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2005/07/30

日本人の歴史観の原点(7)

 前々回の批判テクニックを論破するでは、私の言うところの正当化史観の一部論法についてもちくりとさせていただきました。昨今の中韓の反日に対抗する形で花盛りとなっているこの正当化史観について、私の疑問点を述べたいと思います。
 
 正当化史観が花盛りとなった理由は、その気持ちよさ、心地よさからでしょう。そもそも日本人には、中国や朝鮮に対して、悪いことをしたという負い目の気持ちがあります。そのために、中韓に対して謝罪や金銭の援助が行われてきたわけですが、昨今の中韓の対日姿勢は、残念ながらこの負い目につけ込んだ行為があまりにも目立ちます。そして、日本人はこの負い目とつけ込み行為に葛藤するはめになるわけですが、そんな時、日本の過去の歴史に過ちはなかったという解釈があればこんなにスキッとすることはありません。日本の歴史に過ちがなければ、負い目がなくなり、つまりは、つけ込み行為の理由がなくなり、一方的につけ込んでいる中韓が悪いと言うことができます。どうもそんなもやもやを吹き飛ばしてくれるような歴史観、すなわち正当化史観が花盛りになったのだと考えられます。

 私は、正当化史観に関し、歴史の事実を振り返り、正しく解釈しようとしている部分があるため、全てを否定しているわけではありません。例えば、(1)で南京大虐殺のことを書いたのですが、この象徴的事件について、日本人として事実が知りたいと思うわけです。ところが、今までは事実を知ろうとする行為そのものが悪のような雰囲気がありました。反省一辺倒の歴史観からは、事実の確認すらできないどころか、事実無根の負い目を日本人に負わされ、つけ込み行為をさらにエスカレートされるはめになってしまうわけです。事実を見つめ直すこと、そういう意味での正当化史観は切り口としての威力が強く、当たり前だと思っていたことに“おやっ”と思わせる事ができる点に関して相当な力を持っていることを認めざるを得ません。

 しかし、残念なのは、正当化史観の目的が、歴史的事実を正しく解釈しようとすることではなく、日本の歴史の正当化にあることです。何のための正当化かと言えば、うっとうしい中韓に物を言わせないために、日本の負い目を取り除くための正当化でしょう。
 例えば、批判テクニックを論破するで書いたこともひとつです。日本が植民地支配をしたことに対して謝罪を繰り返していることとは反対に、ヨーロッパ列強が旧植民地国に対して謝罪を繰り返しているなんて話は聞いたことがありません。日本にはあれだけ怒っている中国には、つい最近までイギリスの植民地がありました。ところがイギリスと中国の間に「不幸の歴史云々・・」なんて会話は全くありませんし、うわさによるとイギリスの教科書にはアヘン戦争の記載がないと聞いたこともあります。こんな事実を突きつけて、「日本のどこが悪いんだ!」と言いたいようですが、こういう事実があったとしても、日本の正当化につながらないのは上記エントリーで書いたとおりです。これはただのイギリス批判と中国の偏った歴史観を言っているに過ぎず、日本も悪いと認めてしまっているだけのことです。

 他に、例えば朝鮮半島の併合について、正当化史観では次のような事実をあげています。
 朝鮮半島は日本がロシアと戦わなければ、結局ロシアの植民地にされていた可能性が高い。日露戦争後の朝鮮半島の併合は手続き上全く問題がなく、諸外国で反対した国はない。朝鮮側から併合してもらいたいと申し入れがあった。併合後、人口が併合前の3倍になった。すなわち前政権下の圧制から開放され、善政がしかれた証である。土地を強奪したかのように言われるが、日本人の土地となったのは高々数%である。言葉を日本語にしたり、名前を日本風にしたり、日本の宗教を押し付けたかのように言われるが、そもそも日本人と同格に扱うと言うことであり、他の列強による植民地支配での植民地国民の扱いとはくらぶべくもない。労働者の強制連行、強制的な従軍慰安婦など存在しない・・などなど・・・。

 私が言いたいのは、これらの事柄が事実か否かではありません。上で書いたように、これらのことが事実だとして、結論として何が言いたいかが問題です。結論、それは「日本の朝鮮半島の支配に関し、日本人は全く負い目を感じる必要はない」ということでしょう。さらに過激に「何も負い目を感じる必要がないのに、わざわざ自虐して謝罪を続けるようなことをするからつけ込まれるのだ、日本が悪いなんて言ってるやつは、反日的日本人、売国奴だ!」と主張するにいたっています。
 
