« 2014年3月 | トップページ | 2014年9月 »

2014/07/31

人間相対性理論(医学と統計学の曖昧)

 医学は科学であるということに、疑いの余地はありません。そこには微塵の曖昧さもありません。こんな当たり前のことを疑っている人間、ましてや、医師の中にそんな人間がいようはずはありません。私以外・・・。おっと、私は医師ではなく、やぶ医者でした・・・。

 前回前々回の当シリーズを読んでいただければわかるかと思いますが、私は、当然のことながら、医学は科学であり、科学としての真理の追究をやめてしまったら、当然それは問題と考えています。しかし、現代の医学が、絶対的な答えを提供できているかといわれれば、そこに疑問を持っているわけであり、目の前の事象、事象で対応を変えていかないと、よい結果は生まれない場合があると考えているのです。

 医学の科学性は、おおざっぱに言って2つあります。一つは、基礎医学であり、もう一つが臨床医学です。基礎医学は、生命の正常な仕組みを解き明かし、病にいたる異常を説明し、病態を整理するための学問で、そこに曖昧さを持ち込むことは普通ありません。敢えて言えば、あまりに生命の仕組みが複雑すぎるため、まだまだ解明できていないことが非常に多いことに由来する曖昧さはあるかもしれませんが、だからといって「さじ投げた!」的な結論にはなりません。よくわからない場合は、「原因不明」とされますが、その意味は「原因はあるはずだが、まだはっきりしていない」ということであり、現在進行形で研究中であるという宣言でもあります。

 一方臨床医学とは、基礎医学を基にして、診断治療を行う実践編というとわかりやすいでしょうか。繰り返しにはなりますが、こちらも基本的に曖昧さは持ち込まれません。しかし、人間相対性理論(医学と料理人の曖昧)で書いたとおり、個々、個人の体はそれぞれに背景が違い、それぞれに違ったブラックボックスでもあるため、特に治療に関して、一律に行うことがいいことかどうかわかりません。ある意味、教科書通りではない曖昧さが生じるのは当然だと考えています。誰がそう考えているかと言えば、私が考えているのであり、全ての医師の共通認識かどうかはよくわかりません。おっと、私は医師ではなく、やぶ医者でした・・・(くどい?)。

 そんな臨床医学における、主に治療分野において、その科学性を担保しているのが、統計学という学問です。例えば、Aという薬と、Bという薬を、ある病気の患者100人ずつに投与します。Aという薬で50%に、Bという薬で70%の患者にある一定の効果があったとすれば、この50と70という数字の差に意味があるのかどうかを計算し、意味があると判定されれば、Bという薬がAという薬よりも効果が高いという科学的な証拠が得られたと考えるわけです。

 こういった統計学的な科学的な証拠がでてくると、臨床の現場が一変することがあります。当然のことながら、その病気の患者が現れた場合、普通医師は、Aという薬ではなく、Bという薬を使います。何となくAの方がいいような気がするとか、Aの方が好きだからとかいう、医師の曖昧な裁量が排除され、絶対的な科学的証拠があがった以上、Bを使うのが科学的に合理的な判断とされるわけです。場合によって、このような証拠を基に、ガイドラインと呼ばれる治療法が学会から提唱され、Bが高い推奨度をもって、第一選択薬に選ばれるわけです(上記の例はあくまで適当な例であり、多分不適切ですが)。

 そんな状況下で、私が「かん」によって、何となく、Aという薬の方がいいような気がして、ある患者にAという薬を使っていたとすると、若手の先生から「Aではなく、Bの方が効果が高いというエビデンス(証拠)が出ています。そもそもAという薬の効果については、エビデンスはありませんよね。なぜAなのですか?」と叱られることになります。このあたり、上司ではなく、若手の先生に叱られるのが常というもので、本当に怖くてしょうがありません。怖くてしょうがないのですが、一応そこには経験とかんに基づく曖昧きわまる屁理屈というものが存在することを説明しましょう。

