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2016/03/24

民意とエリートと衆愚政治

 民意とは何か。わかりやすく、国民の多数決の結果であると多くの人が思っていますが、果たしてそうでしょうか。(以前のエリート論と民意がわけのわからない文章になったため、ある意味書き直しです。)

 例えば、私が、「消費税増税絶対反対、アンケート結果からも増税反対が過半数を超えている。政府は民意を聞け!」と意見発信した場合、その文章はいかにもそれらしいわけです。しかし、そのアンケートに答えた国民というのは、日本の税制、財政、経済、その他を熟知したうえで、そう答えているわけではありません。それこそ、「日本の財政は火の車である。増税に反対というのはただ税金を取られるのが嫌なだけ。そんな内容のないアンケート結果を民意とは何事!」と言われれば、確かにそうかも・・・なんて思う方もいるでしょう。

 私の民意に関する考えはこうです。国民の大半は、難しいことはわからないか、無関心です。馬鹿にしているわけではありません。過去のエリート論に述べてきたとおりです。すべての国民が例えば日本の政治や財政や経済についてペラペラ話し出したら、その方が気持ち悪いというものです。よく、国民はもっと政治について関心を持って、政策について考えるべきだなどとそれらしい意見を言う人がいますが、むしろ、そういう意見を発信する人間が、国民の中の少数派の政治マニア(エリート)であって、多くの国民は政治マニアではありません。そんな政治マニアでない大多数の国民にアンケートなどを取れば、なんとなく賛成か、なんとなく反対か、よくわからないと答えるにすぎないわけです。

 したがって、それこそ消費税率を上げるべきでない、いや上げるべきだと言い合っているのは、国民のごく少数派の政治マニアがさらに2つに割れて論争しているだけであり、その定義が国民の多数決の意見とするならば、民意などとはとても言えない代物であると私は考えているのです。

 敢えて私なりに民意というものを定義するのであれば、現在使われている文脈で民意というものを考えるのであれば、

私の意見、それが民意
としか、言いようがないと考えています。
 
 例えば、私自身は、消費税の増税はするべきではないと考えています。したがって、私にとって、消費税増税反対というのが民意です。なぜなら、私なりに勉強して、それが正しいと信じているからです。増税するとさらに国民の格差拡大、貧困化につながると信じているからです。消費増税に賛成することは絶対に間違いだと信じていますから、アンケート結果がひっくり返ったとしてもそれを民意とは認めません。
 
 という意見なので、本当は書きたくないのですが、その流れで消費税増税賛成の方にとっては、消費税率を上げることが民意です。消費税を上げないと、財政が成り立たない等々と信じているわけですから、それが日本の未来にとって良くないと信じているわけですから、それこそが民意なわけです。アンケート結果がどうであっても消費税増税反対を民意とは認めないでしょう。
 
 少数の政治マニア(エリート)の論争が「民意だ!民意だ!」と叫びながら言論空間で戦われ、国民全体の多数決という定義での民意の奪い合いを起こします。そして、勝った方は「民意の勝利」「民主主義の勝利」「国民は正しい判断をした」等とそれらしく勝ち誇り、負けた方は、「衆愚政治だ(馬鹿な国民が誤った判断をした)」等と嘆くことになるのでしょう。民主主義の限界を、或いは、ポピュリズム的な政治動向を「衆愚政治」と大昔の偉人の時代から言ってきたと思うのですが、それはその実、上記のようなエリートによるただの敗者の弁に過ぎないというのが私の意見です。
 
 しかも、自分の意見が正しいと思えば思うほど、いかなる方法を使ってでも民意を奪い、政治経済等をより良い方向に向かわせたいと思うものです。しかし、実は、全く正しくなく、どんどん国民を不幸のどん底へ陥れることもあるわけです。つまり衆愚政治の犯人は、衆愚たる国民ではなく、間違った自分の意見を強弁し強要する一部のエリートということになるのではないでしょうか。
 
