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2006/10/29

無駄論を高らかに叫ぶ

 無駄論(5月30日までをまとめてあります)。この無駄論というのは、「彰の介の証言」において、実に大事なテーマなわけですが、最も反応のない記事群でもあります(涙)。昨今、高校での必修科目の未履修問題がクローズアップされていますが、まさに、無駄なことはしないという現代の風潮を、最もよく表したものだと感じます。
 しかし、私は無駄というものが非常に大事なことだと感じています。無駄こそ人生にとって、最も大事なことだと感じているのですが、今後もこの日本という国は、無駄をそぎ落とした、薄っぺらな人間の量産を続けるのでしょうか。

 私の高校時代を振り返ってみると、未履修はなかったと思っています。理系は、受験のために、社会は1科目でいいわけですが、理系の私でも、地理と世界史の2つをとっていました。確かに、受験は地理と決めていましたので、世界史はいい加減な勉強しかしていなかったのは確かです。しかし、今回の一連の未履修問題に対して、とある学校の校長がテレビに向かって正々堂々と、「受験のためには仕方がない、学習指導要領が悪い」と開き直っているのを見ると、正直ぞっとしました。まさに、まじめにルールを守っているような人間は、世間で生き残っていけないぞと教育しているようなものですから。

 今朝のテレビ番組でもこの話題を取り上げていましたが、市民に聞いている質問にあきれてしまいました。「社会に出てから役立った教科は何か?」を聞いているのです。1位が国語と英語、だそうで、国語は漢字などが覚えられたから?、英語は外資系企業に就職したから?なんて答えている人を放送していました。これは、話題になった世界史が低い順位だったということで問題提起したかったのでしょうが、「社会に出てから役立った」なんてことを聞くこと自体、学校側のルール無視よりも、学習指導要領に問題があるということがいいたかったのでしょう。役立たないようなものを必修化するほうがおかしいというその考え方は、まさに無駄論の敵としか言いようがありません。もちろん、現代高校の予備校化の問題、世界史の必修化の問題が存在することを否定するつもりはありませんが、目的のためには多少のルールは無視してもよい、無駄な勉強する方がバカという現代の風潮には、辟易して涙がちょちょぎれると言うものです。

 高校生の皆さんには声高らかに叫びたい、受験勉強も大事だが、「無駄論も大事」だということを。受験勉強はただの手続きであり、無駄論は人生の肥やしです。無駄を省くことが日常化してしまっている人は、人間としてとても薄っぺらで、他人のことはどうでもよく、自分さえ楽な道に進めればいいということを、機械的に、無意識のまま、考え、行動してしまいがちです。どうぞ、そんな人間にならないよう、無駄なことにもどんどん興味を持ってほしい、「無駄なことは役に立たない、役に立たないことは無駄」だなんて考えないでほしい、そう思っている私、彰の介なのでした。

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2006/10/26

表と裏の倫理観

 昨今のニュースを見ていると、現代日本の欠如した倫理観が垣間見えます。正直者が馬鹿を見て、うまくやっていく人は、少々のルール違反くらいでは、違和感を感じないかのようです。安倍さんの教育改革が、どれほどのものかわかりませんが、小さなことからこつこつと、正直に生きること、努力することの大切さを教育し、当たり前の倫理観を育ててもらいたいものです。しかし、倫理観の欠如を批判する際の倫理観というものも存在するような気がします。いわゆる「程度問題」なわけですが、批判というのは走り出したら止められないものなのでしょうか。

 このところ、飲酒運転が大変厳しく取り締まられるようになりました。正直言えば、私もちょっとくらいはいいか?というのが当たり前でしたが、さすがに最近では、ほんの数百メートルといっても飲酒運転はできません。事故でも起こせば「やぶ医者、飲酒運転!!」という見出しが躍ることになりますからね・・。
 しかし、そんな中で、飲酒運転で事故を起こした場合、その場を立ち去るひき逃げ行為が横行しているといいます。飲酒運転で現行犯逮捕されるより、後で見つかって飲酒はしていなかったと言い張る方がいいんでしょうか?。また、アルコールの検知器の検査を拒否する人も多いようで、こちらは明らかに、酒酔い運転として罰せられるより、検査拒否の方が罰則点数が低いらしいのです。だからといって拒否する方も拒否する方だと思うのですが、お徳となればそちらに走るわけですから、一体日本の倫理観はどこへ行ってしまったのでしょうか。

