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2009/09/26

ホテルでいつも思うこと

 旅行やら出張やらで、ホテルに宿泊することが何度もありますが、毎度毎度、疑問に思うことや、ついついやってしまうことがあります。日本式?の旅館などであれば問題ないのですが、洋風はダメですね。私が生粋の日本人ということでしょうか。

 洋風の(という表現が適切かどうかは問題がありますが・・・)ホテルで、まず疑問に思うことといえば、とにかく、部屋が暗いことでしょうか。部屋に入ったときに、部屋中の電気という電気をつけますが(フットランプも含めて)パーっと明るくはなりませんね。天井に蛍光灯をつければ済みそうですが、いわゆる白熱灯系?のランプがちょっとと、ベットのところの明かりくらいですから、勘弁なりません。明かり代わりにテレビをつけるはめになりますね。

 テレビと言えば、都内の有名ホテルでも、いまだにデジダル化していないところが結構あるのはびっくりします。先日泊まった、某外資系乗っ取りホテルでは、テレビがブラウン管、アナログであったのはもちろん、タンスのような箱にテレビが入れられており(おしゃれのつもりだと思われますが)、テレビ正面からしか見れませんでした。が、そのテレビ正面というのが、ベットの端くらいであり、床に座らないと見れません。ベットで寝転んでみるにはちょっと無理でした。外資イコール立派なホテルと思ったら大間違いですね。

 床と言えば、ホテルの床はじゅうたんが敷かれていますね。和風旅館であればもちろん畳なわけで、畳に上がる前に、当然靴を脱いでしまうわけですが、ホテルの部屋のじゅうたんは、当然ながら土足用?ですよね。しかし、残念ながら生粋の日本人の私は、じゅうたんと言えば裸足・・・、しっかり靴を脱いでしまい、スリッパを履くのは面倒くさくてやってられません。だいたい、シャワーなどを浴びたあと、あの簡易のスリッパなんて履いていられません。裸足です。汚いですかね。まあ土足用?であることはわかっているのですが・・・。

 シャワーといえば、ホテルで最も納得いかないのが、トイレつき浴室ですね。ついでに、洗面台も同室のことが多いでしょうか。まあ、狭いホテルのシングルであれば、仕方ないかとも思うのですが、それなりのホテルで、つまり十分トイレを別にできるスペースがあるにもかかわらず、しかもツインなど複数人泊まる部屋でのあのトイレつき浴室には疑問符を付けざるを得ません。日本人的には、シャワーではなく、お湯を張ったお風呂に入りたいのですが、洗い場に当たる部分に、便器があっては、それはかないません。それだけでも納得いきませんが、それ以外にも・・・・。

 例えば、たとえ夫婦でツインに泊まっていたとしても、一人がシャワーを浴びている隣で、用をたすのはちょっと無理ですよね。ましてや、”大”おやです。シャワー中はもちろん、例えば、嫁が洗面台で長い化粧タイムに入った場合、その間、大であろうが小であろうが、我慢するしかありませんね。においも気になります。私的には、何をどう考えても、スペースがあるのであれば、当然トイレは分けるべきだと考えますがいかがでしょうか。いっしょというのは何かと不便さを感じますね。外人は平気なんでしょうか・・・。

 あと、今だにどうしていいのかわからないことがあります。それは、ホテルのベットで「さあ寝よう」と思ったとき、あのキューっときつくマットの下に食い込ませてある、布団風の?布団の代わりの??ぺらぺらの毛布andシーツ??をどう扱ったらいいのか?という疑問です。昔、気の小さかった私は、あの毛布andシーツをマットの下から引っ張り出していいものなのか、それはマナー違反なのか(笑)を、迷いに迷った挙句、結局引っ張り出さずに、ちょうど張り詰めたジーンズのポケットの中に物を入れたときのような感じでキューと締め付けられた状態で寝ていました・・・。その後、さすがにそれは寝苦しいと感じ、ベットの横に食い込ませてある部分は引っ張り出して寝るようになりましたが、私の場合、足が自由に布団の外に出ないとダメなんですね。結局全部ひっぺがえして寝るようになりましたが、朝起きると毛布andシーツが、くっちゃくちゃもいいとこです。あれが日本人の美学に合わないんですね(大笑)。最近は、また横だけひっぺがえすようになり、体を斜めにして足を出しながら寝るというスタイルに落ち着きました・・・。ということで、どなたか、正式な扱い方を教えてください・・・。

