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2008/05/27

本質論と派閥争い(2)

 本質的な問題がよくまとまらず、一体どの方向に進めばよいのか・・・、人間誰しも迷い込む道かもしれません。日本の歴史を振り返れば、「幕末」なんていうのは、まさに大海原に船一艘、さてどっちにこぎ出そうかという状況だったのではないでしょうか。ちょっと過去記事をなぞりつつ、屁理屈的本質論?を語っていきましょう。

 この、日本の近代化の始まりであるこの「幕末」「明治維新」というのは、一見一本道に進んだと錯覚しますが、実際は、あっちによれ、こっちによれ、まあ、うんの固まりで結果論的に最短距離を進んだという気がしてなりません。その時代についてのわかりにくさは、以前、無駄論的幕末維新という駄文を書いたことがあるのですが、一歩間違えば、派閥争いに終始し、見事にヨーロッパ列強の餌食になっていたかもしれません。

 私は歴史家ではないので、素人的意見の展開をすることはお許しいただくとして、「幕末の本質論」とはいったい何だったのでしょうか。
 まあ、いろんな言い方はあるのでしょうか、本質中の本質は、「中国(清朝)のように、ヨーロッパ列強に植民化されない」ということにつきるでしょう。そして、その目標のため、いかなる道筋を考えるかです。

 さて、この道筋の一つに、「ヨーロッパの進んだ技術をいち早く吸収する」ということがあると思われます。そのためには、外国人と交流しなければなりません。
 が、が、が、「攘夷」なるスローガンのおかげで、外国人との交流はけしからんという風潮があり、開国派といわれる人たちが、天誅の餌食になってしまいました。これがよく考えれば実におかしな構図になっていて、開国派というのは、諸外国に対抗する実力をつけることを考えているわけですから、本質論的に中身は攘夷派と同じです。当時日本に、「ここは一回、ヨーロッパの植民地になろう」なんて考えているバカは存在しないはずで、ちょっと本質を考えれば、開国だろうが、鎖国だろうが、攘夷だろうが、そんな議論はただの派閥争いに過ぎないわけです。
 それは、攘夷を実行した藩に限って、外国の軍艦や鉄砲を買い、留学生を送ったりしているわけですから、その本質論の見損ないがあったことは明かではないでしょうか。
 
 もう一点の道筋を言えば、「江戸幕府に、諸外国への対抗能力はないこと」もあげられるでしょう。そのためには、幕府を解体する、すなわち「倒幕」が必要になってくるわけです。
 その、「倒幕」という本質論に気づいていながら、派閥争い、メンツ争いを繰り返していたのが、薩長両藩ということになりましょうか。そして、本質論を諭したのが、坂本竜馬であることは言うまでもありません(無駄論的坂本竜馬)。
 
 しかしながら、坂本竜馬のすごいところは、本質論の上にもう一つの矛盾した本質論に気づいており、その矛盾を見事に両方成し遂げてしまったところにあります。
 もう一つの矛盾、それは、倒幕は必要だが、国内戦争になれば諸外国につけ込まれる可能性があるということです。ご存じの通り、この矛盾に、「大政奉還」という大どんでん返しを演出し武力無しの倒幕に成功してしまうのですから、武力倒幕一辺倒の西郷あたりとは、格が違ったと感じてしまいます。
 そして、そんな本質論には気づくことなく、佐幕派、倒幕派、武力倒幕派など、派閥争いをしてきた連中の大きな渦の中に、坂本竜馬は消えていったということになりましょうか・・・。

 久しぶりに、意味不明系のネタを書いてしまいました。次回は、今回と同じように、過去記事をなぞりながら、もう少し時代を進めてみましょうか。

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2008/05/26

本質論と派閥争い

 世の中、本質的な議論を装った、派閥争いが横行しています。派閥争いというとちょっと意味が狭いかもしれませんが、一方的な意見の言いっぱなしとでも言いましょうか。表しか見ない、あるいは裏しか見ないとでも言いましょうか。まあ、人間とは所詮そんな生物かもしれないのですが・・・。

 例えばですが・・・、小泉純一郎という人物がいます。さて、彼をどう評価するかですが。
 評価する方は、自民党をぶっ壊した、郵政民営化を成し遂げた、等をあげるのでしょうか。評価しない方は、格差社会を作った、選挙を劇場化した、等をあげるでしょうか。