 それにしても、ひき逃げするような人間は絶対許せません。福岡で起きた飲酒運転による幼児3人死亡の事故を考えると、私は理解に苦しむことがたくさんあります。飲酒運転はともかくも、ぶつかってしまった前の車が、ガードレールを突き破って、橋の下の海に落ちてしまったのです。自分の状態がどうのこうのではなくて、海に落ちた車の中に乗っていた人が、やばいぞ!!死ぬかも!!とは思わなかったのでしょうか。そちらはほっておいて、飲酒運転にならないように、大量の水を飲んだり、友達に身代わりになってもらうよう頼んだりしていたというのですから、どういう神経しているのか理解できません。人が死ぬかもしれないということよりも、自分の罪を減ずる努力をするその倫理観というのは、一体どんな教育から生まれたのでしょうか。

 かといって、過失に対して正直に罪を認めて謝ればいいかというと、今の日本の社会ででは、そうとばかりは言えません。罪を認めなければ認めないなりにバッシングを受けますが(当たり前)、一方、罪を認めれば、罪が確定した分、世間から執拗な吊るし上げを食いますし、公には賠償が大きくなるという側面もあります。言ってみれば、大人に「怒らないから、正直に言いなさい」なんていわれて、正直にガラスを割ってしまったことを告白した子供が、「やっぱりおまえか!」なんて言われて、ボコボコに殴られるみたいな話が結構あるということです。

 この執拗な吊るし上げというのも、ある程度必要なのでしょうが、やはりどこかで線を引かないとバッシングが目的のバッシングになってしまうような気がしてなりません。いじめ苦自殺の報道でいえば、いじめの原因となった担任の先生に対して、報道を通して吊る仕上げをすることはある程度仕方がないかもしれませんが、ただ叩けばいい、吊るし上げればいいという報道ではなく、どこかに線を引いて、抑えないといけないという危機感を持ってほしいと思うのです。当事者間のやり取りに、報道が首を突っ込み、世間から吊るし上げを食うように誘導する必要があったかどうか?、そのやり方に行き過ぎがなかったかどうか?を、常に危機感として感じておくべきだと思うのです。
 
 こういう私のような発言は、一方で「甘い!」というご批判を受けるかもしれません。一人の人間が亡くなっている状況では、どんな非難を受けても当然という考えはあるでしょう。しかし、第三者的立場からいえば、ただ叩くという行為自体が、いじめと同じ背景だということにも気付かなければなりません。それこそ、この担任が、世間の吊るし上げに絶望し、自殺しちゃったなんてことになったときに、「死んで当然、ざまあみろ!」なんていう倫理観を、日本人の多くが持っていたとしたら、この日本からいじめなんてなくなることは、決してないだろうと確信できるというものです。

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追加記事:コメントさせていただいた、まーどんな ぶろぐさんと、[ゴーログ] 誰が一番いじめっこ?へトラックバックさせていただきました。

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2006/10/17

中日優勝に水を差すな!

 中日ファンは確かに名古屋圏しかいないことは認めます。全国から見ればマイナーなんでしょう。だからといって、もういい加減にしてほしいのが「経済効果」論議です。まるで人気球団以外が優勝すべきではないという論調を公にするのは勘弁してもらいたいです。巨人ファンや阪神ファンにはこの気持ち、わっかんないだろうなあ(古典)・・。

 前エントリーのコメントにも書かせてもらったのですが、中日優勝が決まった瞬間、「中日優勝は阪神優勝と比べ経済効果が4分の1」という記事が出ました(中日V経済効果は阪神の4分の1、200億円)。いつものとおり抜粋しますと、

