無駄論的小説的真実(2)
「事実は小説よりも奇なり」というのをキーワードに、前回無駄論的小説的真実では、中国古典の世界から蘇秦と衛青について書いてみました。小説的だから空想上の人物なのか、それとも小説的だからこそ実在の人物なのかという、あまりにも無意味な、いかにも無駄論らしい考察をしてみました。
日本の戦国時代で、空想上の人物なのではないかといわれているのが武田信玄の軍師「山本勘助」です。その名前はあまりにも有名で、武田信玄を題材にした映画、ドラマで彼が出てこないなんてことは考えられません。もちろん、ゲーム信長の野望でも、知略の高い人物として当然のように出てきます。また映画「風林火山」は、三船敏郎扮する山本勘助が主人公のお話でした。
この山本勘助は、同じく武田家の家臣である高坂弾正が書いたとされる「甲陽軍鑑」で紹介されているようです。この山本勘助、姿はあまりにも醜く、片目はつぶれ、指も不自由、片足を引きずっていたという、いかにもダメ男そうな人間で、その容姿のために、今川家では仕官できなかったようです。しかし、姿かたちにとらわれず、その実力(おそらく兵法や築城術と思われます)を見抜いた武田信玄によって破格の扱いで武田家の家臣に取り立てられたというのですが、まあ、正直、極めて小説的なお話です。
山本勘助といえば、最も有名なのが、第四回川中島の合戦における「きつつき戦法」の進言でしょう。これは、武田軍を二手に分け、別働隊で上杉軍を背後から襲い、上杉軍が押し出されて出てきたところを本隊で挟み撃ちしようという作戦です。ところが、完全に上杉軍に見破られ、武田本隊が猛攻を受けるはめになります。武田軍は、信玄の弟信繁が討死、信玄も上杉謙信本人に切りつけられ、軍配で払ったという伝説が残るほどに(嘘だとは思いますが)大激戦となりました(日本史上最も戦死率が高い戦いだったとも言われています)。この戦いのさなか、この作戦を進言し、大失敗となった事を責めた山本勘助も奮戦、討死し、その生涯を終えたと言われています。
山本勘助が空想上の人物、すなわち甲陽軍鑑が作り出した人物とされているのは、その記述があまりに小説的であるからではありません。彼のその武田家のポジションに反して、彼に関する歴史的資料がほとんどないからだそうです。一応、彼の名前の入った文書が見つかったため、「山本勘助」という人物が実在したことは証明されているようですが、甲陽軍鑑に記されている「軍師山本勘助」が実在したかは、今でも怪しいと考える研究者が多いようです。史実にうるさいNHKは(最近意外にそうでもありませんが)、大河ドラマ「武田信玄」の中で、このきつつき戦法の提案者を、山本勘助ではなく、馬場信春とし、どちらかというと山本勘助を影で動く人物のように描いていたと思います。
しかし、もし、山本勘助が実在の人物でなかったとしたら、この武田家を伝える「甲陽軍鑑」が、なぜこのような小説的人物を登場させなければならなかったのかという疑問が残ります。甲陽軍鑑の作者は諸説あるようですが、仮に最も有力な高坂弾正だとすれば、それこそリアルタイムにこの戦国時代を生きた人ですから、敢えて小説を書く理由が全くわかりません。しかも、わざわざ実在した人物の名前を使ってスーパースターに仕立て上げる必要はないでしょう。だからといって、実在したという証拠にもなりませんが、結局のところ、この実在の人物か、空想の人物かの検証は、今となっては非常に困難だと考えられます。と言いつつも、歴史マニアの私としては、こういういかにも怪しげな人物が本当に実在したというような、驚くような史料が発見されることを望むばかりです。
さて、私が、日本の戦国時代で、もう一人非常に不思議な存在と考えているのが、豊臣秀吉の弟、「豊臣秀長」です。こちらの方は、歴史的史料がたっぷり存在しているそうですから、間違いなく実在した人物であることは疑いの余地もありません。しかし、私の言う不思議さというのは、天下人秀吉の弟でありながら、そして、紀伊大和百万石の大名となった人物でありながら、後世、その存在感があまりに薄いことにあります。彼の歴史的ポジションに比べると、その存在感の薄さは尋常ではありません。この人物、ちょっとした歴史マニアでないとその存在を全く知らないのではないでしょうか。
この豊臣秀長を世に知らしめた人といえば、小説「豊臣秀長」を書いた堺屋太一氏でしょう。元経済企画庁長官の小説家堺屋氏は、この豊臣秀長という人物を絶賛しています。そのことを「彼が死んでから、豊臣家にとって何一つとしていいことは起きなかった」と表現しています。彼は秀吉より前の1591年に亡くなっていますが、それ以後確かに秀吉はたがが外れたように老害を出し、朝鮮出兵、関白豊臣秀次切腹(彼の関係者皆殺し)、豊臣家の内部分裂(尾張派と近江派)とつながり、その死後、関が原の合戦で徳川家康に実権を奪われ、そして大阪の陣での豊臣家の滅亡へと進んでいます。無論秀長が生きていたからといって、この歴史の流れを本当に止められたかは確認のしようもありません。堺屋氏は「補佐役」というキーワードを使って彼を秀吉の影に生きた人物とし、その存在感の薄さは、彼自身が彼自身の歴史の足跡を消し去ったというような表現でまとめています。
自ら補佐役に徹し、その存在すら自ら消し去ったという表現は、これまたいかにも小説らしく、実にかっこいいものですが、しかし、単純に考えて、この存在感の薄さから、彼に関しては「無能説」も絶えません。確かに彼の実績をあげれば輝かしいものばかりかもしれませんが、しかし、それは秀吉の弟というとんでもなくラッキーな立場だからこそであって、その凡庸さが彼の存在を簡単に忘れさせる下地となった可能性は十分に考えられるでしょう。
これまた、極めて有能な人物だったのか、それともただの無能な人物だったのか、堺屋氏の小説を鵜呑みにして判断するわけにはいきませんし、今となっては確認のしようもありません。
私は秀吉の弟とはいえ、秀吉が百万石の領地と豊臣家と諸藩をつなぐ外交の中枢の地位を任せていたことを考えると、とても凡庸な人物とは思えないと考えています。まあ、存在感まで本人が消し去ったというのは言い過ぎで、やはり兄秀吉の存在感があまりにも大きすぎたというのが実情なのではないでしょうか。
そんなことで、今回も実に無駄な考察をしてしまいました。歴史に関してあーでもないこーでもないと発言することは、実に無責任で楽しいですし、結局わからないので罪悪感もありません。歴史上有名な人物を空想の人物といったり、空想の人物を実在したといったり、影の薄い人物を歴史の表舞台に引きずり出したりすることは、歴史家冥利に尽きるのでしょうが、どんなに小説的に面白く取り上げたとして、所詮「事実」に勝る面白さはないというのが無駄論的結論なのです。
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コメント
再来年 ’07の大河ドラマ「風林火山」で勘助が脚光をあびることでしょう、 このところ藤沢周平作品でオジサマ、オバサマ、若い女性にまで知れ渡っている内野聖陽が演じるそうですから・・・。 話がズレました??
投稿: まーどんな | 2005/12/16 10:36
まーどんな様、コメントありがとうございます。
来年が山内一豊だってことは知っていましたが、次はまた武田物だって知りませんでした。勘助が主人公って事になると、私の考察は無視して、小説に忠実な大河になるんでしょうね。NHKのためにも、おじさま、おばさま、お姉さままで熱狂させてもらいたいものです。
投稿: 彰の介 | 2005/12/16 22:42