 上記のAとBの薬の話は、非常にいい加減な作り話ですが、わかりやすいので、この例を使って屁理屈を垂れてみます。まず、だまされてはいけませんが、AもBもある病気に一定以上の効果がある患者さんが、それぞれ50、70%ですから、Aが効かない薬というわけではありません。敢えて、Bという薬がAという薬よりも「効果が高い」という証拠が得られたと表現しましたが、一定以上の効果という意味では、変わらないわけです。

 診断についても重要です。確実に診断ができる分野もありますが、診断に確信が持てないことも残念ながらよくあります。「この病気だろうとは思うけど、血液検査のこの項目が、この病気の典型例とは言えない、本当にこの病気と診断していいのだろうか・・・」なんて思うことは日常茶飯事です。しかしその病気っぽい・・・となれば、何らかの治療をしなければなりませんが、この時「Aという薬なら広く別の病気でも効果があるから、まずはAで治療しよう、診断がはっきりするか、或は、このAの効果が出てこなければBに切り替えよう」と言う考え方は、許容されないのでしょうか。

 或は、「患者さんの年齢、合併症を考えると、Bという薬のこの副作用が気になるなあ、ここは無難にAで治療しよう」なんて考えることもあります。これも許容されないのでしょうか。

 このあたり、全く逆のことも真であり、私の意見が正しいというわけではありません。診断が曖昧なのは、“やぶ”だからとも言えますし、副作用が出てもいないのに心配するのはおかしい、早期に効果のある薬を使わなければいけないのに、そのチャンスを逃している・・・などと、これまたお叱りを受けるかもしれません。

 まあ、そうなんですけどね、世の中、そんなに絶対の「診断」ができ、その時わかっている最良の(証拠のある)治療法が絶対的なのかどうかといわれると、やっぱり私は疑問ですね。70%は賛同しますが、30%が疑問です。何が疑問なのかと言えば、統計学は、確率であり、平均であるということです。目の前の患者さんが、平均的なその病気の患者さんで、平均的な薬の効果が期待できるという補償は、あくまで確率的なものだということです。典型的な患者にはぴたっと来るのでしょうが、ちょっと例外があったり、複雑な患者であれば、絶対とは言えないというのが私の考え方なのです。

 そう、目の前の患者さんが、例外的なのか、それとも平均的なのか、それを客観的データだけでなく、様々な経験から(別名「かん」)、証拠にとらわれずに治療法を選んだり、何度か診察することで、治療法を調節しようと考えているのです。まさに曖昧の極みであり、マニュアル化できるものではありません。屁理屈屋の思考過程に絶対的信念があるとしたら、それは、「絶対なんて絶対にない」ということのみかもしれません。

 しかし、何度も書きますが、現代医学において、私のような考え方は相当に邪道であって、おおっぴろげに言うことは許さない雰囲気があります。医学も、曖昧を許さず、一律の診断や治療が絶対化されつつあるのです。「だからそれは、NHKの今日の料理のレシピと同じだと何度も言っているのに・・・」、とは言えませんので、小さな声で、こうしてネットの片隅で、独りごちさせていただいているわけです。

 とは言え、皆様におかれましては、決して私の口車に乗らず、最良の医療をお求めになりますようお願いいたします。

(上記私の意見は、例えば、診断にぶれようもなく、命に直結するような、癌の治療などには基本的に当てはまらない話です。基本的に同業者向けの愚痴であり、メーカーや権威に対する意見とお考え下さい。最後に書きましたように、患者として医療を受けられる場合は、医師の提供する統計学的データを素直に聞いていただき、自らの治療を判断していただきますことを願っております。ここまで読んでもらって、申し訳ありません。)

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「病気・健康」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 
 かなり前からツイッター始めています。よろしければfollowしてください。そんなにつぶやいていませんが。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2014/07/28

ブログ開設10周年!!

