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2006/09/28

がんセンターというところ

 日本各地にがんセンターと呼ばれるがん専門病院があります。未だに不治の病として認識されているがんですから、もし見つかったら専門の病院で治療したいと思う人は多いと思います。もちろん一般病院でもがん治療にたけたところはたくさんあると思いますが、なにしろ病院の名前が「がんセンター」ですから、その信頼度は高いものがあるでしょう。

 私は職業柄やぶ医者をやっていますが、がんを専門にはしておりませんので、がんセンターとの付き合いはほとんどありません。しかし、意外な形でがんセンターに通う患者との接点を持つことがあります。そんなわけで、またしてもこそこそと、とあるがんセンターの批判をしたいと思います。あくまでとある地域のがんセンターの話で、全てのがんセンターがそうかどうかはわかりませんのであしからず。

 私が経験するがんセンターにかかりつけの患者をみる機会というのは、主に救急外来です。夜中に突然お腹が痛くなった、急に体調が悪くなったなどという場合に、一般病院にかかるのです。かかりつけのがんセンターのほうに行ってもらったほうが、病気がどんな状態で、どんな治療をしていて、どんな経過なのかがわかるので、絶対にいいと思うのですが、救急車をはじめとして、がんセンターはかかりつけであっても救急患者を受け入れていません。以前もかかりつけの末期のがん患者の急変をがんセンターは受け入れしませんでした。普段かかっている専門病院で診てもらいたい、治療してもらいたいと思っても、時間外や重症だったら診てもらえないという実に不可解な現実があるのです。

 全然病態のわからない患者を受け入れるこちら側も大変なのですが、患者さんにとってそれがいいこととはとても思えません。確かに、がんセンターというのは、一般病院よりも上手にがんの治療はしてくれるのでしょうが、何かあったときに、すぐに対応してくれるというものでなければならないはずです。がんの治療はするけれど、後は何かあっても知らないというのではがんセンターの意味がありません。それでいて専門病院を名乗るのはいかがなものかと疑問を感ぜずにはいられないのです。

 まあ、要するに、自分にとって本当に必要な医療が受けられるかどうかを、「病院の名前」で判断するべからずという話です。病院には病院の都合というものがあり、患者の都合は二の次ということが少なくありません。しかも、医療機関自体はそれに気付いていない・・・。これも現行医療の現実です。

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2006/09/24

精神科というところ

 記事を見つけられませんでしたが、以前、精神科入院中の患者が、外泊中に殺人事件を起こした事件がありました。朝のニュースを見ていたら、この被害にあった家族が、この精神科病院を相手取って訴訟中とのことでした。つまり、外泊させたのが本当に適切であったかどうかが問われているわけですね。このことに関する私見と、私の抱く精神科への疑問を書いてみようと思います。私は、職業柄やぶ医者をやっているわけですが、内科医も精神科医も基本的に医師としては同業なので、批判めいたものは書きにくいのですが、こっそり本音を漏らしちゃいます。やばい?。

 結論から言うと、上記裁判で家族が勝つのは大変難しいと考えます。なにしろ、この精神科の患者が、殺人を犯すということを予見できたということを証明するのは並大抵のことではないと考えるからです。結果論から言うと殺人を犯してしまったわけですが、そもそも外泊が許されるくらい症状が落ち着いていた事実をならべられたら、殺人の予見はできなかったということで終わりのような気がします。もちろん、この案件について何か知っているわけではありませんので、一概に言えませんが、一般論として、これで病院の罪が認められるようならば、精神科系の病気を持った患者は、みんな強制隔離すべきという話になってしまい(いつ殺人を起こすかわからないから)、人権的にも大いに問題があるように思います。

 ただ、逆に、この病院が、十分責任を持って患者を管理していたかどうかはなんともいえません。裁判で負けないということが、十分な管理がされていたことを意味するわけではないからです。私は内科医として仕事をしてきましたので、精神科専門病院の実際というものを知らずに物を語るということでご批判があることは覚悟しています。また、きっとお互い様というところもあると思いますので、めくそはなくその議論かもしれません。自分達の立場は棚に上げて、なぜに私が患者の管理について疑問を持つかというところの、理由を述べようと思います。

