無駄論的故事成語(2)
前回の無駄論的故事成語(1)では、「折檻」という言葉の現在の使われ方が、そのエピソードとはちょっと違うぞというところを指摘させていただきました。実は、私が一番言いたかったことを書き忘れてしまいましたが、現代の辞書にのっている例えば「折檻」という言葉の意味というのは、エピソードと、変質した現在の使われ方の中間ぐらいを取っているということです。
折檻で言うならば、辞書でその意味をひくと、「きびしくしかること」なんて書いてあるわけですが、残念ながら、言葉だけの「きびしくしかる」行為を、現代で「折檻」とは使わないと思います。辞書は、そのことをわかっていながら、逆にエピソードについても熟知しているため、その中間の意味を取ってしまっていると私は考えています。国語学者によっては、現代の使われ方を「誤った使われ方」というわけですが、そんなことを言い出したら、とことんエピソードに沿った意味を本来の意味とすべきであり、折檻であれば、「下位者の上位者に対する厳しい直言」というのを本来の意味にすべきでしょう。こういう私のような意見というのは、ただの屁理屈なんでしょうか?。
まあ、それはともかく、引き続き私の屁理屈に入りましょう。本日の言葉は「傍若無人」です。その昔、「クイズ日本人の質問」で、「傍らに(かたわらに)若くない人」と、「ぼうじゃくぶじん」という言葉とどんな関係があるのですか?という質問があったかと記憶しています。残念ながら、「傍若無人」という漢字四文字は、傍らに若くない人ではなくて、「傍らに人無きが若し(かたわらにひとなきがごとし)」と書き下すわけですが、このクイズ番組では、そばに人がいないかのように、どんな行為をしたのでしょうか?というのがクイズになっていました。
この傍若無人のエピソードの主は、あの秦の始皇帝の暗殺に失敗した荊軻(けいか)という人物です。出典は史記の刺客列伝(暗殺者の列伝)で、この荊軻が友達と酒を飲むと、人目構わず「泣いた」(ひどい泣き上戸?ってことらしい)というのが、上のクイズの答えです。また前回と同じく、みらいぽーとさんの傍若無人のページをリンクして、少しエピソードを書いておきます。
荊軻は酒好きで、毎日、狗屠(くと)や高漸離(こうぜんり)と盛り場で宴会をしました。宴もたけなわになると、高漸離が筑をうち鳴らし、荊軻がそれにあわせて歌うという具合で、互いに楽しみ、そうかと思えば、お互い泣き出すという始末で、まるで、そばに誰もいないかのような振る舞いでした。( 傍 ( かたわ ) らに人無きが 若 ( ごと ) し)実は、そんな荊軻の泣き上戸の話は、本題とは離れたどうでもいい話なのであって、この荊軻らによる始皇帝暗殺失敗の話は、非常に小説的な面白い話です。ぜひ上記リンクから、その顛末を読んでもらいたいと思います。
さてさて、私の屁理屈ですが、人目構わず大声で泣くことを、現代では「傍若無人」と表現することはないと思いませんか。これまた辞書で傍若無人を調べてみると、「周囲の人を無視して、気ままに振舞うこと」となっていますが、私の印象として、ただ気ままに振舞うだけでは、傍若無人とはいわないでしょう。現代の使われ方としては、「自己中心的な傲慢な態度」という感じではないでしょうか。周囲の人を無視することと、自己中心的とは意味が違いますし、気ままな振る舞いと、傲慢な態度はちょっと違います。みんなでカラオケやってて、マイクを離さず歌いっぱなしの人を傍若無人とは言いませんが(周囲を無視して気ままに振舞っていますが)、せっかくカラオケを楽しんでいる現場に見知らぬ人が踏み込んで、「てめ~らどけコラ!、俺が歌うんじゃ!」なんて言ってマイクを奪ったら、これは傍若無人です(極めて傲慢な態度)。そう、悪い意味での荒々しさがなければ、傍若無人とは言わないのです。
故事成語というのも、どんどん使われ方が変わってきているのでしょうが、そのエピソードは変わらないために、私の考えるような、ギャップが生まれてくるのだと思います。こうしたギャップを、私は正しくないとは思いませんが、辞書に書いてある意味は実に中途半端だということがわかります。
まあ、私の屁理屈はともかく、故事のエピソードを知ることはとても楽しいことなので、皆さんにもお勧めします。今後も私の趣味をもう少し続けていきたいと考えています。
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