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2005/12/31

ネット社会の漠然とした不安

 年の最後に、ずっと気になっていた話題について語っておきたいと思います。それは韓国での「ES細胞捏造問題」のことです。と言っても、捏造そのものの問題ではなく、そこに起きた、世論とメディアの対立が異常に気になりました。この問題を韓国の問題とするのは簡単ですが、日本人の我々にとっても考えさせられるものがあると考えたのは私だけでしょうか。

 黄禹錫ソウル大教授による「ES細胞捏造」に関して、私は「あ~そうなの」という感想しか持っていません。私も重箱の隅をつつくような論文を投稿しておりますが、その内容に捏造はないものの、手心は・・・・おっと、それ以上は言えませんが、それにしても大それた嘘を世界に向かってしちゃったもんだとその度胸に感心せずにはおれません。日本でも旧石器時代の遺跡に関する大捏造事件がありましたが、研究者というものは、時にこういう罪を犯してしまうものなのですね。

 ところで、これが日本で起きたものであればおそらく袋叩きにあっただけなのでしょうが、韓国では全く様相が違ったようです。これは先日の朝のフジテレビ系の番組を見て知ったことなのですが、そもそも韓国ではこの世界的発見をした(もちろん捏造だったわけですが)、黄教授が国民的英雄になり、ノーベル賞間違いなしと熱狂的にもてはやされていたというのです。まあ、そこまではわかるのですが、韓国メディア(MBCテレビ)の報道番組が、この研究に関する疑惑を追求し始めたところ、なんとこの国民的英雄を追及したメディアは国民的批判を受け、番組は打ち切り寸前、テレビ局も窮地に陥ったというのです。その辺りの詳しい記事を見つけることができませんでしたが、韓国、過剰な「愛国」暗転あたりを参照してください。産経らしい嫌韓を言いたいだけの文章ですが、一部引用しますと、

ES細胞の話がマスコミに登場しない日はないほど黄教授は国民的な人気者になった。国民すべてがまるで生命工学の専門家になったようにES細胞や黄教授のことを話題にするといった社会的熱狂が続いた。黄教授の疑惑を最初に提起したMBCテレビは“国家的裏切り者”あるいは“非国民”として世論の非難を浴び、愛国デモに押しかけられたり広告拒否や番組中断に追い込まれた。
これには正直びっくりしてしまいました。捏造という結果を知ってからこのニュースを知ったからという面はありますが、国民的熱狂が、既存メディアの正当な、しかも結果的には極めて国益にかなった追求を押しつぶすという、極めて特異な例と感じました。産経をはじめとした嫌韓の方々には格好の韓国叩きネタになったと思われますが、これをお隣の恥として笑っていていいのかというのが私の心配です。漠然とした不安・・・。(自殺はしません・・・よ)。

 漠然とした不安・・・、それは、我々ブログ書き(そんな言葉ありましたっけ?)が、マスコミに対するご意見番と言ってはばからないところにあるような気がします。基本的にマスコミ対ブログというのか、もっと広く「マスコミ対ネット社会」というものを、我々が履き違えてしまうと、韓国と同様の失敗を我々の手で作り出してしまうような気がしてなりません。要するに、マスコミは叩けばいいという存在ではないということです。そしてマスコミにとって、ネットが脅威であって、ネットを敵視していたとしても、ネットの住人の我々がマスコミを敵視する必要はなく、何から何までマスコミに攻撃を加えることを使命とする必要はないということです。問題の本質を見抜けず、うわべの気持ちよさから「叩き」という行為のみをし続ければ、いつか今回の韓国のような大恥をかくことになりかねないのではないでしょうか。

 これが私の漠然とした不安です。所詮ネットの片隅でひとりごちているこんな小さなブログでも、もしかして、大きな過ちをおこす原因となってしまわないか・・・・、私に限ってそんな影響を与えることはないとは思いますが、あおりの一分子になる可能性は十分にありえます。そんな存在にならないよう、非国民といわれても、物事の本質を語っていきたいと誓う私なのでした。
 
 そんなことで、物の本質を見抜くこと、雰囲気に飲まれないこと、これを本年の締めくくりの言葉としたいと思います。2006年は、ブログ社会にとっていい年になりますように。そして、無駄に「彰の介の証言」にもお付き合いください。それでは、良いお年を・・・。

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2005/12/27

初詣CMに異議あり

 クリスマスが終わったら、大晦日から、新年明けましておめでとうと慌しいですね。私も相当に慌しいのですが、日本人として、日本人らしい新年を迎えたいですね。

 新年といえば「初詣」です。私はメジャーな大きな神社へ出かけたことはありませんが、元旦の朝、近所の小さな神社へ父と行くのが慣例となっていました。現在、仕事の関係で、元旦に家に帰れたためしがありませんが、もう少し仕事が落ち着けば、そんな暮らしに戻りたいと願うばかりです。

