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2013/03/21

新平等主義 「バカにバカと言える社会」-④-

 資本主義市場経済の中では、常に競争が行われ、それに打ち勝って行かなければなりません。従って、基本的に、この競争に打ち勝っていこうと、「努力すること」は当然のことと認識されています。そして、努力の結果、富を得たとすれば、それは成功した人間という評価を受けます。逆に努力を怠り、サボっているような人間は評価されません。「あんなやつ給料半分でいいのではないか」と思うこともしばしばですが、実はそんな考え方の遥か延長線上が新自由主義であるとうことを前回書きました。
 過去記事ご参照の程

 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-序-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-①-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-②-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-③-

 したがって、新自由主義者の多くは、向上心の延長に自らの主義があり、努力できない人間のことは当然自己責任であると認識していますから、特に悪意を持って、自らの主義主張をしているわけでは、おそらくありません。さらに、新自由主義者というのは、それが市場経済における当然の方向性だと考えているわけですから、いちいち、「新自由主義」などという主義主張をしている集団の一員だとは認識していない可能性もあります。

 そして、そんな新自由主義者の訴えることといえば、例えば「規制緩和」であり、「民営化」であり、「自由貿易」等です。できるかぎり公の力を削いで、競争を激しくするための政策です。私は、それらの言葉の一つ一つが、漠然と「いいこと」であると認識していましたが、これらの行き着く先が、「格差社会」であると認識を持った時、この主義が間違ってはいないとしても、それを抑え込むための主義主張が必要だと感じるようになりました。それが、この表題たる、「新平等主義」というわけです。むろん「格差社会」以外にも、新自由主義には多くの問題点があり、その方向性には警鐘を鳴らさねばなりません。

 現在の日本を考えると、不況やデフレが続き、何となく長く暗い時代が続いています。このような時、どうやってトンネルを抜けるのかと問われれば、「苦しみに耐え、努力して、頑張ろう」的な発想を、まじめで勤勉な日本人はついついしてしまいます。したがって、新自由主義的な、規制を緩和し、競争を激化する政策には、無意識に同調してしまう下地があるわけです。目の前に大きな壁が現れれば、それを乗り越えるよう努力しなければならないとついつい考えてしまうわけです。

 しかし、現実には、競争のあとに明るい未来が待っているわけではありません。ただただ、その壁を乗り越えられる者と乗り越えられない者、すなわち勝者と敗者がうまれるに過ぎません。優秀で、やる気があって、努力できる人がそれ相応の力を発揮して勝者となり、壁を乗り越え大きくなっていくことがいいことだとしても、その分多くの没落者をうむのであれば、社会として、国家として、プラスマイナスゼロと言うだけです。つまり個人のレベルで言えば、努力した者が報われる社会かもしれませんが、国家のレベルで言えば、不幸な人を増やすに過ぎないわけです。

 結局のところ、新自由主義者たる「優秀で、やる気があって、努力できる人」が、新自由主義的社会、すなわち、より競争が激化する社会を好む理由は、自分が勝者となれる自信があるからです。そして、最大の問題は、新自由主義者が、そんな競争を「平等な競争」だと信じ込んでしまっており、敗者を「自己責任」と切り捨ててしまうことです。なぜ「平等な競争」だと信じ、「自己責任」と切り捨ててしまうかといえば、それは、国民全員が「自分たちと同レベルに努力できるはずだ」と勘違いしているからに他なりません。過去に、くどく書いてきたとおり、この競争は、最初から新自由主義者に有利であり、「平等な競争」ではありません。国民全員が優秀な人たちと同様の努力ができるはずはないのです。おそらく平均的な国民ですら、新自由主義者と比べれば、「バカ」レベルと言って過言ではありません。

 国民全員が「自分たちと同レベルに努力できるはずだ」という新自由主義者の勘違いは、競争の先には「国民全員が勝者である」というとんでもない幻想をうんでいます。どう考えても、過去の歴史は「格差社会」をつくりだすに過ぎないのですが、そんな勘違いを少しでも新自由主義者に理解してもらわなければなりません。

 そのために私が考えている事は、次の二つを新自由主義者に訴えることです。
1つ目は、「新自由主義者は、優秀な能力を持った人間の集団」であるということ、
そして2つ目が、