 もう一つ、ホテルのいやなところがあります。朝ゆっくり起きだし、朝食時間ぎりぎりに部屋を出て、朝食会場に行こうとすると、廊下に嫌というほど、部屋掃除の用のコンテナ?が出動しており、部屋の掃除を始めていることです。早くチェックアウトして出て行けといわんばかりじゃないですか、そうは思いませんか?(被害妄想ですけど・・)。できれば、宿泊客には見えないように掃除をしてもらいたいものですが、なかなかそうはいきませんかね。

 ということで、田舎者の戯れ言でした。「いなかっぺ大将」が、トイレを風呂と間違え、浴室に用を足していたシーンを思い出しますが、私も五十歩百歩かもしれません・・・。

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2009/09/24

八ッ場ダム問題は新政権の試金石かも?

 新政権になったばかりですが、さっそく、八ツ場ダム建設中止の問題が、マスコミをにぎわせています。
 もともと八ツ場ダムの問題は、新政権が発足する前から「住民に反対者はいない」等の報道がされていましたから、これは新政権の試金石的問題になると感じていました。
 ダム建設が必要なのか不必要なのか、実質的な答えを私は持ち合わせませんが、まあ、なんと言うのでしょう、報道各社の対応は、私の予想したとおりの方向へ進んだことは間違いありません。

 私が予想したとおりと言いながら、その予想を私はどこにも書いていませんので、これを結果論的評論と言うわけですが(笑)、要するに、ダム建設推進派の意見をふんだんに報道して、新政権に突きつけるのだろうなあと感じていたわけです。それは、政権が建設反対だから、報道は建設推進を報道するだろうという、ごく単純な構図で、特に陰謀論でも何でもありません。

 私の意見を先に書いてしまいますと、お金が余計にかかろうと、かかるまいと、建設がかなり進んでしまっていようとも、そうでなかろうとも、ダムの建設が必要と判断すれば建設すればいいと思いますし、ダムが必要ないのであれば、やはり中止すべきだと感じます。建設が計画されてから、長い年月がたち、当初の目的がどこかに行ってしまったり、建設費がどんどん増大したり、別の方法が生まれているにもかかわらず、一度決めた計画は元に戻すことができないというのが、旧自民党政権への批判の一つだったわけで、今回の政権交代により、そんな硬直化した決定方法が変更されるのであれば、私はそちらに期待をしたいと感じます。ですから、本当にダム建設が無駄だということであれば、そう新政権が考えているのであれば、中止に踏み切るべきでしょう。残念ながら、建設推進住民の皆さんの「国が一度決めたことだから守るべきことだ」という反論は、上記理由で私は賛成できません。もう一つ屁理屈を言えば、「国交相は、建設の是非を白紙にすべきで、建設中止ありきは問題」なる反論もちょっと理屈に合いません。ならば、住民の皆さんも「方針を白紙にして、建設続行ありきではない」ということになってしまいますが、そうではないでしょう。
 
 ただ問題なのは、住民の皆さんは当事者であり、所詮私は第三者であるということはあります。私の意見の逆を言えば、建設されようと、されまいと、被害者は翻弄され続けた地元住民のみということになりましょうか。その気持ちが私にわかるかと言われると、なんとも答えようがありません。間に挟まれるつらさが容易に想像できますから、私は政治家なんかに絶対なりたくないわけですが、そんなしょうもない私の変わりに、新政権の政治家の皆さんには、それを乗り越えていただけなければならないわけです。それが野党にはけっしてない、与党としての責任と言えるのではないでしょうか。まさに与党としての、責任政党としての試金石と言ったのはこのことです。