 7月25日をもちまして、当ブログ「彰の介の証言」は、開設10周年を迎えました。今のところ閉鎖の予定もありません(笑)。
 いつものお約束ではありますが、10年の長きにわたり、このブログが続いてきましたのは、ひとえに、私ひとりの努力の賜と自負しておる次第でございます。

 さすがに10年も経ちますと、過去に書いてきた考え方と、現在の考え方に若干の?いや相当の齟齬が生じている場合がございますが、そこは、私が決して言論人などと呼ばれる人間ではないということで、ご勘弁いただければと存じます。

 今後のこのブログの方向性ですが・・・、と書いて、実行されたことがないので、今回は明記しません。とりあえずは、書き始めました「曖昧シリーズ」人間相対性理論を、ちょこちょこと書いていきます。これを、新平等主義シリーズとドッキングさせる計画です。

 10年の節目ですので、何かおもしろい企画でもと考えつつ、ネットの片隅で独りごちる、この零細ブログでは、何ともならないという結論で、今まで通りのご報告とさせていただきました。

 それでは、皆様、今後とも「彰の介の証言」をよろしくお願いいたします。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「ニュース・一般」ブログランキングにも清きクリックを! ↑↑クリック!

 かなり前からツイッター始めています。よろしければfollowしてください。そんなにつぶやいていませんが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014/07/24

人間相対性理論(医学と町工場と職人の曖昧)

 前回(人間相対性理論(医学と料理人の曖昧))、絶対的で適切な答えがあるはずだ・・・として考えられている、今の医学の傾向に、刺客を送られるのではないかということを恐れつつ、ちょっと反旗を翻してみました。説明として料理をあげてみましたが、私の意見に賛同いただけるものなのかどうかはわかりませんが。

 私自身は、医学という科学を、相対的で曖昧な学問と捉えているところがあります。ただ、そういう態度一辺倒でいるのは実に危険なことで、時に冷や汗をかくことがあります。若い先生方に、経験則から医学的な説明をすると、「それは、エビデンス(証拠)のある話なのですか?」等と言われて答えに窮することがあるのです。怖いですね。

 一応、私の感覚では、そのエビデンスとやらが「NHKの今日の料理のレシピ」で、私の経験則が、有名シェフの「さじ加減」というつもりで、えらそうに話しているのですが、なかなか、そういう価値観を持っている医師は少なく、私の独りよがりな考えなのかなあと感じてしまいます。

 そんな私にとって、非常に大好きな言葉が、前回から何度となく使っている言葉である「かん」という言葉です(漢字だと勘ですか?)。この、「かん」という言葉がよく出てくるのが、町工場の名工と呼ばれる方々や、職人さんたちです。よくテレビで、この名工と呼ばれる方々の作業の様子を映していますが、例えば1000分の1ミリだけ金属を削るなんていう神業についてどうやっているのかと聞かれると、「“かん”だね」なんて答えているわけです。極めて私好みの答えです。

 これも、右手の握力を何Kg、左手の角度を何度にして、ちょっとアレして、こっちをコレして、何秒間研磨すれば、何ミリ削れる・・・ということを絶対的なデータとしてマニュアル化出来るのかもしれません・・・、が、もちろんそんな説明はとても無理だから、「“かん”だね」という話になるのでしょう。いわゆる、「体が覚えている」という話ですね。「習うより慣れろ」という言葉もありますが、仮にマニュアル化出来たとして、それをいくら読み込んでも、体が覚えていない人間がまねできない作業であるということは言うまでもありません。

 また、1000分の1ミリをわざわざ削る話と同じですが、その手間を惜しまない作業ぶりには本当に感嘆します。最後の一手間で、ぴたりと刃先を合わせたり、寸分狂わず組み立てたりする様は、感動以外の何ものでもありません。その一手間が無くても製品としては使えると思いますが、「自分にしか作れない」という職人魂が、それを許さないのでしょう。

 そんな町工場や各種職人さんの超絶的な技術や丁寧さ、アイデアが、最近見直されつつあるわけですが、まさにこれは絶対的なマニュアル化や機械化が出来るような世界ではなく、極めて曖昧な「職人のかん」に支えられた世界です。しかし、おそらく日本が世界に誇るであろう、これらの技術も、グローバル化という経済の流れに、徐々に絶滅への道をたどっていると聞いたことがあります。確かにテレビで映される名工は、どの方も高齢で、後継者がいないという工場も少なくありません。完成度が極めて高く値段が高い物よりも、安くてそこそこのものがよく売れる時代になってしまったということが原因なのでしょうか。大企業が潰れないよう政策をとるのと同様に、中小企業の技術の継承も大事だと思うのですが、そちらの関心は薄いのでしょうか。