 昨今、自分の意見が正しいと思えば、あのヘイトスピーチも真っ青の暴言を平気で書き綴る人たちがいます。しかし、実際には私の意見も含めて、自分の意見が正しいのか、間違っているのか、それは神様しかわからないのですから(ある種の曖昧論)、もう少し謙虚になるべきとも思いますし、この駄文が謙虚にかこつけて攻めるだけの方々に対する批判になればと思います。

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2016/03/17

マスコミの言論の自由と曖昧論

 大阪市の校長先生が、「女子は2人以上子供を産め」(敢えてこう書いてみました)とかなんとか発言したことが物議をかもしています。リンクが切れる可能性がるので、下記に発言をコピペしておきます。

今から日本の将来にとって、とても大事な話をします。特に女子の人は、まず顔を上げてよく聴いてください。女性にとって最も大切なことは、子供を2人以上産むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。なぜなら、子供が生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか子供を産むことができません。男性には不可能なことです。「女性が子供を2人以上産み、育て上げると、無料で国立大学の望む学部に能力に応じて入学し、卒業できる権利を与えたらよい」と言った人がいますが、私も賛成です。子育てのあと大学で学び、医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けばよいのです。子育ては、それほど価値のあることなのです。もし、体の具合で、子供に恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれない子供を里親になって育てることはできます。次に男子の人も特によく聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです。子育てをしたらそれで終わりではありません。その後、勉強をいつでも再開できるよう、中学生の間にしっかり勉強しておくことです。少子化を防ぐことは、日本の未来を左右します。やっぱり結論は、「今しっかり勉強しなさい」ということになります。以上です。
   この発言の中身について私の意見を最初に表明させていただければ、「主題について間違っているとは思わないが、表現の仕方があまりにも悪い。考え方も一部私の考えとは違う。」ということになります。    この校長先生の主題と本当に意見が同じかどうかはわかりませんが、
昨今、仕事でキャリアを積むことが何よりも優先されるという価値観がありますが、女性として、子供を産み育てるということも立派な仕事であり、社会へ貢献することになります。キャリアを積むことよりも劣った価値観ではありません。

の様な表現ならいかがでしょうか。私の文章でも、反発される方はいるでしょう。子供を産み育てるという価値観について公然で発言することを、すぐにナショナリズムにつなげる方々や、女性の社会進出の否定につなげる方々が少なくないからです。
 
 しかし、もっと普通に考えてはどうでしょう。恋愛を否定する人はいない。結婚を否定する人もいない。夫婦に子供が生まれ、家族が増えることを喜ばない人もいない。なのに、なぜ公然で子供を産み育てることの大切さを発言してはいけないのか。私の考えは、結婚か仕事か的な二元論への反発です。
 
 意見が違うといえば、キャリアを積むことと、子供を産み育てることに私は差はないと考えているのですが、文章的には、子供を産むことの方がいいことという意見のようです。また、子供を産み育ててから、キャリアを積むのは私の想像するところ、無理だとおもいます。これは価値観の違いであり、曖昧この上ない内容に、校長の立場で一つの方向へもってお行こうとするのはいかがなものなのでしょうか。この発言に関する意見はそれとして・・・。
 
 若干疑問に思うことがあります。
 この記事に限ったことではありませんが、こういう記事が、新聞で、テレビで話題になるということは、当然批判的にこの発言を取り上げていることになります。もし、マスコミが取り上げず、学校関係者から意見が出され、教育委員会から処分されるだけであったとすれば、地元で問題視されるだけで終了でしょう。しかし、このニュースはテレビの朝の情報番組でトップ扱いされているわけです。従って、全国的に話題となり、より多くの人から批判されることにより、基本的にこの校長は再起不能でしょう。まあ、テレビに出ている姿は強く反発され元気そうでしたが。
 
 マスコミが取り上げる、取り上げないの基準はあるのでしょうか。また取り上げることにより、普通に批判されるだけで済んだ人々が、下手をすれば自殺に追い込まれることもあります。要するにニュースの取捨選択は極めて責任が重いと思うのです。言いたい放題、やりたい放題のマスコミ関係者が、話題の人々を幸にも不幸にもする力を持ちながら、「言論の自由」を掲げるのを見ると反吐が出る私でございます。
 
