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2006/02/20

喫煙者の受難(2)

 前回、喫煙者の受難(1)で、今後さらに強まりそうなスモーカーへの圧力を、非喫煙者である私が被害妄想的に語ってみました。スモーカーの皆さん全てが悪いわけではないのでしょうが、時代の流れを止められそうにはありませんね。

 しかし、スモーカーの皆さんにもう少し自覚していただきたいこともあります。
 よく、「タバコは肺癌の危険性を高めるからやめた方がいい」などと言うと、「自己責任だから何が悪い!」と怒る人がいます。しかし、本当に自己責任だけで済むのでしょうか。

 例えば、スモーカーが肺癌になったとき、確かに肺癌になったこと自体はその人の自己責任かもしれません。他人に肺癌を押し付けることはできませんから、一見理にかなっているようにも思えます。しかし、実際肺がんが見つかった時、何もせず見ているわけにはいきません。やはり治療をしなければならないのです。しかしこの治療費を誰が出しているかといえば、日本においては保険診療ですから、7割がたは保険料やら税金やらから出されているのです。自己責任といいつつ、実際は国民みんなで助け合うことになるのですから、一人よがりな自己責任はいかがなものなんでしょうね。

 しかし、スモーカーは、「何を言ってるんだ、スモーカーはタバコ税を払ってるんだ!!」と反論されるかもしれません。確かに、タバコ税は年間2兆円にもなるようです。しかし、日本医師会の出している資料によると、タバコ、その他関連の税収2兆8000億円に対して、社会的損失は7兆3786億円で、差し引き4~5兆円近い損失というのです。タバコ税だけでは、全てをまかなえきれてはいないのです。もちろん、この資料を鵜呑みにするわけにはいきません(やぶ医者の私は日本医師会を全然信用していない、笑)。なんとなく、医療費だけではタバコ税に届かなかったので、よくわからない労働力損失ってのを無理やり足し算した(そもそも足し算してもいいのか?)様に見えなくもありませんし、金額の根拠もよくわかりません。まあもちろん、働くべき人が働かなくなれば、社会的損失であることは当然ですので、最低限スモーカーの皆さんの税収だけでは社会に穴埋めできていないのは確かだと思います。

 社会的なんて冷たいことを言わなくとも、家族からみれば、大事な身内が病気になるということを、自己責任と言われては、涙がちょちょ切れるというものです。一人一人、大事な命、一人だけの命ではないのですから、スモーカーの皆さん、タバコを吸う理由に「自己責任」を主張するのはもうやめませんか?。

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2006/02/13

喫煙者の受難(1)

 この世の中、スモーカーの皆さんにとっては住みにくい世の中になってきましたが、私のようなタバコを吸わないものにとっては快適な世の中になったとつくずく思い知らされます。

 先日、所用で新幹線を利用しました。自由席を5号車から1号車まで歩いて、空いている席を探していたのですが、そこで思い知らされたのが、圧倒的に禁煙車のほうが混んでいるという現実です。正直、喫煙車両は1車両で十分という感じでした。帰りは指定席を取ろうとしたのですが、これまた禁煙席はしばらく満車で、開いているのは喫煙車両のみという状態です。もちろん私は、けむたくない席を利用したいわけですが、自分がスモーカーだったら席探しも楽なのにと感じてしまったほどです。

 そんなわけで、帰りはやむなく喫煙車両に乗ったのですが、どうも喫煙車両に乗っている人=喫煙者とは限らないということに気付きました。私のように席が取れず、やむを得ず乗っている人も決して少なくないようです。私は被害妄想系の人間ですから、いろいろと考えてしまうのですが、喫煙車両に乗っている喫煙者にとって、わざわざ喫煙車両に乗ってくる非喫煙者ほどうっとうしい人はいないだろうと考えてしまいました(笑)。喫煙車両なのですから、タバコを吸っていけないわけではありませんが、なんとなく、けむたそうにされ、「のど痛いから飴でもなめよ」とか、「ちょっと気管支が・・・、ゴホンゴホン」なんてやられた時には腹も立つでしょう(笑)。

