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2013/04/08

新平等主義 –イデオロギーと国家観-

 新自由主義と、新平等主義の関係を前回(新平等主義 –定義とそのベクトル-)書いたわけですが、極めて簡単にそれを図解すれば下のようになるでしょう。現在高福祉国家や社会民主主義的な政権は存在しますが、純粋な意味での社会主義的国家は歴史上否定されたと考えられますから、新平等主義の目指す社会がソ連のような国家ではないことを再度断っておかなければなりません。あくまで、自由主義市場経済において、より積極的に規制を廃止し国家の役割を小さくしようとするのが新自由主義的な方向であり、それにブレーキをかけるのが新平等主義というわけです。

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 過去に書いてきたとおり、新自由主義的な考え方の基礎部分は、社会通念上当たり前の方向性であるため、ぼーっとしていると、自然に新自由主義的な方向に流れていくことになります。あるいは、新自由主義的な発想に元々悪意はないため、そういう方向に流れてしまっても、普通間違っているとは気付かないかもしれません。したがって、概念としてそれにブレーキをかける方向性である新平等主義という概念をつくり出す必要があると考え、ここまで書き進めてきました。

 さて、こういう政治の話をしていくうえでは、イデオロギーとの関係が欠かせません。しかし、この新自由主義、新平等主義の関係を、従来のイデオロギーである、右・左、保守・革新で語ろうとすると、非常に不思議な関係が浮かび上がってきます。

 上記図にしたように、新平等主義は方向性として突き詰めていくと社会主義的な方向に向かうことになります。したがって、当然のことながらいわゆる従来の左翼的な考え方に親和性が高いと考えられます。例えば、新自由主義的政策が推し進められれば、格差社会をうむことになり、労働者は困窮してしまいます。したがって、労働者の権利を守ろうとする動きが出てくるわけですが、これはまさに典型的な左翼的活動です。そういう意味では、新平等主義と左翼的考えは同じ方向性ということになり、一見すると、新平等主義=左と言ってもいいのではないかと感じてしまいます。

 ところが、一方でこの新平等主義は、右翼的な考え方にもかなりの親和性を持っているところが不思議なところです。前回、新平等主義を「格差を最小限に抑えるために、過去社会が構築してきた制度や概念をできるだけ守っていこうとすることを旨とする主義主張」と定義しましたが、これは左翼的革新的な考え方ではなく、まさに右系保守主義の定義に近いものです。過去2000年?にのぼる日本の歴史の中で培われた、文化や慣習、宗教観に裏打ちされた、日本という国家、あるいは国家観というものを保守するというのが保守主義ということになりますが、そんな日本独自の国家観による制度や慣習を、新自由主義は自分たちの活動の障壁であると捉え、崩していこうとしています。したがって、そういう意味での新自由主義的な考え方や行動に対し、保守主義は当然ながら反発することになるわけです。

 しかし、もう一つややこしいことがあります。右系保守主義者の全てが、新自由主義に反発しているかといえばそうではありません。それどころか、新自由主義者の多くは右翼的な考え方の持ち主が多いのが事実です。アメリカの新自由主義といえば、キリスト教原理主義的な保守主義と一体となっているといいます。日本でも規制緩和や自由貿易を唱えている人といえば、右翼色の強い方が多いのが現実です。つまり、新自由主義をめぐっては、保守系の方々が真っ二つになっているわけです。

 過去に、新自由主義と新平等主義はあくまで相対的な考え方であると書いてきましたが、私自身は、新自由主義に懐疑的な立場から新平等主義を唱えています。そんな立場からいうと、保守主義から新自由主義の考え方がうまれる理屈がわかりません。なぜなら、新自由主義がめざす目標が、地球国家的な世界統一ルールの国境の無い世界だとすれば、そこには国家観が欠如してしまっているからです。日本国としての国家観を大事にしようとしている人が、日本国という国家の枠組みを消し去ろうとしていることに気付かないというのは不思議でなりません。

 私は、新自由主義の最大の問題点を、国家観の欠如だと考えています。
そういう意味において、おそらく、保守系の新自由主義者の方々は、大きな勘違いをされているのではないかと思うのですが、その勘違いや錯覚というのを、今後徐々に書き進めたいと思っています。実際には、過去記事に散りばめてきたことばかりのなのですが・・・。

