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2011/03/31

「想定外」と「風評被害」再び

 今回の東北関東大震災に関し、特に福島第一原発の事故で「想定外」という言葉がよく聞かれます。想定外を肯定するための、「未曾有」(みぞうゆうではない)という言葉もよく聞きますが。確かに、過去の津波の教訓をいかし、つくられていたはずの大堤防を、簡単に乗り越え破壊してしまうような大津波が発生したわけですから、「想定外」や「未曾有」があながち間違っているわけでもないかもしれません。
 
 また、原発事故による放射性物質の拡散は、かなりの「風評被害」をうみ、農家に大打撃を与えているようです。福島近辺が危険ということで、物資の流れが滞ってしまっているとも聞きます。

 実は、この「想定外」と「風評被害」という言葉は、2007年に起きた、新潟中越沖地震の時もキーワードになりました。このときは柏崎刈羽原発が「想定外」の地震(M6.8)の揺れに火災などを起こし、微量の放射性物質が海水に流れ、魚が売れないなどの「風評被害」をうみました。今回の地震の規模と、原発の事故の規模が違いますが、背景は同じといえばいいでしょうか。

 といいますか、このときの私の意見を2つの記事にしています(原発の想定外は許されるのか?風評被害?)。2007年7月の記事ですが、前者、すなわち原発事故に対する私の考え方は基本的に当時と変わっていません。基本的に原発事故の言い訳に想定外は許されないはずです。それどころか、むしろ今回の福島第一原発の事故で、私の憂いが現実のものになってしまったと感じ、本当にがっかりというか、心に何かもやもやとしたものを抱えながら生活している自分がいることに気付きます。しかも大変恐ろしいことに、この約4年前のこの記事の最後に、とんでもないことを私が書いていたことにびっくりしてしまいました。

ふと感じた素人的疑問ですが、海岸線に存在する原発の津波対策というのは万全なのでしょうか。決して大津波が襲ってこない場所に建設されているのでしょうか。それとも原発周囲には、何十メートルもの高さの防波堤が建設されていましたっけ?。何かあったときに、想定外の津波が発生しましたなんてことは、ありえないのでしょうね????。

 こんな文章を書いたことはとっくに忘れており、本日読み返してみて血の気がひきました。当時の私が、どうして津波のことを心配していたのか全く覚えていませんが、スマトラ沖地震のことが頭にあったのかもしれませんし、どなたかの受け売りだったかもしれません。私のような素人がこんな大予言をしれいるわけですから、今後の原発対策は根本から変更されるべきであることはいうまでもありません。

 後者の記事、風評被害についても、私の考えは当時と基本的に変わりません。枝野官房長官の発表の内容が曖昧で風評被害を生んでいるという批判がありますが、だとするとどのような言葉で、どのように発表すべきなのか、頭の悪い私には考えられません。風評被害をうまないようにするには、「余計な検査をしない」「事実を正確に発表しない」等の方法しか私には思いつかないからです。
 一方、現在の発表に関して「政府が情報を隠している」という全く矛盾した批判もあるわけで、「正確な情報を発表する」ことと、「風評被害を生まない」ことを両立するのは、矛盾した批判が出ている時点で、不可能ではありませんか。

 おしかりを覚悟で例を挙げれば、 

「犬のうんこが付いていた”ほうれん草”ですが、よく洗ったので、サラダで食べてください」

と言われたとしたら、普通その”ほうれん草”を食べる気はなくなるわけです。しかし、実際、よく洗っているのでうんこの害もにおいもありません。しかし、それをいくら強調されたとしても、普通は食べる気がしないと思います。このほうれん草を気持ちよく食べてもらうためにはどうしたらよいかといえば、最初から、うんこがついていた等と言わないことです。すなわち、真実を隠すことしか方法はないわけです。

 しかし、現在、多くの場所の大気、土壌、水、産物の放射性物質の検出は、しない方がいいとはとても思えません。しかも、それは、「風評被害」を恐れて改ざんされたり、隠されたりすべきでは無いと私は考えます。そして、その危険性についても、真実を国民の前に示すべきであり、実際、政府はそれを行っていると判断します(言葉尻の問題は山ほどありますが、総論として)。