 そんな中で、大変疑問なのが、大きな有名神社の「初詣へいらっしゃいコマーシャル」です。神社は、日本人にとってあまりに身近にありすぎて、宗教というよりは慣習的存在ですが、そうは言っても宗教は宗教です。したがって、そのコマーシャルは当然宗教的意義を持っていなければならないはずですが、テレビに見るコマーシャルはとてもそんな宗教観がみられません。その存在が慣習的過ぎて思わずスルーしてしまいそうですが、よく考えてみれば露骨な「賽銭募集」広告以外の何物でもないではありませんか。

 宗教法人は、税制的に優遇されていると聞いています。それは、宗教法人が利益追求法人ではなく、あくまで宗教活動が目的の法人だからでしょう。そんな法人が、テレビコマーシャルで「初詣は○○神社へ」とわざわざお金を使ってまで宣伝することは、利益を追求しないという原則に反していると考えるのは屁理屈男の私だけでしょうか。ただ単に、神社のアピールのために宗教的にテレビコマーシャルを出したという神社があるのなら・・・、いやいや、お金払ってそんなことするバカはいるはずがありません。やっぱり賽銭その他の収入を見込んでいるのを言い逃れることは無理でしょう。私が神社の宮司だったら、そんな恥ずかしいことできませんね。宗教にとって、「金儲けをしている」なんていわれるのが最も恥ずべきことですから。

 さらに言うと、露骨に旅行ツアー客を引っ張り込んで、宗教関連グッツ(お守り、御札、数珠、鏡等・・)を売りつける神社仏閣も現実に存在しています。うちの近所には、高級車を乗り回しているお坊さんもいます。そんなことも含めて、私は宗教とお金の関係に疑問を持ち続けているのですが、まあ、この際、「宗教といえども、アイデアを出してどんどん経済活動すればいい」ということにしましょう。どうせ、金儲けと批判しても、「宗教活動」といわれればそれまでですから。だからこそ、私の本音は、「宗教法人に対する優遇税制廃止」です。宗教法人は、それが営利団体でない限り、儲かった部分に普通に税率をかけることに反対する理由はありません。反対することは、儲けていることを認めることに他ありませんから・・。細々と宗教活動しながら生活している宗教家には元々利潤がありませんから、税負担が増えるわけではありません。

 こういう発言をすると、関係者からは宗教弾圧などといわれるのでしょうか。そういわれてもかまいませんが、テレビコマーシャルにかけるお金があるのなら、もっと社会にいろいろな意味で還元する宗教法人であるべきと考えたまでです。

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2005/12/24

クリスマスプレゼントは・・

 日本人が一年に一度キリスト教に帰依する本日、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
明日目を覚ますと、枕元にサンタさんのプレゼントが置いてあるかな~?と大いに期待をしている、私、彰の介でございます。

 ということで、世間の喧騒をよそに、私、現在当直中でございます。人の目を盗んで、こうして記事を投稿しようとしております。プレゼント??、プレゼントどころか、朝の目覚めは救急車のサイレンかも・・・なんて憂鬱になっております。ただ、クリスマスケーキすら食べれないとがっかりしていたのですが、給食の方が、一口サイズのミニケーキを出してくれて、”メリークリスマス”のカードをつけてくれました。小さな気遣いに、感動しつつ、

「もっと大きいケーキが食べた~い!」
とついつい考えてしまうのは、我ながら情けないばかりです。

 クリスマスも当直、明日も当直、年末も当直、年明けも当直・・・。クリスマスプレゼントは、休息がいいです・・・。

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2005/12/20

情けは人のためならず?

 私も人生の微妙な曲がり角にさしかかっているというか、微妙な立場になりつつあるようです。時に、自分の生き方が、実にバカバカしく思うこともあり、ちょっと愚痴らせてください。

 「情けは人のためならず」といいます。この言葉の意味を、「情けは人のためにならないから、かけるべきでない」と思っている人も多いようですが、正解は「人に情けをかけることは、その人のためだけでなく、いずれは自分に情けが帰ってくる」という意味です。しかし、人生そうはうまくいきませんね。

 他人からどう思われているかは知りませんが、私は私なりに「情けは人のためならず」を実践してきたつもりです。情けといっても、たわいもない頼まれごとの類がほとんどですが、職場で仕事を頼まれたりすれば、できるだけ手伝ったり、代わったりするようにしてきたつもりです。いくら嫌な仕事だったとしても、断ってばかりではいざ自分が逆の立場となり手伝ってもらいたい時、代わってもらいたい時に断られてしまう可能性もあります。まあ正直言えば「いい人」を演じたい気持ちがなかったわけではありませんが・・。