 私が言いたいのは、この、「評価する方」「評価しない方」というふうに分けてしまうことに問題があるということです。まあ、それを冒頭、「派閥争い」と表したわけですが。
 私個人の意見を言えば、小泉純一郎の人物評は、支持組織(郵政しかり、道路しかり)に大なたを振るった希代の政治家であり、できればさらに任期をのばして、官僚機構にも風穴を開けてほしかったと思っています。正直、私の人生の中で出会った最高の政治家かもしれません。
 が、が、が、イデオロギー的な面は、全く評価していません。ただの左に曲がれないハンドルの持ち主としか言いようがありません。このあたりは全く相容れないところです。

 ですから、政治家としての行動を評価しているからといって、イデオロギー的なことまで黙認はできませんし、イデオロギー的なことが合わないからといって、政治的な面の全てが間違っていたなんて評価はできないわけです。しかし、おうおうにして、「評価派」と「批判派」に分かれて、全評価か、総批判の一辺倒になりますから、それはまさに「派閥」の討論ではありませんか。

 例えば、悪名高き、後期高齢者医療制度。まあ、この制度に問題がないとは言いませんが、これを批判する側の意見を聞いていると、ただの「批判派」による全否定のみです。まあ、全否定するのは結構なのですが、否定するからには、本質論を覆い隠すことは許されません。本質論、すなわち、「老人に医療費を支払わせるわせるとはけしからん!」と言うのであれば、どなたが代わりにお支払いするのか、はっきりさせるべきです。

 実際は、派閥争いの方が大変で、本質論を見失ってしまうこともあります。派閥争いはなくとも、本質論を見抜けないこともあります。本質論を見抜けないから、派閥争いに終始したり、無駄なことを繰り返すこともあります。人間、ふっと我に返ると、本質論を見失っている自分に気がつくこともあります。
 今後も、本質論と派閥争い、気づいたことを書いていきます。

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2008/05/04

神頼みと宗教観(3)

 それで、続きの「非科学的」なお話。
 書きながら、私は基本的に科学者の範疇に入る「医師なのか」ということを自問自答しております。おっと、科学的思考のできない、やぶ医者だということを今更ながら思い出しました・・・。

 妻の病気に関して、まるでそれを予言するかのようなことがいくつかあったわけですが(前回)、その他にも、それほど連絡を取っていなかったような妻の友達から突然電話が入るなど、なんかいろいろと不思議なことはありました。

 私にとっての究極の「非科学的」な話といえば、実家にかえって、父の遺影に向き合ったときのことです。遺影ですから、父の晴れ姿の時の、何とも言えないいい表情をしている写真が使われているわけですが、妻の無事を祈ろうとしたとき、何となくその写真の表情が変わったように感じられたのです。それはもう優しい表情で私に語りかけてきました。といって、なにか聞こえてきたわけでもなく、実際に写真の口が動いたわけでもないのですが、「心配するな、大丈夫だ」というメッセージを間違いなく感じ取りました。

 まあ、究極の非科学ではありますが、妻にはそのまま報告しました。当たり前の話ですが、父からのメッセージを受け取ったからと言って、妻の病気に関して私が全く安心しきってしまったかと言えば、もちろんそんなことはありません。実際手術が終わり、病理所見の報告が終わってやっと安心したのは当然のことです。しかし、重くどんよりとした気持ちの中で、少し晴れ間が差したような気分になり、大変気持ちが楽になったことを思い出します。

 ということで、やっとスピリチュアル番組の非科学性を理由とした批判の話になるわけですが、前回も書いたように、上記のような私の気持ちを、わざわざ「非科学的だ」と批判されることは、本当に大きなお世話です。
 「あんた、そんなこと本気で思っていると、霊感商法にひっかかっちゃうよ」と言われるかもしれません。しかし、だとすると、ひっかからないようにするためには、父が死んだら、もう霊とか千の風にもならず、存在しないのだから、墓参りも不要、仏壇も不要、そもそも先祖を敬う心があるから、霊感商法にひっかかるという理屈になってしまいます。しかし、一般の日本人の宗教観は当然ながらそこまでドライではありません。

