人間相対性理論(医学と統計学の曖昧)
医学は科学であるということに、疑いの余地はありません。そこには微塵の曖昧さもありません。こんな当たり前のことを疑っている人間、ましてや、医師の中にそんな人間がいようはずはありません。私以外・・・。おっと、私は医師ではなく、やぶ医者でした・・・。
前回、前々回の当シリーズを読んでいただければわかるかと思いますが、私は、当然のことながら、医学は科学であり、科学としての真理の追究をやめてしまったら、当然それは問題と考えています。しかし、現代の医学が、絶対的な答えを提供できているかといわれれば、そこに疑問を持っているわけであり、目の前の事象、事象で対応を変えていかないと、よい結果は生まれない場合があると考えているのです。
医学の科学性は、おおざっぱに言って2つあります。一つは、基礎医学であり、もう一つが臨床医学です。基礎医学は、生命の正常な仕組みを解き明かし、病にいたる異常を説明し、病態を整理するための学問で、そこに曖昧さを持ち込むことは普通ありません。敢えて言えば、あまりに生命の仕組みが複雑すぎるため、まだまだ解明できていないことが非常に多いことに由来する曖昧さはあるかもしれませんが、だからといって「さじ投げた!」的な結論にはなりません。よくわからない場合は、「原因不明」とされますが、その意味は「原因はあるはずだが、まだはっきりしていない」ということであり、現在進行形で研究中であるという宣言でもあります。
一方臨床医学とは、基礎医学を基にして、診断治療を行う実践編というとわかりやすいでしょうか。繰り返しにはなりますが、こちらも基本的に曖昧さは持ち込まれません。しかし、人間相対性理論(医学と料理人の曖昧)で書いたとおり、個々、個人の体はそれぞれに背景が違い、それぞれに違ったブラックボックスでもあるため、特に治療に関して、一律に行うことがいいことかどうかわかりません。ある意味、教科書通りではない曖昧さが生じるのは当然だと考えています。誰がそう考えているかと言えば、私が考えているのであり、全ての医師の共通認識かどうかはよくわかりません。おっと、私は医師ではなく、やぶ医者でした・・・(くどい?)。
そんな臨床医学における、主に治療分野において、その科学性を担保しているのが、統計学という学問です。例えば、Aという薬と、Bという薬を、ある病気の患者100人ずつに投与します。Aという薬で50%に、Bという薬で70%の患者にある一定の効果があったとすれば、この50と70という数字の差に意味があるのかどうかを計算し、意味があると判定されれば、Bという薬がAという薬よりも効果が高いという科学的な証拠が得られたと考えるわけです。
こういった統計学的な科学的な証拠がでてくると、臨床の現場が一変することがあります。当然のことながら、その病気の患者が現れた場合、普通医師は、Aという薬ではなく、Bという薬を使います。何となくAの方がいいような気がするとか、Aの方が好きだからとかいう、医師の曖昧な裁量が排除され、絶対的な科学的証拠があがった以上、Bを使うのが科学的に合理的な判断とされるわけです。場合によって、このような証拠を基に、ガイドラインと呼ばれる治療法が学会から提唱され、Bが高い推奨度をもって、第一選択薬に選ばれるわけです(上記の例はあくまで適当な例であり、多分不適切ですが)。
そんな状況下で、私が「かん」によって、何となく、Aという薬の方がいいような気がして、ある患者にAという薬を使っていたとすると、若手の先生から「Aではなく、Bの方が効果が高いというエビデンス(証拠)が出ています。そもそもAという薬の効果については、エビデンスはありませんよね。なぜAなのですか?」と叱られることになります。このあたり、上司ではなく、若手の先生に叱られるのが常というもので、本当に怖くてしょうがありません。怖くてしょうがないのですが、一応そこには経験とかんに基づく曖昧きわまる屁理屈というものが存在することを説明しましょう。
上記のAとBの薬の話は、非常にいい加減な作り話ですが、わかりやすいので、この例を使って屁理屈を垂れてみます。まず、だまされてはいけませんが、AもBもある病気に一定以上の効果がある患者さんが、それぞれ50、70%ですから、Aが効かない薬というわけではありません。敢えて、Bという薬がAという薬よりも「効果が高い」という証拠が得られたと表現しましたが、一定以上の効果という意味では、変わらないわけです。
診断についても重要です。確実に診断ができる分野もありますが、診断に確信が持てないことも残念ながらよくあります。「この病気だろうとは思うけど、血液検査のこの項目が、この病気の典型例とは言えない、本当にこの病気と診断していいのだろうか・・・」なんて思うことは日常茶飯事です。しかしその病気っぽい・・・となれば、何らかの治療をしなければなりませんが、この時「Aという薬なら広く別の病気でも効果があるから、まずはAで治療しよう、診断がはっきりするか、或は、このAの効果が出てこなければBに切り替えよう」と言う考え方は、許容されないのでしょうか。
或は、「患者さんの年齢、合併症を考えると、Bという薬のこの副作用が気になるなあ、ここは無難にAで治療しよう」なんて考えることもあります。これも許容されないのでしょうか。
このあたり、全く逆のことも真であり、私の意見が正しいというわけではありません。診断が曖昧なのは、“やぶ”だからとも言えますし、副作用が出てもいないのに心配するのはおかしい、早期に効果のある薬を使わなければいけないのに、そのチャンスを逃している・・・などと、これまたお叱りを受けるかもしれません。
まあ、そうなんですけどね、世の中、そんなに絶対の「診断」ができ、その時わかっている最良の(証拠のある)治療法が絶対的なのかどうかといわれると、やっぱり私は疑問ですね。70%は賛同しますが、30%が疑問です。何が疑問なのかと言えば、統計学は、確率であり、平均であるということです。目の前の患者さんが、平均的なその病気の患者さんで、平均的な薬の効果が期待できるという補償は、あくまで確率的なものだということです。典型的な患者にはぴたっと来るのでしょうが、ちょっと例外があったり、複雑な患者であれば、絶対とは言えないというのが私の考え方なのです。
そう、目の前の患者さんが、例外的なのか、それとも平均的なのか、それを客観的データだけでなく、様々な経験から(別名「かん」)、証拠にとらわれずに治療法を選んだり、何度か診察することで、治療法を調節しようと考えているのです。まさに曖昧の極みであり、マニュアル化できるものではありません。屁理屈屋の思考過程に絶対的信念があるとしたら、それは、「絶対なんて絶対にない」ということのみかもしれません。
しかし、何度も書きますが、現代医学において、私のような考え方は相当に邪道であって、おおっぴろげに言うことは許さない雰囲気があります。医学も、曖昧を許さず、一律の診断や治療が絶対化されつつあるのです。「だからそれは、NHKの今日の料理のレシピと同じだと何度も言っているのに・・・」、とは言えませんので、小さな声で、こうしてネットの片隅で、独りごちさせていただいているわけです。
とは言え、皆様におかれましては、決して私の口車に乗らず、最良の医療をお求めになりますようお願いいたします。
(上記私の意見は、例えば、診断にぶれようもなく、命に直結するような、癌の治療などには基本的に当てはまらない話です。基本的に同業者向けの愚痴であり、メーカーや権威に対する意見とお考え下さい。最後に書きましたように、患者として医療を受けられる場合は、医師の提供する統計学的データを素直に聞いていただき、自らの治療を判断していただきますことを願っております。ここまで読んでもらって、申し訳ありません。)
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