世の中には、新自由主義者が想像も出来ないくらい、バカで努力できない人間がたくさんいる

という、この2つです。ここで言うバカというのは、差別的な意味での底辺の人々を意味しません。あなたであり、私であり、平均的な一般国民のことです。「優秀な能力を持った人間」と「バカで努力が出来ない人間」が混在している以上、「平等な競争」というものは存在せず、そんな中での敗者は「自己責任」と簡単に切り捨てられません。それは国家として、その構成員たる国民を切り捨てることと同義だからです。競争を激化させる政策は、ただただ「優秀な能力を持った人間」が活躍し、「バカで努力が出来ない人間」が没落する「格差社会」をうむに過ぎないわけです。

 バカに、「努力すれば報われる」と一見平等主義的な偽善を言うよりも、「バカにバカと言える社会」の方が、よっぽど平等でまともな社会だと私が考える理由は、以上の考察の結果なのです。

 むろん、新自由主義も、新平等主義も、相対的な主義主張であることは、この話を始めた時に断った通りです。新自由主義が行きすぎれば格差社会をうみ、新平等主義が行きすぎれば活力のない既得権益の固まりの世界になることはいうまでもありません。しかし、現代の日本で新自由主義を闊歩させることが、日本という国家の幸せにつながるとはとても思えません。

 私自身は政治や経済の専門家ではありませんが、現在の日本における問題点を、今後もう少し新平等主義を中心に具体的に書いていきたいと思っています。

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2013/03/12

新平等主義 「バカにバカと言える社会」-③-

 「努力した者が報われる社会」という言葉は美しいのですが、現実には人間個々それぞれに能力には差があるのですから、努力すれば全ての目標がクリアできるわけではありません。そんな、夢のない社会をプロ野球の世界で考えてみましたが、一般社会も、この厳しい、努力しない者が没落する、自己責任の世界にしてしまおうと考えているのが、新自由主義者の方々です。なぜそんな世界を志向するのかと言えば、新自由主義者の方々がそもそも「優秀な能力を持った人間の集団」であるがゆえ、個々の能力の差なるものの理解が出来ないからだろう・・・ということを前回言い放ってみました。
 その他過去記事ご参照の程

 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-序-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-①-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-②-

 「優秀な能力を持った人間の集団」ゆえに、その力を十分に発揮したいと考えれば、規制やルール,或は慣習などというものが邪魔に感じることもあるでしょう。究極的に言ってしまえば、新平等主義 「バカにバカと言える社会」-①-の最初で書いたような、身分制度のある時代を考えればわかりやすいでしょうか。生まれ持った身分によって将来の役割が決まってしまうのですから、そんな制度は廃止すべしと考えるのが、新自由主義ということになります。身分制度は、新自由主義者でなくても廃止するべきと考えるかもしれませんが、その方向性はまさに「新自由主義的」であるわけで、そのあたりについては、徐々に語っていこうと思います。

 さて、前回の最後に、そんな新自由主義者が、そもそも悪意を持って自身の考えを主張しているのかどうかという問題提起をしてみました。すなわち、「努力した者が報われる社会」などの言葉を掲げてごまかしながら、能力のない人を、「平等な社会」であることを理由に同じ土俵に上げて、利益を独占しようとするようなことを行っているのでしょうか。

 私の結論は、基本的に””です。
例えば、職場を思い浮かべて下さい。職場の中には、どうしてあれほど仕事が出来ないのに出世しているのだろう・・・と思える人はいませんか。上司でなくても、全く仕事がこなせないのに、自分と同じ給料をもらっている同僚とか。

 普段から、我々は、自分の仕事をちゃんと評価してほしい、仕事が出来ない人間にはそれなりの低い評価を与えてやってほしいと考えています。私も普段から非常にそれを強く感じています。仕事に自信がつくと、あいつと同じ給料なんてあり得ない、自分は倍もらってもおかしくないと考えることもしばしばです。それはおそらく、普通の人間であれば、普通に考えることだと感じます。しかも、それが特に間違ったこととも思われません。そうでなくては、まさに「努力しても報われない」ことになり、やる気や向上心の欠如につながってしまいます。それは、特に特別な主義でも主張でもありません。普通の人間の普通の考え方です。