 しかし、そんなことを続けていたら、結局「頼みやすい人」「文句を言わない人」に残念ながら成り下がっただけでした。それは、何で私なの?という仕事を突然突きつけられた時、やっと我に返り、職場での自分の立場に気が付かされたわけです。要するに「いい人」というよりは、「あいつなら何も言わない」と馬鹿にされていたといったほうがいいでしょうか。 
 職場の組織の中で「必要とされる」ということほどうれしく、モチベーションのあがることはないわけですが、雑用係として、コマ使いとして必要とされることほど情けない話はありません。もちろん、自分のアピール不足、努力不足を否定はしませんが、それを含めて、結局、声がでかく、主張する人間に嫌な仕事は寄りつかず、声が小さく、物静かな人間に、そのすべてのしわ寄せが来るということを今更ながらに実感した次第なのです。

 これは組織の力そのものかも知れません。力のある組織では、「情けは人のためならず」があてはまるのでしょうが(互いにカバーし合いながら成長し仕事をこなしていくことができる)、力のない組織では「情けはつけ込まれるばかり」(誰かが楽をするために、誰かに仕事を押し付ける)というのが実情でしょう。文句を言うことは恥ずべきことだと思っていましたが、それはあくまで組織次第だということに、人生30年以上過ぎた今になって思い知らされたのです。

 これからの私はどう生きるべきか?(そんな大それたものでもないかもしれませんが、笑)、今、まさに思案中です。やはり、いい人ぶって何も言わないことは決していいことではなく、「言うべきことは言う」というのが人間として大事なことなのでしょうか。受動的な人間は、つけ込まれても当然であり、あくまで能動的な立場であり続けなければいけないのでしょうか。言いたいことを、こんなブログに逃げてきていることこそ最大の問題なのでしょうか・・・。

 今の私では、残念ながら組織の中で「言うべきことを言う」という行為は自爆テロに近いという心境です。しかし、そういって逃げる自分も情けないとしか言いようがありません。徐々に、もう逃げてもしょうがないと覚悟を決めつつある私です。ぶっ飛んで粉々になったら、やっぱりこのブログで愚痴ることをお許しください。

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2005/12/19

浅田真央ちゃんを五輪に出さなくてもいいのか?

 不思議なくらい冷静で、「ルールだから」ということで全く盛り上がらないですね。浅田真央ちゃんのオリンピックへの参加問題ですけど、「ルールだから」素直に従うべきか、それとも反発すべきか、日本人にとっては重大な問題のような気もしますが、素直に従う方向に向かっていることはいかにも従順な日本人らしい判断のような気がします。

 正直言えば、伊藤みどりさん以来、フィギュアスケートにはあまり興味はなかったのですが、今回のグランプリファイナルはついつい見てしまいました。私が若者から若年寄になってる間に、日本はフィギュアスケート王国になってたんですね。いや~すばらしい。しかも皆さんそれぞれに個性があって、誰にも負けない技を持つことで、非常に興味を持って見ることができました。

 それにしても、あの十五歳の浅田真央ちゃんは最高でしたね。最高でしたっていうか、優勝でした。ということは世界一ってことなのに、オリンピックには出られないんですね。よくわけがわからない「年齢制限ルール」があるからだそうで、「医学的」な問題からダメって言うんですけど、何のことかさっぱりわかりません。これ、小さい頃から、高度なジャンプを飛ぶ練習を繰り返すと、故障や成長に問題があるということなんでしょうか。

 この「医学的」な問題というのが、いいわけであるのは明らかです。つまり、もし医学的な問題があるのであれば、オリンピックの出場の問題とは関係なく、「15歳未満はスケート禁止」としなければなりません。あるいは、ジャンプが問題とされるなら「ジャンプ禁止」を徹底させるべきです。現実には、浅田真央ちゃんに3回転ジャンプをさせておいて、「オリンピックへは出しませんからね~」といっているのですから、医学的見地とは関係ないことを証明しているようなものです。

 また、どうせこういう問題は起きるのですから、次回オリンピック出場権利のない年齢の選手は、オリンピック以外でもジュニア大会以外は出場権利なしとしておけばよかったような気もします。世界一になってから、オリンピックには出さないでは、やっぱり無理がありますから・・。ただ、そうするとこのジュニア大会の優勝が、オリンピックの金メダルよりレベルが高いなんて状況になっちゃうかもしれませんね。いずれにしても、制度に欠陥があるのは明らかなような気がします。

 そんな制度の欠陥はさておいたとしても、日本の中で「ルールだから」と完結させていいのかどうかは、実に微妙な問題だと考えています。ふと頭をよぎったのは、過去のスポーツ界での日本いじめのことです。日本人が国際舞台で活躍すると、日本人に不利なルール改正が行われるなんてことは過去何度も起きました(そんな憂いを柔道、金メダル取りすぎて・・で記事にしています)。もちろん今回のルールが、日本人浅田真央ちゃんを狙い撃ちにしたルールでないことは明らかですが、問題が日本人だから「ルール遵守」の方向に動いており、これが欧米人だったら、意外に簡単に特例措置が降りていたのではないかと被害妄想的に考えるのは私だけでしょうか。