 そんな正当化史観を唱える方に、私は1つ質問してみたいことがあります。
もし、日本が正当な手続きで朝鮮半島を併合したから、日本が朝鮮に善政したから、朝鮮人を日本人と同等に扱ったから、日本の歴史に問題はないというのであれば、もちろんその逆も受け入れるのですね?。
 架空の話ですが・・・、歴史の流れがちょっと狂って、日本が明治維新に大失敗し、列強の植民地にされてしまった。そして大韓民国は大改革に成功し、一気に列強と肩を並べるまでの力を得るに至った。そんな中、韓国軍が日本に進軍し、列強を追い払い、日本を正当な手続きで植民地化した。日本語は禁止され、韓国語が強制され、私の名前も「ぺ・ヨンジュン」に改名させられ、神社仏閣が取り壊された。列強の搾取とは全く違い、インフラが整備され、人口も増え、身分制度も崩壊し、江戸時代とはくらぶべくもない韓国支配による平等で豊かな生活を送ることができるようになった。韓国は白人支配から日本を開放したと主張した・・・。
 
 ・・・としたら、正当化史観の方は、韓国のしたことに、日本人として全く疑問を持たないということになりますね。韓国はいいことをしたのだから日本人として文句を言うことはないと・・・、いや~、その度量の広さにはすばらしいものがあると思います。
 しかし残念ながら、私にはそんな度量の広さはありません。私は誰がなんと言おうと、屁理屈を言おうと正真正銘の日本人です。もし過去の歴史が上のような歴史であったら、豊かになろうがなるまいが、正当であろうがなかろうが、私は日本人の誇りをめちゃくちゃにした韓国を絶対に許さないでしょう。いやむしろ正当化史観の方々のように、他国による日本の支配を認めるような日本人としての誇りを失った人々に「この反日野郎!売国奴!」と罵声を浴びせたに違いありません・・・。

 私は、上に書いた逆の歴史を全く受け入れることができませんので、日本人として過去の日本の行為を正当化することはできません。しかし、一つ一つの歴史的事実をすべて否定しているわけではないのです。日本が韓国にある意味で善政をしたのも事実でしょう。しかし、それと正当化は別問題ですし、韓国のつけ込み行為とも関係ありません。負い目の部分はやっぱり負い目であって、そこから目をそらすことはできないのではないでしょうか。実は戦後60年もたって、この負い目の部分の検証が行われていないのではないかと感じています。形ばかりの謝罪を行うことによって反省を見せかけることよりも、負い目をさらけ出して日本人として真の事実を知ることこそ大事であると感じます。その上で、その下地があって初めて日本の善政部分、中韓のでっち上げの検証、つけ込み行為への反論ができるのではないでしょうか。私はそう考えています。

 こんな私の考え方は全く受け入れられないという方も多いかもしれません。しかし、最後に1つだけ言いたいことがあります。昨今、主にこの正当化史観を唱える方々が、たやすく「反日的日本人」とか「売国奴」等という言葉を使うような気がします。しかも公的な場で、大学の教授や政治家、評論家といわれる学識の高い人までが当たり前のように使っています。しかし、私はいかなる理由があろうとも、言論上、あるいは思想上の問題で、同じ日本人をこのように呼ぶことはあってはならないと思っています。議論の方法としては、「お前の母ちゃん出べそ!」と同等のレベルですし、そうでなくても、日本人が日本人のことを否定する発言こそ、まさに「反日的」ではありませんか。うわべだけの罵り合いではなく、中身の議論をすればいいのです。汚い言葉を発することで、優越感にひたっている様子に、寂しさを感じ得ないと思ったまでです。

 ということで、本日も長々とお付き合いいただきありがとうございました。また、次回を期待せず、無駄にお待ちください。

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2005/07/27

ナゴヤキャッスルとNagoya Castle?

 名古屋人にはなんでもないことですが、他地方の方はよくわからないかもしれません。
 
 「尾張名古屋は城で持つ」なんて言いますが、名古屋にはしゃちほこがシンボルの名古屋城が再建されています。観光スポットになっていますから、もちろん日本人がタクシーに乗って「名古屋城に行って下さい」と言えば、この名古屋城に連れて行ってくれると思います。

 何を言い出したかといえば、本日TBSの「ぴったんこカンカン」っていう番組を見ていて、とんでもない間違いに気付いたからです。この番組で、安住アナウンサーと泉ピン子さんが名古屋のいろんな場所を回っていたのですが、途中、ゴージャス叶姉妹と合流しました。ここで、叶姉妹が「一年に一度名古屋でディナーショーをするんです。」といい、「どこでショーをするのですか?」と質問された時

名古屋キャッスルで・・」
と答えたのです。この時、この「名古屋キャッスルで」と言う時のテレビの字幕スーパーが、親切にもキャッスルを日本語に訳し、カッコつきで「名古屋キャッスルで(名古屋城で)」となってしまっていたのです。

 名古屋人の方は、「ふむふむ、あのことか」とお気付きの方もいると思うのですが、他地方の方は、上の話、何言ってるのか、何が言いたいのかさっぱりわからないかもしれません。実は、叶姉妹がディナーショーをしているのは、決して名古屋城なんかじゃありません。おそらく、ウェスティンナゴヤキャッスルという、ホテルのことと思われます。間違ってるかもしれませんが、俗に「キャッスルホテル」と言われているホテルです。TBSの方はそれを知らずにわざわざ名古屋城と訳してしまったようです。いくら叶姉妹がゴージャスとはいえ、名古屋城でディナーショーをするわけないし(笑)、もししたとしても、それは素直に「名古屋城でします」といちいち”キャッスル”なんて言わないでしょうね。

