新平等主義-反新自由主義まとめ-
新自由主義をよく言えば「努力した者が報われる社会をつくろう」ということになりますが、そのために、努力することを目標に掲げることは、個人レベルでは大いに結構ではあるものの、国家の目標とするべきではないというのが前回のまとめになります。国家の目標は、個人の成功ではなく、国民全員の幸福にありますから、特定の個人だけが成功し、敗者もたっぷり生み出すような政策を打つべきではありません。常に負け組、敗者をできるだけ少なくするための政策を打つべきであり、負け組が出てしまったらちゃんと手をさしのべるのが国家というものです。それを、新自由主義的政策の反対のベクトルを持つ考え方として、「新平等主義的国家観」と名付けました。この、国家観の欠如が新自由主義の最も大きな欠陥であり、国家のことを考えているようで、よく考えてみると、ただの個人主義になりかねないのが新自由主義というわけです。
ただ、何度か断ったように、新自由主義、新平等主義、ともに相対的な考え方であり、行きすぎなければ絶対的にどちらが正しい、どちらが間違っているということはありません。ただ、現在の日本を見ていると、一見それらしい、新自由主義的な方向性を多くの国民が勘違いして捉えており、しかもとても正しいとは思えない部分もあるため、それを批判する立場から話を進めて来ました。下記、加筆しながら今までをまとめてみたいと思います。
新平等主義 「バカにバカと言える社会」-序-
新平等主義 「バカにバカと言える社会」-①-
新平等主義 「バカにバカと言える社会」-②-
新平等主義 「バカにバカと言える社会」-③-
新平等主義 「バカにバカと言える社会」-④-
新平等主義 –定義とそのベクトル-
新平等主義 –イデオロギーと国家観-
新平等主義 –新自由主義的思考と錯覚-
新平等主義 –新平等主義的国家観-
・・・・・・新自由主義とは(私の個人的な考え方です)・・・、人間生まれたからには、一人の人間として全員平等であるというところがスタートになっています。ですから、規制を緩和・撤廃し、ハンデ無しで自由に競争することを、平等な、フェアーな競争であると考えています。したがって、その競争による勝ち負けは、努力の差であると考えます。したがって、努力した者が報われる社会とは、競争に勝った者のための社会という意味であり、努力を怠った敗者は、自己責任として、落ちこぼれても仕方がないということになります。さらに、そんな自己責任で落ちこぼれたような者を助ける必要もないと考えています。落ちこぼれの救済は、フェアーな競争ではないばかりか甘やかしであり、落ちこぼれ候補生をさらに努力しない人間にしてしまう可能性があり、国策としてもするべきではない・・・と考えている節もあります。
新平等主義とは、そんな新自由主義とは全く180度逆のベクトルを持つ考え方であり、私の造語です。人間は、一人一人全く能力が違うため、新自由主義者の考えるハンデ無しの自由競争はむしろ不平等だと考えます。実は、日本の社会には、法律はもちろんのこと、慣習や伝統、国民性に至るまで、この不平等をできるだけ少なくする仕組みが存在しています。そんな仕組みをできるだけ守り、新自由主義的な考え方による、社会の二極化(勝ち組と負け組)をできるだけ避け、国家全体としての幸福を追求しようとするのが新平等主義となります。
新自由主義は、現在の日本のような不況下において、それを打開する方法を「競争の激化」と考えています。努力し勝ち残った者が、日本を引っ張っていけばいいと考えているようですし、或は、競争の激化によって、国民全員が努力をすれば、国民全員が勝者となるという幻想を持っているようです。しかし現実には、必ず敗者を生むことになります。新自由主義では、この敗者を容赦なく切り捨て、救済すること全く考えていませんから、敗者が同じ国民であることを忘れて、この幻想、すなわち一部の勝者のみの幸福を国家の幸福と考えてしまっています。しかし、国民を切り捨てることなど全く国家としての幸福ではありません。新自由主義は、個人の幸福と、国家の幸福を明らかに混同しており、そういう意味での国家観というものが存在していないのです。敗者をできるだけうまない(もちろん国民を切り捨てない)、もし敗者を生んでしまったら当然手をさしのべる、そんな国家の有り様を守っていこうとすることを、新平等主義的国家観と名付けました。
ただ、新自由主義者が、利己的な理由から新自由主義なのかと言えば、それは違うと考えています。そこには必然的な理由が存在していると考えました。なぜ、新自由主義者が、一人一人の人間には能力差があるにもかかわらず、全ての人間を同列に扱おうとするのかと言えば、それは新自由主義者が「優秀で能力があって努力できる人間だから」であると考察しました。悪く言えば、新自由主義者は、優秀であるからこそ、激しい競争に打ち勝っていける自信があり、自分が負け組になるとは考えられないのでしょう。或は負け組の気持ちを推察することができないのでしょう。よく言えば、自分たちより能力が劣る人たちでさえ、優秀な自分たちと同等の努力ができるはずだと(悪気はなく、エールのつもりで・・・)考えてしまうのでしょう。したがって、そんな考えから、全員が努力すれば、全員が勝者という錯覚をしていますし、努力できないものは、当然自己責任という結論になってしまうと考えられます。
また、国民が、知らず知らずに新自由主義的な考え方を受け入れてしまう必然性もあります。社会通念上、「夢に向かって努力すること」は美しいこと、すばらしいこととされています。また、仕事ができる人と、できない人が、同じ給料だったら、それを不公平と考えるのが普通です。したがって、新自由主義者の言う、「努力しろ、競争に打ち勝て!」という言葉に対して、誤っているという認識は基本的に生まれませんし、反対側に、敗者が生まれるという認識もありません。個人の目標ですから、敗者に対するいたわりの心など全く持つ必要もありません。したがって、国家全体としての幸福とは、「敗者をできるだけ少なくし、敗者に手をさしのべること」ではなく、本来個人の目標である、「競争に打ち勝つこと」にすり替わってしまう必然性があると考えられます。
これらの必然性による錯覚があるからこそ、新平等主義、新平等主義的国家観を訴えねばなりません。特に現在、優秀で能力があって努力できるすばらしいリーダー達が、国民に鞭をふるって「努力しろ!!」と叫ぼうとしています。しかしそれは、優秀で能力があって努力できるほんの一部の人間が幸福になるだけのことであって、国民全体の幸福ではないということを訴えていかなければならないのです。
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