 しかも、日本人自身が、国民としても、スケート連盟としても、ルール遵守の方向で考え、全く抵抗を見せていませんから、いろいろな意味で、ますますつけ込まれるような気がしてなりません(といいつつ、本来私は、「ルール遵守」がもっとうの人間ですから(笑)、悔しいながらも、憂いながらも今回のルール遵守は仕方ないという気持ちがないわけではありませんが・・)。むしろ問題なのは、トリノオリンピックが終わったら、手のひらを返したように「年齢制限ルール」が解除になったり、今後、欧米人の少年少女に有力選手が現れたときに、あっという間にルール改正や特例処措置が降りることに日本として徹底的に反対できるかどうかということです。結局損をしたのは、浅田真央ちゃんだけという状況だけにはすべきじゃないと思うのですがどうでしょうか。

 そう考えると、やっぱり日本人として、世界一の彼女の「五輪出場」を十分にアピールすべきじゃないかと思うのです。「ルール」で跳ね返されたら仕方ありませんが、しかし、欧米人に都合よく「ルール」を使われたり改正されたりすることへの、十分な抑止力になる可能性があります。また、あまりの無風、無抵抗は、現在の欠陥制度を改正する必要もないということを認めることにもなってしまい、問題提起すらできません。
 皆さんはどうお考えでしょうか。私自身矛盾を感じないわけではありませんが、今回の一件では、「浅田真央ちゃんを五輪に出さなくてもいいのですか?」と訴えたいと思います。

 でも、まさかと思いますが、日本スケート連盟自身が、有力選手の多い今回の五輪出場選手の選考で、少しでも波風起さないように、一人の有力選手を除外したかったわけではないでしょうね・・・・。

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2005/12/17

めくそはなくそ、くその中のくそ?

 汚いタイトルで申し訳ありません。
 一連の耐震偽装問題については、だますメリットありますか?と、性善・性悪説と責任論で書いてきました。基本的に国の無責任が今回の問題を引き起こしたと考えているのですが、それはそれとして、この事件に絡んだ人物の中で、感情論的に一番腹立たしいやつ、すなわち、「くその中のくそ」を私なりに認定したいと思います。被害者の方々(賃貸とはいえ都心のマンションに住んでいる私としては、いつ被害者に回るかわかりませんが・・)にとっては、全てのメンバーが同様に腹立たしいと思われるでしょうが、第三者的に見た戯言ですので、お許しいただきたいと思います。
 
 耐震偽装問題の悪役の方々は、それぞれ他人に責任を押し付け、自分は被害者と言いたいような人間も多く、責任を全く感じていないふてぶてしさには、まさに、「めくそはなくそ」の称号を与えたいと思います。正直、私もああいう人間になってみたいと思うばかりです。他人の気持ちなんか何も気にせず、自分の都合だけを考えて生きていけるなんて実にうらやましい限りです。性善・性悪説と責任論では、彼らを性善説型人間と信じたいとは書いたのですが、だんだん馬鹿らしくなってきました。

 特に、今回の事件で、最もひょうひょうと振る舞い、私の逆鱗に触れている人物がいます。それは、どう考えてもその罪を拭いようのない、「イーホームズの藤田社長」です。彼は自分の会社の犯した過失(本当は確信犯だと思いますが)をなんとも思わないんでしょうか?。そんな疑問を強く感じさせる彼の発言がありました。それは、先日の、姉歯氏、木村建設、総研の爺さんの証人喚問があった日に、姉歯氏から「専門家が見れば簡単に見破れる」ような発言があったことに対して、テレビのインタビューに答えていたのですが、

「我々は適正に(適法に)仕事をこなしました」
とぬけぬけと答えていたのです(怒)。これには温和な私にも怒りがこみ上げてきました。この期に及んで「適正」?「適法」???、何のことかさっぱりわかりません(大怒)。法にのっとって監査すると、偽装は見抜けないってことですか???、だったら、あんたのところの監査法人、何のために存在している会社なんですか???、その偽装を見抜くための会社じゃなかったのですか???違いますか???。

 私は、彼の発言の全て聞いたわけではありませんので、「監査が適正に行われれば今回の事件の発展はなかった、我々の責任は重い」などの発言があったかなかったか知りませんが(直接私は聞いていません)、最低限、「ちゃんと仕事をこなしていた」なんていう立場にはないでしょう。正直そこには責任を微塵も感じません。
 今後イーホームズに対して、どのような追求がされるかわかりませんが、おそらくただの仕事の怠慢ではなく、意図を持った監査のスルーの可能性もあるでしょうから、厳しく取調べをしてもらいたいものです。

 ということで、今後捜査が進めば、世の中くそだらけになっちゃうかもしれませんが、その中で核心が埋もれてしまわないように、我々も見ていく必要があるでしょう。本日は汚い言葉の連発、失礼いたしました。

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2005/12/16

無駄論的小説的真実(2)