 この不人気な?喫煙車両の現実を考えると、この喫煙車両をもうけなければならないこと自体、JRにしても負担以外の何物でもないかもしれません。全車禁煙としたほうが、乗車率、清掃の問題も含めていいことずくめです。そう考えると、いずれ、喫煙車両は減らされ、そのうち全車禁煙の新幹線も出てくるかもしれません。そうでなくても、「喫煙車両」の概念が、「喫煙者のための車両」から、「非喫煙者主導の車両」となり、「非喫煙者のご好意で、喫煙者の最低限のタバコはやむを得ず我慢する車両」という雰囲気がただよい(笑)、極めて吸いにくい状況になっていくかもしれません。「タバコは東京から名古屋まで1本、大阪まで2本がマナーでしょ!」なんて喫煙者が怒られる世の中も近いかもしれません(大笑)。(←笑ってられない?)

 私は職業柄やぶ医者をやっているわけですが、私らの職業からみれば、喫煙者が減ることは大変いいことだと感じます。明らかに喫煙が原因といわれている肺の病気や、血管の病気がありますし、発症確率をあげる肺癌のような病気もあります。医者としての仕事が減る?・・、な~んてそんなけちなことはいいません。病気で苦しむことを考えたら、絶対禁煙がおすすめです。やめるストレスは大きいのでしょうが、禁煙外来を開いている病院もありますから、ぜひ活用されてはいかがでしょうか。

 まあ、そんなことで、喫煙者の受難を取り上げてみましたが、しかし我々非喫煙者が被っている「不快感」というものを、あまりに理解していないのが喫煙者ですね。次回は、喫煙者の一人よがりな?勘違いについて、取り上げてみたいと思います。

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2006/02/08

紀子さまご懐妊

 皇室典範改正論議で男系女系とわいわいやっているさなか、紀子様ご懐妊の報が飛び込んでまいりました。失礼とは思いますが、秋篠宮様40歳、紀子様39歳という年齢を考えれば、皇室典範の問題よりも、少子化問題や、熟年での妊娠出産へ一石という感じがしなくもありません。皇室にならってもう一人とがんばる夫婦もあるでしょう。もちろん、少子化対策になるはずもありませんが、家族が増えるということは決して悪いことではないですよね。私も34歳、連れ33歳、この微妙な年齢のカップルでは、もしかして子は授からんか?(っていうか、まだ結婚してませんけど・・)と悩むこともありましたが(何悩んでたの?)、まだまだ全然若いと気を取り直しました(笑)。

 それにしても、皇室典範改正で、男系か女系かを議論していることは、こうして紀子様御懐妊の報にふれてみると、じつに不謹慎な議論じゃないかと考えさせられますね。そもそも、男系堅持という議論は、極論すると、天皇の系譜を継ぐことに関して、女子は無用ということを意味します。なにしろその子は男子であっても女系なのですから・・。つまり、一人御家族が増えるという喜ばしい現実よりも、男か、女か、当たりか、はずれか、みたいな目でしか見ないことを意味しますから、ちょっと問題がないでしょうか。お世継ぎ問題と、今回のご懐妊のニュースは、別問題とするべきでしょう。

 また、世間では、秋篠宮家に男子誕生なら、天皇家は安泰??みたいな雰囲気が漂っていますが、全然そんなことはないということを認識すべきです。
 
 まず、現行皇室典範のままなら、愛子さまは天皇になれません。女性天皇誕生については、ほぼ国民の同意を得られているような気がしますが、秋篠宮様のお子様が天皇になられるのであれば、皇太子殿下の家系は断絶を意味します。私なんかは、違和感を感じますが、そのあたり国民の同意は得られていると考えていいのでしょうか?。

 では、女性天皇は認めるが、女系天皇は認めないという現在の議論を当てはめるとどうでしょう。愛子さまが天皇になられた後、年齢の近い秋篠宮様のお子様が天皇になるというのは厳しいでしょう。結局、このお子様に、また男子が生まれていないと話になりません。これは、上記、現行の皇室典範でこのお子様が天皇を継がれた場合でも、同じことが言えます。男系が継いでいくという可能性が広がるのは確かですが、今回のお子様が男の子だからといって安泰という話ではなさそうです。

