私がまだ若かりし学生時代、東京の三省堂書店に初めて行ったとき、その大きさにたまげてしまったことを思い出します。デパートみたいに大きな建物の中のすべてが書籍で埋められていることに、正直びっくりしてしまいました。田舎では、全くあり得ないことですから・・・。先日、東京駅隣の丸善に行って、そんなことを思い出しました。一体全体何冊の本があるのやら・・・、お客も多く、次々に本が売れていきます。本や雑誌を本屋で買うことがなくなる日が来るなんて、この現状を見れば想像できません。
というのも、電子書籍なるものが、今後増えていくだろうと言われているのを小耳に挟んだため、その普及により、本屋さんが無くなってしまうのだろうかと考えてみたわけです。私ははっきり言って素人であり、電子書籍がいかなるものなのか正確には理解していませんし、やっぱりデジタルなモニター上の情報よりも、アナログな「本」という実物の方に価値を感じるため(これは若年寄だからなのか?)、正直、電子書籍の可能性について全く想像がつかないわけです。
ちなみに、当ブログ「彰の介の証言」は、ある意味、無料の電子書籍なのではないかと考えたりするのですがどうなんでしょう。そうすると「本→電子書籍」という時代の流れ?からすると、実に不思議なこと?不思議な心理状態?があったりするわけです。
このブログは、NIFTYのココログで書いていますが、このココログには、「あなたのブログを本にしませんか?」という、「ココログ出版」というサービスがあります。私は過去何度となく、このサービスを使って記念にこのブログを本にしようと思ったのですが(うやむやになって実現していません)、その心理というのは、「本→電子書籍」という時代の流れには完全に逆らっていると言えるでしょう。ネット上には確かに「彰の介の証言」というブログが存在するのに、なぜあえて実物の「本」がつくりたくなるのか?、コンピューターの電源をつけ、ネットにつなげればブログは存在しているのに、本棚にしまう「本」に存在感や安心感を感じてしまうのはぜなのか?という、一見哲学風の疑問に取り憑かれているわけです。おそらく、このサービスを使って、多くの人が自分のブログを「本」にしたでしょうから、同様の心理は私だけではないはずです。つまり、「本→電子書籍」という流れがある一方で、「電子書籍→本」という流れがあるのはある意味不思議な限りです。
実は、こんな心理を感じたことが別にもありました。うちの嫁が、とある有名料理ブログを愛読しているのですが、その方の「料理本」がでたとき、迷わず本屋へ買いに行ったわけです。これも実に不思議な話です。料理の作り方や、エピソードなど、本に書いてある内容は、ブログ内にすべて書いてあるはずです。レシピを簡単に見たいのなら、ブログの一部を印刷することだってできます。しかし、嫁は「本」がほしいわけです。新刊が出たはずなのに、あの本屋には売っていなかったから、別の本屋に行って探したり・・・など、懸命に「本」を求めているわけです。不思議ですね。しかし、例えば、電子書籍という形で、ネット上に、この本が売りだされたとしたら、嫁は迷わず買うかと言えば・・・、おそらくそれは「ブログと同じ」とだと感じるに違いありません。
iPadなどの出現で、もしかしたらそんな実物の「本」へのわだかまりも薄れていくかもしれないのですが、しかし、情報に対する考え方は、媒体の問題だけではないと感じることも多々あります。
例えば、新聞です。新聞は、ネットの出現によって?(だけではないと思いますが)、発行部数を減らしていると言います。(あくまで一側面に過ぎませんが)ネットによって素早く情報が得られるのに、あえて新聞を読む必要があるのか?というわけですね。確かに、朝刊が届くのは朝であって、昼間に起こった出来事は、ほとんどテレビやネットで情報として流れてしまっています。
しかし、非常にわかりやすい例を挙げれば、中日ドラゴンズが勝った次の日は、「中日スポーツ」がよく売れるわけです。これも不思議だとは思いませんか?。中日スポーツを買う人は、前日中日が勝ったことを知らない人??であるわけありません。当然、テレビやネットで、中日が勝ったということを知っているからこそ、翌日の「中日スポーツ」を買うわけです。なぜ勝ったということを、あえて新聞という紙媒体で確認作業するのか??その心理はよく考えるとわかりませんね。号外もそうです。「号外!、号外!」と言って町で配ると、人が群がり、奪い合っていますが、その奪い合っているほとんどの人は、何らかの形ですでに知っている情報であることが多いのではありませんか?。
そんなことを考えると、情報が欲しいのではなく、紙媒体がほしいと言うことになりますね。それは一般紙にも言えることで、一面記事などは、すでにテレビなどで報道されていることばかりであり、新聞を読むということは、その確認作業をすることに他なりません。だからといって、そこに究極的な情報の古くささというか、無駄な作業というか、そういうことを感じるかと言えば、そんなわけでもない・・・。
そこで、先ほどの嫁の話と同じことになるのですが、たとえばiPadで号外がパッと表示されるソフトを導入すれば、町で号外に群がる人はいなくなるのでしょうか?。何となくそんなことはないような?・・・気がするのは私だけでしょうか。
時代が流れていけば、徐々に実物の「本」や「新聞」といったものが、モニター上の情報のみになっていってしまうかもしれません。私のような実物にまだまだ価値をおいている人間は、そのうち自然淘汰されていってしまうのでしょうか?。次回に続く・・・たぶん・・・。
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