« 新自由主義の群像-戦国時代の帰着 | トップページ | 新年のおみくじへの屁理屈 »

2013/12/26

新自由主義の群像-幕末の志士

 一般に、「新自由主義」という言葉は、その考え方に反対の立場の人が蔑称的につけたものであるらしく、「俺は新自由主義者だ!」と自ら発言する人は聞いたことがありません。同様に、いわゆる偉人と考えられる人を、新自由主義や呼ばわりする人もいません。・・・・、私以外・・・・。

 前回、信長、秀吉という戦国のスーパースターを、私的定義から、典型的な新自由主義者と言ってしまったのですが、違和感を覚える方々も少なくなかったでしょう。以前から書いていますが、私は新自由主義を固定した主義主張の枠組みで考えていません。あくまで、一定の方向性を持つベクトルであり(反対方向のベクトルを新平等主義と名付けました)、新自由主義的な考え方が正しいのか、間違っているのかという問題は基本的に相対的であるということを何度も確認しています。その時代の状況によって、新自由主義的な考え方が当然のように生まれ、新自由主義者が活躍するということは、私的には当然すぎる話です。すなわち、新自由主義という言葉は、絶対的悪を意味しないということです。

 どうして、冒頭にこうして言い訳がましいことを書いているかと言えば、世界史の中の日本史として、輝かしい1ページを飾っている「幕末、明治維新」という時代を、新自由主義的な時代であったと考えており、そこで活躍したいわゆる志士達のことを典型的新自由主義者と呼ぼうとしているからです。こちらの方が、戦国時代より、相当に違和感があるでしょうか。そんな違和感を短絡的に、「誤った認識である・・・」等と言われてしまう前に、早々言い訳をしておいたという次第です。

 幕末における日本の目標は「ヨーロッパ列強から独立を保つ」と言うことに尽きるでしょう。この目標を成し遂げるために、徳川幕藩体制を解体したというのが明治維新ということになりますか。ということは、この幕藩体制には何らかの問題があったということになります。

 私が考えている、徳川幕藩体制の大きな問題点の一つは、250年にも及ぶ、身分制度の固定化です。江戸時代の前の戦国時代が、身分の全く保証されていない下剋上の時代だったのとは全く正反対で、生まれながらの身分というものが、その能力に関係なく、上がることも下がることもありませんでした(そうでもない部分もあったでしょうが、ここでは無視・・・・)。つまり、日本を引っ張って行くべき将軍や、地方のリーダーたる藩主、その上位の家臣などは、あくまで世襲であって、世界に対抗できる能力を備えている人物であるという保証はありません。むしろ、その後の歴史を考えてみれば、無能な人物も多かったでしょう。無論、江戸幕府がただただ無能集団だったというわけでは決してないようですが、残念ながら歴史をみてみると、下級武士達がほとんどのいわゆる幕末の志士、明治の元勲と呼ばれた人々に政権を乗っ取られることになったわけです。

 そんな、幕末明治を考えながら、私の提唱する新自由主義の定義を読んでみてください。前回書いた内容を再掲してみます。

新自由主義とは「全ての個人が能力的に平等であることを前提とし(或は、個人の能力差を不平等であるとは認識しない)、努力したものが報われ、努力しないものは自己責任とする社会を実現すべく、固定化した制度や概念を出来るだけ排除していくことを旨とする主義主張」

新自由主義者とは、「優秀で能力があって努力できる人」であり、努力したものが報われる、固定化された制度がない自由な世界が実現できれば、思う存分その実力を発揮することができる。

 いかがでしょうか。極めて行動力は高いものの、本来活躍の機会のないはずの下級武士である志士達が、努力どころか命をかけて固定化した身分制度を破壊し、実力あるものが日本を引っ張っていく社会をつくりあげました。私が幕末維新を新自由主義的社会の典型と考えていることがおわかりいただけるでしょうか。

 上記の定義では、個人主義的な、個々の利益を追求するという意味での「報われる」という言葉を使っていますので、「日本の独立」を目指した志士達に当てはめるのは不適当という意見もあるかもしれません。しかし、明治維新の達成が、身分制度に抑圧された下級武士達の鬱屈したエネルギーによるものであったことは否めません。また、本来、武士道精神から、藩の身分秩序を守ることが絶対のはずの志士達が、廃藩置県(身分的上位者への解放)や、四民平等(身分的下位者への解放)という社会構造をつくりあげました。これらを考えると、「日本の独立」という目標は、身分制度によらない、自らが活躍出来る場をつくり出すという志士達の「報われる」という意味での目的と表裏一体で合致しています。そう考えれば、上記新自由主義の定義がぴたりと当てはまると考えているのです。

 ということで、何が言いたかったかと言えば、カチカチの固定化されてしまった社会においては、新自由主義者が活躍し、(前社会と比べ相対的に)新自由主義的社会へ変革されるということは十分あり得るというお話です。

 まあ、幕末という時代を、新自由主義という概念で切り取るということは今までなかったかと思います。そう考えると、あんな人や、こんな人まで、典型的新自由主義者という話になってしまいますが、次回はそんな新自由主義者の定義そのものの人をご紹介したいと思います。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「ニュース・一般」ブログランキングにも清きクリックを! ↑↑クリック!

 かなり前からツイッター始めています。よろしければfollowしてください。そんなにつぶやいていませんが。

|

« 新自由主義の群像-戦国時代の帰着 | トップページ | 新年のおみくじへの屁理屈 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 新自由主義の群像-幕末の志士:

« 新自由主義の群像-戦国時代の帰着 | トップページ | 新年のおみくじへの屁理屈 »