ、現在のような歴史観に到達することはなかったように思います。(4に続く・・・続かないかも・・・)

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2005/05/23

無駄論的レッサーパンダ騒動

 久しく無駄論を書いていなかったので、タイトルに無駄論的という言葉をつけてみましたが、無駄論とは関係ないかも・・・、ちょっとひどすぎる専門家の皆さんに苦言を呈してみようと思いました。
 
 そう、千葉市動物公園の立ち上がるレッサーパンダ 風太くんが大変話題になっています。私は本物のレッサーパンダを見たかどうか覚えがないのですが、図鑑などでみて、その愛くるしい姿にとても好きな動物の1つでした。そのレッサーパンダが立ち上がってとってもかわいいというので、千葉市動物公園は大変な賑わいだったようです。
 しかし、今日の朝や昼の番組見てたら、なんと、風太くんだけじゃなくて、日本各地のレッサーパンダが、程度の違いこそあれ立ち上がるというではありませんか。中には立って歩くつわものもいるというのでびっくりです。つまり、レッサーパンダが立ち上がるのは確かにとってもかわいくて、話題になってもおかしくはないんですが、別に珍しくもなんともないということでしょう。でも、先週までその道の専門家と呼ばれる人たちが、テレビで「レッサーパンダが立ち上がるのは大変珍しい」とか「ありえない」とかいう解説をしていたというので、朝のや昼の番組でもコメンテイターの方々が「どんな専門家だったんだ?」と大笑い状態になっていました。

 私は実際に専門家の方々が解説しているところを見ていないので、よくわかりませんが、本当なら大変間抜けな専門家ですね・・・。まあ、動物園側とつるんで、話題性拡大のためにうった芝居だとすれば、それはそれでたいしたものですが、おそらくそれらしくつくろって適当に答えただけなんでしょう。これだったらよっぽど専門家なんかよりも、現場で働いている飼育員(中には学者の方もいらっしゃるかとは思いますが)の方がよっぽど事実を知ってるって事になります。これは「専門家だからといって、言ってることを鵜呑みにできない」ってことと、「机上の論より現場の方が正しいかも」という二つの教訓を与えてくれてるような気がします。自然科学でも、社会的な問題にしても同様です。ちょっと言いすぎかもしれませんが・・・。
 
 私は以前「あくび」や「進化」に対して専門家の意見というか定説というものに疑問を呈したことがあります(亀のあくび 無駄論的自然学 ぜひ読んでみてください)。あくびについて私の観察したことや、まして私の呈した進化の考え方の一部が正しいとはとても自信を持って言えませんが(弱気)、専門家の皆さんが言ってるからといってそちらの方が正しいかどうかわかりませんよ。これこそ、正に無駄論です。専門家には無駄論で対抗しましょう。
 ということで、レッサーパンダとは何も関係ない、専門家批判でした。

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2005/05/16

3時間待ち5分で完食

 先週、行列が出来る店として有名な親子丼のお店、玉ひでさんで嫁(になるはずの方)と昼食を食べてまいりました。皆さんご存知でしょうか。
 まずびっくりは、その行列・・・。って最初っから行列できていることくらい予想はしていたのですが、やっぱり尋常じゃないです。地下鉄の駅から出た瞬間、そこが行列の最後尾でした・・・・。いやはや、さすがは行列のできる店、すごいなあと思って並ぼうとしたら、最後尾の方に一言

「ここ最後尾じゃないですよ・・・・」
といって指差された歩道の角にはさらにとんでもない行列が・・・・。地下鉄の入り口を、行列がふさいでしまわない様に少しはなれたところに行列が続いていました。これがまた、次の曲がり角まで続いていて、曲がり角を曲がったとこにやっと最後尾があったのです。そもそも、即、店に入れないと別の店に行ってしまう程、待ち嫌いな私ですが、本日の目的が「玉ひでの親子丼」でしたから並ばせていただきました。
 これがまた待ち時間が2時間30分ほどだったでしょうか。よくまあ、耐えたものです。正直昼食のつもりが3時のおやつの時間になってしまいました。やっと席に案内されて、待ちに待った親子丼とのご対面~(ホームページで親子丼の写真をどうぞ)・・・いや~、確かにおいしい!特に卵好きの私にはたまらんです。一口二口、パクパク食べたら、5分で完食してしまいました。実にもったいない、もっとゆっくり食べればよかったです。もう2度と並ばないでしょうから・・・・。
 