 どうしてそんな話をしているかと言えば、そんな町工場の超絶技術ではないにしても、身の回りの「もの」の質が随分落ちているなあと感じざるを得ないからです。
 先日も卓上扇風機(手のひらサイズの小型扇風機)なる商品をとある場所で景品としてゲットしたのですが、とてもではありませんが、使える代物ではありませんでした。確かに今時っぽく、電源はUSBでとる形式で、電池やコンセントにつなぐ必要はありません。パソコンをしながら、涼やかな風が少しでも吹けばいいのかなあとは思ったのですが・・・。

 残念ながら、その扇風機、非常に音がうるさいのです。外箱には静音っぽい表示がしてありましたが、大嘘でした。また全くダメなのが、ファンが回ると、固定できずに動き出してしまうことです。これでは、使いものになりません。さらに致命的なのが・・・、ぜんぜん風を感じられないのです。一体この商品を作った会社というのは、何を作ったのでしょうか。風がこなければ何の意味もありません。大変もったいない話ではありますが、即ゴミ箱行きとなった次第です。

 あと、最近感じているのが、延長式のコンセントのできの悪さです。どこのできが悪いかといえば、プラグを差し込む時にさくっと差し込めないことです。何となく引っかかり感があるのです。昔はそんなことありませんでしたが、皆様はそう感じませんか。その他、切れないはさみ、ふたがしっくり閉まらない入れ物、等々・・・・そんなこんな、質の悪さを感じることは例を挙げればきりがありません。

 まあ、特に卓上扇風機の話は極端すぎますが、身の回りの多くの物が、多少の使い心地よりも値段を下げることに集中し、職人のかんに頼るような非効率な生産は敬遠され、最後の仕上げの一手間をも省く様になってしまったのでしょう。
 もちろんそれは、経済的な理由が大きいのでしょうが、私的には、「かん」とか「職人魂」とかいう曖昧な世界観を排除するという世の中の流れの結果ではないかとも考えているのです。経済の効率化は世の中の必然的な流れであり、曖昧で相対的な「かん」というものを排除し、「職人技」を必要としない、マニュアル化や、スイッチポンで同じ物ができてくる機械化こそが目指すべき「絶対的世界観」であるという風潮が、この日本にも押し寄せてきているのではないかと感じざるを得ないのです。もちろん、これもバランスの問題であるのは言うまでもありませんが。

 再び、この話を医学に置き換えてみると・・・、経験則による「かん」による診断や治療を排除し、エビデンスとやらに基づいて診療を行えば、質の悪い卓上扇風機のような診断や治療が、そこら中で行われる・・・・おっと、またしても口が滑ってしまいました。いやいやそんなことはありません。医学は科学ですから、科学的データたるエビデンスに基づけば、誤るようなことはありません。ということで、刺客が送られないことを祈るばかりです。
もうちょっと続く・・・。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「病気・健康」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 
 かなり前からツイッター始めています。よろしければfollowしてください。そんなにつぶやいていませんが。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2014/07/17

人間相対性理論(医学と料理人の曖昧)

 私は職業柄やぶ医者をやっていますが(久しぶりにこの台詞が出た!)、一般に医学というのは、科学であると考えられています。正常な人間の仕組みがあり、病気となる原因が存在し、そして薬や手術で、その原因を除去したり、人間本来の治癒能力を引き出したりするわけで、その思考過程は、曖昧を許さない科学であります。

 と言いたいところなのですが、現実には、理路整然と診断や治療ができるわけではありません。現代の医学の知識ではまだまだわからないことも多いのです。しかも人間の体の仕組みはまだまだブラックボックスであり、例えば薬剤を投与した時、その期待される機序通りに効果が出るかどうかは、実際投与してみないとわかりません。しかも、個々の人間が、それぞれ違ったブラックボックスであるため、効果が出る症例、出ない症例、むしろ副作用が強く出る症例・・・といった具合に、一定の効果が期待できないことも多々あるということになります。

