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2006/07/28

正しい慣用句は正しいのか?

 文化庁の日本語調査で、慣用句の誤った使われ方が浮き彫りになったようです(怒り心頭に「達する」7割 文化庁の日本語調査)。記憶のために転載しておくと、

激しく怒る意味の慣用句として、本来の「怒り心頭に発する」を使う人が14・0%にとどまったのに対し、「怒り心頭に達する」を使う人は約5倍の74・2%に達するなど、慣用句の誤用が多いことが文化庁の日本語調査で明らかになった。文化庁は「日常であまり使わなくなった結果、本来の言い方が分からなくなったのではないか」としている。周囲の人に明るく振る舞うという意味の言葉として「愛想を振りまく」を選んだ人は48・3%。本来の言い方の「愛嬌(あいきょう)を振りまく」の43・9%より多かった。はっきりと言わないことを意味する慣用句「言葉を濁す」は66・9%で本来の言い方が上回ったが、「口を濁す」も27・6%に上った。
 ちょっと主旨が違うかもしれませんが、私は過去に日本語の乱れ?ということに関してエントリーしたことがあります(正しい日本語ってあるの? 方言は第二外国語)。また、言葉の意味の誤用?変遷?辞書との相違?に関して、最近故事成語(折檻と傍若無人)についてエントリーしておりました(無駄論的故事成語(1) 無駄論的故事成語(2))。どうも、私は、この故事成語の元になっているエピソードと、現在使われている意味の違いについてはそれほどの違和感は持っていませんが、現在の正しいとされる意味を載せている辞書の解釈が釈然とせず、その載せている意味というのが、実に中途半端だということを上記エントリーで指摘させていただきました。そういう意味において、この慣用句の「誤った使われ方」という言い方にも屁理屈をこねたくなるというもので、国語学者に物申したいところです(Wikipediaに日本語の乱れというページがありました。私の考えは、このページの著者の考えに近いかもしれません)。

 怒り心頭に達する・・・残念ながら、私もこう使っています(笑)。私も、屁理屈をこねたいとは書きましたが、本来の言い方、使われ方、その意味というものを否定するわけではありません。自分の無知の言い訳をするつもりはないわけです。
 しかし、この「怒り心頭に発する」の正しい意味とされているものには理屈こねておきましょう。上記新聞記事によれば、この言葉の意味を、「激しく怒る」としています。しかし発すると達するを間違えていた私がいうのもなんですが、この言葉の意味を「激しく怒る」とするのは間違いではないでしょうか。激しく怒っている状態ではなくその文字通り、激しい怒りがじりじりめらめらと心にわきあがってきている様子や、その怒りを心に溜め込んでいる状態を「怒り心頭に発する」と言うのであって、要するに怒りを相手にぶつける直前の状態、堪忍袋が膨れ上がって、まさに緒が切れる寸前までの様子を言うのではないでしょうか。その激しい怒りを誰かにぶつけている様子、すなわち激しく怒ってしまっている状態のことを「怒り心頭に発する」とは使わないとは思いませんか。そんな激しく怒る直前までの様子をいうからこそ、緒が切れるところまで達すると言ってしまう人もいると思いますし、こういうニュアンスをいい加減に扱うな!というのが私の大屁理屈です。

 ちなみに、怒り心頭に発するという言葉の語源を私は知りませんが、心頭という言葉の意味が心ということならば、この慣用句をそのまま素直に解釈すると、「心に怒りが発生する」ということになります。そうすると、「激しい」という意味はいったいどこから来たのでしょうか。ただの心ではなく、心頭に発する怒りというのは、激しいものなんでしょうか。なんとなくそのあたり、すでに本来の意味から何かしらの修飾がされている(いつのまにか激しいと言う意味が付け加えられた)ものの意味を正しい意味としているような気がしてなりません。むしろ、誤ってはいても漠然と、恐ろしげな心頭というものに達する程の怒りとした方が、激しいというニュアンスが出てきます。このあたり語源を知らないのでいい加減な説ではありますが、いつの間にか本来の意味に修飾が加わり、本来の表現では、現在使われている意味とのギャップが生まれたため、それを補うように誤った表現がされているのではないかと考えてしまいます。そんな言葉の意味の変遷の説明がないままに、誤った使い方と言われるのは、本来おかしな話で、私の屁理屈のネタにされてしまうというわけです。