 それにしても、列車事故じゃないですが、1分2分の電車の遅れにカリカリする日本人が、何で親子丼ごときに何時間も並ぶのでしょうね。いくらおいしくても、所詮親子丼ですよ。しかも5分で完食です。たったそれだけのために行列を作る神経ってなんなんでしょうね。といいつつ私も今回行列したんですけど・・・・。しかし、逆に考えれば、所詮親子丼ごときで、ここまで並んででも食べようと思う人がいるのですから、一芸に秀でるということの大切さを学んだとも言えますか。
 私は職業柄やぶ医者をやっていますが、我々の業界も3時間待ち3分診療といわれています。こちらの方は、全く歓迎されていない待ち時間です。私も、お待ちいただいているからには、玉ひでの親子丼とまでは言いませんが、何か心に残るものを患者さんに残したいですね・・・・。ムリか・・・、私、やぶだもんね・・・・。ちなみに、あまり言いたくはないですが、我々の業界では「待つのがいやなら、すいている病院へ行けばいい」と思っている人が多いので、3時間待ち3分診療は、そう簡単には改善されないと思いますけど・・・。

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2005/05/11

新・旬のハイビスカス

 いや~、夏ですね(笑)。日差しがまぶしく、セミの鳴き声も真っ盛りの今日この頃(大笑)、我が家のハイビスカスが、大輪を咲かせました。DSC00492
 相変わらず季節感のない我が家のハイビスカスでした。
以前のシリーズ 旬のハイビスカス? 旬のハイビスカス2 旬のハイビスカス3もご参照ください。

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2005/05/07

記者は遺族の代弁者か?

 尼崎の列車事故報道のことを、今更ではありますが、ちょっとだけ書きたいと思います。
 現在、JR西日本の事故に対する対応のまずさや、事故原因となったかもしれない、その体質に関する非難が日本中に溢れています。ワイドショーやニュースでも、亡くなった方の過去と本来あったはずの未来を紹介しながら遺族の悲惨さを伝えるものが多いように思います。私も時には涙を流してしまいますね。
 そんななか、最近の話題といえば、JR西日本の職員(運転手)があの事故車両に乗り合わせていたにも関わらず、救助作業を放棄して出勤し勤務についていたことと、あの事故が起きたその時に、非番の職員がボーリング大会を開いていたことでしょうか。まあ、正直言ってあまりにも情けない、鼻水のちょちょぎれるようなお話で同情の余地もありません・・・・。
 それにしても、あのテレビの前で記者会見を開き、厳しい質問に答えているJR西日本の幹部たちの気持ちはいかばかりのものなんでしょう。私なんか不謹慎にも、自分があの幹部だったらどうやって答えるだろうなんて想像して、どきどきしながらあの会見の様子を見ています。ちゃんと誠心誠意の回答ができるのだろうか、組織の壁を打ち破って、真実を引き出し、それをちゃんとさらけ出すことができるんだろうか・・・なんて真剣に考えてしまいます。まあ、まさに不謹慎極まりない話ではありますが・・・。
 あの列車事故の原因になったかもしれないJR西日本の企業風土の話や、一秒の遅れも許されない、その安全性を無視した定刻性へのこだわりなどは、いろんなところで語られています。そこで不謹慎な私としては別の角度から疑問に思ったことを書こうと思います。それはあの針のむしろ状態の記者会見のことです。私はもちろんああいう記者会見場なるものに足を運んだことはありません。もっぱらテレビで流される断片的な画像を見るだけです。ですから、テレビで流されている画像のみで全てを語ってはいけないとは思うのですが、それにしても随分記者さんたちの言葉使いは乱暴だなあと感じざるを得ません。
 例えば、ボーリング大会に関して「一体全体何人参加したんや。全員名前出したらどうや?」なんて、まるで暴力団かと思えるような口調でJR西日本の幹部に食いついていた記者さんもいました。その他、具体的なものは正確には覚えていませんが、「多数の人命を奪ったことをどう思っているんだ!」とか、会社の風土をなじる質問とか、本当に反省しているのか?と問い詰める質問など、かなり強い口調で質問が飛んでいます。
 私は、記者さんたちが、真実を引き出そうとして、ごまかそうとしているJR西日本の幹部を問い詰めているとはあまり思えません。どちらかというと、そこに「いじめの対象がいる」から、徹底的にいじめてやろう的に見えてしまいます。それは、質問の内容、質問の仕方(詰問というべきか)、口調その他、怒りに満ち溢れているわけですが、それは本来、遺族や被害者のみが感じるはずのものです。いつの間にか記者さんたちは、遺族の代弁者を気取り、徹底的にいじめているとしか思えないわけです。
 「いじめる位の勢いで質問しなければ、真実が出てこないし、反省もしない」というご意見があれば全く間違いはないと思います。確かに私のような気の小さい記者ばかりだったら、真実が闇に葬り去られてしまうかもしれません。ただ、私が知りたいのは、記者さんがいつ遺族や社会の代表というか代弁者として認められたか?という疑問です。
 というのは、記者さんたちが遺族の代弁者として認められているのであれば、ああいういじめに近い質問を飛ばすのも全く問題ないと思われます。しかし、その場の雰囲気で、いじめに走っているとしたならば、今回の事故の件はともかく、いつかどこかで、また第二の長野サリン事件の河野さん的な報道がされるような気がしてならないからです。
 遺族の方が不快に思われましたら申し訳ありません。ここにお詫びいたします。

