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2016/03/02

言論の自由と曖昧論

 敢えて問題発言調で話を始めたいと思います。
 言論の自由、これは日本国憲法第21条において保障されております。集会を開くのも自由、言論の名のもとに何を言っても自由、表現の自由は憲法が保障しています。

 ということは、あの見るに耐えない、ヘイトスピーチ的なものも、憲法で保障されているのでしょうか?。表現の自由、言論の自由をことあるごとに訴えているメディア関係者は、特にヘイトスピーチに対して強く批判されているように思いますが、これって、何か矛盾していないでしょうか?。自分たちの表現は憲法が保障しているはずだが、ある種の考え方を持つ人たちの表現は規制されるべきだというわけですから。

 もちろん、私的には矛盾しているなどと考えていません。憲法よりも優先されるものは、常識や慣習のはずです。法律論的にこういう考え方が正しいのかどうかは全く知りませんが、あの見るに耐えない行動としてのヘイトスピーチが、常識的に正しいこととは思えず、憲法の保障するものとは別物であると考えるからです。

 ということになると、憲法の条文自体、「一切の表現の自由はこれを保証する」と実に明確に書かれているのにもかかわらず、そこには「日本や世界の常識、慣習、価値観等により一概に保証しない」という言外の「表現の規制」を内包していると考えることもできます。となると、常識?慣習?価値観?なんてものは、人により、国により、年代により、立場により、そして、その人の思想により、宗教により、人種により??、微妙に違うわけですから、明確な文面とは裏腹に線引きが難しく、実に曖昧で、結局運用次第としか言いようがないものだと言わざるを得ないわけです。

 で、何が言いたいかといえば、あの明らかなヘイトスピーチならともかくも、あるいは逆にそれをも含めて、たやすく「言論の自由」などという言葉を発してはいけないのではないかと思うことです。言論の自由を害されると感じた場合、自分の言論が間違いなく常識に照らし合わせて常識なのか、公共の害になっていないのかどうかをちゃんと判断できるかどうか。言論の自由から明らかに逸脱していると感じたとき、間違いなくその言論が常識を超越して公共の害になっていると判断できるかどうか。あまりにひどい言論を見たとき、それをたやすく言論という土俵から追い出そうとしていいのかどうか。

 昨今のいろいろな議論を見るに、言論弾圧だ、言論の自由だという言葉がよく飛び交っているのですが、私から言わせれば、結局のところ多くの場合は、

自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき

という文脈で使われていることが、あまりに多いと感じるのです。どちらかが正しい、どちらかがおかしいというわけではありません。自分なりにあまりにもおかしい言論だと思っても、あまりにひどすぎると思っても、言論の土俵から追い出さず、ただただ言論によって戦うしかないのではないかというのが私の考えです。そうでなければ、真の言論の自由は守られないはずです。普通の言論が、実は大いなる誤りで、ひどいと思われる言論の中に、本当の答えがあったらどうなのでしょうか。

 無論、私の持っている答えは、言論の自由の線引きなど曖昧で正解がないということであり、より良い言論をもたらすための方策を持ち合わせるわけではありません。ただただ、自分の言論とも呼べない世迷言を、言論から追い出してほしくないがために、自分と意見が違っても、だからと言って言論から追い出すことはしてならないと感じるばかりです。

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