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2014/03/11

新自由主義の群像-宝くじの法則

 新自由主義について考えながら、こうして文字にして書いていると、徐々に考えが熟成されて当初と若干ニュアンスが違ってきているかもしれません。まあ、私はプロでもありませんし、言論人としての責任も感じていないので、(私は言論人とは言えない、そもそもこのシリーズを真剣に読んでいる方も少ないでしょうし)まあ、許してもらいましょう。

 過去の記事で、新自由主義の対極にある概念として、新平等主義を提案してきました。この新自由主義と新平等主義は実際どのような関係にあるのか?という考えが、私の中で徐々に熟成されて煮え詰まってきました。おいおい、どのような関係って、対極と言っているのだから、180°違う方向性を持つ考え方でしょ?っとツッコミがありそうですが(ツッコミどころか私自身が新自由主義と新平等主義の綱引きとか書いてきた・・・)、現実の世の中では新自由主義的な考え方も新平等主義的な考え方も共に必要であるということをはっきりさせるためには、対極という言葉だけでは足りない可能性を感じてきました。それを簡単な例えで言うとするならば、それが表題の「宝くじ」というわけなのです。

 「宝くじ」・・・当たるといいですね。しかし、そう簡単には当たりません。この宝くじについて、私はこのブログを始めて2日目に早速簡単な記事を書いています(宝くじ論争)。この記事の内容が実は本日の記事の内容そのものといってもいいと思います。

 「宝くじ」を買う時、世間一般では、
①宝くじは「夢」を買う行為である
②宝くじは買わなきゃ当たらない
という言葉がよく使われます。実際には、宝くじそのものを買うことに後ろめたい気持ちもあって、その言い訳として使われているような気もしますが、ただ、この①、②共に間違ったことを言っているわけではありません。確かに「夢」を買う行為であり、買わないのに当たると言うこともありません。

 一方で、私のようなドけち男は、この宝くじの夢を買うだの、買わなきゃ当たらないだのいう言葉に猛反発しています。
①宝くじはただの納税行為である
②宝くじは買わなきゃ損しない
まあ、世間一般的には屁理屈というやつですが、では、間違っているかといえば、間違っているわけでもないと思います。大半の人は当たりませんので、個人的に、ほとんどが納税行為である(しかも自主的に、行列に並んでまで・・・)ということになります。一部の人は当たったとしても、還元率が極めて低いですから、全体として納税であることに間違いはありません。その当選確率からいっても、買わなきゃ当たらないではなく、買わなきゃ損しないという私の言葉に反論できる方はおそらくいないでしょう。

 さて、この世間一般の宝くじ観と、ドけち男の私の宝くじ観と、一体どちらが正しいのでしょうか。どちらも言っていること自体に誤りはなさそうですが、考え方は180°違う方向のように思います。

 このどちらが正しいのか?ということに対する私の答えは、
「世間一般の宝くじ観も、ドけち男の私の宝くじ観も、実は同じことを言っている」
というものです。宝くじは、単純な確率の問題であり、極めて少数ながらも必ず当選者はいるわけですから、夢をかなえる人がいるという現実があり、一方その裏返しの関係として、大半の人が損をするという現実も同居しているわけです。したがって、夢を強調する世間一般の「夢を買う」という“夢のある”言葉も、損を強調するドけち男の「納税だ!」という“夢のない”一言も、とらえどころが違うだけで、同じことを言っていると私は考えているわけです。個人的な考え方の違いをぶつけ合い、議論することはおおいにすべきなのでしょうが、意外にこんな「宝くじの法則」的な意見の違い(実は中身は同じ)が世の中には多いのかもしれません。

 新自由主義と、新平等主義は、単純な確率論ではありませんので、そんな単純な話ではなさそうですが、いろいろ考えをめぐらせてみると、対立概念ではあるものの、大局的に、上記のような「宝くじの法則」的にみていく必要があるのではないかと考えています。

 ごく簡単に、新自由主義、新平等主義とは何かを、私の定義で振り返っておきます。新自由主義は「人間それぞれ各人は、スタートラインは同じなのだから、差がついたとしたら、それは努力の差である。だからこそ努力したものがむくわれるように、余計な規制は取り除いて、自由に競争させるべき」という考え方。新平等主義は「人間それぞれ各人は、元々能力に差があるので自由に競争すれば格差が生まれる。格差を少なくする規制は(伝統、慣習も含めて)守っていくべき」という考え方になります。

 宝くじでいうところの、「夢を追いかける気持ち」、これは、新自由主義的な発想に他なりません。能力に差はないのだから(或は、差があることを言い訳にせず)、必死に頑張って夢を目指せと子供達を教育すべきなのか、元々能力に差があるのだから、出来る子は出来るし、出来ない子は出来ない、努力しても無駄であると教育すべきなのか、それは、あまりにも当たり前な結論に落ち着くでしょう。夢を語らなくなったら、社会に何の発展もなくなってしまいます。したがって、世の中から、新自由主義的な考え方を消し去ることはあってはならないのです。

 しかし、実際に夢をつかみ大成功する人間や、国難を切り開く英雄が、ぽこぽこあちこちに誕生することはあり得ません。まさに宝くじの当たりのように、それはほんの一握りの人間といわざるを得ないのです。したがって、外れくじをつかむ多くの人々のために、新平等主義的に格差を少なくすることも十分考えなくてはならないわけで、新自由主義を唱えるのであれば、ペアとして、新平等主義を考えなければ、国家全体の幸福にはつながらないわけです。

 この両者のバランスを保つことを、過去に新自由主義と新平等主義はあくまで相対的で、綱引きをしていると表現してきました。これを、対立概念であって、対立概念でない、実は同じことを言っていると表現し直したのが、「宝くじの法則」ということになりましょうか。新自由主義と新平等主義は、国の幸福論という意味で「対立概念ではなく、同じことを言っている」ということが言いたいわけなのです。

 ところが、世の中の新自由主義者といわれる方々は、新平等主義的な考え方を対立概念としか考えようとしません。そして自らの考え方を押しつける、それが新自由主義者の悪いところです。努力をしなければならない、努力が足らない、落ちこぼれればそれは努力を惜しんだあなたが悪い・・・と脅迫するわけです。個人的に成功した人々はそれでいいのでしょうが、決して努力を惜しんだわけではないのに、自己責任とされた人々は、どうなるのでしょうね。

 それを宝くじで例えるなら、新自由主義者は当たりくじを手につかんでいるからこそ、「君たちも宝くじを買いなさい、私が当たったのだから、あなた方も買い続ければ当たるはずだ、買わないから当たらないのだ・・・」と強制している様なものと思うのですが・・・。過去にも書いたように、個人の目標と、国家の幸福を混同してはならないわけです。

 というわけで、若干尻切れトンボですが、新平等シリーズに一応の区切りをこのあたりでつけたいと思います。また何かに気付いたり、間違っていたなあと思ったら、再開します。

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