中日ドラゴンズが、2年ぶりのリーグ優勝を遂げた。東海地区を中心にVセールなどによる経済効果が期待されるが、共立総合研究所(岐阜県大垣市)が今年8月に発表した中日Vの経済効果は約200億円。一方、関西大学大学院の宮本勝浩教授(61)が、阪神が逆転優勝した場合の経済効果を推定したところ、約800億円をマークした。ペナントでは阪神を振り切った中日。しかし経済効果では阪神のわずか4分の1という寂しい結果となった。宮本教授は「日本経済のためには、阪神優勝の方が良かったかも」と、経済面での影響力を憂慮した。
 はっきり言って、もういい加減にしてもらいたいです。これは中日優勝を盛り下げるための記事としか思えません!!。この、だれだ?、宮本?、宮本教授?、阪神優勝時の経済効果を計算するのは勝手ですけど、中日優勝で日本経済を憂慮するな!!(怒)。だいたい、共立総合研究所って、大垣共立銀行系(つまり地元)なんでしょ?、それなら低く見積もらずに、適当に「経済効果は5000億円」ぐらいのこと言っとけ!!(大笑)。

 ちなみに中日新聞はさすがに自らをおとしめるような記事は書いていないようです(中日リーグVの経済効果は220億円 前回優勝時を上回る)。こちらも抜粋しておきますと、

三菱UFJリサーチ&コンサルティングは、中日ドラゴンズが日本シリーズを制すると、東海3県(愛知、岐阜、三重)に総額220億円の経済効果をもたらすとの試算を明らかにした。所得に対する消費の割合を示す消費性向が2004年と05年に関東と近畿を抜き、内田エコノミストは「付加価値の高い商品を買うようになった変化を生かせれば、最大限の恩恵を受けられる」と話す。中日ドラゴンズがリーグ優勝すると、翌年の株価が上昇する傾向がある。過去のリーグ優勝の翌年の日経平均株価の年間上昇率は、景気が後退した99年を除き、どの年も上昇。特に04年は40・2%の伸びを記録した。平均上昇率も16・5%とセ球団で最も高い。
阪神云々は記事には書かずに、消費性向というのが、関東よりも関西よりもいい?(中日優勝と関係ないような気もしますが・・)ことを強調しつつ、なんと、中日優勝で株価が上がるという、根拠のない縁起担ぎで締めくくるあたりは、残念ながら中日優勝をおとしめる記事と五十歩百歩??かもしれません。まあ、親会社の記事ですから、阪神と比べる他新聞を意識しての記事なんでしょうけどね・・。

 もっと懸念されるのが、日本シリーズです。新庄が悪いわけではありませんが、彼のせいでどうも中日は世間からマイナー化されそうな予感がします。なにしろ、彼は、「セ・リーグ優勝は阪神の方がいい」という爆弾発言をしたにもかかわらず、世間的に何もおとがめがないのですから、いかに中日優勝が望まれていなかったのかがよくわかるというものです。本来なら、彼の発言に対し、どれほどに中日ファンが怒っているかをマスコミは正しく報道してもらいたいものなのですが、望まれない批判はされないわけですね。一方、落合監督が、「西武は戦いにくい」と言いつつも、「レギュラーシーズン優勝チームが日本シリーズにでてきてよかった」と発言しているのにもかかわらず、「日本ハムはたたかいやすい」みたいな記事にして、中日をおとしめることには一生懸命なのですから、本当に困ったものです。

 さて、もうすぐ日本シリーズです。もう、中日がマイナー化される覚悟はできました。よく考えてみれば、マイナー化されようが何されようが、優勝させていただければ、それでいいのです。私は応援しますよ、経済効果がたいしたことなくても・・・。

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2006/10/11

落合の目にも涙

 今年は全くドラゴンズネタを封印してきましたが、やっと、本当にやっと優勝してくれましたので、うれしさのあまりエントリーしてしまいました。まさか、延長12回のウッズのホームランで、落合監督が涙するとは思いもよらず、私も目頭が熱くなってしまいました。