 例えば、アルコール依存症(アル中)の人がいるとします。家族が何とかアルコールから抜け出してくれないかとわらをもすがる気持ちで、アルコール依存専門外来を開いている精神科を訪ねたとしましょう。何しろ専門外来ですから、そこで診てもらえば何とかなる・・・と誰しも思うでしょうが、実は、治療を受けるためには、意外なハードルが存在します。治療の前にまず聞かれること、それは、本人の治療意思の有無です。つまり、アルコール依存の本人に対して、「アルコールやめる意思はありますか?」と聞かれるわけです。そこで、「ハイ」と答えればいいものの、「酒をやめられるわけねえだろ!!」ってな返事をしようものなら、「あらそうですか、ではお帰りください」で終了です。本人にその意思がなければ、門前払いされるわけです。それは、いくら家族がやめてほしいと思い、懇願しても関係ありません。本人にやめる気がないのに、治療しても無駄というわけです。

 正直言うと、こういう精神科の姿勢というのは、内科医から見るとお気楽としかいいようがありません。例えば、アルコール依存の人は、肝臓を悪くし、肝硬変になる人も少なくありません。酒を飲んでは肝機能が悪化し、救急外来にかかる人や、 ひどい場合吐血して緊急内視鏡(胃カメラ)を施行しなくてはならないという人もいます。いずれにしても、お酒をやめるのが唯一の治療なわけですが、それができないからといって門前払いにはできません。口から血を吐いている酒臭いアル中のおやじに、「飲むなって言っただろ!!、帰れ!!」とか、「飲むなら二度と病院にくるな!!」・・・なんてことは、内科医は決して言えません。なにかしら症状があるのなら、その症状に対する治療をしなくてはならないのです。

 精神科領域の患者さんは、時に(自殺企図などで)、出されている薬をいっぺんに飲んでしまったり、農薬や化学薬品を飲んでしまったりする、いわゆる急性の薬物中毒を起こすことがあります。しかし、全ての精神科病院というわけではありませんが、かかりつけの病院が、こういう患者を引き取らず、救急車を受けないなんてことが多々あります。薬物中毒は内科が診るもので、精神科じゃないから知らな~いっていうわけですね。何でそんなに無責任になれるのか、私なんか不思議でしょうがありません。また、以前衝撃的だったのは、何度言っても薬を大量服薬して救急外来にやってくる患者に対して、精神科の先生が「もう飲まないって約束したじゃないか!、もう俺は診ない!!」って言って帰ちゃったことですね。そんなの怒ったってしょうがないですし、俺は診ないって言ったって、誰かは診なくちゃいけないんですから・・・要するにその場にいた内科医の私が診るはめになったわけで、そんな態度は、まさにお気楽商売としか思えないのですが・・。

 とは言え、我々は何かと精神科の先生にはお世話になることも多く、愚痴はこそこそこんなところでしか言えません。で、何が言いたかったかといえば、もともと精神科という領域は責任論という意味では上記のとおり特殊であって、入院患者が殺人を犯すかもしれないという責任論的な危機感があったかどうか、私はついつい懐疑的になったという話です。私なんかは病気のせいだと思うことも、専門的には本人が悪いということなのですから、「人を殺すなんて言ってなかった」って言うのが、この裁判の重要な証拠になってしまったりするのかもしれません???。

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2006/09/16

麻原が真相を語っても・・

 麻原彰晃の死刑が確定しました。私個人としても、一歩間違えばサリンの餌食になっていた可能性があるということもありますが、いずれにしても、彼の死刑に対して「当然」という言葉以外に何も感想はありません。