 日本人にとって最大の問題は、あの程度のスピリチュアル番組で、霊感商法が成立するような、軟弱な宗教しか世間に存在しないこと、そして、個人個人が、霊感商法を跳ね返すだけの宗教観を持ち合わせていないことでしょう。まさに私もそういう典型的な日本人です。本来、迷いが生じたとき、相談すべき寺の住職は、お酒に高級車、何かといえば寄付のお話しばかりで、全く頼りにもなりません。まさに葬式と法事のためだけの存在です。個人的には、強い信仰心も宗教心もありません。まさに、上記のような非科学的話をかぎつけられれば、霊感商法の餌食になる下地は十分に持ち合わせているといえるでしょう。
 
 しかし、信仰心が少ないとはいえ、先祖の霊は我々を見守ってくれていると漠然と感じていますし、一般的宗教的慣習を、しなくていいとは思いません。その昔、上岡龍太郎が、葬式やお墓は無駄だとして、「私が死んだら、遺骸をゴミ出しに出してくれればいい」なんて冗談を言っていましたが、さすがに法律的に問題がないと仮定しても、私にそこまでできるドライさはありませんね。
 つまり、「非科学的」だとする批判は、日本人の基本的宗教心の批判につながるわけで、理論的におかしいと感じますし、スピリチュアル番組をやめれば霊感商法が無くなるかと言えば、まったく根本的解決にならないことは明らかだと感じるわけです。

 ということで、私が一体、何が言いたいのか、さっぱりわからないあなた、本日から「彰の介教」に入ることをおすすめします。入会金は、一口10万円、何口でもいいのですが、多ければ多いほど、神のご加護が得られると思いますよ・・・・。壺も販売中・・・。

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2008/05/03

神頼みと宗教観(2)

 前回に引き続き、「非科学的」なお話です。私の妻が病気で手術することになったのですが、何となくそれを予言するような、警告するような・・・、と勝手に考えている出来事がいくつかありました。

 一つは、亡くなった父から譲り受けていた、自動車のお話。とある日に、運転席側の窓ガラスを下げたら、上がらなくなってしまう故障に見舞われました。ボタンを何度操作しても何ともいうことをききません。それが夜だったので、とりあえず、その上がらなくなった窓をあげてもらおうと、近くの修理工場でみてもらったのですが、コレがまたびくともしません。結論的には、ベルトが何かに引っかかっているという話になり、正規の工場でみてもらうと言う話になり、その晩は、開いた窓にゴミ袋を覆って雨風を防ぐという、何ともみすぼらしい状態になってしまいました。
 
 ところが、これがまた、翌日、何気なく窓ガラスをあげるボタンを操作すると何事もなかったかのように、ヒューッと窓が上がるではありませんか。昨日は一体何だったのだろう・・・。

 その後、窓を決して下げないようにしていたので何事もなかったのですが、今度は、冷却水減少の警告ランプが頻回につくようになりました。これまた近くの工場で、冷却水を入れてもらったのですが、あっという間にまた警告ランプが点灯しました。さすがに観念して、正規工場に修理を依頼したところ、どこかよくわかりませんが、水漏れしていることが判明しました。正直、故障の連続に、そのまま下取りしてもらって、新車を買おうかなんて話まで出たのですが・・・。

 結局その車を修理してもらい、その車を取りに行ったときのこと、なぜか、「数珠」が座席においてあります。「コレなんですか?」と車屋に聞いても、「もともとこの車の中にあったものではないのですか?」といわれるだけです。明らかに私の知らない数珠なので、不思議に思ったのですが、おそらく、運転席のドアの窓を修理したとき、座席下のもの入れの中にでも入っていて埋もれていた、もともと父の使っていた数珠だったでしょう。
 雰囲気が伝わらないかもしれませんが、父の使っていたと思われる数珠が突然出てくるというのは、それが数珠なだけに、なーんとなく引っかかるものを感じました。
 
 勝手な想像ではありますが、今から思うと、変な車の故障や、突然のこの数珠の出現は、天国の父が、妻の病気を警告していたような、そんな気がしてなりません。

 その後、もう一つ、振り返ってみてもしかしてと思った出来事が、幸福の木の開花です。偶然といえば偶然、考えすぎといえば考えすぎ、しかし、妻の病気が発見されるまさにそのとき、10年に一度とも言われる花が咲いたのです。何となく警告、何となくちゃんと治療すれば大丈夫だよということを、木自身が全エネルギーを使って教えてくれていたのではないのかと、勝手に想像しています。