 ただ、毎度のこととして報道はいただけません。建設反対派はいないとまでされていますが、これは本当でしょうか。過去のダム建設の経緯を知りませんが、反対派はもともといなかったのでしょうか。現在建設に反対している人はいないのでしょうか。また、根本的な問題として、このダムは必要なのでしょうか。我々一般の人間は、ダムの必要性がわからないからその情報を待っているのであって(私だけかもしれませんが・・・)、本当にダム建設が必要であれば、民主党が反対のための反対をしていたというだけのことですし、そんなことのために建設中止するのも許せません。
 そういう意味でも、新政権には、国民にもう一度建設中止の理由をはっきり伝える義務があると思いますし、報道も客観的にそれを伝えるべきだと思います。

 再度繰り返しますが、結局のところ、建設がされようがされまいが、被害者は翻弄され続けた地元の方々ということになると思います。ただ、それは過去を踏襲しない新政権が悪いという理屈にはならず、別問題だとは思います。これを乗り越えることができるかできないか、どのような過程を踏むのか、建設の有無にかかわらず、新政権の力量が試されていると思います。

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2009/09/17

無駄論的柳川立花藩

 先週、やっと夏休みが取れたため、夫婦で九州へ行ってきました。昨年が、鹿児島から熊本、今年は、熊本から柳川を通って福岡という旅程となりました。
 基本的に、我々夫婦の行くところ、ほとんどが”雨”なわけですが(雨男・雨女)、今年は、晴男に晴子で大変暑い思いをしました。今後何か天変地異が起きないことを祈るばかりです。

 私は、戦国時代マニアのつもりですが、あまり九州の戦国時代については詳しくありません。それは、私が特に戦国時代にはまったきっかけとなる、「信長の野望、戦国群雄伝」に九州地方がなかったからだと感じています(笑)。もう一つ詳しくない理由が、九州の戦国武将の名前の漢字がなかなか読めないことにあります。大友宗麟は読めますが、大友義鎮は読めません。よしちん??。息子の義統も読めません。よしとう??。高橋鎮種って何者?ちんたね??。戸次鑑連なんて絶対読めません。とつぎかんれん??。だれそれ??。最近の信長の野望を島津でやったときは、全く漢字が読めないので、適当にニックネームのように「よしちん」とか、「かんれん」とか呼びながらやっていましたが、おかげでまったく理解が深まりませんでした・・・。

 実は、今回、柳川での舟遊びが旅程に組まれたため、この柳川について下調べをしていました。柳川は、江戸時代、立花藩であったとのことで、藩祖立花宗茂について調べだしたら、戦国マニアの本能に火がついて、よしちんやら、、かんれんやら、ちんたねのことを調べる羽目になりました。まあ、マニアですから、楽しいんですけどね。 
 調べるうちにわかったことは、鎮は「しげ」、鑑は「あき」、統は「むね」と読むらしいことです。この3つの字が読めると、結構慣れてきて、九州のいろいろな武将の名前を読むことができるようになりました。宗麟の義鎮は「よししげ」、息子義統は「よしむね」、戸次は「べっき」(戸次川は「へつぎがわ」と読むらしいのですが・・)って覚えるしかありませんが、鑑連は「あきつら」、鎮種は「しげたね」・・・、こういうのが読めると、なんとなくマニアっぽくて良いですね。ちなみに高橋鎮種の父は吉弘鑑理・・・ってやっぱり読めないんですが、「あき」は読めるようになりましたから、理を「ただ」と読むと覚えればいいだけですね。「よしひろあきただ」・・・まあ、名前か苗字かよくわからない名前です。高橋鎮種の初名が、吉弘鎮理とWikipediaに書いてありますが、おそらく、「ちんり」とは読まず(笑)、「しげただ」と読むのでしょう。

 そういう意味では、立花宗茂というのは、「むねしげ」と実に読みやすいのですが、残念ながらこれは最後の名前らしく、若い頃の呼び名のなかには、「統虎」やら「鎮虎」やら書いてありますから、これだと読めませんね。ふりがながなければ「とうとら」に「ちんとら」です。父の「ちんたね」は、「高橋紹運」の呼び名のほうが有名ですね。養父の「かんれん」も、「立花道雪」のほうが断然有名です。ともに猛将であり、息子の宗茂もそんな環境で鍛え上げられ、鎮西一とも呼ばれる武将に成長したのでしょう。