 昨日あたりは、一審で死刑判決が出た直後のビデオが盛んにニュースなどで流されていました。裁判所前に設置されたカメラに向かって、全力疾走してきた記者が息を切らせながら、「死刑です!、死刑です!、麻原被告に死刑が言い渡されました!」っていうやつですね。改めて見なおしてみても、実にこっけいです。何がっこっけいかと言えば、死刑が言い渡されることは「当然」なのであって、息を切らせる演出なんて全く必要なかったということです。判決が無期懲役だったら、これはいけません。息を切らせて、「なんと麻原被告に無期懲役が言い渡されました!」とやらないといけませんが・・・。

 この麻原死刑確定のニュースをみると、どのニュースもこのニュースも、決まり文句のように「ついに麻原被告本人から真実を語られることはありませんでした」と最後に付け加えるのも気になります。私的に、この言葉は、やり場のない被害者、被害者家族の怒りだと感じているのですが、赤の他人のニュースキャスターやら解説者が使うべき言葉かどうかはよくわかりません。
 なにしろ、麻原がやったことを考えれば、真実が語られたところで、彼への罪が減じられるとは到底思えませんし、むしろ、真相を語ったり、反省の弁を口にしたとしても、「何を今更、のうのうと!」ってな調子で余計に批判することになるだけのことですから・・。被害にあわなかった我々にとって、彼への終着点はあくまで「死刑」なのであって、彼の「死刑」が決して終着点になりえない被害者家族の代弁者よろしく、麻原の態度を云々することに、私はやや抵抗を感じてしまうのです。

 まあ、そうナーバスにならなくても、悪人へのそれらしい批判が非難されるようなことはありえないのでしょうが、それらしいのが大嫌いな私ですので、いつもの屁理屈を語らせていただきました。
 
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2006/09/13

私事ではございますが

 この度、私彰の介、結婚いたしましたことをご報告させていただきます。
これをきに、この「彰の介の証言」は、しばらくの間、浮ついた気分で記事のアップを行いますことをお許しください。

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2006/09/06

やっぱりわからん?責任論

 ほりえもんの裁判が始まりました。注目の裁判とはいえ、ほりえもんの格好がどうだとか、表情がどうだ、視線がどうだとやってる報道の姿は相変わらずで、はっきり言って、テレビでほりえもんの裁判のニュースが始まると、チャンネルを変えてしまう私です。
 それはともかく、この裁判のどうもよくわからないところは、その争点にあります。粉飾決算だなんだというその部分に、ほりえもんがどの程度関わっていたかというのが争点だそうで、何でそんなところが争点になるのだろう?と不思議に思っているのが、理解力のない私、彰の介なのです。

 私は当然(決算のことで言えば)「粉飾決算が行われたかどうか」が問題だと考えています。決算の仕方にはいろいろからくりがあるのでしょうから、その決算の仕方が法的にダメというのであれば、ほりえもんは有罪、法の範囲内というのであれば、ほりえもんは無罪というのがごく普通の流れではないのでしょうか。これ違いますか?。

 ところが報道を見ていると、「ほりえもんがどの程度関わったか」というのが争点だそうです。しかしそんなもの関わろうが関わらなかっただろうが、ほりえもんはライブドアの社長だったわけですから、そんなこと争点になりようもありません。社長が決算のことに責任を持たない???とうことはありえないからです。関わってないから無罪なんてことになったら、この世に責任論なんてものは存在しないことになってしまいませんか?。程度問題ではありますが、こと決算に関して社長が責任を逃れるなんてことは、あってはならないと考えますね。責任論については、以前でもやっぱり、責任は現場が取らされるというエントリーをしていました。責任者は責任を果さない方が責任をとらなくて済むという話ですが、やっぱり私にとっては納得いかない話です。

 私は要するにこの裁判の論点がずれていると感じているわけですが、一体どうしてずれてしまったのでしょうか。これが検察側の誘導だとすれば、粉飾があったことを前提にしてしまっている点ですでに一歩リードというところでしょうか。また、これが弁護側の誘導だとすれば、論点をずらして粉飾のことを棚に上げてしまっている点で、見事な戦略ということになるでしょうか。どっちもどっちでそんなこと考えてもいなかったとすれば、この責任論無き裁判に何の意味もないと考えているのが、私、彰の介なのです。

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