« 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-①- | トップページ | 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-③- »

2013/03/02

新平等主義 「バカにバカと言える社会」-②-

 身分制度がなくなったらその社会は平等か?という問いに対して、基本的に、社会通念上は、平等ということになっています。ただ別の側面として、もともと能力の高い人間(例えば“頭がいい人間”)にとって優位となる社会とも言え、身分制度という血統から、能力という先天的なもので決定されてしまう階級社会に変わるだけということを前回書いてみました(以下参照の程)。

 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-序-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-①-

 これに対して、「そんなことを言ったら夢も希望もない」と普通の方ならそう思われるでしょう。人間は、「夢や希望」に向かって「努力すること」がすばらしいことであり、後天的に獲得する「努力して得た能力や知識、技術」にこそ意味があると考えられているからです。今のうちに言い訳しておきますが、私も努力することを否定したいがためにこの「新平等主義」を語り始めたわけではありません。

 ただ、もう少し「夢も希望もない」話を続けさせて下さい。
俗に、「夢を追い続ければ、努力を続ければ、夢や目標は必ず叶う」などと言われます。しかし、特に、実力や結果が全ての世界では、そうそう、うまくいかないのは当然です。

 完全な実力の世界である、プロ野球などを例に挙げれば明かです。
イチローがコマーシャルで「必ず夢は叶う」みたいなことを言っていましたが、イチローのような活躍は、夢を追い続け、いくら努力をしても、ほとんどの人が叶いません。なにしろ日本人の中でもっとも野球が上手なのがイチローなのですから、その彼ほどの活躍はそもそも無理というものです。

 そもそもと言えば、プロ野球の選手になったとしても、レギュラーを取れるような選手はほんの一握りです。いやいや、プロ野球の選手になるのも、世間からみれば、超野球の上手なごくごく一部の人だけです。いやいや、甲子園に出られるような人もそうそういません。いやいや、各高校の野球部でベンチ入りすることだって、たやすいことではありません。

 そんなことを考えると、残念ながら、努力だけで、夢が叶うものではないわけです。いくら夢を持っても、プロ野球選手になるという夢は、死ぬほどの努力をした上で、宝くじが当たるくらいの確率でしか叶わないわけです。

 問題は、「野球の世界でイチローのような活躍をする」という夢を持った人間全てが、野球を始める、そのスタートラインに立った時、皆が同じところからスタートできると言えるかどうかです。すなわち、同じ夢を持った人間は、夢を叶えるということに対して平等なのかどうかということですが、これは全く平等ではないと言わざるを得ません。

 同じ夢を持ったとしても、人それぞれ、体格も違えば、運動能力も違います。プロ野球選手なら50mを6秒ほどで走り、陸上の投擲選手顔負けの遠投ができる人がほとんどです。身長160cmそこそこの私など、それだけで夢破れるというものです。元々の能力のない者が、努力だけで勝ち残れるような世界ではありません。一般人からみれば超人的な肉体を持つ人間の中で、さらに、苦しい練習にも耐え、技術を磨いた
努力した者が報われる」世界、それが、プロ野球の世界と言えるかもしれません。

 十分に、夢も希望もない話をしたところで、本題に戻りましょう。
私は、この「新平等主義」の中で、「新自由主義」の問題点を洗い出そうとしているわけですが、そんな、新自由主義者の志向する社会は、このプロ野球の世界そのものと考えることができます。実力、能力、結果が全ての世界であり、苦しい練習にも耐え抜き、技術を磨いた、まさに「努力した者が報われる」社会を目指していると言えます。

 ところで、「新自由主義」において、「努力した者が報われる」社会を目標としていることはともかく、プロ野球の世界でいうところの「体格や体力の差」すなわち「個々の能力の差」については、どのように考えられているのでしょうか。なぜなら、新自由主義者自身の能力が劣っていたら、努力してもぜんぜん報われないことになってしまい、自らの主義によって自らの夢が破れてしまうことになるのですから。

 そんな質問を、私は新自由主義者にしたことはないので、実際どのような問答になるかわかりませんが、おそらく答えはわかっています。「個々の能力に差があること」について、新自由主義者であれば

「その差を超えられるように努力するべきである」
「そこまで努力できなければ自己責任である」

等と答えるでしょう。皆様は、こう言われたらどのようにお思いになるでしょうか。いろいろとご意見はあるかもしれませんが、普通の方であれば、「努力しても超えられない差はあるのではないか」と思いつつも、「死ぬほどの努力はできないかも・・・」「努力できないことも問題だなあ・・・」と新自由主義者の意見に何となく同調してしまうかもしれません。

しかし、上記の新自由主義者の答えにひるむ必要も卑下する必要も全くありません。
努力しても超えられない差があるにも関わらず、新自由主義者はなぜ「努力」を強調するのか・・・、その答えはあまりにも明かです。それは、新自由主義者が、

優秀な能力を持った人間の集団

だからに他なりません。最初から足も速く、肩も強く、運動神経がずば抜けていい人間の集団だから、努力した者が報われる社会を作ろうというのです。つまり努力だけでは超えられない、元々の「個々の差」が理解できないのです。結果の差は、努力の差としか感じられないのです。

前回、「努力する者が報われる社会」という言葉が大変曲者と書いたのはそんな理由からです。このような言葉を新自由主義者の方々は悪意を持って使っているのかどうか・・・を今後徐々に書き進めていきたいと思います。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「ニュース・一般」ブログランキングにも清きクリックを! ↑↑クリック!
 かなり前からツイッター始めています。よろしければfollowしてください。そんなにつぶやいていませんが。

|

« 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-①- | トップページ | 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-③- »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-②-:

« 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-①- | トップページ | 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-③- »