 ということで、再度私からの謎かけですが、「正確な情報を隠さず発表すること」と、「風評被害を起こさないようにすること」を両立する情報公開の方法があればぜひ教えてください。私はかなりの難問だと思いますが。

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2011/03/17

所詮他人事の日々に反省

 今回の大地震で感じたことは、「災害は想定外で始まり、常に想定外の連続であろう」ということです。M9.0という地震の規模も想定外であり、それに伴う大津波も想定外、元々災害拠点になるはずの場所が津波に押し流されたのも想定外、原発がこんなことになってしまったのも想定外でしょう。

 大変不謹慎ではありますが、反省を込めて言えば、過去の大地震は、私にとって所詮他人事であったということもよくわかりました。東北で地震があり、今までであれば所詮他人事であったわけですが、発電所が壊れ、かなり遠く離れた場所に住む我々であっても、計画停電を強いられて、日常品や食料も手に入れにくくなって初めて、災害の当事者となりました。津波に流され、避難生活を送られている方々には遠く及びませんが、停電・断水に、神経をすり減らせる日々が続いており、気分が晴れません。

 それにしても、災害に対して、何の備えもしていなかったということがいやと言うほどよくわかりました。さあ、明日電気が止まるという状況なのに、明かりもなければ、水も食料もありません。結局、乾電池や水やパンやらを買いに走ることになり、今起きているまさに、買い占め行為とおしかりを受けていることを自分もやったということになります。

 言い訳すれば、全く備えをしていない人たちが、周りにたくさんいることもよくわかりました。さらに、これらの「急いで買い物行為」が、被災地の方々にも迷惑をかけているとのことですが、これまた、「所詮他人事、自分が大事」と考えている人もたくさんいることがわかりました(私を含めて)。
 まあ、ここまで自虐的にならなくてもいいのかもしれませんが、これまた、何となく気分が晴れない一要因になっているわけです。

 そして、電気も食事も、いつも本当に無駄に使い、無駄に食い散らかしているというがよくわかりました。あって当たり前は、無くなると目も当てられません。日本中、一年に一回くらい計画停電をして、災害への備えと当たり前のない生活を体験した方がいいのではないかと、意外に真剣に考えている私、彰の介でした。

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2011/03/14

輪番停電に備えて

 日本史上、未曾有の大災害、東北大地震・大津波が発生いたしました。被災された皆さまには心からお見舞い申し上げ、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

 この記事を書いている現在、私は実家の岐阜に帰ってきており、正直何も影響らしきものはありませんが、現在住んでいる静岡県東部では、明日から、輪番停電が始まります。

 妻からの連絡によれば、すでに乾電池、ペットボトルの水、パンなどの食べ物が、ほとんど売り場から消えているとのことです。被災地ではないので贅沢は言えませんし、正直普段から備えをしていないことが悪いわけですが、たった数時間の停電の備えに右往左往していることは、本当に恥ずかしいばかりです。また、それを考えると、電気もない、水もない、トイレもない、暖もとれないと聞いております被災地の皆様のご苦労は正直想像すらできません。

 我が家も、トイレのウォシュレットの電源を切るなどの処置をしております。が、よくよく考えてみると、ずーと釘付けになっていたテレビが一番無駄かもしれません。原発は気になって仕方がありませんが、停電を機会に、ラジオなどを活用し、無駄な電力を極力使わないよう努力したいと思っています。

 被災地から遠隔の方々が、過剰な自粛ムードをつくられる必要はないかと思いますし、私自身も、今すぐ被災地の方々に何か手をさしのべるということができるわけではありません(現地に向かうという意味で)。現在の私自身の職務を全うし、電力不足という意味で当事者となった部分については、必要最低限の使用に抑えられるよう努力したいと考えます。

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2011/03/10

メディア生態系理論

 いつもながらお久しぶりの彰の介です。
 そして、いつもながら、ばかばかしいことを理屈っぽく考えている彰の介です。

 このブログを始めた頃から、何度も何度も、「ネットの世界と既存メディアの関係」のことを考えてきて、特に、その争いといいますか「ネット対マスコミ」的なものの見方には、何度も、もの申してきました。過去記事にも書いていますが、ネットでブログを書いているような人間は、当然「ネット派」なわけで、私もそう分類されることになってしまうわけですが、しかし、ネット派のマスコミ攻撃にも辟易するものを感じていました(派閥論と駐禁症候群本質論と派閥争いなど・・)。