 なーんて、極めて「非科学的」な想像で、全く根拠のない、上記のようなことを書くと、霊感商法の手助けになるからいかんとしかられるのでしょうか。
 「おいおい、ただ車が故障して、木に花が咲いただけだろう」と言われればそれまでの話です。それまでですが、上記のような想像をするのは、私の基本的な宗教心に基づく、私自身の勝手な想像であり、もし「非科学的だ」と、わざわざ非難されるようなら、正直大きなお世話だと言いたくなります。

 まあ、こういう私の勝手な話題を書くのもご迷惑かと思いますが、もう少し引っ張らせてもらいます。もう一点、私の感じた、「非科学的」事実を書かせていただき、やっと結論にいけるかどうか・・・。

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2008/05/01

神頼みと宗教観

 昨今、エハラー等の出演に代表されるいわゆるスピリチュアル番組が人気でしたが(今も人気あるかも)、番組そのものの行き過ぎた演出、非科学性を批判されることがありました。さらには、ああいう番組そのものが、霊感商法などに利用されることもあり、放送すべきでないという意見もあったようです。私も、行き過ぎや決めつけはいけないとは思っていますが、「非科学的」ということを理由にした批判には、もの申したい年頃です(笑)。中年・・。おじさん・・・。

 またしても、個人情報に触れますが、昨年後半に、私は父を亡くしたのですが(前回記事)、さらに今年に入って私の身辺に激震が走りました。前々回記事に書きかけたのですが、実は妻の体にガンが見つかり、手術することになったのです。一応、医師であるところの私は、へいぜいを装っていたつもりでしたが、周りから診れば、目がつり上がってしまっていたかもしれません。

 家族を含めた周囲の人間が浮き足立ってしまっていたのですから、当の本人の心境は推測すらできません。が、とにかく、彼女の口から出てきたのは、私の実家に帰り、墓参りをして、さらに父の遺影にも手を合わせたいということでした。墓参りすることや、仏壇に手を合わせることは、常識的に言って別に悪いことではありません。私も協力して、墓掃除をし、妻と一緒に手術の成功をご先祖様に祈りました。
 
 さらに、彼女は、家族からもらったガン封じのお守りと、私が近くの神社で買い求めた、身代わり人形のお守りを、肌身離さず、手術前も手術後も、持っていました。今でも大事にしています。決して特別な信仰心があったとは思われない、普通の日本人である私の妻ですが、極限とも思われる状況の中で、神頼みして自分に降りかかった災難と闘っていこうとするその気持ちは、ごくごく当たり前のものだと思うのです。

 まあ、こんな話とごちゃごちゃにするのは、ある意味極めて不謹慎ではあるのですが、冒頭に書いた、「非科学的」な事に対する批判こそ、行き過ぎるのは問題があると考えるわけです。「先祖の霊にお祈りする」という、極めて普通の行動も、考えようによっては、極めて「非科学的」なことです。ましてや、神社のお守りというものが、科学的に病気を治す効力があると証明されているものでないことは明らかです。

 ご批判覚悟で言うならば、正直、霊感商法で売られる壺も、神社のお守りも、「科学」的見知から言えば同じたぐいのものでしょう。「江原さんは何も見えていないから騙されるな」と批判するのであれば、「先祖の霊なんていないのだから、先祖に手を合わせるなんてナンセンスだ」としっかり訴えるべきです。一般の、普通の日本人が持ち合わせる宗教心の上に、霊感商法のあくどい連中の口説き文句があり、江原さんの透視の言葉があるのですから、「非科学」を強調した批判は、イコール、日本人の普通の宗教心に対する批判そのものだと考えるのです。

 で、結論が「霊感商法の正当化」でも、「江原さんはちゃんと見えている」ということでもないことだけは強調しておきます。結論にいく前に、いろいろと非科学的な出来事を次回にも書かせていただき、非科学批判に反論していきたいと思っています。ちなみに、私の妻の手術は順調に終わりました。極めて非科学的なことではありますが、「天国の父が助けてくれた」と、私は本気で信じています。

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