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2008/05/04

神頼みと宗教観(3)

 それで、続きの「非科学的」なお話。
 書きながら、私は基本的に科学者の範疇に入る「医師なのか」ということを自問自答しております。おっと、科学的思考のできない、やぶ医者だということを今更ながら思い出しました・・・。

 妻の病気に関して、まるでそれを予言するかのようなことがいくつかあったわけですが(前回)、その他にも、それほど連絡を取っていなかったような妻の友達から突然電話が入るなど、なんかいろいろと不思議なことはありました。

 私にとっての究極の「非科学的」な話といえば、実家にかえって、父の遺影に向き合ったときのことです。遺影ですから、父の晴れ姿の時の、何とも言えないいい表情をしている写真が使われているわけですが、妻の無事を祈ろうとしたとき、何となくその写真の表情が変わったように感じられたのです。それはもう優しい表情で私に語りかけてきました。といって、なにか聞こえてきたわけでもなく、実際に写真の口が動いたわけでもないのですが、「心配するな、大丈夫だ」というメッセージを間違いなく感じ取りました。

 まあ、究極の非科学ではありますが、妻にはそのまま報告しました。当たり前の話ですが、父からのメッセージを受け取ったからと言って、妻の病気に関して私が全く安心しきってしまったかと言えば、もちろんそんなことはありません。実際手術が終わり、病理所見の報告が終わってやっと安心したのは当然のことです。しかし、重くどんよりとした気持ちの中で、少し晴れ間が差したような気分になり、大変気持ちが楽になったことを思い出します。

 ということで、やっとスピリチュアル番組の非科学性を理由とした批判の話になるわけですが、前回も書いたように、上記のような私の気持ちを、わざわざ「非科学的だ」と批判されることは、本当に大きなお世話です。
 「あんた、そんなこと本気で思っていると、霊感商法にひっかかっちゃうよ」と言われるかもしれません。しかし、だとすると、ひっかからないようにするためには、父が死んだら、もう霊とか千の風にもならず、存在しないのだから、墓参りも不要、仏壇も不要、そもそも先祖を敬う心があるから、霊感商法にひっかかるという理屈になってしまいます。しかし、一般の日本人の宗教観は当然ながらそこまでドライではありません。

 日本人にとって最大の問題は、あの程度のスピリチュアル番組で、霊感商法が成立するような、軟弱な宗教しか世間に存在しないこと、そして、個人個人が、霊感商法を跳ね返すだけの宗教観を持ち合わせていないことでしょう。まさに私もそういう典型的な日本人です。本来、迷いが生じたとき、相談すべき寺の住職は、お酒に高級車、何かといえば寄付のお話しばかりで、全く頼りにもなりません。まさに葬式と法事のためだけの存在です。個人的には、強い信仰心も宗教心もありません。まさに、上記のような非科学的話をかぎつけられれば、霊感商法の餌食になる下地は十分に持ち合わせているといえるでしょう。
 
 しかし、信仰心が少ないとはいえ、先祖の霊は我々を見守ってくれていると漠然と感じていますし、一般的宗教的慣習を、しなくていいとは思いません。その昔、上岡龍太郎が、葬式やお墓は無駄だとして、「私が死んだら、遺骸をゴミ出しに出してくれればいい」なんて冗談を言っていましたが、さすがに法律的に問題がないと仮定しても、私にそこまでできるドライさはありませんね。
 つまり、「非科学的」だとする批判は、日本人の基本的宗教心の批判につながるわけで、理論的におかしいと感じますし、スピリチュアル番組をやめれば霊感商法が無くなるかと言えば、まったく根本的解決にならないことは明らかだと感じるわけです。

 ということで、私が一体、何が言いたいのか、さっぱりわからないあなた、本日から「彰の介教」に入ることをおすすめします。入会金は、一口10万円、何口でもいいのですが、多ければ多いほど、神のご加護が得られると思いますよ・・・・。壺も販売中・・・。

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