 何でこんなどうでもいいつまらない、あげあしとりをしたかというと、これ外人さんが絡むとどうなるのかな?とあほなことを考えてしまったからです。名古屋観光に来た外人さんがタクシーに乗ったとき、行き先を「Nagoya Castle」なんて言ったら、運転手さんは一体どっちへ連れて行くんでしょうかね。なんとなく運転手が他地方出身の新米だったら、名古屋城の正門の方に行っちゃうような気がしますが・・・。まあ、正確には城の方はNagoyajo Castleなのかもしれませんが、いずれにしても隣なので、まあいいか・・。あほな考察をしてしまいました。

 名古屋に行かれましたら、ぜひ隣の岐阜県にも足をお運びください。本日は、またしても無駄なお話にお付き合いいただきありがとうございました。

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2005/07/25

祝 ブログ開設一周年!!

 いやはや、なんと恐ろしいことに、我ブログ「彰の介の証言」が本日一周年を迎えました。
 
 まあ、とりあえず、「カンパ~イ!!」(ちなみに禁酒中)

 そんなことで、初々しい私の初エントリーはこんな感じでした。それから数えて、本記事で152回目のエントリーです。152って言うのが中途半端でいいですね。
 
 まあ、いろんなことがありましたね。当初はこの方のお陰でいろんな方と交流がもてました。残念ながらこの記事あたりから、優秀なブロガーさんたちが一人抜け二人抜け・・、以前ならトラックバックの嵐になる話題も、今や無関係トラックバックの山・・・。いや~、あの頃に戻りたいですね。同窓会でも開きますか?。
 
 今後は、8月15日に向けて、歴史観シリーズを書き上げたいと思っていますし、もう少し本業のやぶ医者に関連した、「黒い巨塔シリーズ」もちょこちょ書いていきたいと思っています。無駄論も無駄に、屁理屈も理屈っぽく、広いブログの片隅で、こそこそとがんばっていきたいと思います。

 とにもかくにも、ここまで続けることができたのは、皆様のお陰と感謝しております。以前の熱意が冷めたと思いきや、見上げれば時計は夜中の2時半を指しております。睡眠よりもブログの基本精神に立ち返り、更新にいそしみますので、皆様も無駄にお待ちいただけますよう今後ともよろしくお願い申し上げます。

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2005/07/24

批判テクニックを論破する

 他人を批判することは、より良い関係や向上を考えるうえで大事なことかも知れませんが、実は他人を批判することで自分の非を隠そうとするために行うこともあります。勘の良い方は私が何を言わんとしようとしているかだいたいめぼしがついているかもしれませんが、そんな方はこのブログの読みすぎです。

 例えば、駐車違反でおまわりさんに切符を切られたとき、ついついこう言いたくなります(岐阜弁で)。

こんなどーでもええことで罰金とって何がうれしいんや。スピード違反や飲酒運転しても捕まらんやつらがいっぱいおるやないか!。それに三億円事件やグリコ森永事件の犯人捕まえる方が先と違うんか?。(←ちょっと事件古いかも・・)
こうやって、おまわりさんが違反切符を切ったことに対して批判するわけですが、確かにこの岐阜県人の主張そのものに間違いは無く、一理あるようにも思われます。しかし、何の目的でこう批判したかが問題です。残念ながらこの岐阜県人は明らかに「駐車違反」を免罪するためにこの批判を行っています。つまり、駐車違反よりももっと罪の重い違反者が捕まっていないことを例に出して、自分の罪がいかに軽いかをアピールするわけです。そして、おまわりさんの行為自体が罪であるという印象を持たせるテクニックです。

  しかしこれは全く免罪になっていません。いやむしろ、自ら墓穴を掘る結果になってしまっています。このおまわりさんへの批判は、「スピード違反や飲酒運転ほどの大罪ではないけれど、私は駐車違反を犯しました」という罪を自ら認めた発言に他なりません。おまわりさんの態度をいくら批判しようとも(この批判がいくら正論であったとしても)、駐車違反の罪は決して消えません。小学生が100円の消しゴムを万引きして、「岐阜県人のやぶ医者の駐車違反見逃したくせに、こんな100円の万引きのどこが悪い!!」なんて言い出したら、どうしますか?。