 私は、男子御誕生でも、結局その後を考えなくてはならないのですから、今回の御懐妊に関係なく、議論は進めていいのではないかと思います。女子だったらがっかりという話は、秋篠宮様、紀子様、そして生まれてきたお子さまに大変失礼で、あまりに悲しい話です。逆に、男子誕生で天皇家安泰なんていう考えは、上記断絶を含めて、雅子様へのあてつけににしか聞こえないような気がします。

 私にとっては、最初に書いたように、まだまだ子は授かるぞ!ということを再認識させていただけました(?)。男子か、女子かなんていう議論が不謹慎ということもありますが、素直に、新しい命が生まれるということを、みんなで喜ぼうではありませんか。

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2006/02/04

推定無罪とは何か?

 ほりえもん、ライブドアに対して、既存メディアがしょうもない報道を続ていることに、私もうんざりしているわけですが、そうは言っても、ほりえもんが逮捕されたことは重大なことです。昨今、この既存メディアによる「ライブドア叩き」に対して、ブログによる「メディア叩き」も盛んなわけですが、このメディア叩きにも問題を感じています。前回のナベツネさんへの謝罪にも書いたとおり(書いた通りと言いつつ、ちょっと説明不足+細工が過ぎて意味不明瞭でしたか・・、コメントも参照を)、メディアのしょうもないところを強調するあまり、彼の逮捕という事実が減じられてしまっています。その理由のひとつとして、ほりえもんを持ち上げてきたこと、ナベツネさんをはじめとした旧勢力を叩いてきたことの言い訳ではないか?と問題提起と自己反省をしたのが前回のエントリーでした。

 まあ、私の駄論が正しいか、間違っているかはともかく、このメディア叩きの中で出てきたのが、「推定無罪」という言葉です。メディア叩きの中の比喩表現、あるいはメディアに対する警告という意味で、この言葉が使われ始めたと思うのですが、徐々にエスカレートして、ここまでお祭り状態でこの言葉(あるいは推定無罪を前提とした議論)が使われると、ちょっと私としては屁理屈をこねたくなります。前回のエントリーとの関連しているのですが、昨今の議論はともすると、「推定無罪」が都合よく解釈されているのではないかと考えてしまいます・・。

 「推定無罪」、すなわち、容疑者などは、無罪だろうということを前提に扱わないといけないということでしょうが、この言葉を、現行のメディアに当てはめたら大変なことになります。

○○さん殺人事件で、A容疑者が殺人・死体遺棄の疑いで逮捕されました。A容疑者は犯行を否認しています。
「推定無罪」を前提にしたら、こんな報道はをしてはいけませんね。これではまるで、Aが○○さんを殺した犯人のようです。「刑の確定まで、犯人と決め付けないようご注意ください」と競輪競馬風に注釈を入れないといけません。いや、推定無罪を本気で実践するなら、
10年前○○さんが殺される事件があったとさ。犯人Aは死刑になりましたとさ。めでたしめでたし。
てな感じで、事件は刑が確定してから、一昔前のことを報道することになってしまうでしょう。しかし、これこそ真の「推定無罪」のはずです。

 それとも、報道が確からしい証拠を取材していれば、容疑者の段階で報道してもいいのでしょうか。例えば、「現場には、Aの指紋が残されていることがわかりました」というような言葉がくっついていればどうでしょう。いやいや、これは全くの逆効果です。Aの指紋が残っていたら、余計にAが犯人のように錯覚してしまいます。むしろ、

Aは犯行時刻、どこにいたのかわかっていませんが、指紋が残っているのかどうかもわかりません。凶器は何で、どこで買ったのかもわかっていませんが、犯行の動機もよくわかっていません。
と報道した方が、推定無罪っぽくていいような気がします。