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2013/04/02

新平等主義 –定義とそのベクトル-

 新平等主義シリーズを書き続けてきたのですが、要するに、「新自由主義者」とはどういう集団なのか、そしてどのような考え方を持った集団なのかを述べたに過ぎなかったような気がします。そして、そもそも私が提唱?している「新平等主義」なるものの定義というか、いかなる考え方なのかというものを全く書いてきませんでした。それどころか、よく考えてみれば、「新自由主義」についても全く定義づけをしていませんでした。

 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-序-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-①-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-②-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-③-
 新平等主義 「バカにバカと言える社会」-④-

 私が考えている「新自由主義」と「新平等主義」は今のところ次のようになります。学問的ではなく、素人的に私が考えている骨格部分です。(新自由主義についてはある程度専門家が定義付けしていると思われるため、正式な定義等は専門書を参考にして下さい。)

 「新自由主義」とは・・・、全ての個人が能力的に平等であることを前提とし(或は、個人の能力差を不平等であるとは認識しない)、努力したものが報われ、努力しないものは自己責任とする社会を実現すべく、固定化した制度や概念を出来るだけ排除していくことを旨とする主義主張。

 一方「新平等主義」とは・・・、全ての個人は能力的に不平等であるため、自由競争下では格差が生じる。この格差を最小限に抑えるために、過去社会が構築してきた制度や概念をできるだけ守っていこうとすることを旨とする主義主張。

 新平等主義は、平等といいつつ、個人の能力的不平等を前提としているところがミソになります。一方、新自由主義は、逆に人間一人一人を平等と考えているのが前提です。さて、それぞれの主義主張の行き着く先、すなわち目標とする社会とはどういったものなのでしょうか。

 実は、新平等主義は、出来るだけ個人的能力差による格差をなくそうということですから、行き着く先は広い意味で言えば「社会主義」ということになります。働いても、働かなくても給料は同じという世界です。しかし、ソ連をはじめとする社会主義国が、現実的ではないということを歴史は示しました。私自身も、社会主義を理想として新平等主義を書き始めたわけではありません。またいわゆる高福祉国家を想定しているわけでもありません。新平等主義とは、その理想とする社会そのものをいっているわけではなく、あくまで、新自由主義の方向とは全く逆のベクトルを持つ方向性としての主義主張ということになると思います。

 それでは、新自由主義が理想としている、行き着く先の社会とはどのようなものなのでしょうか。実は、新自由主義の徹底が達成された新自由主義的国家は現在存在していないと考えられます。最も近いといえばアメリカということになるでしょうか。出来るだけ国家の関わりを無くし、国民は自己責任において(例えば銃を持って)生きていく社会ですから、そういうことになります。しかし、アメリカ合衆国政府というものがしっかり規制すべきは規制し、守ものは守っています。全てのルールが取り払われて、全てを自己責任にしているわけではありませんから、完全な新自由主義的国家とはいえません。

 新自由主義の行き着く先の国家が実現されていないというのは、実は当然です。それは、新自由主義を突き詰めていくと明らかに矛盾が生じるからです。新自由主義は、出来るだけルールや規制を撤廃していこうということですが、それではルール無用の悪党が跋扈する社会をつくってしまうだけです。性善説的な理想人間ばかりであればルールを撤廃してもいいわけですが、残念ながら平等でフェアーな競争をしようとすれば、当然厳格なルールや、社会の監視が必要ということになり、結局国家権力によるルール化のしくみが必要という矛盾が生じるわけです。そもそも、新自由主義を究極に突き詰めれば、全ての国が統一の憲法(ルール)となる地球国家的なものを想像すれば、それこそが新自由主義の行き着く先の社会かもしれません。それは国家の概念を取り払うことに他なりませんから、国家の概念が無い国家が存在しないのは、当たり前です。

 したがって、新自由主義も、その理想とする社会そのものを言っているわけではなく、出来るだけ規制や障壁を無くして、自由に競争するという方向性としての主義主張ということになります。そして、その180度逆のベクトルが新平等主義というわけです。過去にも、そして現代も、この新自由主義と新平等主義が綱引きを行い、釣り合いをとりながら社会が成り立っていたと思われます。しかし、この新自由主義に対抗する概念は意外に存在していませんでした。それは、新自由主義がある意味社会通念上当たり前の考え方の延長線上にあり、その問題点が抽出しにくかったことにあるのは、過去記事に書いてきたとおりです。

 まずは、中身ではなく、看板たる「新平等主義」という言葉をつくり、新自由主義という偽りの平等感の問題点をはっきりさせる旗印にしたいと思います。その上で、徐々に新平等主義の概念をより広げていこうと考えています。

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