 そして今回も、全く同じことを書こうとしているわけですが、言葉を変えて、ネットも既存メディアも「生態系」の中の一員じゃないの?と言いたいだけなわけです。・・・と結論を書いてしまったので、これにて終了でもいいのですが?、まあ私の屁理屈にも少しの間お付き合いください。

 今回は、その序論で、本当の「生態系」に関する、私の屁理屈です。上記、ネットだ、メディアだ、マスコミだといろいろ書いてありますが、本日は全く出てきませんのでご安心ください。自然界の生態系のお話です。

 生態系という言葉の、正確な定義を私は知りませんが、食物連鎖とか弱肉強食という言葉で言い換えてもいいかもしれません。植物が光合成で得たエネルギーを、草食動物が食べ、それを肉食動物が食べ、それらの糞や死体を微生物が分解し、植物の栄養になって・・・というエネルギーの循環と言ってもいいのでしょう。たぶん。

 そこで私の屁理屈ですが、「弱肉強食」という言葉に私流の理屈をつけてみましょう。
例えば、シマウマは、ライオンの餌食になるという関係であり、俗にライオンが強くて、シマウマは弱いとされるわけです。ライオンは”生態系ピラミッド”の頂点、その下にシマウマが存在することになります。

 確かに一匹一匹を比べればそういう強い弱いという関係になりますが、「生態系」の中で考えた場合、決して強い弱いの関係はありません。ある安定した生態系を考えると、食べられる側が存在しない限り、その上の上位の捕食者の存在はあり得ません。いくら強くても、弱いものを食い尽くしたらその種は滅んでしまうことになりますから。
 
 いや、むしろ、生態系における強さ弱さというのは、あるいは、安定性というものは、全く逆かもしれません。種として食べられる道を選び、生態系の中に組み入れられた場合、すなわち、その生態系において、欠くべからざる”エサ”となった場合、種としては大変安定して生き延びることができるという考え方もできると思います。

 その道の専門家ではない私が、何でそんなことを考えたかと言えば、海の中の「鰯の群れ」や、田んぼの「オタマジャクシ」がむしゃむしゃと他の生き物に食べられるシーンを見るたびに、何でこんなにいろいろな生き物に食べられる、いかにもか弱い「エサ」のような生き物たちが、ずっと自然界を生き延びてこられたのだろうと疑問に思ったからです。

 生物というのは、いかに他の生物から食べられないようにという「弱肉強食」の理論から徐々に進化してきたかのように語られることが多いのですが、どう考えても、鰯やオタマジャクシは食べられないように進化してきたとは思えません。まあそんな弱い生き物たちがどうして生き残ってきたか、いや、むしろ繁栄してきたのかという答えとして、(正しいか正しくないかはわかりませんが)私の出した答えが上記に書いた、「エサとして生態系に欠くべからざる存在になること」というわけです。

 よく、「ほ乳類の祖先は、恐竜から隠れるように暮らしていた」なんてことが語られることがありますが、それが弱肉強食的に、恐竜が強くて、うろうろしていると食べられるという意味で言われているとしたら、それは全くのでたらめでしょう。ほ乳類の祖先が、恐竜の時代も生態系の中に組み込まれていたとしたら、食べられたからと言って絶滅することはないわけです。カエルやオタマジャクシが、次々にタガメやヤゴや、魚や、鳥に食べられても、絶滅しないのと同じ理屈です。必要不可欠な存在になれば、むしろ強食よりも種として安定というのが私の考えなのです。

 ということで、本日語ったことは、おそらくメディア生態系理論にはあまり関係ないような気もしますが、人間のための、人間的切り口でこの自然界の生態系をみた場合は、現在のネット対マスコミ的な派閥論的言い争いの無意味さを語る丁度いい例になると思います。が、本日はこれまで・・・。

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