安全の定義は・・(2)
「結局のところ、事故が起きるまでは安全である」
前回記事、安全の定義は・・に書いた私の結論ですが、我ながらなかなかの名文であると自負しております。しかし、名文だからと悦に入って喜んでいられる話ではありません。
前回も書いたのですが、今回の「想定外」で過去の「安全である」と言う言葉が、残念ながら正しくなかったと言うことがはっきりしてしまいました。要するに、事故が起きてしまったわけです。そうなると、日本中の原発が危ないという話になってしまいますから、過去の言葉にとらわれることなく、「安全でないもの」として、対策をこうじてほしいものです。しかし今後、どのような対策を万全にこうじたとしても、「安全だ」という言葉は信用されません。本来、安全対策というものは、そういうものなのでしょう。「”安全だ”には気をつけろ!」というわけです。
そうなりますと、もう一つの「安全だ」は本当に安全か?というのが大変気になります。安全だという言葉は使われていませんが、「直ちに健康被害が起きるものではない」等と聞かされているアレのことです。
ちなみに、今回の福島第一原発の事故は、チェルノブイリの事故と同じレベル7ということになりました。しかし、チェルノブイリの事故よりは、今回の事故は”規模が小さく”、放出された放射能の量は、チェルノブイリの約10分の1だそうですね(例の63京(或は37京)ベクレルってやつ)・・・。枝野さんはそうおっしゃっていたような気がしましたが。
私はもちろん全くの素人で、そんなこと言われて全くわからないわけですが、まさか、あの、あの、世界最悪の事故の、10分の1もの放射能を放出したとは、全く考えてもいませんでした。格納容器か圧力容器か知りませんが、炉心の中心部分が爆発したわけではないので「大丈夫」だと聞いていたような気がしたので、だとすれば、チェルノブイリとは桁違いに(桁は違うか・・・)放出量は少ないと漠然と思っていました。こういう話を聞かされると、事故の規模を小さく小さく見せようとしていたことが、残念ながらわかってしまい、そうこうしているうちにまき散らされてしまった放射性物質の影響を考えずにはおられません。
ということで、繰り返される「直ちに健康被害が起きるものではない」という言葉を「安全だ」に置き換え、私の名文に当てはめてみましょう。そうすると
「今後健康被害が起きなければ安全である」
ということになりましょうか。つまり、現在の放射線の測定値や、それらの基準値にもとづく食品や水の制限、避難の基準や手順が妥当なのかどうかは、残念ながらこれから未来に、しかも数週間や数ヶ月といった短い時間ではなく、年単位の後にも被害がほとんど発生しなかった場合、初めて「安全だった」と言えるだけのことなのです。となると、本当に安全安全と軽々しく言っていいものなのか、疑ってかかりたくなるのも道理というものです。
ただ、政府や有識者も、何の根拠もなくこれらの基準や避難指示を出しているわけではないでしょう。例えば、いくら何でも、日本人全員に国外待避を命令するのはやり過ぎなのが当たり前なように、どこかで「安全」と「安全でない」の間に線を引かなければなりません。その線の引き方と決断に対して、私の考え方は次の通りです。
まず、安全側に十分な安全域をもって線引きしてほしいということ、そして、そのための経済的な損失や、風評被害に対する責任やリスクをとってほしいと思うことです。
直ちに健康被害が起きるわけではないために、政府は、目先の経済的損失や風評被害を気にして、そのリスクをとらず、想定を甘く見積もっているのではないかと思わずにはおられないわけです。今後バタバタと健康被害が相次いでしまってから、「想定外だった」などという言い訳が通じるわけもなく、今決断しなければ取り返しが付きません。
もし、私が考えるような方向で政治が動いてくれるとするならば、安全を厳しく見積もったための損失は甘んじて享受し、それに対する批判には断固対抗していきたいと考えます(対抗手段は、このブログか?)。
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