 (上記の通り、この校長の発言をそっくりそのまま賛同しているわけではありませんが)どうしても、子供を産み育てることの大切さを訴えることが嫌いで問題視したかったマスコミが普段何をやっているか、それを思い出してみてください。

 歌手の○○さんと女優の××さんの結婚会見です。
「ご結婚おめでとうございます。」「ありがとうございます」
「お子様は何人くらいほしいですか」「2人くらいはほしいですね」
「男の子?女の子?」「最初の子は女の子がいいかな?・・・」

 結婚したら子供を産み育てるということを前提、強制し、子供の人数まで面前で答えさせて、国家への貢献を約束させているマスコミが、批判する立場にあるのでしょうか。
 もちろん、屁理屈こねすぎであることはみなさんよくお分かりかと思いますが。

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2016/03/10

信教の自由と曖昧論

 言論の自由と曖昧論言論の自由と曖昧論(2)の中の、「言論の自由を振りかざすな」とか「自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき」という言論も言論の自由は保障しているが、言論のレベルを下げている・・・とか、そんな私の屁理屈についてこられなかった方に、今度は、「信教の自由」にもひとコネして説明し、より偏屈な世界へ皆様方をお連れしたいと思います。

 信教の自由は、日本国憲法第20条で、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する(後略)」とされています。

 例えば、オウム真理教が世間からバッシングを受けていた時を考えてみます。麻原教祖の髪の毛1本1万円、ふろの残り水2万円、ヘッドギア100万円(具体的値段忘れましたので、たぶんこんな感じですみません)など、強引な金集めが世間から非難されることがありました。
この非難に対し、ああいえば上祐氏などは、

我々には信教の自由がある」・・・一段ロケット
そして「仏教だって戒名にいくら払っているのか?」・・・二段ロケット

という、二段ロケットで、世間をけむに巻いておりました。多くのコメンテーター・評論家などは、常識で非難するのですが、信教の自由があるといわれれば、基本的に反論できません。鰯の頭も信心と言われればそれまでで、基本的に自由とされているからです。さらに二段目のロケットを食らって、何も反論できていませんでした。

 ただ、この一段目のロケット、屁理屈屋の私にかかるといろいろと疑問がわいてきます。
 信教の自由??、なにそれ??。
信教の自由は、日本においては前述の日本国憲法で保障されています。ですが、当然、オウム真理教の内部に信教の自由などないではありませんか。

わかります?

 オウム真理教はオウム真理教という教えを守っていく宗教団体であって、オウム真理教の中で、「私、仏教がいいなあ・・」という信教の自由は存在しません。また、宗教はその性質上、布教活動をするわけですが、当然オウム真理教の信者になることを勧めるのであって、「信教の自由だから、仏教でもいいよ」という布教はありえません。またWikipediaによれば、信教の自由とは、信仰を変える自由も含みます。オウム真理教が信者の脱会や批判、それに絡む教団批判に寛容どころか、(無関係の人まで)殺人を犯したことはご存知の通りです。

 つまり、オウム真理教そのものに、「信教の自由」等という概念は存在しないのです。わかりやすくオウム真理教を例にしましたが、一般論として、信者が明確な宗教に関して(オウム真理教と比べるのはなんですが)その程度の差はあれ、その内部で「信教の自由」は同様に存在しないのは当然です。

 であれば、信教の自由とは何か。
それを規定する日本国憲法を、日本、あるいは世間と置き換えてみましょうか。日本において、日本国内において、「あなた方が、特定の宗教を信じて生活することを認めますよ」ということですから、信教の自由とは、本来、世間様(日本国民)の元にあり、世間様(日本国民)こそが発する言葉ではないでしょうか。「ちょっとあの人たちおかしなことをやっているけど、「信教の自由」があるんですから、認めてあげましょうよ」という使い方が正しいのではないかというのが私の意見です。発言主は世間様(日本国民)であって、決して、宗教団体自体ではなく、自発的に「俺達には信教の自由がある!!」と叫ぶための言葉ではないのではないでしょうか。