 これ位にしないと、屁理屈といえども石投げられそうなので本題に移ります。私が思うに、「推定無罪」という言葉は、本来、裁判の原則を言葉にしたものでしょう。すなわち、「疑わしきは罰せず」という方針です。それが拡大して、公権力全体に対する、「疑わしいだけで権力を行使するな=犯罪、犯人と決めつけずに慎重に捜査しろ」という心構えのことだと思われます。

 報道にこの「推定無罪」という言葉を当てはめた場合、上の私の屁理屈のごとく、完全な実践は不可能ですし、そんなあほなことを望んでいる国民もいないと思われます。基本的には、公権力への解釈同様、「慎重に報道しなさい」ということ以上でも以下でもないと思います。したがって、今回のライブドア関連のメディア叩きに当てはめると、過剰な演出や、罪でもないことまで罪にしたがる報道には、「推定無罪」という原則を心して報道しなさい!と指摘できると思いますが、「犯人扱いするな」とか、「刑が確定していないのに・・」という指摘は明らかに筋違いです。逮捕されたのですから、「罪を犯した犯人である」ということが前提の報道をするのは当然のことです(上記、私の屁理屈参照)。過剰な報道を叩くついでに、報道の本質まで叩いていることになりますから、ほりえもんは無罪と訴えたいのか、ただのメディア叩きのためのメディア叩きとしか考えられません。

 というのも、例えば、ヒューザーの小嶋社長に「推定無罪」の報道をすべきという指摘は聞いたことがありません。社長は逮捕すらされてもいませんが、 全国民で犯人扱いをしているのは明らかです。談合事件で逮捕された方々、彼らにも「推定無罪」は当てはめられません。「刑も確定していないのに」税金泥棒呼ばわりしてもいいのでしょうか?。麻原彰晃なんてひどいものです。「犯人扱い」どころか、「推定死刑」ですから・・・。
 
 しかしながら、松本サリン事件で、第一通報者の河野義行さんを犯人扱いしたことを、捜査した警察、報道したメディア、報道を疑わなかった国民、総懺悔したはずではないですか。しかし、この事件の反省をもとに行動している人なんて皆無です。結果論として冤罪であれば、その場では反省するが、基本的に「推定有罪?=怪しいやつは犯人扱い」を実践し、そして、ここにきてほりえもんにだけ「推定無罪」を当てはめようとする・・・、この国民のチグハグさは、一体どういうことなのでしょうか。

 さらに「推定無罪」を強く言うのであれば、報道に公権力の疑惑、それこそ官製談合の疑惑などを追及するなということになります。「まるで談合をしているかのような報道」はしないほうがいいでしょうか?私はどんどんしてもらった方がいいと思いますね。
 同様に、ほりえもんの疑惑も、当然ながら報道されるべきだと思いますし、彼にだけ事件の本質部分に「推定無罪」を当てはめる理由は、どこにもないと思います。

 前回同様、文が言語不明瞭・意味不明瞭になってしまったので、このあたりで筆をおきます。本日の結論は・・・、「所詮人間は、その場の雰囲気で人を批判したり擁護したりする動物か?」・・・、自己反省を含めて・・・。

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2006/02/02

ナベツネさんへの謝罪

 ほりえもん騒動も少しは和らいできた?今日この頃ですが、このほりえもん逮捕に関するメディアの報道態度、またその報道態度に対するブログの反応というのをよくよく考え直してみました。なんか、我々ブログ書きの、メディアへの対応には引っ掛かりを感じていたのですが、その引っ掛かりの一部にようやく気付きました。私は基本的に被害妄想系の人間ですので、私だけの意見かもしれませんが、参考までに無駄にお読みください。

 今回のほりえもん逮捕後、各メディアは、いっせいに「ほりえもんバッシング」を始めました。それまで、ほりえもんは、「時代の寵児」として扱われていましたから、まさに手のひらを返すような反応でした。しかも、彼の逮捕に直接関わるようなバッシングとは言いがたく、はっきり言って、彼に関しては1~10までな~んでも悪いということになってしまいました。「彼のメディアへの露出の多さは株価を吊り上げるためだった」って批判してた人もいましたが、そんなことは批判するに値しないでしょう。「チョコレートの売り上げを上げるためにテレビで大々的にコマーシャルをはった」っていう話とあまり変わらないですから・・・。

