評論はファンタジー
我ながら面白いことに気づいたなあ?と最近自画自賛しているのが、先日書いた「結果論的評論家による結果論的解説」という記事です。まあ、自分で書いておいてなんですが・・・。
面白いことというのは、最初の戦国時代のくだり、歴史的事実の解説は所詮「結果論」であり、「想像」であるということです。AとBが戦って、Aが勝てばそれなりの、Bが勝てばそれなりの解説がされるわけですから、結局結果論というわけです。例えば、関ヶ原で三成が勝っていれば、「真田が徳川本隊を足止めしたから」とか、「徳川に正義がなかったから」とか、まあ、私ですらいろいろと「想像」を巡らすことができるわけです。
想像とは小説であり、ファンタジー?です。これは、歴史的解説に限らず、一般論として、「評論とはただのファンタジー」であると気づいてしまったために、最近面白くて仕方がないわけです(←おたくっぽくて気持ち悪いかも・・・事実気持ちが悪い・・・)。
例えば、このネットの世界でも、プロからド素人まで、数え切れない批評家・評論家が存在するわけですが、何言わんこの彰の介も、批評家の端くれと自負しております。そして、その批評家の書くことといえば、いかにもありそうな「ファンタジー」なわけです。人々を熱狂させる見事なファンタジーを書けば、人々は賞賛する。駄作をかけば、ネットの片隅に消えていく。それだけのことです。
そして、残念ながら、ファンタジーに真の正しい、正しくないという評価はできません。そこには「結果」が存在するだけです。ファンタジーの正しい正しくないは、結果から見た当たりはずれのたぐいでしかないわけです。
例えば「定額給付金2兆円で景気は回復する!」という発想は、まさにファンタジーです。ですが、「ひとりあたり一万円では景気回復にならない」という批判もファンタジーであり、「10万円くらいなら景気回復するかも」というのもファンタジー、「配るくらいなら学校の耐震強化に使え!」と言っていた辛坊治郎さんの言葉もファンタジーなのです。私は、「使うくらいなら国債の返済を」と考えていますが、これももちろんファンタジーです。
政治の世界で言えば、人間はいかにもそれらしいファンタジーを戦わせ、最もそれらしいファンタジーを選んで実行するわけです。最もそれらしいファンタジーが、成功するのか、失敗するのか、それは神のみぞ知るです。人間は、それをサイコロのせいにしたくないから、余計にそれらしいファンタジーを考えることになり、評価もいかにもそれらしい科学的なファンタジーでこりかため、失敗したらしたで、それらしいファンタジーで批判することになるわけです。
ファンタジーは意味のないものなのか、絶対に必要なものなのか、正しいファンタジーと正しくないファンタジーというのはあるのか無いのか?、おいおいこの手のファンタジーを考えたいと思います。だんだん自分でも、何書いてるかよくわからなくなってきました・・・。
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