 各地方でどうだったかは知りませんが、優勝を決める大事な一番、私の現在住んでいる地方ではテレビ中継されていませんでした。私はBS放送を見たわけですが、自宅では衛星放送が見れないので、職場で見るはめになりました。相変わらず、中日の扱いというのは、マイナーだなあとつくづく感じた次第です。

 今年は、阪神の異常な追い上げで、全然マジックが減らないという、精神衛生上とんでもないシーズンだったのですが、最終的には中日が逃げ切る形になりました。本当に今日優勝するまで、もしかしてここまでがんばって阪神の優勝??なんていう最悪のシナリオを考えずにはおれませんでした。落合監督はじめ、選手全員、私以上に精神的にまいることも多かったと思いますが、とにかくもおめでとう!そしてありがとう!と言いたいですね。

 M.V.Pは当初福留しかないと考えていましたが、このところのホームランの量産で、ウッズになるのでしょうか。ただ、私の個人的な裏のM.V.Pは、山本昌だと思っています。ここぞというときに負けないあの投球にはびっくりの一言で、もし山本がいなかったらと思うと、もしかして阪神の逆転もあったのではないかとすらと考え、ぞっとしてしまいます。来年も山本にはがんばってもらって、ぜひ200勝を達成してもらいたいですね。

 私は過去のエントリーでも語っているのですが、就任当初から落合監督が大好きでした。素人の私が言うのもなんですが、監督としての手腕を非常にかっていました。そして、3年で2度の優勝という結果をファンに示し、私の評価に間違いがなかったことを証明してくれて、ますます大好きになってしまいました。
 落合監督というと、どちらかというとポーカーフェイスで、あまり感情を表に出さない印象でしたが、まさか、今日、延長12回、試合を決定付けるウッズのホームランで、涙するとは思いもよりませんでした。さらに、インタビューでも泣くなんて、全くびっくりです。「落合の目にも涙」、そして私も泣いちゃいました・・。

 さてさて、日本シリーズはどうなるんでしょう。50年以上日本シリーズに勝っていない中日ですが、阪神のお陰で緊張が保てた分、いつも以上にがんばれるのではないでしょうか。勝っても負けても、全力で、燃え尽きてもらいたいものです。
 ところで、日本シリーズのテレビ中継はあるでしょうね・・・・。

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2006/10/07

無駄論的故事成語(4)

 無駄論的故事成語(1)無駄論的故事成語(2)無駄論的故事成語(3)で、「折檻(せっかん)」「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)」「辟易(へきえき)」という言葉について屁理屈をたれさせていただきました。
 結局のところ、故事成語の成り立ちと、現在使われている意味がちょっと違うのではないかという問題提起ですが、文部省やら国語学者が鬼の首を取ったように「正しい日本語」という言葉を振りかざすので、それに対する素人の悪あがきというのが本当のところです。

 本日取り上げる故事成語は、「完璧(かんぺき)」です。完璧のぺきを(かべ)という字に間違えてる人が多いらしいのですが、正しくは宝物の玉の意味?のという字です。私は、「完ぺき」とひらがなで書くので決して間違えません(笑)。完璧の意味は説明しようもなく、完璧な様子、状態??としか言いようがありませんが、一応辞書で引いてみると、「欠点や不足が全くなく、非常に立派なさま(こと)。完全無欠。」等と書いてあります。

 この「完璧」という言葉の故事なんですが、2つの話が関わってきます。1つは「和氏の璧(かしのへき)」という話です。いかにも中国の故事らしい話なので、ぜひこのあたりのページを見てみてください。おじいさんが、宝物の玉(ぎょく)の原石を見つけたので、王様に献上したら偽物と言われ左足切断の刑、次の代の王様に献上したらまた偽物と言われ右足切断の刑、次の代の王様になってやっと本気にしてもらえて、原石を磨いてみたら、この世に二つとないお宝だったという話ですね。このお宝の玉のことを「和氏の璧」というわけです。これがまた、中国の戦国時代においては、このお宝がお城にも匹敵するぐらいの価値があったらしく、この「和氏の璧」と15のお城を交換しようと持ちかけたのが、「完璧」の由来となっている話です。ちなみに主人公は「刎頚の交わり」で有名な、藺相如(りんしょうじょ)です。話は長いので、またこのあたりのページを参考にしていただきたいのですが、別のページを参考にかいつまんで書かせていただくと、