 この他、「後で後悔する」というのも、使い方が誤っているそうです。後悔という言葉に「あと(後)」という言葉が入っているので、後でという言葉とは二重になり、「頭痛が痛い」と同様の誤った使い方だというのですが、これは正直言いがかりとしか思えません。「一番最後」もおかしいと言うのですが、これはもっとひどい言いがかりでしょう。これは誤っていると言っている人たちの言葉遊びとしか思えません。

 そんなことで、故事成語の本来のエピソードと現代の使われ方のギャップを考察していた関係で、今回のエントリーに結びつきました。私は慣用句そのもののフレーズが誤っているということは認めても、現代の意味や使われ方が本来の意味と同じとは認めませんし、そういう意味で、「正しい使い方」とはなんだろうと考えてしまいます。それを鬼の首を取ったように、「誤っている」と言う人たちこそおかしいと思う私、彰の介なのでした。

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2006/07/26

ブログ開設2周年!!

 三日坊主協会会長の私が、この7月25日をもって、なんと、ブログ生活2周年を迎えました。
まずもって拍手 「パチパチパチ!!」。
 以前ほどの更新回数をこなせなくなり、何度となく危機を迎えましたが、ここまで続けられたのも、無駄にこのブログを読んでくださる皆様のお陰と感謝しております。

 この記事を含めまして、エントリー数は242、いただいたコメント(私も入ってますが)849、いただいたトラックバックは389となっております。やや遅れて設置したカウンターも、まもなく100000クリックを記録しそうなところまできました。一日100~120クリック程度の零細ブログではありますが、インターネットの片隅で、引き続き無駄に屁理屈をこねていこうと考えています。

 昨今のブログブームで、この「彰の介の証言」も林立したブログの影に埋もれてしまいましたが、埋もれただけに、変に気にすることなく言いたいこといっていこうと思います。それでは皆様、ご祝儀に下のランキングもポチッと押していただけると幸いに存じます。今後も引き続き、「彰の介の証言」をよろしくお願いいたします。

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2006/07/22

靖国(2)

 「靖国」を書いてから随分時間がたってしまいましたが、昭和天皇の靖国神社に対する気持ちのメモが出てきたことで、ここに(2)を書く気になりました。靖国参拝賛成派の動揺が各地で感じ取れますので、今後分祀論が強くなるのかもしれませんが、どうなんでしょう。

 昭和天皇の気持ちを綴ったメモ(富田朝彦宮内庁長官の88年4月28日付の手帳)を、記憶のために転載しておきます。 

「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」
まあ、極めてショッキングなメモの出現です。このメモの発見から、多くの政治家が発言を求められていますが、意外に不思議な発言は、もろ右だと思っていた石原東京都知事の発言でしょうか。
「(昭和天皇の)お気持ちはよく分かりますね」「私が戦争の責任者と思っているA級戦犯について祈るつもりは毛頭ない」 A級戦犯について「占領軍が勝手に決めたもので、気の毒な立場の人もいるし、明らかに戦争の責任者もいる」。戦勝国による東京裁判を「一方的に勝者が敗者を裁く裁判に正当性はないと思う。日本人自身が裁くべきだった」と批判する一方、「裁判に正当性がないと言っても、断罪された人たちに罪がないというのはおかしい」
 前回の「靖国」で指摘したことなのですが、靖国問題に関して、思いは同じでも、結論が違う場合と、思いが違うのに、結論が同じ場合があります。「A級戦犯の罪」を論点にするならば、昭和天皇はA級戦犯には罪があると感じ、参拝をやめていたことがわかります。同じく、石原都知事も、A級戦犯には強く罪を感じていることがわかりますが(東京裁判という裁判形式はおかしいと言っていますが)、昭和天皇とは違って参拝を今年もすると明言しているといいます。前回の記事に書かせていただいた、評論家の三宅久之氏や、佐々淳行氏らも石原都知事と同じパターンで、A級戦犯に罪ありとしながら、靖国参拝は問題ないとしています。