 「事実は小説よりも奇なり」というのをキーワードに、前回無駄論的小説的真実では、中国古典の世界から蘇秦と衛青について書いてみました。小説的だから空想上の人物なのか、それとも小説的だからこそ実在の人物なのかという、あまりにも無意味な、いかにも無駄論らしい考察をしてみました。

 日本の戦国時代で、空想上の人物なのではないかといわれているのが武田信玄の軍師「山本勘助」です。その名前はあまりにも有名で、武田信玄を題材にした映画、ドラマで彼が出てこないなんてことは考えられません。もちろん、ゲーム信長の野望でも、知略の高い人物として当然のように出てきます。また映画「風林火山」は、三船敏郎扮する山本勘助が主人公のお話でした。
 
 この山本勘助は、同じく武田家の家臣である高坂弾正が書いたとされる「甲陽軍鑑」で紹介されているようです。この山本勘助、姿はあまりにも醜く、片目はつぶれ、指も不自由、片足を引きずっていたという、いかにもダメ男そうな人間で、その容姿のために、今川家では仕官できなかったようです。しかし、姿かたちにとらわれず、その実力(おそらく兵法や築城術と思われます)を見抜いた武田信玄によって破格の扱いで武田家の家臣に取り立てられたというのですが、まあ、正直、極めて小説的なお話です。
 
 山本勘助といえば、最も有名なのが、第四回川中島の合戦における「きつつき戦法」の進言でしょう。これは、武田軍を二手に分け、別働隊で上杉軍を背後から襲い、上杉軍が押し出されて出てきたところを本隊で挟み撃ちしようという作戦です。ところが、完全に上杉軍に見破られ、武田本隊が猛攻を受けるはめになります。武田軍は、信玄の弟信繁が討死、信玄も上杉謙信本人に切りつけられ、軍配で払ったという伝説が残るほどに(嘘だとは思いますが)大激戦となりました(日本史上最も戦死率が高い戦いだったとも言われています)。この戦いのさなか、この作戦を進言し、大失敗となった事を責めた山本勘助も奮戦、討死し、その生涯を終えたと言われています。

 山本勘助が空想上の人物、すなわち甲陽軍鑑が作り出した人物とされているのは、その記述があまりに小説的であるからではありません。彼のその武田家のポジションに反して、彼に関する歴史的資料がほとんどないからだそうです。一応、彼の名前の入った文書が見つかったため、「山本勘助」という人物が実在したことは証明されているようですが、甲陽軍鑑に記されている「軍師山本勘助」が実在したかは、今でも怪しいと考える研究者が多いようです。史実にうるさいNHKは(最近意外にそうでもありませんが)、大河ドラマ「武田信玄」の中で、このきつつき戦法の提案者を、山本勘助ではなく、馬場信春とし、どちらかというと山本勘助を影で動く人物のように描いていたと思います。

 しかし、もし、山本勘助が実在の人物でなかったとしたら、この武田家を伝える「甲陽軍鑑」が、なぜこのような小説的人物を登場させなければならなかったのかという疑問が残ります。甲陽軍鑑の作者は諸説あるようですが、仮に最も有力な高坂弾正だとすれば、それこそリアルタイムにこの戦国時代を生きた人ですから、敢えて小説を書く理由が全くわかりません。しかも、わざわざ実在した人物の名前を使ってスーパースターに仕立て上げる必要はないでしょう。だからといって、実在したという証拠にもなりませんが、結局のところ、この実在の人物か、空想の人物かの検証は、今となっては非常に困難だと考えられます。と言いつつも、歴史マニアの私としては、こういういかにも怪しげな人物が本当に実在したというような、驚くような史料が発見されることを望むばかりです。

 さて、私が、日本の戦国時代で、もう一人非常に不思議な存在と考えているのが、豊臣秀吉の弟、「豊臣秀長」です。こちらの方は、歴史的史料がたっぷり存在しているそうですから、間違いなく実在した人物であることは疑いの余地もありません。しかし、私の言う不思議さというのは、天下人秀吉の弟でありながら、そして、紀伊大和百万石の大名となった人物でありながら、後世、その存在感があまりに薄いことにあります。彼の歴史的ポジションに比べると、その存在感の薄さは尋常ではありません。この人物、ちょっとした歴史マニアでないとその存在を全く知らないのではないでしょうか。

 この豊臣秀長を世に知らしめた人といえば、小説「豊臣秀長」を書いた堺屋太一氏でしょう。元経済企画庁長官の小説家堺屋氏は、この豊臣秀長という人物を絶賛しています。そのことを「彼が死んでから、豊臣家にとって何一つとしていいことは起きなかった」と表現しています。彼は秀吉より前の1591年に亡くなっていますが、それ以後確かに秀吉はたがが外れたように老害を出し、朝鮮出兵、関白豊臣秀次切腹(彼の関係者皆殺し)、豊臣家の内部分裂(尾張派と近江派)とつながり、その死後、関が原の合戦で徳川家康に実権を奪われ、そして大阪の陣での豊臣家の滅亡へと進んでいます。無論秀長が生きていたからといって、この歴史の流れを本当に止められたかは確認のしようもありません。堺屋氏は「補佐役」というキーワードを使って彼を秀吉の影に生きた人物とし、その存在感の薄さは、彼自身が彼自身の歴史の足跡を消し去ったというような表現でまとめています。