 診断も同じで、所詮病名というのは、人間が医学という学問を仕立てて整理整頓したものに過ぎません。神様が、こういう病気があって、この病気の特徴はこうこうこういうものだと教えてくれたわけではないのです。従って、しっかり「~病」と診断することが出来ない場合や、病気の特徴に例外というものが絶えず存在し、我々を悩ますことになるのです。

 実はそれだけではありません。人間個々に性格の差というものあります。医学的ではない話ではありますが、場合によっては、患者その人の性格をくみ取って治療を選択していかないと、本人の人生への納得を得られないこともあるかもしれません。

 まあ、そんなこんなを考えてみると、「医学は科学であるという探求心を決して忘れてはならないけれども、実臨床となると、教科書や論文に書いてある、理路整然とした病理的作用機序や診断分類法を、「絶対的真理」と考える方が、答えを得にくい場合もあるなあ・・・」というのが漠然とした私の気持ちなのです。
 
 そんな私が大事にしているのが、結局のところ「経験則」ということになりましょうか。医学にふさわしくない言葉ではありますが(偉い先生に見られたら怒られるのだろうなあ・・)、いわゆる経験に基づく「かん」と「さじ加減」ということになります。ただ、この経験則というものは、まさに「曖昧の世界そのもの」だけに、これを強調しすぎると医学が科学からどんどん離れてしまいます。そして、これをよしとしない雰囲気が、現在の医療の世界に相当に強いと感じています。

 私が考えていることは、前回ともつながる?ことですが、料理をつくることを考えればいいでしょうか。例えば、NHKの今日の料理のレシピを参考にすれば、そこそこおいしい料理が作れるのでしょう。塩が小さじ1杯、醤油が大さじ2杯・・・、さらに、強火で10分煮る・・・等と事細かに書いてあるわけですから、その通りやればいいのです。その参考書に、曖昧な表現はありません。(ちょっとあるかもしれないけど無視・・・)

 ただ、それで、この世で一番おいしい料理ができあがるかと言われれば、あくまで、そこそこの料理ができるとしかいいようがないでしょう。曖昧ではないため、一見ぶれがないようですが、それで超絶料理ができるものではないと思います。
 有名シェフであれば、その日届けられた食材の違いや、気温、湿度、あるいは、客の好みを考えた上で、「かん」による塩や醤油の「さじ加減」を行い、最高の料理を作り出すと思われます(あくまで想像・・)。

 では、気温何度、湿度何度、魚がどういう状態の時に、塩加減はどうするのかというマニュアルが存在するのかといえば、当然そんなものは無いと思われます。バリエーションが無限大であり、マニュアル化は普通不可能です。そこで結局のところ、上記のごとく、シェフの経験に基づく「かん」による塩や醤油のさじ加減がされた後、味見をしてさらに調節するという手順でおいしい料理が作られることになると考えられるわけです(あくまで想像・・・)。

 ここで問題にしたいことは、料理の世界で、味見をして後から加減を調節することを”よし”としない雰囲気があるかどうかです。つまり、そこに食材があり、そこに調味料があり、気温や湿度や、調理器具の具合を勘案すれば、料理を作る前に、適切な塩や醤油の量が本来決定されているはずだ・・・、そして、その塩や醤油の量をマニュアル化し徹底すべきで、「かん」による「さじ加減」で調理した上に、味見して調節するなど邪道である!・・・という考えがあるかないかです。

 もちろんそんな話がないのは当然です。皆さんは、おいしく仕上がるはずの塩や醤油の量は本来決定されているはずだから、その量を忠実に守って作られた、おいしいはずの料理がいいですか。それとも、シェフが、最後に味見をしてちょっと調味料を追加し、おいしく仕上げてくれた料理がいいですか。まあ、聞くまでもないことだと思いますが、私なら当然、科学的で絶対的ではなさそうだけど、シェフの「かん」という曖昧さから生まれた後者の方を選びますね。

 ところが、それが、科学たる医学となるとそうはいきません。原因(病因)があるから結果(症状・病態)があるはずですから、症状・病態を突き詰めれば必ず病名が決定することになります。そして病名が決定すれば、必ず適切な治療が決定されることになります。なぜなら、医学とは科学であり、必ず科学的で適切な答えがあるはずだからなのです。