追加記事:あざらしサラダさんの☆マスコミ報道への怒り、あきらめ さまざまな声へトラックバックさせていただきました。
さらに、トッラックバックいただいた方には、トラックバックさせていただいております。ご了承ください。

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2005/05/02

日本人の歴史観の原点(2)

 前回日本人の歴史観の原点(1)で、東京裁判史観に伴う歴史観の一例として、南京大虐殺のことを考えてみました。私の結論をもう一度言いますと、「南京大虐殺はなった」といわれる方々に「当然あった」というほどの根拠は全く持ち合わせていなかったのに、「なかった」ということ自体を悪と考えてしまっていたということです。つまり日本人の自虐的史観の原点の1つがこの東京裁判史観にありそうだということを述べてみたわけです。
 しかし私は、日本人の歴史観の原点が、この東京裁判史観のみとは思っていません。いやむしろ、戦後に形成された根本的な歴史観の上にこの東京裁判史観が乗っかったものだと感じています。この根本的な歴史観の形成は、実に単純で、実に当たり前の結果として形成されたと思うのですが、これがまた全く意識されずに60年の月日が経ってしまったような気がしてなりません。あまりに単純なのですが、この歴史観の欠落があると、中国にも韓国にも何も文句が言えないような気がするので(このあたり詳しくは別の回にに書きます・・・しかしそもそも次回はあるのか・・・)ブログの片隅で述べておこうと思います。

 結論から先に言いましょう。それは「日本は太平洋戦争に負けた」ということです。ね、実に単純というか、当たり前のことですよね。誰がなんと言おうと、日本は戦争に負けました。しかも、僅差判定負けではありません。こてんぱんのけちょんけちょんの大KO負けです。もう一度言いますが、日本はかの戦争に明らかに負けたはずです。
 
 ところが、この戦争に負けたということが確定した、すなわち昭和20年8月15日から、日本にとって、日本人にとって、戦争に負けたことによる不幸な歴史があったでしょうか。むろん、日本人捕虜のシベリア抑留問題等決してなかったわけではありません。しかしおおよそ日本国内の一般市民にとって、何か不幸なことがあったとは思えません(もちろん戦後25年もたって生まれた私が当時のことを語ることにご批判があるかもしれませんが)。例えば占領軍による大略奪があったとか、それこそ大虐殺があったとか、奴隷にされたとか、そんなことは聞いたことがありません。日本語が禁止されアメリカ英語が強制されたとか、神社仏閣が全て壊されてキリスト教に改宗させられたとか、そんなことももちろんありません。それどころか、アメリカからは食料が供給され、衛生状態が改善されました。そしてなんといっても、思想的に「自由」というものが与えられたのです。もと陸軍の軍人だった親戚のおじさんの一言が思い出されます。「まさか、自由なんてものがこの世にあるとは思ってもいなかった・・・・」。そんなふうにおじさんが言うのも当たり前です。軍人として、お国のために死になさいと徹底的に教育されていたのですから・・・。日本は戦争にこてんぱんに負けたことで、連合国というかアメリカから本来搾取される立場になり、奴隷国家となってもおかしくなかったはずでした。まあ、そこまではなくとも、貧乏国家のまま、戦後60年を迎えてもおかしくなかったはずです。ところが、ごく短時間に大復興を遂げるという全く逆の結果となり、最終的には世界でも有数の経済大国、世界で最も経済格差のない平等な国となったのです。これはもちろん戦前戦中の日本とは比ぶべくもありません。
 
 私の言いたいことがわかるでしょうか。日本は戦争にけちょんけちょんに負けたのです。にもかかわらず、負けたことのデメリットよりも、むしろ負けたメリットの方が圧倒的に多かったような気がするのです。このことが無意識的のうちに日本人の心に与えた影響は計り知れません。負けたメリットが多いわけですから、日本人に漠然と、あの戦いが「誤った戦争だった」という認識を植えつける結果につながったのは当然でしょう。これは国内的にも、国外的にも両方の意味を含んでいます。ですから、何も東京裁判で日本が悪いなんていうことを洗脳されるまでもなく(増幅されたことは確かかも知れませんが)、日本人自身が無意識的に感じていたことでしょう。この戦中のデメリットと戦後のメリットの議論を欠落させて、東京裁判史観を云々するというのは基本的に意味のないことのように思われます。

 しかし、日本人にとって、この「誤った戦争」という認識はあまりに無意識的であったため、この戦争を遂行させた責任者に責任を押し付けることなく、この戦争の責任を「日本人全体の責任」として捉えたような気がするのです。このことは結果的にいわゆる自虐的史観につながった原因のひとつと考えていますが、実はこの無意識的な責任論の欠落は大問題なので、また次回に(次回はほんとにあるの?)述べたいと思います。

 今回も、尻切れトンボ的な文章をお読みいただきありがとうございました。

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