 自ら補佐役に徹し、その存在すら自ら消し去ったという表現は、これまたいかにも小説らしく、実にかっこいいものですが、しかし、単純に考えて、この存在感の薄さから、彼に関しては「無能説」も絶えません。確かに彼の実績をあげれば輝かしいものばかりかもしれませんが、しかし、それは秀吉の弟というとんでもなくラッキーな立場だからこそであって、その凡庸さが彼の存在を簡単に忘れさせる下地となった可能性は十分に考えられるでしょう。
 これまた、極めて有能な人物だったのか、それともただの無能な人物だったのか、堺屋氏の小説を鵜呑みにして判断するわけにはいきませんし、今となっては確認のしようもありません。
 私は秀吉の弟とはいえ、秀吉が百万石の領地と豊臣家と諸藩をつなぐ外交の中枢の地位を任せていたことを考えると、とても凡庸な人物とは思えないと考えています。まあ、存在感まで本人が消し去ったというのは言い過ぎで、やはり兄秀吉の存在感があまりにも大きすぎたというのが実情なのではないでしょうか。

 そんなことで、今回も実に無駄な考察をしてしまいました。歴史に関してあーでもないこーでもないと発言することは、実に無責任で楽しいですし、結局わからないので罪悪感もありません。歴史上有名な人物を空想の人物といったり、空想の人物を実在したといったり、影の薄い人物を歴史の表舞台に引きずり出したりすることは、歴史家冥利に尽きるのでしょうが、どんなに小説的に面白く取り上げたとして、所詮「事実」に勝る面白さはないというのが無駄論的結論なのです。

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2005/12/13

無駄論的小説的真実

 「事実は小説より奇なり」と言います。小説のようなかっこいい話よりも、事実の方がよりドラマチックなこともある、いや、事実だからこそドラマチックであるということなのでしょうか。私は奇なりとまではいかなくても、かっこいい歴史小説が歴史的事実と違うと知ってしまうと興ざめしてしまうタイプです。興ざめの代表は三国志(演義)でしょうか。劉備は義の人なんて信じてましたが、義に生きていたら天下が取れるはずありません。曹操は極悪人と思っていましたが、実際には三国時代最大の英雄だからこそのエピソードばかりでした。小説でなくても、歴史書と呼ばれるものが事実を伝えているとは限りません。時にはその歴史書を編纂した人たちにとって都合よく書き換えられることがよくあるからです。だからこそ、私は「事実が知りたい」という気持ちが強いんですね。
 ということで、本日は、「事実は小説より奇なり」をキーワードに、ある人物を無駄論的に考察したいと思います。

 私の座右の銘は「鶏口牛後」です。「牛の尻尾になるくらいなら、にわとりの頭になれ」という意味の、この逸話の主「蘇秦」は、彼についての歴史書の記述があまりに小説的ゆえに、空想の人物かもしれないと言われています。と言いつつ、世界史の教科書には張儀とともに「縦横家」として紹介されていますから、空想と言っている人たちがただ、マニアックなだけかもしれませんが・・。この蘇秦を紹介した「史記」や「戦国策」は今から2000年も前に中国で書かれたものですが、例えばこの史記を書いた人物である司馬遷にとっても、さらに何百年も(二王朝)前の人物である蘇秦のことですから、リアルタイムに見ていた人物であるわけがありません。したがって、実在の人物なのか、空想の人物なのかの検証は、司馬遷にとっても難しいでしょうし、ましてや現代人の我々にとっては不可能といえるかもしれません。史記の中に書かれていた、殷王朝(商王朝)は、つい最近まで空想の王朝と言われていました。ところが、その遺跡が発見され、甲骨文字の研究から史記の記述が極めて正確であるということがわかり、史記が再評価されたという事実があります。しかし、それより新しい時代である(蘇秦の時代である)春秋戦国時代の記述が、新しいことを理由に全て正しいとは言えません。ただ、司馬遷が作為を持って誤った記述をしたとは到底考えられませんが・・。
 
