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2006/06/22

無駄論的故事成語(1)

 私はある日突然、中国史に目覚め、陳瞬臣さんの本をバイブルとして大事にしています(無駄論(歴史考察) つまらない歴史教科書)。日本人は、中国の歴史書等から、人生訓やたとえ話など、いわゆる故事成語として多くを学んできました。私の場合、中国史を趣味にすることで、いろいろな故事成語の語源やいわれなどを非常に興味深く勉強することができ、大変楽しい思いをしています。しかし、よくよくいわれを見直してみると、現代、我々が使っているのとは意味が違うんじゃないのかと思われるものや、いわれそのものに、屁理屈をこねたくなるものがたくさんあることに気付きました。そんな故事成語をいくつか紹介しながら、私の自己満足にすぎない(笑)、無駄論的屁理屈三昧を綴っていこうと思います。

 最近、そのいわれを知って、現在の使われ方(私だけかも)と意味が全然違うと感じ、ショックを受けた言葉から始めましょう。
 それは、折檻(せっかん)という言葉です。ネット検索で「折檻」と入れれば、幼児折檻死なんていう記事がたくさん出てくるわけですが、私は漠然と、「強いものが弱いものにする激しい暴力」とずーっと理解していました。理解していたというか、幼児折檻死なんていう言葉は、まさに私の理解どおりの使われ方と言っていいような気がします。さてその本当のいわれですが、みらいぽーと-歴史の旅路-というページを参照させていただきます。そのいわれをうつさせていただきますと、

前漢の成帝の時代、外戚の専横に憤りを感じた朱雲が、帝に謁見を求め、諸臣を前にして、
「今、朝廷の大臣は、上は主上を諌めることができず、下は民のために利益をはかってやることができていません。願わくは、宮中の蔵にある斬馬剣(馬を斬るほどの名剣)を賜り、そのように媚びへつらう者を斬って、見せしめにしたいと思います。」
成帝が、誰のことかとたずねると、「 張禹 ( ちょうう ) どののことです。」と答えました。
しかし、張禹は、成帝の師で、 丞相 ( じょうしょう ) だったため、成帝は怒り、
「下っ端の分際で、よくも予の師を侮辱したな。その罪は、死んでもゆるさんぞ。」と言いました。
御史(官吏の不正を糾明する役)が、朱雲を殿上から引きずり下ろそうとしましたが、朱雲は、手すり(檻)にしがみついて離さなかったので、ついに手すりが折れてしまいました(折檻)。
この様子を見ていた左将軍の 辛慶忌 ( しんけいき ) が、宮殿の床に頭を打ちつけて血を流しながら、
「あの者は、前から周囲をはばからずに正しいことを言う者として知られています。彼の言うことを正しいと思われるならば、処刑してはいけません。また、正しくないとしても、お許しになるべきです。」
と言ったので、成帝もその言葉を聞き入れ、朱雲を罪に問うことを止めました。
後に、その手すりを修理することになりましたが、成帝は、「壊れた手すりを集めて繋いでおき、直言の臣の記念としよう。」と言って、手すりを取り替えさせませんでした。
折檻というのは、この故事のごとく、手すりが折れるほど必死になって、強く諌める(いさめる)ことを言うわけで、人間の関係から言えば、下位者から上位者に対する、報復無視の直言ということになりましょうか。この故事からは、私の理解のような、暴力というのは全く関係ありませんし、弱いものいじめでもありません。しかし、例えば、私が、小泉総理に、その政治手法を強く諌めた場合、「彰の介、小泉総理に折檻!!」なんていうふうに使うことはあるのでしょうか?。この折檻という言葉に対して、弱いものいじめの暴力という印象がぬぐえない私の場合、この「小泉総理に折檻」という言い方からは、どうしてもボコボコにされた小泉総理しか想像できないんですね。

 改めて「折檻」という言葉を辞書で調べてみると、「きびしくしかること、責めさいなむこと」となっています。さいなむ=いじめるという意味は書いてあるものの、暴力とは書いてありません。幼児折檻死という使い方をする場合、ただの”いじめ”という意味で使われていたとしたら、私の認識は全く間違っていたといわざるを得ません。このあたり、皆さんの意見を聞いてみたいものです。

 全く根拠のない推論ですが、私のような、この折檻という言葉に対するイメージというのは、「折檻」という漢字によってもたらされているのではないかと考えます。「檻」という言葉は、上のエピソードでは手すりという意味になっていますが、ふつう「おり」と読むでしょうか。鳥の”おり”の”檻”ですね。そんな檻(おり)を折ってしまうほどの、激しい暴力というイメージは皆さんにはありませんか?。私だけですか?。いやいや、どうしても暴力に結び付けたい私のこじつけと言われればそれまでですが、いずれにしても、長い時間の経過で、この折檻という言葉から、「諌める」という下位者から上位者への方向性は、なくなってしまったようです。

 まあ、こんな感じで、どうでもいい考察を無駄に続けようと思います。今回のような成語の使われ方という面では、「傍若無人」「完璧」「合従連衡」、エピソードにケチをつけたいもの(笑)としては「隗より始めよ」「管鮑の交わり」「覆水盆に返らず」等がありますね。気が向いたら、少しずつ無駄な自論を展開していきたいと思います。

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