 ちなみに、多くのブログ書きの皆さんが、上記のようなメディアの対応を批判したり皮肉ったりされています。私も、正直、一旦悪者となったら骨の髄まで悪者扱いしないと気のすまない、現行メディアの対応には辟易しています。

 しかし、よく考えてみれば、ライブドアの近鉄買収問題以来、ほりえもんを一番持ち上げてきたのは、我々ブログ書きをはじめとするネット社会だったような気がします。そう、我々は、ほりえもんを、旧勢力を破壊する象徴とし、「時代の寵児」へ祭り上げてきた張本人ではないでしょうか。そして、ほりえもんを祭り上げるため、旧勢力の方々に対しては、さんざんにこき下ろしてきたのも事実です。ナベツネさんなんてどうでしょう。さんざん我々は、「お祭り状態」で、旧勢力の象徴たる彼をこき下ろしてきたではないですか。今から考えれば、それは旧態依然とした制度や対応を糾弾しているつもりだったのですが、明らかに「お祭り状態」で、ナベツネさんの一言一句に文句をつけていたように感じます。

 ほりえもんは、確かに時代を切り開いた天才なのでしょうが、今回の逮捕の原因となっているような行為を本当にしていたとしたら、時代を切り開いたことへの功績をもってしても、彼の罪が減じられるわけではありません。ですから、今、この時期に、彼の功績を持ち上げる必要は全くないはずです。彼にどんな功績があろうと罪は罪なのです。
 
 そう考えると、現在の「ほりえもんバッシング」に対する我々の「メディアバッシング」は、今まで、ほりえもんを祭り上げてきたことに対する単なる言い訳に過ぎないのかもしれません。さらに、この言い訳をうまくごまかすため、無意識のうちに論点をずらして話をすり替えてしまっている行為のような気がします。つまり、我々の「メディアバッシング」は、「我々はマスコミのように手のひらを返すようなことはせず、正当に人物を評価しますよ」というメッセージですから、功績と罪とを相殺して、結果的に彼の罪を減じることで(彼の功績を強調することで)、ほりえもんを祭り上げてきたことに言い訳し、正当化する行為(あるいは、我々のお祭り騒ぎを忘れようとする行為)に他ならないと考えます。しかし、直接的にはメディアバッシングであり、我々自身への言い訳とは、我々自身が意識しません。自ら話をすり替えていること気付いていないのです。

 私の言いたいことは、我々がほりえもんを祭り上げたことと、そのことに警告を発していた人物をこき下ろしたことを、結果論として、あくまで結果論として、反省し、見直しておくべきだろうということです。

 私は、別にナベツネさんを評価するつもりはありません。基本的に、旧勢力の代表であることは間違いないと思いますし、プロ野球界をいい方向へ導くリーダーとは考えていません。しかし、あくまで結果論としてですが、彼がほりえもんに対し、「会ったこともないような人間を(球団の)オーナーにすることはできない」と発言したことを、我々は旧勢力の新勢力に対する拒絶と読みさんざんにこき下ろしたのですが、実際には、ナベツネさんの「人物評」の方が正解だったと言えます。先日インタービューを受けていたナベツネさんは、「とにかく彼(ほりえもん)が、(球団)オーナーでなくて良かった」というような発言していましたが、確かにほりえもんがオーナーにならなかったことは、プロ野球界にとって、まさにすれすれの危機回避だったといえるでしょう。

 私の考え方には、批判的なご意見も多いかと思いますが、しかし、とりあえず私は、ナベツネさんに対して、謝罪しておこうと思います。

「無礼を許せ!すまん!」
一番反省していないのは、彰の介ってやつかもしれません・・・。これで、ほりえもんが無罪になったら、もう一度反省文を書かせていただきます。

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