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2005/06/27

無駄論的二百三高地

日本人の歴史観の原点シリーズ((1) (2) (3) (4))を今後続けていこうとする時、どうしても振り返っておかなければいけないのが日露戦争のような気がしてなりません。しかし、日本人にとって日露戦争が相当に大きな出来事であったにもかかわらず、現代あまり語られることのない歴史的事象の1つの様な気もします。近代史で言えば、幕末明治維新や太平洋戦争に関する本や映画、あるいはテレビドラマ等はたくさんあります。ところが日露戦争というとこのエントリーのタイトルに掲げた映画(テレビでもやってましたが)「二百三高地」くらいしか私の頭には思い浮かびません(日本海海戦の映画もありましたっけ?)。本でいうと、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でしょうか。というか、他にもあるんでしょうけど、私の日露戦争に関する知識は、この「二百三高地」と「坂の上の雲」、あと最近放送していたNHKの「その時歴史が動いた」の日露戦争に関する部分以外はないので、ご勘弁ください・・・。
 
 ところで、テレビでこの「二百三高地」が放映された頃、私は小学4年~5年生くらいだったと思うのですが、あの戦場戦闘シーンには子供ながらに衝撃を受けたことを思い出します。当時東洋最大といわれていた旅順要塞においてロシア軍は最新兵器であった機関銃で迫る日本軍に一斉掃射するのですが、なんと果敢にも日本軍はそんな機関銃の弾があめあられと飛んでくる中、鉄砲抱えて突撃するではないですか。結果は小学生の私にも明らかな、日本軍兵士の死体の山・・・。しかも、突撃の途中には、有刺鉄線が張り巡らせてあったり、地雷が埋まっていたり、闇雲に突撃すると「ロシア軍の落とし穴」といわれる壕?に落ちて、一斉射撃をくらったり、はっきり言ってとんでもない戦場だと思ってみていました。
 
 でも、そんな戦場シーンを見た小学生の私が戦争の悲惨さを感じたわけではなく、何をやったかと言えば・・・、腕にバットを抱え(鉄砲持ってるつもり)、近くの田んぼにあった大きな畝から畝へと身を小さくしながら進み(機関銃の弾を避けているつもり)、そしてころあいを見計らって?「突撃~」と叫んで走り出し、どぶを飛び越え(落とし穴をさけたつもり)、田んぼ埋め立て用に積んであった土の小山を駆け上がり(二○三高地山頂に着いたつもり)、バット銃を撃って敵を倒し(てるつもり)、そして最後にはバットを大きく左右に振って(日の丸を振ってるつもり)、「占領したぞ~!!」と叫ぶ二百三高地ごっこを何度もやっていましたね・・・・。いやはや恥ずかしい・・・・。でも、ひとりでやってたわけでなく、近所の友達を誘って何度も突撃をかけていたわけですが、誘われた友達が本当に突撃したかったかどうかは、未だにわかりません・・・。私、勝手に中隊長やってましたし・・・・。

 そんな無邪気な少年だった私を強調しつつ、本当はこの日露戦争の概略を無駄論的に語りたいのですが、時間がないのでまた別の機会に・・・。そんなわけでいきなり本題へ。そもそも、当時の日本が、本気で大国ロシアに勝つという勝算があったのでしょうか。映画の中で、児玉大将が「今戦えば、四分六で勝つ可能性がある」というシーンがあったと思うのですが、つまり、勝つ気はあったんですね。しかし、当時の常識からは普通勝利を想定することなんて考えられません。まだ、近代国家に生まれ変わって間もない日本と、当時世界最強とも言われる陸軍を要したロシア。動員兵力は日本がせいぜい20万から25万というところでしょうが、ロシアはウン百万は動かせたでしょう。そしてなんと言っても戦場が中国大陸ですから、日本からは兵隊さんから、武器弾薬食料まで、全てを船で運ばないといけませんが、ロシア側はシベリア鉄道ができればいくらでも物資が運べる地の利もあったでしょう。上で書いたように兵器も世界最新ですし、コサック騎兵なんていうのも有名です。
 
 そう考えると、常識では考えられない勝利を想定していたのは、幕末の混乱を生き抜き、戊辰戦争を戦い、西南戦争の銃弾を潜り抜けてきた、いわゆる元勲といわれる人たちならではの超人的発想としか考えられません。私にとってのはやり言葉で言えば、いわゆる「現場を知る人たち」だからこそ、この発想を現実に変えられたのだろうと考えられます。しかし、結果的には、この超人たちの発想は、明治維新のそのままであったようにも思います。悪い言い方をすれば「命よりも気合」?的な発想でしょうか。そもそもこの現場を知る超人たちは、命を捨てる覚悟で、日本の未来のために維新を生きてきた人たちのはずです。薩摩人などは、「命が惜しいのか?」といわれるのが最大の屈辱だったとも言います。したがって、この日露戦争においても、日本の未来のため、兵士の犠牲はやむを得ずという感覚が無意識的にあったのは間違いありません。 
 