 この種の話は、過去のコメントでも何度かさせていただいていますし、記事の中でも書いています(例えば木村さんへとか、報道不信の原点等です)。この「報道不信の原点」の中で、私はあの、オウム真理教のああ言えば上祐氏の発言を取り上げています。ワイドショウーの生番組で、オウム真理教の資金集めに対して批判を浴びた上裕氏は、「仏教だって戒名に何十万と金を取るじゃないか!」と居合わせたコメンテイター陣に言い放ったのです。仏教は許されて、オウム真理教はなぜ許されないか?と言いたかったようなのですが、まさにこれこそ墓穴発言です。自ら仏教の行為は悪いと発言しているのですから、同様に自分達の行為も悪いと宣言してしまったようなものです。自らの罪を隠すための批判はバレるとただの言い訳にすぎないので実にかっこ悪いものです。

 前回、日本人の歴史観の原点(6)では、正当化史観に対する問題提起をしてみました。この正当化史観もこの種のテクニックを多用しているような気がします。例えば、日本が朝鮮半島や中国の一部を日本領として併合したことに関して、中韓では歴史教科書の多くのページを割いて日本批判をしています。これに対して、こんな切り返しをしている人たちがいます。

「当時ヨーロッパ列強はこぞって世界各地を植民地化していたじゃないか。日本だけが非難されるのはおかしい!」
正当化史観の方はこう言って日本の行為を正当化したいようなのですが、残念ながら、「ヨーロッパ列強が悪いのと同様、日本も悪い」と自ら認めていることになり、日本の正当化にはなりません。またヨーロッパ列強が非難されないのに、日本のみが非難されることは問題かもしれませんが、日本人から見れば、それはただの”やっかみ”であって、日本の行為の正当化とは全くの別問題です。

 しかし、正当化史観ではそもそも日本による中国や朝鮮半島の併合その他の行為は、当時の世界常識から言って問題なかったという主張によって日本を正当化しています。私も例えば韓国併合の手続きに関して何か問題があったかといわれれば、何も問題はなかったという認識です。しかし、手続きと正当化は別問題であり、このあたりもある種のテクニックが使われているような気がします。次回このあたりの疑問点をぶつけたいと思っています。

 本日も私の屁理屈にお付き合いいただきありがとうございました。

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2005/07/22

日本人の歴史観の原点(6)

 左手に自虐的史観があるとすれば、右手には正当化史観があります。今までの歴史観シリーズ((1) (2) (3) (4) (5)において、この歴史観についての混乱があったかもしれないので、私なりにまとめ、今後の展望の考察をしたいと思っています。
 
 自虐的史観は正式な?用語ですが、正当化史観というのは私のオリジナル用語です。程度の差はありますが、主に右の方は、日本の歩んだ道が誤っていたという自虐に対して、決して誤っていないという歴史事実と解釈および、他国の非を述べて、日本の歴史を正当化します。 
 これら歴史観に関して、よく言えば、自虐的史観は「反省と謝罪」、正当化史観は「真実の認知」ということになるでしょうか。悪く言えば、自虐的史観は「謝りっぱなしで、言われっぱなし、やられっぱなし」、正当化史観は「おまえだって悪者だ!だからおれは良いもんだ!・・・??」って感じでしょうか。これらの歴史観は基本的に日本から見た対外的な歴史観になると思います。
 
 私は今までの歴史観シリーズで、最初に南京大虐殺における自虐・正当化両面からの考察をしました。これは対外的な歴史観だと思いますが、その後は基本的に国内的な歴史観について考えました。つまり、日本における日本国民の歴史観です。この国内的な歴史観においても自虐的史観と正当化史観があり、密接に対外的な歴史観とつながっています。
 自虐的史観について極端に言えば、日本が対外的に誤った戦争をしたという認識ですから、戦争で国民自身が犠牲になったのもやむを得ずという史観ですし、正当化史観について極端に言えば、対外的な戦争について日本に責任も誤りもなかったという主張ですから、当然ながらそれに伴って死んだ国民への責任論などないことになります。

 私の主張は、国内的な自虐・正当化両歴史観において、責任者の責任論が欠如しているということです。誤った戦争であったとしても、誤っていないやむをえない戦争であったとしても、自爆攻撃や、原爆落とされるまで戦争をやめなかったために犠牲になった国民がいることや、多大な犠牲者を出した結果が敗戦であったということに関して、戦争遂行の責任者の責任を認識しなくてはならないと考えたのです。

 なぜ責任論を持ち出したのか?といえば、昨今の中韓による反日行動に対する日本国内の反応からです。自虐的史観は、確かに中韓に対しむしろ誤った歴史観を植えつけてしまった可能性があります。そこで、日本において、左手に偏ってしまった歴史観から、正しい歴史観とは何かの論議が持ち上がるかと思いきや、残念ながら真ん中を通り超えて、正当化史観が花盛りとなってしまいました。正当化史観を唱える方は、当然、「正当化」ではなく、「正しい歴史観だ!」と反論されると思いますが、私が言いたいのは、その目的が残念ながら「中韓に言われたから言い返す」ための根拠としての歴史観であり、その目的がゆえに結果的に「正当化」になってしまっているということです。

