私は良く知りませんでしたが、最近というか昔からというか、「広島・過ち問題」というのがあるようです。
つい最近のニュースでこんなのがありました(「過ちは…」の原爆慰霊碑削られる 広島、男が出頭)。広島平和記念公園内にある原爆死没者慰霊碑の碑文に、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という文字が刻まれているそうですが、この「過ち」というところを、右翼団体構成員が数ヶ所傷つけたんだとか。過ちというのが、まるで日本人が悪いみたいで気に入らないということらしいのですが、何もこれが最初の出来事ではなく、この過ち問題というのは随分昔からあったようです。
原爆が日本に投下されたことに関して、いろんな議論があります。原爆はその破壊力から、特に兵器の中でも非人道的であり、人類滅亡につながる最悪の発明という印象があります。印象があるというか、実際その通りでしょう。そしてこの兵器が最初に使用されたのが日本の広島であり、投下したのはアメリカでした。
「過ち」という文言の何が問題かと言えば、こんな非人道的な兵器をアメリカが使ったのに、まるで投下された日本が過ちを犯したみたいだということでしょう。まあ、確かにこの碑文をさらっと読めば、そんな解釈になるでしょうか。
しかしこの「過ち」と言う文言がけしからんという方々は、原爆を投下したアメリカ批判だけをする方は意外に少なく、いったい日本がどんな過ちを犯したのかという話になると、「中国やアジアへ侵略戦争したから、アメリカに戦争を仕掛けたから、その代償として原爆が落とされた、と言いたいのか!」といってお怒りの方が多く、「日本は侵略戦争はしていないし、自衛戦争だった」という歴史観から「過ちなんぞ犯していない」という論理立てをされています。さらに一歩進んで、まさにこの「過ち」という言葉が、自虐史観そのものだと言って、自虐史観批判をされるんですね。まあ、要するに、こういう方々は、私の大好きな「正当化史観」だと言いたいわけですが、そこまでの拡大解釈は、本来の批判からは随分視点がずれてしまっているような気がします。
確かに「過ちは繰り返しません」という文言は、自己反省(この碑文を作った日本人自身の自己反省)的な響きが強いのは事実です。そこで、この表現が正しいか正しくないか?、また、侵略戦争か、自衛戦争かの問題はおいておいて、日本として広島長崎の悲劇に関し反省する点が本当にないのかどうかについて、私の意見を述べたいと思います。
私は、歴史観シリーズの中で、当時の指導者の戦争責任について考えてきました。そして、大きな問題として、敗色濃厚となってから、延々と戦争をやめようとしなかったことで、極めて無駄な多くの命が失われていったと考えています。もちろん、その犠牲者の中に、広島長崎の原爆被害者も入るわけです。
当時の日本のスローガンの1つに「一億玉砕」というのがあるわけですが、もし、当時の指導者の戦争遂行に問題がないというのであれば、もし一億玉砕というスローガンが正しいというのであれば、所詮広島長崎で死んだ人など、一億分の十数万に過ぎないではありませんか。
私は、正直、なんで”原爆が落とされるまで”当時の指導者が戦争を継続したのか全く理解できません。戦後の日本の繁栄を考えれば、原爆が落とされる前に降伏すれば、広島長崎の十数万の人が死ななくて済んだだけの話です。もっといえば、米軍が沖縄に上陸する前に降伏していれば、沖縄の悲劇も起きなかっただけのことです。沖縄で悲劇が起きたから、日本にとっての敗戦のメリットがあったとはとても思えません。
この戦争継続の理由を、私は「当時の指導者が、敗戦の責任を取りたくなかっただけ」だと考えています。戦争をやめた瞬間に敗戦責任が生じます。戦争を継続する限り、「一億玉砕」と言いつづける限り責任論は生じません。要するに究極の「問題先送り」をしていたのではないでしょうか。
このことは、日本人として、広島長崎の悲劇を生んだ「過ち」の1つとして考えていいのではないでしょうか。
ただ、上のように書くと、日本の指導者がどうであろうと、原爆を投下したのはアメリカであって、アメリカが原爆さえ落とさなければ、広島長崎の悲劇はなかったといわれる方がいると思います。確かに、原爆の悲劇だけに絞ればそういうことになります。私自身、日本が戦争をやめなかったから、アメリカが原爆を落としても当然などと、アメリカの行為を正当化するつもりはまったくもってありません。しかし、逆に、アメリカが原爆を落としたからといって、私の指摘した当時の指導者の問題点が許されるわけでもありません。むしろ、散々戦争を引き伸ばした挙句、原爆を落としたら日本が降伏したのですから、アメリカの言う「戦争を早く終結させた効果があり、原爆投下は正当化される」という屁理屈に、残念ながら日本として反論しづらいものがあります。
確かに、アメリカの「戦争、原爆の正当化」には、日本人として腹立たしいものがあり、当然非難していくべき問題だと思います。しかし、アメリカ批判をすることは、ともすると日本人としての問題点を覆い隠す結果になってしまうのです。いやむしろ、日本の問題点を取り上げたくないために表向きアメリカ批判をするという論法になっていることが実は多く、そんな論法で日本人自身が日本人に対して犯した過ちを忘れ去っていくことに問題を感じます。
また別の視点として、戦後60年も経ち、今更責任論を蒸し返す必要もないとお考えの方もいるかもしれません。私も半分(四分の一位か?)そういう考えも持っており、日本側も、アメリカ側も、責任論で語るのでなく、過去の歴史的事実として、この原爆投下をとらえ、全世界的誓いとして「二度と過ちを犯さない」と決意することは(アメリカはそんなこと考えてないでしょうが、最低日本としては)決して間違ったことではないような気がしますがいかかでしょうか。
もう1つ、言いたいことがあります。それはこの構図が日本と中国、日本と韓国の構図とそっくりということです。中国南京市では、南京大虐殺記念館なるものがあり、これが広島の原爆ドームをまねたいのか、世界遺産への登録の動きまであるようです。南京大虐殺がでっち上げという話もあり、広島長崎は完全な事実ですから、それをいちがいに比べることはできません。
しかし、何のための南京大虐殺記念館かといえば、それは日本への憎しみを代々伝えて、日本を悪とすることで、中国を正当化をするための施設です。これと同じことを日本でもしますか?。つまり、広島長崎を、アメリカを悪ということを強調することで、日本を正当化するための象徴としますか?。私は本当の経緯は知りませんが、広島の原爆ドームが、決して憎しみを伝えていくための象徴ではないからこそ、世界遺産に登録されたのだと思っています。これを日本人としての自虐というのなら、ぜひとも同様の発想である中国南京市の南京大虐殺記念館も認めてあげてください。
私は、過去の日本が正しいか正しくないかの議論ではなく、正しいということを前提とした(あるいは正しいと言いたいがための)議論の中で、広島長崎の犠牲者の方々を利用していることに問題を感じているだけなのです。
本日もかなりの空回り文章ですが、ここまで読み進めていただきありがとうございました。
8月15日を目標にこの歴史観シリーズを書いてきましたが、そろそろその期日です。このブログもそれで消滅?・・・・か?。
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