新平等主義 –イデオロギーと国家観-
新自由主義と、新平等主義の関係を前回(新平等主義 –定義とそのベクトル-)書いたわけですが、極めて簡単にそれを図解すれば下のようになるでしょう。現在高福祉国家や社会民主主義的な政権は存在しますが、純粋な意味での社会主義的国家は歴史上否定されたと考えられますから、新平等主義の目指す社会がソ連のような国家ではないことを再度断っておかなければなりません。あくまで、自由主義市場経済において、より積極的に規制を廃止し国家の役割を小さくしようとするのが新自由主義的な方向であり、それにブレーキをかけるのが新平等主義というわけです。
過去に書いてきたとおり、新自由主義的な考え方の基礎部分は、社会通念上当たり前の方向性であるため、ぼーっとしていると、自然に新自由主義的な方向に流れていくことになります。あるいは、新自由主義的な発想に元々悪意はないため、そういう方向に流れてしまっても、普通間違っているとは気付かないかもしれません。したがって、概念としてそれにブレーキをかける方向性である新平等主義という概念をつくり出す必要があると考え、ここまで書き進めてきました。
さて、こういう政治の話をしていくうえでは、イデオロギーとの関係が欠かせません。しかし、この新自由主義、新平等主義の関係を、従来のイデオロギーである、右・左、保守・革新で語ろうとすると、非常に不思議な関係が浮かび上がってきます。
上記図にしたように、新平等主義は方向性として突き詰めていくと社会主義的な方向に向かうことになります。したがって、当然のことながらいわゆる従来の左翼的な考え方に親和性が高いと考えられます。例えば、新自由主義的政策が推し進められれば、格差社会をうむことになり、労働者は困窮してしまいます。したがって、労働者の権利を守ろうとする動きが出てくるわけですが、これはまさに典型的な左翼的活動です。そういう意味では、新平等主義と左翼的考えは同じ方向性ということになり、一見すると、新平等主義=左と言ってもいいのではないかと感じてしまいます。
ところが、一方でこの新平等主義は、右翼的な考え方にもかなりの親和性を持っているところが不思議なところです。前回、新平等主義を「格差を最小限に抑えるために、過去社会が構築してきた制度や概念をできるだけ守っていこうとすることを旨とする主義主張」と定義しましたが、これは左翼的革新的な考え方ではなく、まさに右系保守主義の定義に近いものです。過去2000年?にのぼる日本の歴史の中で培われた、文化や慣習、宗教観に裏打ちされた、日本という国家、あるいは国家観というものを保守するというのが保守主義ということになりますが、そんな日本独自の国家観による制度や慣習を、新自由主義は自分たちの活動の障壁であると捉え、崩していこうとしています。したがって、そういう意味での新自由主義的な考え方や行動に対し、保守主義は当然ながら反発することになるわけです。
しかし、もう一つややこしいことがあります。右系保守主義者の全てが、新自由主義に反発しているかといえばそうではありません。それどころか、新自由主義者の多くは右翼的な考え方の持ち主が多いのが事実です。アメリカの新自由主義といえば、キリスト教原理主義的な保守主義と一体となっているといいます。日本でも規制緩和や自由貿易を唱えている人といえば、右翼色の強い方が多いのが現実です。つまり、新自由主義をめぐっては、保守系の方々が真っ二つになっているわけです。
過去に、新自由主義と新平等主義はあくまで相対的な考え方であると書いてきましたが、私自身は、新自由主義に懐疑的な立場から新平等主義を唱えています。そんな立場からいうと、保守主義から新自由主義の考え方がうまれる理屈がわかりません。なぜなら、新自由主義がめざす目標が、地球国家的な世界統一ルールの国境の無い世界だとすれば、そこには国家観が欠如してしまっているからです。日本国としての国家観を大事にしようとしている人が、日本国という国家の枠組みを消し去ろうとしていることに気付かないというのは不思議でなりません。
私は、新自由主義の最大の問題点を、国家観の欠如だと考えています。
そういう意味において、おそらく、保守系の新自由主義者の方々は、大きな勘違いをされているのではないかと思うのですが、その勘違いや錯覚というのを、今後徐々に書き進めたいと思っています。実際には、過去記事に散りばめてきたことばかりのなのですが・・・。
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