 そう考えると、信教の自由というのも、日本国憲法には明確に「何人に対してもこれを保証する」と極めて明確に書かれておりますが、実に曖昧な概念であることが分かります。鰯の頭を含め本来どんな宗教活動も認められるはずですが、先ほどの世間様の言葉の中の、「おかしなことやっているけど・・・」の程度、線引きによっては、当然認められない場合があるということを含有しているのが「信教の自由」と私は考えるのです。

 もちろんそれが行き過ぎて、権力が線引きを大きく変えることにより、様々な宗教を弾圧することもあるでしょう。そんな時こそ、「信教の自由があるはずだ」と世間様(日本国民)が立ち上がり、線引きの見直しを迫る必要があるのです。
 ということで、宗教団体が、たやすく「信教の自由」を叫ぶのは、(本当の弾圧を除き)世間様(日本国民)に見放されつつあるのに、「俺たちの活動を認めろや!この野郎!」的なわがまま野郎の発言と同等だというのが私の意見です。残念ながら話の流れ上、このわがまま野郎的発言も、「言論の自由」が許してしまっておりますが・・・。

 ちなみに、ああいえば上祐氏の2段目のロケットも私の屁理屈を使えば簡単に論破できます。過去記事に何度も書いてきましたが、これは駐禁症候群と呼ばれる(私の造語)批判テクニックです。仏教で戒名に何十万円も払うという事実を本人は批判的に話しているのですから、それと同様に、麻原の髪の毛に値段をつけること自体よくないことだと本人自身が認めている墓穴発言に過ぎません。「上祐さん、あなたのおっしゃる通り、仏教の金集めはおかしいですね。それと同様にあなた方の資金集めもおかしいですね。それを自らお認めになる上祐さんはすばらしい」と褒め殺して終了です。

 私の屁理屈は宗教に近いのでしょうか。世間から、「お前の屁理屈はわからん!ネットから消えろ!!」と言われたら、「私にだって信教の自由と言論の自由があるぞ!」と反論させていただきましょう。

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2016/03/07

言論の自由と曖昧論(2)

 前回、言論の自由について書いたのですが、もう一度書き直してみたいと思います。言論の自由が当然守られているという現実の中で、ある言論というか意見発信が、

自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき
という、方向に向かっていることを最近よく見かけると書きました。

 しかし、それを批判的に言ったことと明らかに矛盾しますが、上記のような言論の自由とは明らかに反する意見ですら、言論という土俵から排除してはいけないというのが私の考えなのです。

 わかります?。

「自分の意見は正しいのだから、正しくない他者の意見は言論の自由には当たらないから、排除されるべきだ」的な言論でさえ、言論の自由は保障しているということです。

 だからこそ逆に、いくら保障されているとはいえ、上記のような自分の意見のみが正しい的な言論には、辟易ですし、ある意味極めて危険だと感じます。そのあたりが極めてあいまいなわけですが、曖昧だからこそ私的には、そういう自分中心の言論は慎みたいと感じるばかりです。そして、いくら相手が間違っていようと、相手のやり方が汚かろうと、それこそ、言論封殺をちらつかされて自分の意見を攻撃されようとも、残念ながら、それはやはり言論という土俵の上で戦うしかないと感じています。

 いやいや、場合によって相手はその土俵から自分の言論を封殺しようとしているのに言論の土俵で戦うしかないなんて、彰の介は馬鹿か??って言われそうですね。しかし、現実現代の日本社会であれば、それやすやすと封殺なんてできません。封殺されそうだ!!的な言論の場が、必ずどこかに存在しているものでしょう。そうした封殺の動きこそ、むしろ悪いイメージを国民に与えかねない、自爆のような気がしますが。