 二○三高地には、日本兵の死体が累々と積み重なったといいます。一歩進めば一人が倒れ、また一歩進めばまた倒れと言う状態だったといいます。何もさえぎるもののない斜面の上から、機関銃で掃射されているのに、無邪気などこかの少年のように(なんて言うのは失礼ですが)突撃していくのですから、死体の山ができるのは当たり前といえば当たり前です。海軍も、連合艦隊が、ロシアバルチック艦隊を破り、俗に完勝と言われていますが、これも捨て身の作戦ゆえ、相当な死傷者が出たようです。そして、超人たちの予想通り、犠牲は出したものの、薄氷ながら、勝利と言う結果になったわけですが、この日本の勝利は、ものすごい数の命と引き換えに得たと言えなくもありません。

 こんな命さえ出せば勝利するという時代は、明治の元勲がこの世からいなくなった時にすでに終焉していたはずです。しかし、それに気付かなかったのか、それともその後の指導者が明治の元勲なみの経験と勘と運があると勘違いしたのか、この日露戦争の勝利は、その後の日中戦争、太平洋戦争における日本の大敗北につながったと考えられます。私は、日本人の歴史観の原点シリーズで、いわゆるA級戦犯の方々の責任論を問うたりもしているわけですが、元をただせば、この明治の元勲達がやりっぱなしで死んでいったのが最大の問題だったのかもしれません・・・。
 
 ということで、今後日露戦争についての無駄論的考察と、日本人の歴史観の原点シリーズを少しずつ、進めたいと思っていますが、いつ更新できるか全くはわかりません・・・。あと、久しぶりにどなたか、私と二百三高地ごっこしませんか?。したい方は、連絡ください。日の丸つき銃剣のオモチャを用意してお待ちしております。まあ、私は突撃する前に、過労死するかもしれませんが・・・。

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コメント

 初めてお邪魔します。「日本人の歴史観」シリーズを拝見しました。この記事では日露戦争について書いておられますが、ロシア側の厭戦気分について指摘させていただきたいと思います。
 遠路はるばる日本までやってきたバルチック艦隊は、当時の日本の同盟国イギリスの協力のお陰で十分な物資補給が出来ず疲労困憊の状態で日本海までやってきました。その上レーニンの指導するボルシェビキの軍隊工作により水兵の間には広範な反戦運動が存在していました。勿論203高地のあった旅順要塞でも戦争反対、前線での日本兵との交流促進の取り組みなどが行われていました。映画「203高地」で仲代達也でしたか、ロシア兵から酒を受け取って飲むシーンが有りましたよね。
 さらには1905年のモスクワ蜂起に始まる第一次ロシア革命勃発のために、対日戦争継続を断念せざるを得ないという、事情も発生しました。
 単純に明治の元勲達が優秀であったとは言い切れない幸運に左右されていたと思います。

投稿: アッテンボロー | 2005/07/03 09:23

アッテンボロー様、コメントありがとうございます。
ロシア軍については、戦っていたのがロシア人じゃないという話もありますね。本当ならロシアと戦いたいくらいのポーランド人なんかが連れてこられて戦わされていたっていう話です。これじゃあ戦意も上がるわけありませんね。
アッテンボロー様が、日露戦争の勝利が幸運に左右されていたと考察されているのがやっぱり重要ですね。ある意味、元勲達のものすごい運の強さを示していると思いますが、逆に、その後の日本が反省をし忘れたつけを払わされるに至ったことは、まさに幸運だったことの何よりの証拠のような気もします。

投稿: 彰の介 | 2005/07/03 21:21

日露戦争の勝利に運が左右したことは確かですが、そうでない部分をあげるとすれば。

1. 機関銃

「奉天戦の際にはロシア軍の56挺に対し、日本軍は268門を所有していたというからロシア軍の約五倍の量である。日本軍は空冷式のホチキス機関砲(フランス製)を採用、一方ロシア軍は水冷式のマキシム機関銃(イギリス製)を採用していた。機関銃に関しては、日仏“同盟”、露英“同盟”になっていたのは面白い。」
日下公人・三野正洋 『組織の興亡 日本陸軍の教訓』ワック出版部(2000/05)

2. 下瀬火薬の威力

3. 36式無線電信機の開発

などが上げられるようです。


投稿: chichi | 2005/07/04 00:44

chichi様、コメントありがとうございます。
うわさによると、当時の世界中の機関銃が日露戦争に集結していたらしいですね。日本も買いあさったみたいですし。
まあ、最も優れていた?のは、上で書いた日本軍の捨て身の戦法だったような気がしますが・・・。

投稿: 彰の介 | 2005/07/04 08:29

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