 ただ、私のいい加減な理解では、立花宗茂は関ヶ原の戦いのとき、西軍について大津城攻めをし、改易されたと思っていたのですが、改易後に再び柳川に立花藩が成立したのですね。調べてびっくりですが、関ヶ原の戦いで改易された大名の中で、大名として返り咲いたのは立花宗茂ただ一人のようです。しかも、全くの旧領にです。敵ながら、家康には相当に気に入られていたのでしょう。

 まあ、そんなこんなを調べていて、だいぶ九州の戦国にも明るくなりました。旅も下調べがあるかないかで、思いが変わってきますね。マニア的にたいへん有意義な旅になりました。立花を調べすぎて、福岡黒田藩のことをあまり調べられなかったのは残念ですが、まあ、また今度の機会にでも・・・。

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2009/09/03

二大政党制に埋もれる政治家

 テレビに出ている政治家の発言を聞いていると、不思議に思うことがあります。それは、その政治家の発言が、個人的な発言なのか、それとも政党を代表しての発言なのか、どちらかはっきりしないまま、無責任に発言していることです。

 無責任に発言している人もいますが、自分の意見と、党の意見が違っていて、苦しそうに発言している人もいます。無責任ではありませんが、つらそうですね。民主党の岡田さんなんかは、苦しそうなのが伝わってきて、正直かわいそうです。民主党なんかは、イデオロギー的に右から左まで、多数のバリエーションをそろえていますから、党の方針と全く違ったイデオロギーを持った方々は、どう考えているのでしょうか。苦しそうに、自分を捨てて党の方針通りに発言するのか、のらりくらりかわしながらごまかすのか、いずれにしても可哀相な現場ではあります。

 世の中が、二大政党制になりつつあるわけですが、二大政党制の一つの問題点が、この政治家と政党の関係ということになりましょうか。今回の総選挙のように、政権交代が問題となれば、有権者は、個々の政治家の考え方や意見や人柄を判断するのではなく、どの政党に属しているのかということだけが問題となります。そういう意味では、ここ二回の衆議院総選挙は、政治家ではなく政党を選ぶ選挙であったわけで、すべて比例代表でもよかったかもしれません。
 そんなことを考えると、今の世の中において、政治家個人の存在とは、どうあるべきなのか?、別に私が悩むことではありませんが、政治家の皆さんはどう考えているのか知りたいですね。

 はっきり言ってしまうと、自民党と民主党のことを二大政党と呼ぶより、二大派閥と言ったほうが良いのではないかと考えたりもします。二つの派閥は、それぞれ、ただの仲良し集団であり、単に政権交代のために二つあるだけという感じでしょうか。そこに、個々の政治家がそれぞれの色を出せる場所というのは、それほど多くは無いように思います。二大政党ということは、考え方は多くてもざっくり二つしかないのですから、個々の考え方が政党の方針に埋もれてしまうのは当然かもしれません。
 
 前回の郵政選挙後あたりでしょうか、四大政党論という駄文を書いたことがありますが、基本的に今も私の考える理想の政治体系は、イデオロギーと保守革新で区切った、四大政党なんですね(最低三大政党)。二大政党のような、仲良し集団的では、個人政治家の色がうずもれてしまって、何をどう考えているのかまったくわからなくなってしまうわけですが、これが四集団に分割されれば、その政治家の立ち位置がはっきりし、しかも三つ巴や四つ巴(そんな言葉無いか・・・)の小選挙区の争いになれば、所属政党だけでは勝ち抜けません。やはり政治家個人の色がでるかなあと期待できるわけです。
 
 民主党も300議席もとってしまうと、下々の新人議員などは発言もできず、個人の掲げる政策実行もできず、一握りの執行部が決めた方針を、自分の方針として受け止めなければならないのでしょうね。全くもって無駄というのか、可哀想というのか・・・。

 私の座右の銘は、「鶏口牛後」、勝ち組といえども、大集団の尻尾にはなりたくないですね。マイナー路線の目立ちたがり屋とでも言えばいいのでしょうか。

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