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2010/04/01

ゆとり教育を思う

 世間ではエイプリルフールということで、嘘記事が氾濫していますが(ウソ)、私彰の介は、生涯まじめ人間です。本日も、当然ながらまじめネタです。

 4月となり、新年度となりましたが、評判の悪かった「ゆとり教育」もついに転換するとのことですね。今となっては、このゆとり教育は各方面からボコボコに批判を受けていますが、私は総論としてこのゆとり教育に反対ではありませんでした(無駄論論者)。しかし、このゆとり教育によって、文科省が思い描いていた理想の世界へは、残念ながら進めなかったようです。

 ただし、このゆとり教育の批判にも、問題があるように思います。
 
 まず、そもそも、ゆとり教育導入時、ほとんどこの制度を批判する声を聞かなかったことです。私が唯一この制度導入の批判を聞いたのは、ニュースの中でキャスターの木村太郎氏が

「子供は一時期詰め込み教育をしなければダメ!」

と言った言葉だけだったようにも思います。もちろん、その他にも批判されていた方はいたのでしょうが、その木村氏のコメントも冷ややかに受け流されていた記憶がありますから、世の流れがゆとりに向かっていたのは間違いないと思われるわけです。つまり、昨今のゆとり批判というのは、所詮「結果論的批判」であって(結果論的評論家による結果論的解説)、当初から予想された問題ではなかったわけです。むしろ、木村氏の言う、「詰め込み教育」や「受験戦争」が散々批判されており、詰め込みからの脱却の方がいいこととして認識されていたと感じます。

 さらに、このゆとり教育の批判の最大の理由が、OECD生徒の学習到達度調査(PISAと言うらしい)の結果が、どんどん他国に抜かれていったことにあるのも、屁理屈屋の私から言うと問題があると思うのです。
 
 そもそも、ゆとり教育は、詰め込みからの脱却を狙ったもので、いわゆる学力以外のものを得てほしいという考えから生まれたものと私は理解しています。Wikipediaをみると、それを「生きる力」と文科省は定義していたようです。
 
 となると、このゆとり教育の評価というのは、「学力+生きる力」でなければなりません。しかし、当然ながらPISAのようないわゆるテストでは学力しか測ることはできないのは言うまでもありません。この生きる力をテストで測ることはもちろんできないというか、おそらく、評価不能でしょう。したがって、国際的な学習到達度調査で学力が下がったとしても、生きる力を含めて、人間力がアップされていたとしたら、全く国として卑下する必要はないと思うわけです。日本は学力一辺倒ではなく、生きる力を養っていると堂々と諸外国にも、日本国内へも言えばいいだけのことです。

 したがって、ゆとり教育により、学力がOECDの上位ではなくなったということはできますが、ゆとり教育が間違っていたかどうかは、PISAでは測ることはできないわけです。ゆとり教育以前には、「日本では、テストのできる子しか評価されない」と批判されていたわけですが、結局のところ、今になって、国レベルで「テストのできる子をつくらなければ全く政策的に評価されない」というのも不思議なものです。

 ただ、こう書いてくると、私が「ゆとり教育擁護派」と思われてしまいますが、上記は、批判の批判であって、制度の肯定ではありません(いいわけ)。当然ながら、ゆとり教育に疑問を多々感じているわけです。
 
 最大の問題点は、文科省の認識の中に、「生きる力を養う」という概念も、信念も、情熱も、おそらく全くなかったことではないでしょうか。学力だけを養うためには、詰め込めばいいわけで、政策としては簡単かもしれませんが、この生きる力を養うためには国としての信念と情熱がなければできないでしょう。結局、評価不能であるため、一番サボっていたのが文科省であり、サボっていたことがわかっているからこそ、PISAのような客観的なデータに対抗する気概も無いのでしょう。このゆとり教育の中で、生きる力は全く養われなかった可能性もあるわけで(私は全く養われなかったと感じている・・・)、だとすれば、ゆとり教育は間違っており、学力低下を招いただけと言わざるを得ないわけです。

 ゆとり教育の真の答えが出るのは何年も先のことかもしれませんが、ここで舵を切り直した以上、しばらく詰め込みで国際的な学力の順位が上がるかどうかを見るしかありませんね。私は、テストに特化した人間にあまり魅力を感じないため、総論として「ゆとり教育」には賛成だったわけですが、残念ながら私の考えも甘かったと言わざるを得ません。そんなことを考えていたら、(以前にも他の記事で書いたのですが)次の父の言葉を思い出しました。部活をやっているため、勉強ができないと言い訳する私に対して、

何かをやっているから勉強ができないというやつは、それをやめても勉強ができない!できるやつはなにをやっていてもできる!

と言われたのですが、もちろん能力絶対主義が言いたかったわけではないでしょう。ゆとりを与えれば、何かができるという考え自体が甘いという、まさにゆとり教育批判だったのかもしれませんが(笑)、間違いなく事実だと感じる言葉で、その後の私の人生に大きな影響を与えました(大げさか・・)。人間常にサボる方向に生きていますから、ゆとりが与えられて、じゃあ生きる力を養おうと思うかと言われれば、ただサボるだけと言うことになるのでしょう。文科省には信念と情熱が必要と言ったのは、まさにこのことです。ゆとりを作りましたよだけでは、学力が低下するだけです。
 
 そう考えると、やっぱり教育とは「苦痛と忍耐・・・・・」なのでしょうか。何か、別の方法や道があるようにも思うのですが、もちろん私は、その答えを持ち合わせるわけがありませんが・・・・。

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