 中韓に言われたから言い返すための「正当化」は、当然の結果として、かの戦争の正当化になり、かの戦争での犠牲者の無視につながっています。極論すれば、正当な戦争を行ったのですから、確かに、中国や韓国やアメリカにどれほどの犠牲者が出ても知ったことではないかもしれません。しかし、日本人が、日本国民の犠牲者を無視してもいいのでしょうか。数百万人の日本人犠牲者が出た戦争を日本人として正当化することができるのでしょうか。要するに私は、正当化史観の1つの矛盾点を責任論で問題提起したかった、1つの切り口として考えたかったということなのです。

 しかし知ったことではないといいつつも実際には、国内的なことだけでなく、対外的な部分においても、正当化史観には問題があると考えています。具体的にはいつものように今後記事にしていこうと思っていますが(いつになるやら?)、ひとつだけ言っておきましょう。中韓がいかに自国に都合のいい歴史観を持ち、歴史教育を行っているかを憂いている方も多いと思いますが、正当化史観の一側面も、これと全く同じことをしようとしているということを認識するべきではないでしょうか。

 久々に難解な文を書き上げました。今後もこういうのがお好きな方はお付き合いください。・・・誰もいないかも・・・。

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2005/07/16

やぶ医者とボケ医者

 最近こんな医療訴訟ネタが出ていました(宇治川病院医療事故、2億5千万円賠償命じる 京都地裁)。
 なんと、民事裁判で病院側に2億5千万円もの損害賠償が命じられ、その訴訟に関わった医師も、刑事裁判の方で一年の実刑判決(控訴中)が出ているようです。

 その医療訴訟事件なんですが、上のリンクのインターネットの記事しか見ておりませんので、細かいところが間違っているかもしれませんが、まとめると次のような話です。
 ある少女が蕁麻疹でその病院にかかりました。そこで今回実刑判決をうけている医師が、この少女に「塩化カルシウム,Ca」の投与をするように看護師に命じたようですが、この看護師が誤って「塩化カリウム,K」を静脈注射してしまったようです。このため、この少女が心配停止状態になってしまい、低酸素脳症になってしまったということらしいのです。
 
 塩化カリウムというのは、極めて危険な薬物です。人間の体は、ナトリウムやカリウムの濃度が常に一定になるように調節されていますが、高濃度のカリウムがいっきに血液に入り、心臓に達すると、心臓は瞬時に止まってしまいます。したがって、カリウムが体に不足している人などにカリウム製剤を投与するときは、必ず大きな点滴に溶かして薄めた上で、ゆっくり投与するのが常識です。したがって、この看護師の「カルシウム,Ca」と「カリウム,K」を取り違えるというミスはとてもミスで許されるものではありません。
 ただ、問題は指示を出した医師に責任があるのかどうかですが、その記事を読むと、「投与の際、立ち会わず、その観察の義務を怠った」ということで、責任があるとされたようです。しかし、現役のやぶ医者である私からすれば、問題の本質は別にあり、立会い云々が問題だとは思われません。

 私がこの記事を読んで最初に感じた疑問であり、実は問題の本質なのではないかと感じていることは(記事に少しだけ書いてありますが)、「なぜこの医師が蕁麻疹の患者に塩化カルシウムの投与をしようと思ったか?」です。実は蕁麻疹に塩化カルシウムを打ったからって全く効き目はありません。つまり、こんな指示を何で出したのか全く意味不明なのです。推測でものを言ってしまいますが、私の勘が確かなら、この医師は、まともな判断能力を持ち合わせない「ボケ医者」に違いありません。すなわち、もうすでに医師としての能力を喪失している可能性があるのです。つまり、カルシウムとカリウムを間違えたというのも問題なのですが、そんな医師が働いている現実にこそ問題があると言いたいのです。 

 医師を料理人にたとえてみると、やぶ医者というのはまずい料理を出す料理人というところでしょうか。もちろんまずいにも程度があり、あんみつに大量の塩をかけてお客に出すレベルが「ボケ医者」レベルにあたると考えられます。もうやってることがおかしいですから、料理人の世界であれば手を引いていただくのが当然でしょうし、食べなきゃいいのですからそれほどの問題ではないかもしれませんが、生命を預かる医者の世界には意外に多く生息しているのが大問題なのです。今回詳しくは書きませんが、その問題性についてはおいおい機会があれば書いていこうと思っています。

 残念ながら、この医師に懲役1年お勤めしていただいたところで何も解決にはなりません。もっと早くに医師を辞めていただいていれば、そもそも問題にもならなかったのです。ただ、こんな明白なことですら、同業の身で、こうして意見することに相当な勇気が必要なことも付け加えておきます。といいつつ、今後ちびりちびりと、このあたりの問題をばらしていこうと考えている一やぶ医者の私でした。ということで、「黒い巨塔シリーズ」の始まりです。いつものことながら今回だけかもしれませんが・・・。

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2005/07/10

やっぱり Made in Japan !

