人間における楽観論に関する一考察
考え方の違いと言われればそれまでですが・・・。
人間は実に楽観的な生物だと思います。
東海地震が起これば、数万人の死者が出ると言われても、自分が死ぬとは思っていないわけで、それは私も同じです。何万人も死ぬと言われても、危険とされている地域から出ていこうとも思わないですし、あまり備えをしようとも思いません。
今回、東日本大震災・大津波での大被害のニュースをいやと言うほど見せつけられても、その程度です。計画停電があったため、やっとそれに備えたというのが実情です。
賛否両論、或は、次の私の発言に違和感をもたれる方もおられるかもしれませんが、浜岡原発に関する御前崎市長の発言は、ある意味、実に楽観的でした。浜岡を止めると決定されるかなり前に、テレビ局のインタビューに答えた発言だったと思いますが、福島原発の事故を踏まえ、今後の浜岡原発に対する意見を求められ、
「安全に運転を続けてもらうのが一番いい」
と答えていました。私は実に楽観的な発言だと思ったのですが、それにもまして、本音中の本音であるとも思いました。地元の経済的な問題を考えれば、このまま運転していてもらった方がいいわけです。それは、そのインタビューでもはっきり発言されていました。その上で、事故の危険性に関してどう考えるかと言えば、「安全に運転してほしい」となるわけです。
御前崎市長が、「楽観的に」発言していないことはよくわかっているつもりですが・・・、この発言には、経済的理由で運転を続けてもらうしかないという気持ちも入っているのでしょうが、実際に、「事故が起きる」ということを、全く想像できないのではないか・・・とも感じるわけです。
人間とは不思議なもので、あの福島の惨状をいやと言うほど見せつけられても、数十年間の間には、ほぼ間違いなく大地震が起きると言われていても、つまり、大津波が福島と同じように襲ってきて、浜岡でも全く同じことが起きることが十分考えられても、実際浜岡で事故が起きるとは、なかなか考えられないのでしょう。
福島の事故も、いろいろな点で人災だと言われていますが、もちろん直接の原因は天災です。しかも想定外の天災、すなわち大津波です。以前の記事でも書きましたが、いかに安全に配慮したとしても、その想定以上のことが起きれば事故は起きます。「安全に運転する」ということが、人災に対しては言えるかもしれませんが(これも限界があります)、天災に対して使うことはかなり厳しいものがあると感じます。しかし、本当に来るのか来ないのか、来たとしても、あんな惨状になるほどひどいことにはならないのではないか、対策さえすれば「安全に運転すること」は十分可能ではないか・・・、そんなふうに漠然と考え、今、すなわち地震がまだ起きていない、今のことしか考えられないのが、人間ということになるのでしょう。
東海地震が起きても自分は死なないと漠然と考え、備えを怠っている私自身のことは棚に上げて言わせてもらえば、原発に関して、残念ながら第二、第三の福島が起きるという危機感が非常に強くあります。それは、以前から感じていた、原発に対する違和感、すなわち「何かあってからでは取り返しがつかない」代物であるということが、今回の事故で実証されたからに他なりません。
ついでに言えば、「クリーンエネルギー」という大ウソ、すなわち未来にとんでもない「ノンクリーン廃棄物」を残そうとしている現実に対しても、違和感を隠せません。
ちなみに、福島第一原発の地元の自治体?だったと思うのですが、地震後、その町の役場?がテレビで映りました。その入り口には大きな看板が立っており、
「原子力、未来の明るいエネルギー」
と掲げられていました(文言間違っていたかもしれません)。自治体としての町自体が、原子力をポジティブにとらえていることが非常によくわかりますが、今となっては皮肉としか言いようがありません。
こういう自治体の、こういう犠牲の下に、我々の快適な暮らしがあるとするならば、我々は、楽観してさらなる犠牲を強いるのではなく、快適ではない暮らしを分かち合うべきではないか、というのが私の考えです。
今事故が起きていないから・・・、これからも事故が起きるかどうかわからないから・・・という楽観論。程度問題として、考え方の違いだけなのかもしれませんが、「福島」という事故が起きてしまった以上、程度問題の線引きを変えるのは当然のことだと思いますが。
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