 私は、以前の歴史観シリーズに書かせてもらったとおり、A級戦犯は罪ありと考えています。私は、昭和天皇と同様に、罪あるA級戦犯が祀られている靖国神社への参拝は基本的に反対の立場ですが、そういう私のような人間からしてみると、「A級戦犯に罪あり」としながら、「靖国参拝は問題なし」としている人たちの気持ちが今ひとつ理解できません。おそらく、「A級戦犯のためだけに参拝しているわけでない、その他大勢の御霊に参拝している」という気持ちなのでしょうが、そう考えると、分祀論者新追悼施設建設派ということになりますが、はたしてそうなのでしょうか。あるいは、そんなことはどうでも良くて、とにかく外国(中国や韓国)からの圧力で「参拝しない」「分祀する」ということにアレルギーを持っており、A級戦犯のことは置いておいても、意地でも参拝には賛成ということなのでしょうか。

 実は、そんな考え方の違いから、対立軸を作ることよりも、問題にすべきは「なぜ靖国神社がA級戦犯を合祀したか」ということに尽きると私は考えています。つまり、本来その合祀する定義に当てはまらないはずのA級戦犯を、なぜあえて合祀したかということです。そして、そのことによって、現在の靖国神社はどういう意味を持つ神社になったのかを、考えなくてはなりません。そのあたりの私の考えを、次回に書きたいと思いますが、びびったら書けない内容なので、次回がないこともありえます。あしからず。

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2006/07/19

無駄論的故事成語(2)

 前回の無駄論的故事成語(1)では、「折檻」という言葉の現在の使われ方が、そのエピソードとはちょっと違うぞというところを指摘させていただきました。実は、私が一番言いたかったことを書き忘れてしまいましたが、現代の辞書にのっている例えば「折檻」という言葉の意味というのは、エピソードと、変質した現在の使われ方の中間ぐらいを取っているということです。

 折檻で言うならば、辞書でその意味をひくと、「きびしくしかること」なんて書いてあるわけですが、残念ながら、言葉だけの「きびしくしかる」行為を、現代で「折檻」とは使わないと思います。辞書は、そのことをわかっていながら、逆にエピソードについても熟知しているため、その中間の意味を取ってしまっていると私は考えています。国語学者によっては、現代の使われ方を「誤った使われ方」というわけですが、そんなことを言い出したら、とことんエピソードに沿った意味を本来の意味とすべきであり、折檻であれば、「下位者の上位者に対する厳しい直言」というのを本来の意味にすべきでしょう。こういう私のような意見というのは、ただの屁理屈なんでしょうか?。

 まあ、それはともかく、引き続き私の屁理屈に入りましょう。本日の言葉は「傍若無人」です。その昔、「クイズ日本人の質問」で、「傍らに(かたわらに)若くない人」と、「ぼうじゃくぶじん」という言葉とどんな関係があるのですか?という質問があったかと記憶しています。残念ながら、「傍若無人」という漢字四文字は、傍らに若くない人ではなくて、「傍らに人無きが若し(かたわらにひとなきがごとし)」と書き下すわけですが、このクイズ番組では、そばに人がいないかのように、どんな行為をしたのでしょうか?というのがクイズになっていました。

 この傍若無人のエピソードの主は、あの秦の始皇帝の暗殺に失敗した荊軻(けいか)という人物です。出典は史記の刺客列伝(暗殺者の列伝)で、この荊軻が友達と酒を飲むと、人目構わず「泣いた」(ひどい泣き上戸?ってことらしい)というのが、上のクイズの答えです。また前回と同じく、みらいぽーとさんの傍若無人のページをリンクして、少しエピソードを書いておきます。

荊軻は酒好きで、毎日、狗屠(くと)や高漸離(こうぜんり)と盛り場で宴会をしました。宴もたけなわになると、高漸離が筑をうち鳴らし、荊軻がそれにあわせて歌うという具合で、互いに楽しみ、そうかと思えば、お互い泣き出すという始末で、まるで、そばに誰もいないかのような振る舞いでした。( 傍 ( かたわ ) らに人無きが 若 ( ごと ) し)
実は、そんな荊軻の泣き上戸の話は、本題とは離れたどうでもいい話なのであって、この荊軻らによる始皇帝暗殺失敗の話は、非常に小説的な面白い話です。ぜひ上記リンクから、その顛末を読んでもらいたいと思います。