中国の戦国時代、趙の国に「和氏の璧」と呼ばれる立派な「璧」があり、それを秦の国王昭王(しょうおう)が欲しくなり、「秦の15の城と交換したい」と申し出た。藺相如が秦の国へ使いに行ったが、城と交換する気配がなかったため、藺相如は璧を命懸けで持ち帰った。
このお宝の璧を無傷で持ち帰ったこと「完璧而帰(璧をまっとうして帰る)」ということから、「完璧」という言葉ができたと言うわけですね。

 さて、早速屁理屈を始めましょう。まず第一に、この「完璧」という言葉の意味として「傷のない玉」を載せている辞書があるのですが、上記故事を知っていれば、傷のない玉のことを完璧というのは明らかな間違いでしょう。和氏の璧に傷はなかったのでしょうが、「璧をまっとうする」ことと傷のない玉には何の関係もありません。「完全な璧」と勘違いしているのかもしれませんが、全くもっていい加減な辞書もあったものです。

 また、正しい慣用句は正しいのか?というエントリーでも書いたのですが、「後で後悔する」という言葉は、頭痛が痛いと同じ理屈で誤った日本語とされているらしいのですが、そう考えると、「仕事を完璧にこなす」なんていう使い方は全くの誤りということになります。「完璧」自体が仕事をまっとうするという意味を含んでいますから、明らかな重ね表現です。まあ、正直こういうのを言いがかりというわけですが、要するに私は、「後で後悔する」が間違っているという文部省の方もとんでもない、いいがかりだと言いたいわけです。

 さらに言うと、完璧のぺきの字は、壁(かべ)ではないと冒頭に書いたわけですが、現在使われている「完璧」という言葉は、「完璧な守備」とか、「完璧な防御」というような場合にも普通に使われています。この場合、むしろ「璧(へき)」を使うより、後には何も通さない完全な「壁(かべ)」というイメージを持って、完璧という言葉を使っているのではないでしょうか。そう考えると、イメージ的には「完壁?」の方がふさわしい場合があるのではないか?、璧を壁と間違えてしまうのは、そんなイメージがあるからではないか?というのが、素人の私の無駄論的な仮説なのです。

 現在、「完璧」という言葉は、「完全という言葉の強調」程度の意味で、いろいろな使われ方をしていると思います。ですから、辞書に対してとんでもない誤りとは書いたものの、「傷のない完璧な玉」なんていう表現も許されるかもしれませんね。もう、語源とは関係なく、「完璧」という言葉は”完璧”に日本語に入り込んでしまったわけですから、語源を持ち出し、誤った日本語なんていわないようお偉方にはよ~く勉強してもらいたいものです。

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2006/10/01

お経と君が代

 日本人は無宗教といわれますが、私もいわゆる慣習的仏教、慣習的神道であって、標準的日本人であると確信しています(屁理屈が多いという意味では標準的とは言えないかも・・)。ついでに言うと、12月25日だけは慣習的キリスト教になるというところも、標準的日本人と言っていいのではないでしょうか。ただ、これら慣習的宗教のうち、どれが一番のよりどころかと言われれば、やはり私にとっては仏教でして、「お経」を読め(お経は”あげる”というべきでしょうか)と言われれば、本を見れば節つきで読むことができてしまうのです。ちなみに、友達などの結婚式に呼ばれ、その形式がチャペルでのキリスト教風(笑)の結婚式だったとしたら、ささやかな抵抗として、私は賛美歌を歌わない主義なのです・・・。

 「お経」を読むことができるのは、小学生の頃、年末になると近くのお寺でお経を教えてくれていたからです。お経そのものは大半が漢字の羅列で、振り仮名は振ってあるものの、「(ふし)」?があるため、素人がぱっと見ただけでは読むことはできません。外国人からみると、お経は音楽だそうで、そういわれてみれば、節を合わせて合唱しているということになりましょうか。実は、小学生の頃というのは頭が柔らかいもので、(お経の本を見れば私はお経を読むことができると言いましたが)正直言えば半分位暗記してしまっています。まあ、お葬式でお経が読めなくて恥をかくということはほとんどありませんが、知っていて悪いものではないでしょう。