 経済発展著しい中国は、違法なコピー商品で溢れているそうです。日本製品や日本のキャラクターグッズなんかは格好の標的のようで、日本企業も頭を悩ましているようです。もちろん、中国製=コピー商品ばかりではありませんし、日本での中国製品の浸透度は大変なものがあります。made in China の商品をなくしてしまったら、明日から着る物どころか、パンツもはけません。
 
 実は先日テレビを見てたら、この中国の違法コピー商品の特集をやっていました。その中で、日本が誇るアニメキャラクターというか、我々の世代の精神の支柱たる?「ガンダム」のコピープラモデルが紹介されていました。本家のバンダイの方が嘆いて言うには、「この中国製の偽ガンダムのプラモデルは、組み立てても組みあがらないのです・・・。涙・・・。」いやはや、偽物とは言っても、プラモデルとして組み立てるくらいのことはできるかと思ったのですが、それすらもできないのですから、本家のバンダイとして、ただまねされたというだけではなく、そのイメージダウンは計り知れないものがあるでしょう。

 ところで本日、久しぶりに若年寄から少年の日に戻り、組み立てずに置いてあったガンダムのプラモデルを組み立てました。DSC00494_0
 (↑画像をクリックすると大きくなります)
 ガンダムといっても、正規のかっこいいやつじゃなくて、子供向きの(8歳以上用)へしゃけた形のかわいいガンダム(SDガンダム)です。接着剤は使わなくても部品どうしを組み合わせて簡単に組み立てられるようになっています。
 が、しかし、決して侮ってはいけません。関節が細かく動くようにできているので、ビームライフルや、盾の角度なんかを好きな格好にさせることができますし、完成品には寸分のずれもありません。また、接着剤を使わずに、あなっぽこに、でっぱりをはめ込んで組み立てるのですが、これよーく考えてみたら、部品にほんの0.何ミリの狂いがあったら組みあがらないことに気が付きました。確かに違法コピーのように、いい加減に作られた商品が組みあがらないのも、こういう正規の商品を作ってみると納得という感じです。

 こういった子供向けのおもちゃというのも、現在中国製がほとんどなのではないのでしょうか。そして、私は、このプラモデルを組み立て終わるまで、この商品自体中国製と思い込んでいました。何しろ、プラスチック製で値段は高々300円ほど。こんな商品で、今時中国製ではないものを探す方が大変でしょう。実を言えば、「中国だって、違法コピーなんかしなくたって、ちゃんとこういう商品が出来るじゃないの」って思ってたんですが、パッケージを見てびっくりしました。ちゃんと「made in Japan」って書いてあるではないですか。正直、この手の商品では、久しぶりにJapanの文字を見たような気がします。そして、私がこの小さなプラモデルで感じた実に細やかな完成度というのは、日本でしか作れず中国では作れない、ということを改めて実感させられました。そしてその技術力に、そしてmade in Japan に強い誇りを持つことができました。

 しかし、遅かれ早かれ、日本でしかできない技術も中国に追いつかれてしまうのでしょうか。今、こんな地味な技術は忘れ去られつつあるのではないかと思うのですが、もう一度国を挙げて産業の根幹を成す地味な技術の発展を考えてもらいたいものです。そうでないと、ちまたに組みあがらないプラモデルが溢れるような事態になりそうですから・・・・。
 ちなみに蛇足ですが、花火も今やほとんどが中国製です。私は「ねずみ花火」が大好きなのですが、昔に比べて、その質の悪さにはがっかりさせられています。どなたか良質なねずみ花火をご存知ありませんか。ちなみに昔のねずみ花火が日本製であったのかどうかはわかりません。中国国内でも大量輸出の時代で、職人技が相対的に消えてしまっているのかもしれませんが・・・。

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2005/07/07

安いからって、ちょっと待ち~や!

 久しぶりに、私の本業の屁理屈の種を発見してしまいました。
本日のニュースに「サイトに10分の1の値段、ベスト電器に注文殺到」ってのがありました。家電量販大手の「ベスト電器」が、Yahooショッピング上で、液晶テレビの値段を15万3000円(税込み)だったのに1万5300円とに掲示しちゃったらしいんですね。
 これがまた、めざとく見つける人もいるもので、10時間の間に、6400件(4万816台)の申し込みが殺到したというのです。一件につき6~7台近くも注文している計算になりますから、ただの素人だけが注文したわけではないようですし、ミスを知っててあくどく注文した方もいるんでしょうが、まあそれはさておき、このさっと見つけてさっと注文するこの俊敏さに関しては、行動力のかけらもない私にとって、まさに脱帽です。

 さて、ここから私の屁理屈を始めようと思います。
 確かに注文した方々の機敏さには脱帽なのですが、ちょっと待ってください。世の中、「うまい話には気をつけろ」と言うではないですか。15万円もするテレビが1万5千円ですよ。ここで、「何かがあるに違いない」と考えた人は一体どの位いるのでしょうか。
 私だったら、この安さを見れば、液晶テレビの置物に違いないとか、倒産寸前の金集め逃げに違いないとか、なんかかんかを考えちゃいますね。もう一度本当に「Yahooのサイトの、ベスト電器」かどうかも確認するでしょう。よ~く見たら「YaFoo! Nipponのペスト電池」かもしれませんよ。