 職場たる企業にしてみればどうでしょうか。当然企業にとって、能力のある者には責任ある仕事を与え、より利益を上げてもらわなくてはなりません。そのためにも、正当な評価をすることは欠かせません。能力のある者が出世し、能力のある者がたくさん給料をもらう、そんな企業でなければ活力が無くなってしまいます。企業の利益を考えれば、当然のことで、これを誤れば倒産への道を歩むことになってしまいます。

 このような、能力のある者が能力のない者と同じようには扱われたくないという、普通の人間の普通の思いや、企業がある程度能力に基づいて人事を行うことなどは、「能力主義」という意味において、「新自由主義的な考え方」であると言いたいわけですが、しかしこの程度のことであれば、現代社会においては、おおよそ受け入れられているものと考えることが出来ます。そしてある意味、それはあまりに当たり前のことであるため、「努力した者が報われる社会」として、社会通念上当然の考え方、方向性とされているわけです。

 だとすれば、新自由主義とは一体どのような主義を言うのでしょうか。私は、能力のある者が能力のない者と同じようには扱われたくない、という普通の人間の普通の思いを究極的に高めてしまったものが、あるいはそんな思いの遥か延長線上の考え方が、新自由主義だと解釈しています。

 その上で、「新自由主義者は悪意を持って自分たちの主義を主張しているのか」という問いに関する私の答えが“否“である理由は、基本的に、新自由主義者にとっても(一般市民にとっても)、それが社会通念上の特に問題とならない事柄だと信じてしまっていることだからです。もちろんそこには、悪意などないと考えていいでしょう。自分たちの利益のためだけに、利己的な自分たちの主張を繰り広げているとは、おそらく気付いていないのです。「おい、もっとおまえらしっかり働けよ!」程度の思いの延長が新自由主義というわけです。

 しかし、問題はその線引き、程度問題にあるわけです。

 新自由主義者の考える世界は、能力のある者が、2倍3倍どころか、10倍、100倍と給料をもらえばいいという世界です。能力のない者は、2分の1、3分の1、いやいや、派遣社員で、いつでも解雇ができて、最低賃金で働いてもらえばいいとうことです。これがプロ野球の世界であれば許されることなのかもしれませんが、一般社会となると大きな歪みを生みます。いわゆる「格差社会」です。

 格差社会に焦点を当てて、派遣切りをされた人たちを考えみれば、そこには非情な世界が広がっていることが何となく理解できるかもしれませんが、「あの上司は仕事が出来ないなあ」と感じていることの延長線上に「格差社会」があるとは、誰も思っていません。
 新自由主義の世界において、そんな上司は、首を切られて失業となりますが、上司のことをバカにしていたあなたにも、魔の手が忍び寄っているかもしれませんよ・・・・。実は私かも・・・・。

ということで、格差社会にしないためにも、「バカにはバカと言った方がいい」という話をしていきましょう。

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2013/03/02

新平等主義 「バカにバカと言える社会」-②-

 身分制度がなくなったらその社会は平等か?という問いに対して、基本的に、社会通念上は、平等ということになっています。ただ別の側面として、もともと能力の高い人間(例えば“頭がいい人間”)にとって優位となる社会とも言え、身分制度という血統から、能力という先天的なもので決定されてしまう階級社会に変わるだけということを前回書いてみました(以下参照の程)。

 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-序-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-①-

 これに対して、「そんなことを言ったら夢も希望もない」と普通の方ならそう思われるでしょう。人間は、「夢や希望」に向かって「努力すること」がすばらしいことであり、後天的に獲得する「努力して得た能力や知識、技術」にこそ意味があると考えられているからです。今のうちに言い訳しておきますが、私も努力することを否定したいがためにこの「新平等主義」を語り始めたわけではありません。

 ただ、もう少し「夢も希望もない」話を続けさせて下さい。
俗に、「夢を追い続ければ、努力を続ければ、夢や目標は必ず叶う」などと言われます。しかし、特に、実力や結果が全ての世界では、そうそう、うまくいかないのは当然です。