 時は中国の戦国時代、戦国の七雄といわれる国が割拠し覇を争っていましたが、徐々に「秦」一国が巨大化しました。そこで、蘇秦は秦以外の六国をまとめ上げて、大国、秦に対抗する案を各国の王に説いたのです。これがいわゆる合従(がっしょう)策です。この、六国合従をまとめ上げる時に、使った言葉が、「秦の国に取り込まれて、尻尾の扱いされてどうするの?」という意味の??「鶏口牛後」 だったわけで、それ以外にも実に言葉巧みに各国の王を解く様子が、克明に史記には記されています。実際、蘇秦が六国合従に成功した後数十年は、秦も他国を攻めることができず戦争がなかったといいます。
 このように、六国を代表する宰相となった蘇秦が、全くの空想上の人物とは簡単には考えられませんが、それにしても、話のスケールが大きすぎること、また、その克明に記された口説き文句が、逆にあまりにも克明であるがゆえに(一体誰が聞いて記録しておいたの?)、全体としては、確かに話として出来すぎているという感じはしなくもありません。まさに小説的です。「事実は小説より奇なり」からいくと、出来すぎているから小説なのか?、それとも小説的だからこそ事実なのか?、いやはや、こればっかりは、タイムマシーンがなければなんとも言えませんね。

 漢の武帝の時代に活躍した将軍「衛青」の話も実に小説的です。この衛青、母は奴隷で、小さい頃からいじめられ、牧羊なんかをやっていたという、ただの下人ですが、姉がなんと武帝の愛妾となったため、宮廷で働くようになり、さらに姉が非常に寵愛されたため、武帝によって将軍にまで取り立てられたという人物です。この姉が寵愛されるのを快く思わない皇后が、その弟である衛青を拉致監禁したものの、助けられたという逸話もあるようです。ついでに、奴隷時代の北方での牧羊経験がいきて、将軍として、北方民族である匈奴の征伐に功を上げたというのですから、その出自といい、出世といい、手柄といい、逸話といい、何から何まで作ったような話だと感じたのは私だけでしょうか。まさに小説的だとは思いませんか?(詳細はぜひ正書をお読みください)。

 しかし、衛青についての記述は、何から何まですべて事実としか言いようがありません。なぜなら、史記で彼の記述を残した司馬遷が、全くの同時代(漢の武帝時代)の人物だからです。同時代にリアルタイムに会った人物に対して誤った記述をしようもありません。架空の人物をでっち上げることも不可能でしょう。これはまさに、「小説的な事実」であり、どんな優秀な小説家をもってしても、この「衛青」という人物について、事実以上の「小説的小説」を書くのは無理なのではないでしょうか。

 私は、こんな小説的事実に出会うたびに、出来すぎた小説がつまらなく感じてしまうようになってしまいました。私の歴史的興味を満たしてくれるものの多くが、歴史小説であるということとは矛盾する話ですが、要するに事実が知りたいという強い欲求があるのです。歴史の面白さ、それはきっと答えは見つからないのに、ああでもない、こうでもないと事実を探求するところにあるのかもしれませんね。嘘のような話が、嘘のような本当の話と確信できたとき、たまらない感動が待っている・・・・そんな変な人間がこの私であります(大笑)。
 ところで、前回エントリーにも書いたんですが、「弁慶」っていうのは、空想上の人物なんでしょうか?・・・・。義経、弁慶の話もまさに小説ですからね・・・。まあ、弁慶はともかく、次回は日本の歴史で同じような考察をしようと思います。

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2005/12/12

お疲れ気味です・・

 私、彰の介、私の予想を超えて、相当に疲れているようです。
 本日、午前中に仕事をこなし、午後宿題を片付け、3時ごろテレビを見たまま、意識を失いました・・・。目を覚ますと、午後8時・・・、5時間近くも爆睡していたようです。

 午後8時と言えば、NHK大河ドラマの時間です。私は小さい頃からずっーと大河ドラマを見続けてきました。まあ、そのことが、私をNHKの回し者にさせているひとつの理由になっているわけですが・・・。記憶にあるのは、「黄金の日々」「草燃える」あたりからでしょうか。「おんな太閤記」なんて最高でしたね。私は今やぶ医者をやっていますが、医者の話である「いのち」なんていう現代劇もありました。つまんないのは途中で見るのをやめてしまったものもありますが、おおよそ見続けてきたといえると思います。

 今年は「義経」、本日が最終回でした。実は、この「義経」が始まったときに、「弁慶というのは実在の人物か?想像上の人物か?」というのを調べようと思っていたのですが、この1年、そんな時間は微塵もありませんでした(涙)。そして正直、本日もう最終回か?という感じが強いです。1月に始まり、12月に終わる大河ドラマですから、もう1年という時間が過ぎたんだな・・・としみじみ、おじん臭く感じてしまった次第です。ついこないだ正月だったような気もするのですが(笑)、最近時が経つのが異常に速いと感じているのは私だけでしょうか。一瞬、眠りについただけなのに5時間も経っているなんて(笑)、この世の中どうかなってませんかね?。

 このブログも、なんだかんだ一年半続いています。三日坊主協会代表の私としては、そろそろ代表辞任を迫られそうです。まあ、これも、このような無駄なブログを読んでいただいております皆様のお陰と感謝しております。そんな皆様へ、今年も健在、冬咲きの貴重なハイビスカスをご覧いただきましょう。
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 ということで、最近お疲れ気味でエントリーが厳しいことを言い訳させていただきました。次回は、弁慶に関する疑問に絡んで、空想上の人物??ってのをテーマにしましょうか。期待せずお待ちください。