 明らかに安すぎる価格に対して、少し位怪しいと感じなければ、このせちがらい世の中生きていきません。注文殺到というのは危険信号です。確かに信用できるサイトの信用できる会社が出展している商品だから、問題ないということは言えるかもしれませんが、現実にベスト電器には、液晶テレビを買いたいと思っている人の個人情報名簿が6400人分手に入ったともいえるのですから、やっぱり世の中そんなに甘くないかも・・・なんて考えてる私はただの屁理屈ほざく若年寄なんでしょうか・・・・。

 その昔、セキュリティー(そんな大それたものではないのですが)に関して、世の中信用しなさすぎか?という記事を書いたことがあります。私は悪徳には絶対引っかからないと自負しているのですが、やっぱりそんな自分が一番危ないのかもしれません。「ただより高いものは無い」とも言います。皆様、くれぐれもお気をつけ下さい。
 
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2005/07/05

日本人の歴史観の原点(5)

 日本人の歴史観の原点として、 (1) (2) (3) (4)および、おまけで無駄論的二百三高地と話を続けてきました。(4)では、敗戦したことおよび、国民が何百万人も死んだことへの責任をA級戦犯に取ってもらわないといけないのでは?ということを書いたのですが、今回はもう少し具体的な、ある意味、極めて単純な私の疑問というのを呈してみたいと思います。

 かの戦争において、日本が劣勢になり始めると、日本軍は極めて人命軽視の作戦を取り始めました。その象徴的な作戦の1つに「神風特別攻撃隊」があります。神風特別攻撃隊については、改めて解説もいらないと思いますが、要するに自爆攻撃であり、出撃は基本的に死を意味するということはいうまでもありません。私はこの神風特別攻撃隊という作戦に関し、大いに疑問を持っています。もちろん、その人命軽視の側面に関しては言うまでもありませんが、仮にこの人命軽視の部分を取り除いても、この作戦は疑問だらけなのです。
 
 一体何が疑問なのかといえば、この自爆攻撃が、「作戦としての体」をなしているのかという疑問です。確かに相手にしてみれば、命を恐れず突撃してくる日本の戦法に対し、震え上がったことは間違いないでしょう。しかし、この攻撃法には、作戦上明らかな欠陥があります。それは、出撃したら間違いなく航空機1機とパイロット1人以上を失ってしまうということです。極めて単純な話として、当時日本は資源小国だったはずです。そんな手持ちの少ない資源の中から、あるいは国民から身包みはがして徴収した金属などから作り上げた貴重な航空機を、たやすく海の藻屑にしてしまうこんなばかげた作戦はありません。これは、ますます資源小国の弱点が露呈してくるにすぎません。
 また、戦争中盤から終盤にかけて、日本が劣勢になっていった1つの原因に、優秀なパイロットを失ってしまったことがあげられるでしょう。当然、素人を連れてきて、明日からパイロットなれって言ったって、簡単に飛行機の操縦ができるはずもありません。それなりに訓練をつんで、やっと操縦ができるようになった人たちを、あっという間にこちらも海の藻屑にしてしまったら、その後の戦いが全くできなくなってしまうのはあまりにも明白です。

 私の考えでは、当時の国力を考え、当時の劣勢だった戦況を何とか挽回しようと本当に真剣に考えていたとするならば、「神風特別攻撃隊」なんていう作戦は上に書いた理由から、人命軽視の部分を考えなくとも、全くナンセンスだと思うのです。しかも、作戦を実行したからには、その損害と戦果とを十分に評価しなければなりませんが、おそらく戦果といえるようなものはほとんどなかったでしょう。仮にあったとしても、当時のアメリカ軍の戦力からすれば、焼け石に水だったに違いありません。そんな無駄な浪費作戦が、終戦まで続けられていたことを考えると、パイロットがどんどん命を落としていっているにもかかわらず、その作戦結果の評価は全くされていなかったのではないのでしょうか。一体これがまともな作戦だったといえるのでしょうか?。

 私はこの特攻作戦に関しては、全く作戦の体をなしていないと考えており、なぜこんな無駄な作戦が実行されたのか、その立案者の責任を問う必要があると考えているのですが、何故か戦後現在に至るまで、この「神風特別攻撃隊」というと、この攻撃隊に志願したパイロットの皆さんの悲劇としてしか評価がされず、この作戦を立案し、特攻を命じた人たちの評価は全くされてきませんでした。私は、こんな作戦を立案したのはとても玄人の軍人とは思えませんし、しかも、命を犠牲に日本を守れと命じておきながら、戦況を回復するに至らず、結局敗戦となったのですから、その非人道的人命軽視の作戦立案の責任は本来戦後追及されて当然だったと思っています。
 
