新自由主義の群像-自助論とブラック企業
前回、福澤諭吉の「学問のすすめ」を新自由主義の教科書?と書いてしまいましたが、「学問のすすめ」よりずっとずっと新自由主義の教科書といえるのが、サミュエル・スマイルズ著の「自助論」でございます。「学問のすすめ」もこの「自助論」も明治初期の日本で100万部のベストセラーだったといわれ、明治の青年は、これらの書物が掲げる独立自尊の精神に奮い立ったとのことです。
あらかじめ断っておきますが、私は竹内均訳の自助論(三笠書房)を参考にしておりますので、原文を読んでおりません。訳者が意図的に訳したり、飛ばしてしまったりした部分があったとしてもわかりません。あくまで、この訳本でのお話です。
天は自ら助くる者を助く
こんな格言から始まる「自助論」ですが、この「自助」とは、「勤勉に働いて自分で自分の運命を切り拓くこと」と竹内先生は訳者のことばで書いています。そして自助の反対は、外部からの援助であり、
外部からの援助は人間を弱くする。人のために良かれと思って手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失いその必要性も忘れるだろう。
と、かなり厳しい言葉で、自助の精神の大切さを説くことから、この本は始まっています。そして、世界中の数々の著名人の成功のエピソードや、名言をあげて、「努力すれば成功する!!」ということを、繰り返し、繰り返しいやと言うほど繰り返して、読者の頭にたたき込もうというのが、本書ということになりましょうか。いわゆる自己啓発本ですね。 私からすると、若干成功を美化するために、矛盾した内容があちこちにあるような気がしますが、まあ、詳しくは皆様御自身でお読みになってください。
さて、私は本書を新自由主義の教科書と呼んでいるわけですが、その理由は、「学問のすすめ」と全く同じで、私が言っている新自由主義の定義そのままだからということになります。何度も書いてきたのでさらっと書きますが、人間は生まれながらに能力は平等であり、差が出来たとすればそれは努力の差であるということを前提として、本書が書かれていることです。
例えば、著明な哲学者の言葉として、
全ての人間はその天分において平等である。だから、ある人間に出来ることは、同じような環境に置かれ同じ目的を追求したとすれば、他の人間にも実現できることなのだ。
という引用していることからも明らかでしょう。また上に書いた、良かれと思って手を差し伸べてはいけないとしているところも、自己責任論という意味で、典型的な新自由主義と言えると思います。
よく読めば、人間に能力差はないとは言っていない部分や、私のいう新自由主義の定義には当てはまらない部分も、本書にはほんのちょっと、ちらっと程度は書いてあります。しかし大部分では、どんな人間も死ぬほど努力をすれば成功するという新自由主義的な論調が列挙されています。むしろそれを正当化するため?に、成功者は、凡人(決して優秀とは言えなかった)だったとか、貧乏でつらい状況だったとか、決して条件がいいとは言えなかったということが何度も書かれており、あくまで弛まぬ努力こそが成功の元だと結論されています。
ただ、私から言わせれば、成功者というのは、ごくごく一部の優秀で能力があって努力できる人たちであって、一般の凡人が仮に死ぬほどの努力をしても、成功者とはなれない確率の方が高いと言わざるを得ないということは、過去に書いてきたとおりです。新自由主義を批判的立場から書いてきた私としては、この部分がごまかしとしか感じられず、大変違和感を感じてしまう部分なのです。
しかし、何度も書いているとおり、こういった新自由主義的な自己啓発啓蒙書というのは、誤っているとか、必要ないという問題で批評出来ません。私の批判と、本書の存在意義はあくまで相対的であり、いつの時代も、当然現代も、そして明治という時代は特に必要だったのだろうと言えると思います。そして、その必要性は、国民全体のボトムアップ効果ではなく、ごく一部の優秀な人材を世に出し埋もれさせないという、ピックアップ効果であろうということも、前回書いたとおりです。
さて、この「自助論」の中の名言で、心に残った一文を取り上げてみます。それはあの有名なベートーベンが好んだとされる言葉です。
向上心に燃えた有能で勤勉な人間には、“ここで行き止まり”という柵は立てられない
すばらしい言葉ですね、新自由主義的な・・・・。ということで、ベートーベンを典型的な新自由主義者と認定します(笑)。私はこの言葉を読んだ時、ある人物のことを思い出しました。次の引用は、私が新自由主義者の典型だと感じている、最も有名なあのブラック企業の創業者の言葉です(Wikipediaより)。
「よく『それは無理です』って最近の若い人達は言いますけど、たとえ無理なことだろうと、鼻血を出そうがブッ倒れようが、無理矢理にでも一週間やらせれば、それは無理じゃなくなるんです」「そこでやめてしまうから『無理』になってしまうんです。全力で走らせて、それを一週間続けさせれば、それは『無理』じゃなくなるんです」
私は、ベートーベンの言葉と、ワタミさんの言葉(上記)の違いがわかりません。言っていることは同じではないでしょうか。Wikipediaによれば、このワタミさんの言葉はあるテレビ番組での発言のようで、ブラックのブラックたるゆえんの言葉のようにも感じますが、まさに若者達に対して、啓蒙のために、叱咤激励のつもりでの発言だとしたら、ベートーベンの言葉を引用しているこの「自助論」で取り上げられても全く不思議がない“名言”のようにも思います。つまり明治の青年達だったら奮い立った言葉なのかな?。要は、取り上げ方の問題だけだと思うのです。
私が考える、ブラック企業の問題点というのは、新自由主義批判の切り口と全く同じです。創業者たるワタミさんは、寝ずに働いて300万円の資金を貯め、ワタミを創業し300店舗を展開する企業へ成長させました。まさに、優秀で能力があって努力できる人そのものです。この、優秀な創業者の人間離れした努力や、無理を無理とは考えない、ここで行き止まりという柵は立てない、その力量は本当にすばらしいと思うのですが、従業員全てが、或は若者の全てが、決してまね出来るようなものではありません。こういう新自由主義者の、決してまねできない精神論を、ついていけるはずのない従業員に押しつける行為こそ、ブラック企業のブラックたるゆえんではないかと考えています。
「ワタミさん、あなたは24時間寝ずに、食事も摂らずに働けるのだろうけど、みんなあなたみたいには働けないんですよ」と私は言ってあげたいのですが、まあワタミさんは、「そんなこと言ったら、若者に夢を与えられなくなっちゃうじゃないか!」といって反論されるのかもしれませんね・・・。ブラック企業といって、いろんな会社が批判されていますが、従業員の向上心を持ち上げ、会社を成長させるというある意味当たり前のことがブラックとされているとも言えるのですから、やはりそれは程度問題、バランス感覚の問題ということになるのかもしれません。私が何度も書いている、新自由主義と新平等主義の綱引きですね。
ということで、ブラックのブラックたるゆえんが、ただの経費削減のためだけでないということを、私なりの切り口で言わせていただきました。一部、ブラック企業の擁護をしてしまったような気がしてご批判を受けそうな気もしますがご容赦下さい。
さて、次回は、典型的新自由主義者の見分け方をさらっと述べてみましょうか。その後は、新自由主義と新平等主義の綱引きについても書いてみようと思います。
人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
↑↑クリック!
BlogPeople「ニュース・一般」ブログランキングにも清きクリックを! ↑↑クリック!
かなり前からツイッター始めています。よろしければfollowしてください。そんなにつぶやいていませんが。
| 固定リンク
コメント