 ということで、医学は現在、どんどんマニュアル化が進んでいます。治療のガイドライン化、根拠のある治療法の提示、それに基づく治療アルゴリズム化など、医者がやぶでも治療が出来るように懇切丁寧に方針が示してあり、私も重宝します・・・。これを料理に当てはめると、NHKの今日の料理を見ながら診療に当たるのと同じなわけですが・・・、おっと、これ以上言うと、権威の先生方から刺客を送られるので、このあたりにしておきます(汗)。でも、別の言い回しで、今後も私の意見は書いていきますけど・・・。

 勘違いされるといけないので、「基本が大事である」ということは、強調しておきます。ただその中で、マニュアル化という科学的根拠に基づく“絶対”と、経験に基づく曖昧という“相対”が、丁度バランスをとることが重要だと考えている今日この頃のやぶ医者の私なのですが、なかなか世の中は微妙な方向に進んでおります・・・。
さらに続く・・・。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「病気・健康」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 
 かなり前からツイッター始めています。よろしければfollowしてください。そんなにつぶやいていませんが。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2014/07/14

人間相対性理論(曖昧の世界へ)

 このブログで、いろんなことを書いてきましたが、およそ10年も経つと、考え方や、意見が若干変わって来たことに気付きます。ただ、結局一回りして、元々書きたかったことに戻ってきた感じもするわけです。不思議ですね。

 元々書きたかったこと、それは、表題の、「人間相対性理論」ということになりますが、人生も重ね、考えも重ね、議論も・・・・ネットの片隅で独りごちているので、全く重ねていませんが、そうするうちに、ぐつぐつと内容が煮え詰まってきた感があります。

 人間相対性理論?、なんのこっちゃという感じでしょうが、別の言葉で言えば、「曖昧なことがらは、どこまで突き詰めても曖昧である」ということになるでしょうか。はっきりせず、人任せで、どっちに転んでも同じだから、他人に決めさせる・・・という、私の人生そのものといってもいいかもしれません(涙)。

 例えば、「おいしい料理」を考えてみましょう。
「美味しんぼ」を極端に考えてみます。世の中には、究極のメニューなる、“絶対的”においしい料理があるということで、それを探求するということになっていますが、果たして、「おいしい」という概念に、“絶対的”なるものがあるのでしょうか。

 そもそも、人それぞれ、食材や味付けに関して明確に好き嫌いがあります。他人の絶対的においしいものが、別の誰かの絶対的においしいものとは限りません。

 食事が出される状況はどうでしょうか。当時のうまいものは食い尽くしたであろう、かの豊臣秀吉でさえ、「空腹で死にそうな時に食べたにぎりめしが最高にうまかった」旨の発言をしたとどこかで見たことがあります。山登りをして、頂上でたべるにぎりめしは、確かに死ぬほどおいしいものです。そう思われませんか?。しかし、たかが、にぎりめし。究極のメニューと言うほどのものではないことは明かです。食事が出されるシチュエーションによって味が変わるとしたら、やはり、絶対的なおいしさなんて、ないのではないでしょうか。

 食文化という意味で考えれば、年齢、出身地等で全く嗜好が変わります。私的には、味噌は八丁味噌に限ると思っていますが、そうでもない妻は嫌味のように白味噌の味噌汁をつくってくれます。残念ながら、日本全体から見れば、赤味噌派は少数派と言わざるを得ません。おっと、究極のメニューに赤味噌料理が入るかどうかは別ですが。

 高級フランス料理はどうでしょうか。有名シェフのつくる最高級の料理に、けちの付けようはないでしょう。しかし、じゃあ、おいしいから毎日食べろと言われれば、どうなんでしょうか。毎日食べたことはないので、あくまで想像の世界ですが、絶対的においしいであろう高級フランス料理も、毎日食べれば、徐々に慣れてしまい、それが普通になっておいしいという感情が持てなくなるのではないでしょうか。だいいち、飽きてしまいそうですから、フランス料理の合間に、たまに、白菜の漬け物をポリポリしながら、お茶漬けをずるずるとすすったら、そちらの方が恐ろしくおいしいような気もします。

