前世とシュバイツァーと(4)
表題にしているシュバイツァーですが、もちろん、あのノーベル平和賞受賞者のシュバイツァーです。「生命への畏敬」という言葉をキーワードとして、表題にあげてみたのですが、私の屁理屈に利用されただけということになりましょうか。
私は職業柄やぶ医者をやっていますが、別に目標とする医師がシュバイツァーというわけではありません。アフリカで医療活動しろと言われても困ります。僻地医療さえ拒みますから・・・。もちろん、シュバイツァーほどに、生命への畏敬の気持ちを持ち合わせていないのは当然です。ただ、気まぐれに、かわいそうという気持ちが出てくるだけです。
ただ、虫一匹といえども必要以上に殺すことはなかったというシュバイツァーの姿は、形を変えて私の心に宿っているような気がします(うむ?)。私も、なかなか虫一匹が殺せません。虫が気持ち悪くてさわれないというような落ちではありません。やっぱり無益に殺すのはかわいそうなんですね。
虫や小さな生き物を捕まえて殺すという行為は、多かれ少なかれ子供であればやることでしょう。特に悪いこととも思えません。ただ、私の少年時代、なぜか徐々にそれができなくなってしまったのです。
それは、山のように捕まえたカミキリムシ(イチジクの害虫のキボシカミキリ・・・害虫のため、他人の庭やイチジク畑に進入しても誰も咎めなかった・・・おおらかな時代でした)を、虫かごに入れておいたら、数日でひからびて大量の死体の山になったのがきっかけだったのか、友達と捕まえたフナが、晩のおかずにされたのがきっかけだったのか、ありがえさを運ぶところが見たくて、ショウリョウバッタの頭と胴体をちぎってしまった衝撃のためなのか、梅雨の時期になると必ずカエルが車にひかれているのを山のように見ていたためか、そのきっかけは全くわかりません。そんな数々の経験の後、なぜか虫といえども命は奪わないようにしようと思うようになっていきました。
例えば、友達がカマキリを捕まえて、遊びで燃えさかる火の中にいれ、騒いでいるのを見て、「なんとかわいそうなことをするのだろう」と真剣に思うようになったのです。まあ、無益に殺すことのいい悪いはいろいろと意見があるでしょうが、例えば、家の部屋の中に紛れ込んでしまった小さな蝿や蛾のたぐいや、蜘蛛ぐらいは、残念ながらお陀仏してもらうのが世間一般の傾向でしょう。
私の場合、そんな虫ごときでも、できるだけ殺すまいと思い、何とか窓の外へ逃がすようにしています。が、現場に誰か家族が居合わせると、「何で殺さんの!!」とたいてい叱られるので、場の雰囲気と状況を判断し(笑)、残念ながらあの世に行ってもらうものもあれば、ごまかしつつ、逃がすこともあります。
そうは言いつつ、全ての生物を同じように、命大事と考えているかというと、そういうわけでもないところに、私のことながら差別心を感じています。残念ながら、寝ているときに耳元に「プ~ン」とやってくる蚊は、ほぼ確実にあの世に行っていただくことになるでしょう。今大事に育てている、ハイビスカスや、バラについている毛虫、青虫、アブラムシ、ハダニなどの面々は、残念ながら、農薬散布によりあの世にいっていただいております。一度、ベランダ菜園で作ったナスは、アブラムシ退治の農薬のため、毒ナスと化すほどでした。
さらには、最近書いているように、食に関してはしっかり命をいただいております。虫一匹殺さないようにと、シュバイツァーばりに考えてはいますが、全ての生物に当てはめることはできず、ましてや、食べることとなれば、「この霜降りは最高だ!」なんて言うことになるのですから、この矛盾ぶりには、我ながら情けないものを感じます。あまり深く考え無くてもいいとお思いかもしれませんが、そこがそれ、屁理屈屋の私たるゆえんですから、勝手に悩んでいる姿を笑ってやってください。
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