 しかし、特攻隊の生き残りの人たちの話をテレビや本でみてみると、「自分だけ生き残って申し訳ない」とか「死にぞこない」と、作戦を非難するどころか、むしろ自分が生きていることを否定してしまい、自らを卑下してしまっている人たちが多いように思います。また、死を命じられたことに関しても、「当時はお国のために死ねと教育されていた、それが当たり前だった」として、その洗脳的教育の存在を肯定しつつも、洗脳されていた自分を認めるにとどまり、洗脳的教育そのものの批判や、その作戦自体の批判にはほとんど至りません。
 
 その理由の1つとして、日本人の心の中に、「人命軽視の作戦」=「自らの命を捨てて戦う神聖な作戦」と考える本能を持ち合わせていることがあげられるかもしれません。これを武士道というのか?サムライ魂というのか?わかりませんが、日本人の心に深く焼きついてしまっていた?いや、いまでも焼きついている?考え方なのでしょう。作戦を立案した人たちも、それが作戦としていかにおかしなものであったとしても、「命をかけた特攻作戦」が最も神聖でこれ以上の作戦はありえないと漠然と考えていたに違いありませんし、それを命じられたほうも、自分の命と、この神聖な作戦との間に、相当な葛藤があったに違いありません(特攻隊の方に対して軽々しい言い方でご批判があるかもしれません、申し訳ありません)。しかし、そんな本能が焼きついているからといって、この作戦を立案した人たちに対する責任論は、あまりにも甘すぎるかもしれません。どちらかというとこの作戦の立案自体は、確信犯的にただ責任の先延しをしたに過ぎなかったというのが私の見解ですが、それはまたあるかないかわからない(6)の方で、述べたいと思っています。

 私は、いわゆるA級戦犯の方々の責任について、前回、「敗戦」及び「数百万人という日本国民の死」に対する責任はあるだろうということを述べたわけです。具体論として今回、象徴的に、神風特別攻撃隊をあげたのですが、かの戦争において、兵隊さんにしろ、民間人にしろ、この人命軽視の考え方から死に至った国民が実に多いと思います。そして、この「人命軽視の作戦」=「神聖な作戦」というとんでもない勘違いが、責任者の責任論をあやふやにし、自虐的に国民の側の責任と考えてしまう「日本人の歴史観の原点」の1つに違いないと考えています。この人命軽視の作戦や考え方について、死を強制された側からのみ、その悲劇性を訴えることは、かえってそれを命じた方々の責任論を覆い隠してしまうということを再認識し、今一度、あやふやになってしまっている責任論を考え直す必要があるのではないでしょうか。

 本日も素人臭い私の文章にお付き合いいただきありがとうございました。

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2005/07/02

まさか、老人をくいもの?

 最近、悪徳リフォーム業者による、独居老人や認知症老人宅への詐欺まがい(じゃなくて普通の詐欺か・・)のリフォームが問題になっています。テレビなんかでその業者のやったことを見てみると、そりゃひどいもんですね。意味のない湿気とりの換気扇が置いてあるだけとか、補強剤がものすごい数置いてあるだけとか、人をだましてお金をふんだくることに何の抵抗感もないんでしょうかね。ああいうやつらこそ、とっつかまえて、市中引き回しの上、沖ノ鳥島に遠島でも申し付けてやればいいと思うんですが、今回は悪徳リフォームからちっと離れて別のある体験話を・・・。

 正直、大きな声で言うとやばいかもしれないと思いましたが、事実ですから、見たままの状況を小さな声でお話したいと思います。小さな声ですけど、皆さん聞こえますか?。聞こえますね・・。
 
 それは、数年前、私がとある田舎町でやぶ医者をしていたときの事なんですが、バイトでとある開業医さんの訪問診療のお手伝いをしていました。その患者さんの一人に独居老人がいたのですが、確か90過ぎのおばあさんだったと思います。認知症というわけではありませんでしたが、その年齢なりの思考と申しましょうか、なんと申しましょうか、まあ、いわゆるしゃきしゃきのおばあさんとは言い難い老人だったと思います。
 そのおばあさん宅なのですが、家に入ると、立派な天理教(だそうです)の祭壇があるんですね。いや別に、個人がどんな宗教宗派であっても何の問題もありません。ちなみに私は浄土真宗ですし・・・。でも、でもですよ、そのおばあさんが読んでる新聞は、明らかに聖教新聞なんです。うむ?、むむむ?、これってあり?と思っていたら、このおばあさん、な、なんと赤旗新聞までとって読んでるじゃないですか・・・・。むむむむむ・・・。

 推測でものを言ってはいけませんので、このおばあさんが宗教宗派もイデオロギーも超えて、幅広い知識や考え方を得ようとしつつ、自らの信心を貫いていると信じたいと思います。
 ちなみに、中日ファンの私は、読売新聞や報知新聞を買ってまでは読みませんけどね・・・・。おばあさんに習って、広い心を持とうかな・・。

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