無駄論的「隗だけお得?」
久々に戻ってまいりました、無駄論シリーズでございます。
以前、無駄論的故事成語として、折檻、傍若無人、辟易、完璧、という故事成語の出典を紹介しながら、出典時の話と現在使われている意味が違うのではと考察しました。私が考察した動機については、上記記事に書いてありますが、いわゆる言語学者による「正しい日本語」という概念への挑戦であり、出典と現在使われている言葉のハザマで、辞書も実に中途半端な意味を載せていることに気づいたまでの話です。
今回は、ただ単に、そのエピソードについて屁理屈をたれたいというだけの理由で「隗より始めよ」を取り上げたいと思います。意味は「手近なところからはじめよ、言い出したものからはじめよ」と辞書に載っていますが、現在はほとんど後者的な使い方といえるでしょうか。言い出したものというか、まずは範を見せるべき人物そのひとから実行しなさい的な意味で使われていると思われます。
この言葉の故事は「千里の馬」の話と、そして「隗(郭隗という人物)」の話と2本立てになっており、まずは前者から、以前も利用させていただいた、みらいぽーとさんのページを使って引用させていただきます。
「昔、ある君公が千金をもって、一日に千里を走る馬、いわゆる千里の馬を手に入れたいと求めましたが3年経っても手に入れることが出来ません。 すると、宮中の小間使いが探しに出ました。彼は、3ヶ月後に千里の馬を見つけましたが、すでにその馬は死んでいました。しかし、彼はその死んだ馬の首を五百金で買って帰りました。 君主はカンカンに怒り、『私が欲しかったのは、生きている馬だ。どうして死んだ馬に五百金も払って来たんだ。』と言いました。小間使いは、動じずに、『死んだ馬ですら五百金で買ったのです。生きている馬なら、いったいいくらで買うのだろうと思うでしょう。千里の馬はたちどころにやって来るでしょう。』果たして、1年も経たないうちに千里の馬が3頭ももたらされた、ということです。」
なかなか面白い話で、なるほどと感心させられます。しかしそれと、隗より始めよは、ちょっと変な方向へ向かったものといわざるを得ません。燕という国の王様が、今回の主人公で家来の郭隗に、「天下の賢者を招き、国政を委ねて、斉に被った恥をすすぐにはどうしたら良いだろうか。」と聞いたときに、上記千里の馬の話をした上で、
「王がもし、優れた人物を招聘したいとお望みであれば、まず、この私、郭隗よりお始め下さい。(先づ隗より始めよ) 私のような者でも取り立てられるとすれば、私より優れた人物はなおさらだと思うでしょう。きっと、千里の道を厭わずにやって来るに違いありません。 」そこで、王は、郭隗のために宮殿を築いて、彼を師と仰ぎました。すると、 楽毅 ( がっき ) (趙の名将)や 趨衍 ( すうえん ) (陰陽説の祖)などが、ぞくぞくと集まったのです。
郭隗という人物は、よくもまあぬけぬけとこんな話を王様にしたものです。ということは、先づ始めるのは別に郭隗でなくても、凡人を師と仰げばだれでもいいという話になりませんか。だいたい、真の賢者が、凡人に宮廷を与えてのほほ~んとしている王様の元に集まるはずがありません。見所のある王様だからこそ賢者が集まるわけで、こんなよくわからない手口で賢者が集まったらえらいことです。もしも、この国なら上にいけると思う人物がいたとしても、それはあくまで立身出世目的ですから、正直、金目当てのだめ人間もたくさん集まることになるでしょう。
結局のところ、得をするのは「郭隗だけ?」ではありませんか。というか、郭隗は確信犯に違いありません。自分の生活を楽にするために、王様を言いくるめたとしか考えられません。まあもちろんのこと、こういう言いがかりをつけるのは、私彰の介しかしないとは思いますが・・・。
ついでに言うと、この「隗より始めよ」も、その故事と現在使われている意味はまったく違ってしまっています。現在の意味で言えば、「王様こそが身をただし、民の範であれ、そうすれば続々と賢者が王様の元に集まる」という感じの故事成語であってほしいわけですが、実際には、「金でつって賢者を集めろ」という話で、がっかりというかなんと言うか・・・。
ということで、久しぶりに彰の介らしい屁理屈をこねこねさせていただきました。できれば次回、「管鮑の交わり」で有名な、管仲をこてんぱんにしてやりたいと思います。
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