 ただ、俗に、日本の仏教は「葬式仏教」と言われ、人が死んだり、何周忌というときのいわゆる法事の時にしか出番がありません。人々の心の支えになっているか?、あるいは社会に貢献しているか?等、本来のそうした宗教的役割を果しているかといわれれば、何の役にも立っていないとしか思えません。
 そんな中で、私が最も不思議に感じているのが、「お経」の存在です。何しろ、私は、お寺でそのお経を習ったにもかかわらず、そしてそのお経を暗記しているにもかかわらず、お経の意味、つまり、「仏教の教え」を何一つ知らないのです。お寺の坊さんは、お経の読み方は教えても、その中身に何が書いてあるのかを解説することは全くありません。お経そのものも、漢字の音読みの連続ですから、それをいくら眺めてみても、声に出して読んでみても、さっぱり意味はわかりません。ちなみに、我が家の宗派である「浄土真宗」における、最も大事な言葉である「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という言葉さえ、その意味を知りませんでした。知りませんでしたというか、もちろんその言葉の意味の解説をお坊さん含めて誰からも聞いたことはありませんし、先日インターネットで調べて、初めてその意味を知ったくらいなのです・・・。

 実は、「南無阿弥陀仏」、阿弥陀さんが南に無い?ってなんのこっちゃ??というのが、私の20年来の疑問だったわけですが(笑)、なんとこの「南無阿弥陀仏」というのは、サンスクリット語の読みを漢字の音であてた言葉だということがわかりました。つまり、漢字を眺めていても意味なんてわかりっこないわけです。しかも意味は難解で、宗祖親鸞の言葉によると「まかせなさい。必ず救うぞという仏の呼び声」」ということらしいのですが、Wikipediaのこのページをみても要するによくわかりません(涙)。
 南無阿弥陀仏の例からすると、お経に書いてある、その他の漢字の羅列も、サンスクリット語の音ということになりましょうか。そうすると、それこそ声に出して読んだところで、仏教の教えが理解できるものではないということがはっきりしました。
 
 この仏教の教えを何一つとして解説することなく、理解不能な「お経」を読むという行為に、一体どんな意味があるのか?というのが、私の疑問なわけですが、世の中にはこの私のような疑問に対して、「そういうことを疑問に思うこと自体が問題」とする考え方が根強く存在し、むしろ私のような人間が不敬扱いされてしまいます。私的にはごく普通の疑問のつもりなのですが、これこそ「屁理屈をこねるな!」と批判される代表的な事例ですね。もし私が寺の住職であれば、「葬式仏教」とやゆされる現行仏教を打破するべく、一つ一つの仏教の教えを檀家の人たちに広めようと考えるでしょう。まあ、そういう、うっとうしいことをすれば、ひとり、またひとりと、檀家が減っていくことうけあいかもしれませんが(大笑)・・・。

 こじつけの屁理屈を語らせてもらえば、今いろいろと話題になっている「君が代」の問題もなんとなく同類のにおいがします。ちなみに私にとって、君が代は国歌として認識されていますし、歌うことになんの躊躇もありません。しかし、なぜ、日本の国歌が君が代なのか?、その歌詞の意味はなんなのか?(正直歌詞を理解している国民は少数なのでは?)、学校の卒業式等で(強制的に)なぜ歌わなくてはならないのか?、と、いろいろと疑問が湧いてきます。問題なのは、それらの疑問の中身というよりは、これらの疑問を持った時、これら疑問を持ったこと自体を「不敬」とされてしまうことでしょう。「不敬だから不敬だ!」「当たり前のことに屁理屈をたれるな!」といわれる方もおられるでしょうが、もしそこに本当に意味が存在するのであれば、そんな迷える子羊に道しるべを示していただいてもいいような気がしますが・・。

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