新自由主義の段階的荒廃論
新自由主義を批判的な立場から、新平等主義シリーズとしてまとめてきました。
基本的に、「新自由主義」という言葉自体、新自由主義的な考え方を批判的に捉える立場の人たちから生まれた蔑称のようですが、私の立場はあくまで、絶対的な悪ではなく、相対的なものに過ぎないという考えであり、そのことを何度も強調してきました。
すなわち、新自由主義と新平等主義は常に綱引きをしている状態であり、どちらに偏っても問題が生じるであろうということです。新自由主義が行きすぎれば格差社会をうみ、新平等主義が行きすぎれば活力のない既得権益の固まりの世界になるだろうということが想像されるわけです。
もう一つ私が考察してきたことは、新自由主義者が、悪意を持って自らの主義主張をしているのかということに関して、‘否’という結論を持っているということです。新自由主義はある意味必然からうまれるものであって、そこに悪意はないと考えてきたわけです。
しかし、「本当に悪意はないのか・・・・」ということを何度も考えているうちに、新自由主義というのは徐々に悪意を持っていると思われて仕方がない段階に昇華してしまう可能性があることに気付いてきました。基本的には、新自由主義の発生時点に悪意はないと考えていますが、新自由主義者が徐々に進化していく過程で、意識の有無にかかわらず、悪質な解釈を元に、悪意のある制度を作り上げてしまうことがあるわけです。そんな新自由主義者の進化の段階(三段階)を考察・分類し、今までとは別の角度で新自由主義の問題点を考えてみました。
①新自由主義の萌芽 「能力主義的新自由主義」
私は、新自由主義の原点を、能力主義だと考えています。すなわち、一生懸命努力し働いて、結果をしっかり出している人と、サボっている人が同じ給料だったら、それはおかしい、と思う気持ちです。当然一生懸命働いている人が、さぼっている人よりたくさん給料をもらって当然と考えることです。これを新自由主義の進化の第一段階(萌芽)として、「能力主義的新自由主義」と名付けてみました。これは過去に書いてきたとおり、普通の人が普通に考えている事であり、ある意味、社会通念上当然とされている事柄と考えることができます。したがって、この段階で当然悪意など生じていません。
そして、これも過去に定義してきたとおり、新自由主義者というのは「優秀で能力があって努力できる人」であり、その才覚を徐々に現し、成功を収めていくことになります。
②新自由主義の成熟 「真性新自由主義」
自ら努力し、成功を収めた新自由主義者は、より大きな成功を収めようと考えます。しかしそこには、新自由主義者の成功を拒む「規制」が立ちはだかることになります。なぜそこに規制が立ちはだかるのかといえば、自分たち(新自由主義者)よりも、能力もなく、努力もできない人たちを守るために、既得権益としての規制が存在しているからです。それに対して、当然「フェアーではない」と考えることになります。人間一人一人は同等であり、成功を収める・収めないは「努力の差である」と考える新自由主義者は、「フェアーな競争」を望み、必然の流れの中で規制撤廃を訴えるようになります。新自由主義者は、その成功者としての成熟期を迎え、その第二段階として「真性新自由主義」とも言える、「フェアーな競争を阻むいかなる規制もなくすべき」との考えを持つようになります。さらに、規制撤廃後、実力をいかんなく発揮することになるわけです。
私は、この真性新自由主義の段階において、基本的に悪意は生じていないと考えています。それは、能力主義的新自由主義の流れの延長線上と考えるからなのですが、よくよく考えてみれば、徐々に理屈の組み立てが、一見必然の流れのようで、利己的になりつつあると言ってもいいかもしれません。しかし、一貫した考えの中で、自己を例外におくわけでないわけですから、最低限利己的であるということを意識しているわけではないと考えます。つまり、自分に優位なことは、他者にもチャンスが広がる(ライバルを生む)ことに他ならないわけですが、それを受け止めている段階だといえるでしょう。ただし、倫理上の問題を、徐々に新自由主義の下に覆い隠してしまうようになってきていることは、無意識といえども悪意の芽生えと言わざるを得ませんが。
③新自由主義者の保身 「御都合主義的新自由主義」
新自由主義者が、真性新自由主義の段階で留まり、自らを極めて激しい競争の世界に留めておくのであれば、それはそれで自己一貫性があって納得できなくもないわけですが(私は納得できませんが・・・)、自らの主義主張のために自らが苦しむことになった場合、その一貫性が続くとは限りません。そこは、「優秀で能力があって努力できる」新自由主義者です。その頭の良さをフルに活用し、新自由主義の原理原則に矛盾していないように偽装しつつ、解釈変更や新たな概念を持ち出して、自らの保身に走りだす段階へ昇華してしまう場合があります。
それは、相手から攻められた場合のブロックのため、あるいは、自らは努力することなく相手側を攻められるようにするため、あるいは多少の倫理上の問題があってもそれを覆い隠すため、等いろいろと考えられますが、簡単に言えば、
新自由主義者にとって都合のいい制度=フェアーな競争
というあまりにも御都合主義的な本末転倒な解釈を始めてしまうわけです。それを新自由主義の第三段階として「御都合主義的新自由主義」と名付けたわけですが、これは、新自由主義の原理原則から明らかに逸脱し、人間性を失っている時点で、意識している・していないに関わらず、私には非常に強い悪意を感じてしまいます。むしろ、利己的な認識があった方が人間性を感じることができますが、無意識に屁理屈をひねり出して、都合良く解釈を変えているとすれば、その方が目も当てられません。
ということで、ちょっと尻切れトンボですが、ざっと、新自由主義の進化・・・・能力主義的新自由主義→真性新自由主義→御都合新自由主義という流れを総論的に語ってみました。具体的な話が無くわかりにくいとは思いますが、今後少しずつ例を挙げ、この御都合主義的新自由主義を批判していきたいと考えています。
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