 食事と言えば、おいしさだけではなく、健康という面を考える方もいるでしょう。食材に関し、有機だ、無農薬だと言うところに価値観を置く方もいるでしょうし、天然か、養殖かにこだわる方もいるでしょう。物によっては産地の違いも問題になるかもしれません。
 お店で食事をするということになれば、その店の雰囲気が気にいるか、気にいらないか、そんな違いも人それぞれということになります。

 私の結論はこうです。美味しんぼの山岡のように、“絶対的”においしい料理を探求することを否定するわけではありませんが(料理人であれば、むしろその専門の道を極めるべき・・かな?)、所詮、おいしいという感覚は“相対的”であり、非常に曖昧な概念だということです。そして誰かの“絶対”は他の誰かの“絶対”ではなく、あくまで曖昧な、相対的なものなのですから、それを押しつけるべきでもないと考えているのです。押しつけるとしたら、味噌汁は赤味噌に限る、そのことだけです。えっっっ?。

 しかし、現在の世の中には、そんな、相対的な、曖昧な概念を許さないという雰囲気もあり、また、それこそどこまで行っても曖昧なはずのことがらを、絶対的なイデオロギーで対立していることもあります。

 そんなわけで、私が感じている、絶対という矛盾を、2つ3つ?取り上げて、これから順次記事にしていきたいと思っています。最近書いてきた、新平等主義シリーズともおおいに関連しますし、前のシリーズの最後に書いた、宝くじの法則は、まさにこの絶対と相対の狭間の話であったことを追記しておきます。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「ニュース・一般」ブログランキングにも清きクリックを! ↑↑クリック!

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2014/07/12

レア書籍?

 またまた更新が大変渋っておりました。今回もちょっとした、ソフトネタでご勘弁。

 昨年から、新自由主義批判「新平等シリーズ」を書いていたのですが、孫引き的な有名書籍のつまみ食いではなく、ちゃんと元論文を読んでみようということで、何点か新自由主義がらみの書物を購入いたしました。

 文系の方は、こういうのを読み慣れているのかもしれませんが、生粋の理系畑を歩んできた若年寄にとっては、なかなか苦痛でございますね。でも、やっぱり知識が広がると、考えの奥行きが広がるというもので、自分の書いてきたことが、部分的に手直ししたいと思うところがあったとしても、大筋で間違っていないようだということを確信するに至っております。

 さて、そんなことで、購入した書籍が下の写真。イギリスの鉄の女サッチャー元首相が胸に抱きながら政治を行ったという書籍、ハイエクの「隷属への道」でございます。なんと、なんと、なんと、勢い余って、同じ本を2冊も買ってしまいました!!

Dscn0240_2

というのは、もちろんウソですが、2冊ある理由は・・・・

Dscn0241
 上の写真の右の本のカバーをめくっててみました。左が、ほんの本体、右がそのカバーです。今のところ、特に問題はありませんが、そのほんの本体の中身を見てみると・・・

Dscn0246

Dscn0247
 よく見えないかもしれませんが、画像をクリックしていただくと、アップされます。実は、ハードカバーの文字の向きと、文章が180°逆さまなのです。写真を撮る時、向きを逆にしただけだろうと言われれば、それまでなのですが・・・、わかるように写真が撮れず、申し訳ありません。オボチャン的なことはしておりません。

 まあ、はっきり言ってしまえば、気持ち悪いけど、本を逆さまに持てば、普通に文章は読めます。が、さすがにこの装丁は不良品と判断し、ちゃんとしたのを郵送していただきました。この不良品は返却ですので、ここに記録をさせていただいた次第です。しかし、こういうことってあるんですね。

 ということで、インターネットの片隅で、これからも、どうでもいいことに独りごちていきます。
 でも、新平等主義シリーズは、真剣にパワーアップして、復活するかもしれません。皆様、ご期待下さい!!・・・だれも期待してないか・・・。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「ニュース・一般」ブログランキングにも清きクリックを! ↑↑クリック!
 かなり前からツイッター始めています。よろしければfollowしてください。そんなにつぶやいていませんが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年3月 | トップページ | 2014年9月 »