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2013/05/30

新平等主義 –新平等主義的国家観-

 長いデフレ不況の中の日本における新自由主義者の思考過程は、「既得権益の中でぬくぬくと生きている人たちに渇を入れるべく、厳しい競争にさらせばいい」と考えていると思われます。それは、既得権益者が、日本の成長を阻害しているという考えもあるでしょうし、競争にさらせば、必死に頑張るだろう、という厳しいようなやさしいような考えもあるのでしょう。

 そんな考え方は、景気の良い時、或は、分野によっては、それでいいのかもしれません。景気が良ければ、私の危惧する落ちこぼれ組も、どこかで拾ってもらえる可能性がありますが、デフレの現在では、二極化するのみであろうことは過去にも書いてきたとおりです。

 ただ、「二極化」というといかにも悪いことのように聞こえますが、「既得権益の中で、ぬくぬくと生かしておくことがいいことなのか?」、「競争に向かっていく気持ちを持つことが悪いことなのか?」、という疑問はでてくるかもしれません。いくらバカな落ちこぼれ組が出るからといっても、人間としての向上心を持つこと、努力することを否定することが本当に正しいことなのか?ということについては説明しなくてはなりません。

 既得権益の一部については、前回述べたように、ただただ理由無く保護されているわけではない分野があり、経済的な効率のみで切り捨ててしまってはまずいということがあります。特に、海外との競争にさらして、日本の技術を壊滅的にしてしまった場合取り返しがつきません。そういった話は、今後このシリーズかどうかはともかく、どこかで意見発信したいと思いますが、今回は特に、「競争に向かっていく気持ちを持つこと、努力することが悪いことなのか?」ということについて書いていきます。

 結論から先に言えば、新自由主義者といわず、普通の人間が普通に考えている、競争に打ち勝っていこうという精神論は、全く間違っていません。人間として当然のことです。個人の目標として、「甲子園に出たい」という夢があり、死ぬほど野球の練習をすることを否定できるはずがありません。会社の目標として、「日本一の企業になろう、A社の売り上げを抜き去ろう」と目標を立て、それに邁進することも当然です。自分がレギュラーになると誰かが補欠になるとか、自社の売り上げが伸びれば、A社の売り上げが減ってしまうとか、そんなことを考える必要もないことは明らかでしょう。
 
 ただし、こういった目標、考え方は、個人の目標として、或は会社の目標としてであれば、全く問題ありませんが、これが日本という「国家」の目標や政策になる場合は相当に注意しなければなりません。なぜなら、目標の達成が、個人や、会社にとって幸福なものであっても、それがイコール「国家の幸福」とは言えないからです。一部の個人や会社の成功が、国民全員の成功を意味しないばかりか、むしろ、負け組を生んで幸福とは思えない国民を増やしてしまうからです。

 新自由主義では、規制や既得権益を、「努力しようとしない人間を増やすこと」と捉えている節がありますが、いかにもそれらしいそんな考え方は、新自由主義者だけが成功するための極めて放漫な態度であるとしか言いようがありません。国家は、国家全体の幸福を追求するために、ある程度の規制をかけて負け組を最低限度に抑えることや、手をさしのべるような制度を作らなくてはなりません。

 つまり、新自由主義的な、競争を勝ち抜く精神論は、個人の目標であって、国家の目標とすべきではないというのが私の意見であり、新平等主義の本質といってもいいのかもしれません。次のような例えが正しいかどうかわかりませんが、家族に例えてみてはどうでしょうか。

 個人的な人生の目標を掲げ、それに邁進することは何も悪くありません。ただ、落ちこぼれてしまった時、心から支えてくれるのが家族です。もちろん、親が子を時に突き放したり、子が反対を押し切って家族から飛び出したり、様々なドラマがあるのが家族ではあるのですが、心はつながっており、最後は助けてくれる、それが家族でしょう。
 優秀な兄と、できの悪い弟がいたとすれば、確かに兄が幸福になり、弟が不幸になるかもしれません。しかし、双方を温かい目で見守り、特に弟は、できが悪いからこそ、できるだけ不幸にならないよう影ながら手をさしのべるのが家族というものです。なぜなら、家族にとって、家族全体にとっての幸福とは、兄だけが幸福になること意味しませんし、弟を切り捨ててしまうことでもないことは明らかなのですから。

 これは、新平等主義的国家観と言っていいかもしれません。
家族の構成員であることを自覚することと、家族全員が幸せでなければ、自分の幸せなど意味がないということ、そう例えることができるでしょうか。逆に新自由主義とは、家族が温かく見守ってくれているのを知ってか知らずか、家族の縛りから解放されて、自分のためだけにのびのび生きたいと考えることということになるでしょう。

 様々なドラマが家族にはありますから、完全に国家観というものを家族に例えることはできないかもしれません。優秀な兄が、家族の束縛から逃げて努力し、成功を収めることなんてたくさんあるでしょうが、成功した姿を喜んでくれるのも家族、失敗した時に拾ってくれるのも家族です。家族無くして自分無し、そして日本という国家無くして自分もないというのが新平等主義的国家観というわけです。

 そろそろこのシリーズも終わりにさしかかってきました。もう少しお話をさせていただき、まとめて終了させていただきます。

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