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2010/03/18

無駄論的「しかみ像」

 巌流島の決闘で、宮本武蔵が佐々木小次郎に対して

「小次郎敗れたり!」

と叫んだとされています。何でも小次郎が刀を鞘から抜いたとき、その鞘を放り投げてしまったとか。それを見た武蔵が、前段の台詞の後に「勝者が、(その後しまうはずの)鞘を投げ捨てるわけがない!」と言ったとか(ドラマなどで見かけたような気がします・・・)。事実か作り話か知りませんが、要するに、小次郎に対する武蔵の心理的な揺さぶりであったことは間違いありません。しかし、言われてみればなるほどと思えることで、心構えからして、小次郎は負けていた、隙があったと言えるかもしれません。まあ、無論、勝った後のことばかりを考えて負ける場合も世の中には多く(いわゆる油断大敵というたぐいの話)、なかなかそのバランスは難しいですが・・・。

 そんな佐々木小次郎とは全く逆?というには、話のもっていき方が強引ですが、徳川家康の「しかみ像」のお話も、屁理屈好きの私にとっては格好のネタになります(しかみ像はこんな感じです)。三方原の戦いで、武田信玄にボコボコにされた徳川家康が、その戒めのために自身の憔悴しきった顔を描かせたとされ、慢心の自戒として生涯、座右を離さなかったと解説されています。臥薪嘗胆とよく似た話と言えばよいでしょうか。しかし、徳川家康が、本当に敗戦直後にこの絵を描かせたとすれば、非常に不思議に思うことがあるのです。

 そもそも、当時戦国最強とも言われた武田信玄が徳川家康に襲いかかっているのです。家康にとっては、もしかしたら、「この戦いで死ぬかもしれない」ぐらいのことは頭をよぎっていたに違いありません。そして、一発勝負で打って出て、生涯唯一の敗戦とも言われる大敗を喫し、命からがら逃げ帰るはめになったわけですから、「助かった」という思いはほとんどなかったでしょう。むしろ今城が包囲されたら、戦いに出る前の状態よりもさらに状況が悪く、「やっぱり城を枕に死ぬかもしれない」とより強く思ったに違いないわけです。

 ところが、私の想像とは全く逆で、ここで徳川家康はこの「しかみ像」を描かせているのです。もし、私の想像するように、「今襲われたら死ぬかもしれない」と思っていたとするならば、生涯の戒めとするべき肖像画をこの場で描かせるわけがありません。今死ぬかもしれないのに、生涯の戒めも何もあったものではないからです。ある意味、この戦いを切り抜けて、生涯を全うできるという楽観的な展望がなければ、こんな絵を描かせるようなことはないはずです。そう考えると、このとき家康は全く死ぬ気がなかったと思われるのです。それは、「死ぬまであきらめてはいけない」という様な自分を奮い立たせるような、ぎりぎりの心理状態ではなく、むしろ楽観的という概念がないくらい、生きることが当たり前の家康の心が私には感じられるのです。

 三方原の戦場から、命からがら逃げ帰る道中、家康は恐怖のあまりウンチを漏らしたという噂があります。しかし、その後、「しかめ像」を描かせたというエピソードを聞くと、まもなく落城する敗者の武将(ウンチまみれの)の姿は全く見えてこず、「今何をすべきか、武田に襲われないようにするには、守り切るにはどうしたらよいのか?」ということをごく当たり前に考えている一武将の姿しか想像できないのです(ウンチまみれは変わらないかもしれませんが・・・)。
 私の考える、この「しかみ像」を描かせた家康の心理は、文才のない私ではこの程度にしか書き表すことができませんが、そこには強烈な家康のパワーとスケールが感じられ、天下人たる人物だったということが、いやと言うほど私には伝わってくるのです。鞘を捨てて揚げ足をとられる小次郎とはくらぶべきもありません。

 もし家康と話ができるのであれば、もちろんいろいろ聞きたいことがあります。一つだけと言われれば、「関ヶ原の合戦での勝算はどの程度だったのか?」というのを聞いてみたいのですが、上記のような家康の心理を考えると、聞くだけ野暮かもしれません。当然勝つつもりだったとも、負けるかもしれないとも、五分五分だったとも、そんな答えは返ってこないような気がします。あえて言えば、「そこに関ヶ原があったから戦っただけ」???てな返事が返ってくるのだけでしょうか。
 
 つまり、被害妄想系の私では、天下は取れないと言うことです。私が家康だったら、桶狭間の戦いの後、三河に独立すらせず、今川のもとに逃げ帰っていたでしょうから・・・・(嫁さんと子供残してきたから)。

 (しかみ像が戦いの直後に描かれたかどうかはわかりません。正確なことをご存じの方、ぜひ教えてください)

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コメント

観世流家元の次男で山科弥右衛門氏の講演会が数年前ありました。能と浜松と言う題の話の中でこんな話を聴きました。家の蔵に大名の裃の上だけあり、おばあさんに聞くと、三方が原の戦いに負け城に逃げ帰り、明日は死ぬその前に能を一曲所望と言われました。舞い終わると何もあげるものがないからこれをと、着ているものを一枚脱ぎ、明日は戦いにさんかせず落延び金に換えよと言いました。朝起きてみると、武田軍がいませんでした。縁起が良いと江戸城で新年の行事になります。各大名家が見物、終わると裃の上を投げて寄こします。それを持って、各大名家に挨拶に行くと、お金に換えてくれましたが、幕府が倒れると変えてくれなくなったので、残っていると話してくれたとの話がありました。また、最近では名古屋の徳川美術館、学芸員の話で、紀州7代目の娘依姫の嫁入り道具の長持ちに入っていた絵で家康とは関係がないような気がするとの話もあります。私も、明日、死ぬ人が自分と子孫にこの様な絵を描かせるとわ思いません。どちらかというと、講演内容の方が、自然だと思います。本当の事は見た人がいないので、解りませんが。

投稿: | 2017/01/30 15:02

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