 さてさて、私の屁理屈ですが、人目構わず大声で泣くことを、現代では「傍若無人」と表現することはないと思いませんか。これまた辞書で傍若無人を調べてみると、「周囲の人を無視して、気ままに振舞うこと」となっていますが、私の印象として、ただ気ままに振舞うだけでは、傍若無人とはいわないでしょう。現代の使われ方としては、「自己中心的な傲慢な態度」という感じではないでしょうか。周囲の人を無視することと、自己中心的とは意味が違いますし、気ままな振る舞いと、傲慢な態度はちょっと違います。みんなでカラオケやってて、マイクを離さず歌いっぱなしの人を傍若無人とは言いませんが(周囲を無視して気ままに振舞っていますが)、せっかくカラオケを楽しんでいる現場に見知らぬ人が踏み込んで、「てめ~らどけコラ!、俺が歌うんじゃ!」なんて言ってマイクを奪ったら、これは傍若無人です(極めて傲慢な態度)。そう、悪い意味での荒々しさがなければ、傍若無人とは言わないのです。

 故事成語というのも、どんどん使われ方が変わってきているのでしょうが、そのエピソードは変わらないために、私の考えるような、ギャップが生まれてくるのだと思います。こうしたギャップを、私は正しくないとは思いませんが、辞書に書いてある意味は実に中途半端だということがわかります。
 まあ、私の屁理屈はともかく、故事のエピソードを知ることはとても楽しいことなので、皆さんにもお勧めします。今後も私の趣味をもう少し続けていきたいと考えています。

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2006/07/10

ココログ最悪!

 引越し後、やっと落ち着きました。我が家にもブロードバンド環境が整い、ブログ活動をぼちぼち再開しようとしていたのですが・・・、残念ながら、このココログというnifty提供のブログは最悪で、正直活動再開どころではありませんでした。まあ、文句は今まで他の方がさんざんしていますし、いろいろな提案もあったと思うのですが、全くの無視、繰り返される無駄な(今まで効果があったと思えない)メンテナンス、そして、現在のこの重さ(管理ページに入るのさえ厳しい、コメントも大変、スパム消すのも何分かかることやら・・というか、消せないことも度々で話になりません)・・・、新手のスパム対策かとも思いましたが、もう本当に勘弁していただきたいばかりです。

 そもそも、ココログでブログを始めた理由は、プロバイダーがniftyだったということのみです。どうせ接続料金は払っているので、ある意味タダですし、いろいろと楽だからということがありました。最近、ココログに寄せられている、大量の怒りのコメントを読んでみると(例えばこのページのコメントなど参照)、私と同じような、昔からのニフティーサーブ時代からのユーザーも結構いて、愛着があってプロバイダーの変更まではしたくないという人や、せっかく始めてしまったブログ記事を消したくないという人がたくさんいます。今現在のココログの障害に、私を含めた多くのユーザーが怒っているわけですが、その障害そのものよりも、この昔から愛着を持って使っている(料金を払っている)ユーザーが、非常にないがしろにされているという現実が最大の怒りの原因なのです。

 昔からのユーザーをめちゃくちゃ怒らせたのが、ココログ「フリー」の出現でしょう。何しろ、金を払っている「ベーシック」よりも、料金ただの「フリー」の方が機能が充実しているのですから。私なんかワザワザ料金上乗せしてまで「プラス」に格上げしたのですが、全くの無駄でした。それに伴って、4月からはアクセス解析機能が充実するはずだったのに、相次ぐ不具合のせいでのびのびに。ところが、これがのびのびどころか、5月29日の遅れていますというアナウンス以来、全くその後の連絡無し・・・(このページ)、正直、金返せと言いたくなるのは当然のことです。フリーの方はさくさく動くなんてうわさもあり、もう言うことはありません。

 正直こうなってしまっては、フリー以外の正規のココログユーザーに対して、一年程度、料金無料あるいは減額してもらわないと腹の虫が治まらないというか、むしろ妥当なことでしょう。これ以上、昔からのユーザーをないがしろにすれば、「恐ろしいことになりますよ」。今後も、ココログを使って、ココログの文句を世界に公開していくことになるでしょう。ちなみに、この記事がアップされたとしたら、めちゃくちゃ重い状況で作業していますので、神様のご加護でアップされたとしか思えないような気がします。

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2006/07/02

引越しました

 今回、東京から静岡県某所の温泉地へ引っ越しました。
引越しの準備だけでなく、6月末から、細かい仕事に忙殺されておりました。現在も、ブロードバンド環境が整わないため、しばらく、エントリーできないと思います。こんな無駄ブログでも、見ていただいている方々、申し訳ありません。
 それではまた、お会いする日まで・・・。来週?再来週?、ちょっとわかりませ~ん。それでは。

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