 そして、もう一段ややこしい話をすれば、それでいて私は、たやすく「言論の自由」「言論封殺」なんて言葉を言論に持ち込むべきではないとも感じているのです。というか、それらが持ち込まれている言論こそ、「自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき」という言論の応酬だと言いたいのです。つまりは、レベルが低いのですよ。

 レベルが低い・・・、ついつい本音を書いてしまいましたが、誰かがレベルを下げてしまうと、言論の自由の下では、そのまますべての言論のレベルが下がってしまいます。

 言論の自由とは、自由ゆえに曖昧で、ルールがあってないが如くなってしまう。だからこそ、言論の自由を振りかざすな、それこそあってないけどルール違反だ・・・という、私彰の介の超超屁理屈を一気に書きなぐってみました。

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2016/03/02

言論の自由と曖昧論

 敢えて問題発言調で話を始めたいと思います。
 言論の自由、これは日本国憲法第21条において保障されております。集会を開くのも自由、言論の名のもとに何を言っても自由、表現の自由は憲法が保障しています。

 ということは、あの見るに耐えない、ヘイトスピーチ的なものも、憲法で保障されているのでしょうか?。表現の自由、言論の自由をことあるごとに訴えているメディア関係者は、特にヘイトスピーチに対して強く批判されているように思いますが、これって、何か矛盾していないでしょうか?。自分たちの表現は憲法が保障しているはずだが、ある種の考え方を持つ人たちの表現は規制されるべきだというわけですから。

 もちろん、私的には矛盾しているなどと考えていません。憲法よりも優先されるものは、常識や慣習のはずです。法律論的にこういう考え方が正しいのかどうかは全く知りませんが、あの見るに耐えない行動としてのヘイトスピーチが、常識的に正しいこととは思えず、憲法の保障するものとは別物であると考えるからです。

 ということになると、憲法の条文自体、「一切の表現の自由はこれを保証する」と実に明確に書かれているのにもかかわらず、そこには「日本や世界の常識、慣習、価値観等により一概に保証しない」という言外の「表現の規制」を内包していると考えることもできます。となると、常識?慣習?価値観?なんてものは、人により、国により、年代により、立場により、そして、その人の思想により、宗教により、人種により??、微妙に違うわけですから、明確な文面とは裏腹に線引きが難しく、実に曖昧で、結局運用次第としか言いようがないものだと言わざるを得ないわけです。

 で、何が言いたいかといえば、あの明らかなヘイトスピーチならともかくも、あるいは逆にそれをも含めて、たやすく「言論の自由」などという言葉を発してはいけないのではないかと思うことです。言論の自由を害されると感じた場合、自分の言論が間違いなく常識に照らし合わせて常識なのか、公共の害になっていないのかどうかをちゃんと判断できるかどうか。言論の自由から明らかに逸脱していると感じたとき、間違いなくその言論が常識を超越して公共の害になっていると判断できるかどうか。あまりにひどい言論を見たとき、それをたやすく言論という土俵から追い出そうとしていいのかどうか。

 昨今のいろいろな議論を見るに、言論弾圧だ、言論の自由だという言葉がよく飛び交っているのですが、私から言わせれば、結局のところ多くの場合は、

自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき

という文脈で使われていることが、あまりに多いと感じるのです。どちらかが正しい、どちらかがおかしいというわけではありません。自分なりにあまりにもおかしい言論だと思っても、あまりにひどすぎると思っても、言論の土俵から追い出さず、ただただ言論によって戦うしかないのではないかというのが私の考えです。そうでなければ、真の言論の自由は守られないはずです。普通の言論が、実は大いなる誤りで、ひどいと思われる言論の中に、本当の答えがあったらどうなのでしょうか。

 無論、私の持っている答えは、言論の自由の線引きなど曖昧で正解がないということであり、より良い言論をもたらすための方策を持ち合わせるわけではありません。ただただ、自分の言論とも呼べない世迷言を、言論から追い出してほしくないがために、自分と意見が違っても、だからと言って言論から追い出すことはしてならないと感じるばかりです。

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