 完全な実力の世界である、プロ野球などを例に挙げれば明かです。
イチローがコマーシャルで「必ず夢は叶う」みたいなことを言っていましたが、イチローのような活躍は、夢を追い続け、いくら努力をしても、ほとんどの人が叶いません。なにしろ日本人の中でもっとも野球が上手なのがイチローなのですから、その彼ほどの活躍はそもそも無理というものです。

 そもそもと言えば、プロ野球の選手になったとしても、レギュラーを取れるような選手はほんの一握りです。いやいや、プロ野球の選手になるのも、世間からみれば、超野球の上手なごくごく一部の人だけです。いやいや、甲子園に出られるような人もそうそういません。いやいや、各高校の野球部でベンチ入りすることだって、たやすいことではありません。

 そんなことを考えると、残念ながら、努力だけで、夢が叶うものではないわけです。いくら夢を持っても、プロ野球選手になるという夢は、死ぬほどの努力をした上で、宝くじが当たるくらいの確率でしか叶わないわけです。

 問題は、「野球の世界でイチローのような活躍をする」という夢を持った人間全てが、野球を始める、そのスタートラインに立った時、皆が同じところからスタートできると言えるかどうかです。すなわち、同じ夢を持った人間は、夢を叶えるということに対して平等なのかどうかということですが、これは全く平等ではないと言わざるを得ません。

 同じ夢を持ったとしても、人それぞれ、体格も違えば、運動能力も違います。プロ野球選手なら50mを6秒ほどで走り、陸上の投擲選手顔負けの遠投ができる人がほとんどです。身長160cmそこそこの私など、それだけで夢破れるというものです。元々の能力のない者が、努力だけで勝ち残れるような世界ではありません。一般人からみれば超人的な肉体を持つ人間の中で、さらに、苦しい練習にも耐え、技術を磨いた
努力した者が報われる」世界、それが、プロ野球の世界と言えるかもしれません。

 十分に、夢も希望もない話をしたところで、本題に戻りましょう。
私は、この「新平等主義」の中で、「新自由主義」の問題点を洗い出そうとしているわけですが、そんな、新自由主義者の志向する社会は、このプロ野球の世界そのものと考えることができます。実力、能力、結果が全ての世界であり、苦しい練習にも耐え抜き、技術を磨いた、まさに「努力した者が報われる」社会を目指していると言えます。

 ところで、「新自由主義」において、「努力した者が報われる」社会を目標としていることはともかく、プロ野球の世界でいうところの「体格や体力の差」すなわち「個々の能力の差」については、どのように考えられているのでしょうか。なぜなら、新自由主義者自身の能力が劣っていたら、努力してもぜんぜん報われないことになってしまい、自らの主義によって自らの夢が破れてしまうことになるのですから。

 そんな質問を、私は新自由主義者にしたことはないので、実際どのような問答になるかわかりませんが、おそらく答えはわかっています。「個々の能力に差があること」について、新自由主義者であれば

「その差を超えられるように努力するべきである」
「そこまで努力できなければ自己責任である」

等と答えるでしょう。皆様は、こう言われたらどのようにお思いになるでしょうか。いろいろとご意見はあるかもしれませんが、普通の方であれば、「努力しても超えられない差はあるのではないか」と思いつつも、「死ぬほどの努力はできないかも・・・」「努力できないことも問題だなあ・・・」と新自由主義者の意見に何となく同調してしまうかもしれません。

しかし、上記の新自由主義者の答えにひるむ必要も卑下する必要も全くありません。
努力しても超えられない差があるにも関わらず、新自由主義者はなぜ「努力」を強調するのか・・・、その答えはあまりにも明かです。それは、新自由主義者が、

優秀な能力を持った人間の集団

だからに他なりません。最初から足も速く、肩も強く、運動神経がずば抜けていい人間の集団だから、努力した者が報われる社会を作ろうというのです。つまり努力だけでは超えられない、元々の「個々の差」が理解できないのです。結果の差は、努力の差としか感じられないのです。

前回、「努力する者が報われる社会」という言葉が大変曲者と書いたのはそんな理由からです。このような言葉を新自由主義者の方々は悪意を持って使っているのかどうか・・・を今後徐々に書き進めていきたいと思います。

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