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2005/12/05

性善・性悪説と責任論

 耐震偽造マンションの問題について、前回だますメリットありますか?で、だます側の心理をひねっくってみました。私が一番言いたかったことは、私が典型的な性善説型人間であるということですが(大笑)、さて、あの事件の関係者面々が、典型的性悪説型人間かどうかは微妙なところと考えています。まあ、性善説だろうが性悪説だろうが、今回の事件がとんでもない「悪性」の事件であることには変わりありませんが・・・。

 以前のこのブログの中で何度も書いてきましたが、私は人間という動物の究極の方程式は「楽して儲けたい」だと考えています。しかし、その方程式にそって行動はするものの、実際には、楽をしたつもりが楽じゃなく、儲かるつもりが全然儲からないことの方が多いかもしれません。今回の事件などその典型で、鉄骨減らす努力をして儲けたつもりが、会社の倒産や場合によっては関係者の逮捕につながっていきそうですから、結果的には「努力して損する」皮肉な結果になっています。

 この「楽して儲けたい」というのは、決して「楽なこと」ではありません。現実に楽して儲けるためには、ものすごい努力が必要です。どちらかと言えば、この言葉の意味を履き違えて「楽=悪」の道へ入り込んでしまう、あさはかな人間が実に多いといえるかもしれません。しかし、この「あさはかな人間」ということが、そのまま「性悪説型人間」を意味するかと言うと、私はそうは思っていません。私を含めて、隙あらば楽をしたいと考えるのはごく普通のことですから・・。まあ、あんな悪そうなやつらの弁護をするつもりは毛頭ないわけですが、もう少し人間として信じてあげたい、生まれた時は性善説型人間だったと信じたいというのが私の本音なのです。

 では、誰が彼らを悪の道に引きずり込んだか・・・、すなわち、今回の一連の事件でもっと罪の重いのは誰か・・・、と言われれば、私は彼らに悪の道へ進むことができるような隙を与えた「国」だと考えています。隙とは、楽=悪の勘違いを誘発したことです。具体的に言えば、耐震検査という「性悪説」が絶対的に許されない分野を民間に開放しておきながら、その監査を全くしていなかったことです。国からの監視が強ければ、建築主も建築士も建設会社も、そして検査会社も、今回のような「楽=悪」の道に行きようもなかったのではないか?と思えてならないのです。

 しかしながら、この「国」という言葉が実に曲者なのです。「国」の責任ということになると実際には誰も責任を取らないことになってしまうからです。今回の危険なマンション入居者へ国が金銭的支援をするそうですが、この資金は、北側国土交通大臣の貯金をはたいて支払われるわけでもなければ、国土交通省のお役人の給料削って支払われるわけでもありません。「国」が支援すると言ったって、実際には我々の血税を使うに過ぎないわけで、結局責任は「私やあなた=国民」が取らされているということに他ならないのです。

 私は、「国が悪い、国が悪い」と言っているうちは、どんな問題でも解決しないと思っています。問題解決のためには、あざらしさんも指摘されている「最終的に誰が責任を取るか」ということに尽きると考えています。ただ残念ながら、たとえ国に責任をとるべき監査の部署があったとしても、今回の事件はきっと起きたに違いありません。国の担当者も、「まさか民間の検査会社が偽造を見破れないとは思ってもみなかった」なんて言い訳して、責任の擦り付け合いの一角を形成していただけに違いありません。
 
 お役人だって所詮人間です。具体的な結果責任(過程のいかんを問わない)の取り方が、これまた曖昧ならば、楽して何とかの法則から、責任に近づかない、何もしないのが最もお得と勘違いするお役人がわんさかいるでしょう。これが今回の事件のようなことが起きた時に、「国交省の○○課5名が職務怠慢で解雇、○○課の課長は、公務員職務怠慢禁止法違反で懲役○年の実刑判決を受けました。」な~んてことになったら、お役人だって目の色が変わるでしょう(言いすぎ?やりすぎ?)。職務怠慢禁止法はともかくも、責任の所在と責任の取り方がはっきりしていれば、仮にお役人が性悪説型人間であったとしても、そうそう職務怠慢という一見楽な道に逃げ込めないと思うのですがどうでしょう。
 うむ?、そんな、逃げ道さえなければ人間は悪い事ができないなんて楽観的に考えているのは、やっぱり性善説型人間の典型である私(大爆笑)だからなんでしょうか?。

 悪いやつらは、監査がきつくなれば、きつくなっただけ新たな逃げ道を探す努力をするに過ぎないかもしれません。お役人も、いかに責任をとらなくて済むかに、全神経を注ぎ込むようになるだけかもしれません。こんな人間がそこらじゅうにいるような状況であっても、やっぱり、人間生まれた時は性善説型人間と信じたい、今日この頃の若年寄の戯言でした。 

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