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2016/03/10

信教の自由と曖昧論

 言論の自由と曖昧論言論の自由と曖昧論(2)の中の、「言論の自由を振りかざすな」とか「自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき」という言論も言論の自由は保障しているが、言論のレベルを下げている・・・とか、そんな私の屁理屈についてこられなかった方に、今度は、「信教の自由」にもひとコネして説明し、より偏屈な世界へ皆様方をお連れしたいと思います。

 信教の自由は、日本国憲法第20条で、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する(後略)」とされています。

 例えば、オウム真理教が世間からバッシングを受けていた時を考えてみます。麻原教祖の髪の毛1本1万円、ふろの残り水2万円、ヘッドギア100万円(具体的値段忘れましたので、たぶんこんな感じですみません)など、強引な金集めが世間から非難されることがありました。
この非難に対し、ああいえば上祐氏などは、

我々には信教の自由がある」・・・一段ロケット
そして「仏教だって戒名にいくら払っているのか?」・・・二段ロケット

という、二段ロケットで、世間をけむに巻いておりました。多くのコメンテーター・評論家などは、常識で非難するのですが、信教の自由があるといわれれば、基本的に反論できません。鰯の頭も信心と言われればそれまでで、基本的に自由とされているからです。さらに二段目のロケットを食らって、何も反論できていませんでした。

 ただ、この一段目のロケット、屁理屈屋の私にかかるといろいろと疑問がわいてきます。
 信教の自由??、なにそれ??。
信教の自由は、日本においては前述の日本国憲法で保障されています。ですが、当然、オウム真理教の内部に信教の自由などないではありませんか。

わかります?

 オウム真理教はオウム真理教という教えを守っていく宗教団体であって、オウム真理教の中で、「私、仏教がいいなあ・・」という信教の自由は存在しません。また、宗教はその性質上、布教活動をするわけですが、当然オウム真理教の信者になることを勧めるのであって、「信教の自由だから、仏教でもいいよ」という布教はありえません。またWikipediaによれば、信教の自由とは、信仰を変える自由も含みます。オウム真理教が信者の脱会や批判、それに絡む教団批判に寛容どころか、(無関係の人まで)殺人を犯したことはご存知の通りです。

 つまり、オウム真理教そのものに、「信教の自由」等という概念は存在しないのです。わかりやすくオウム真理教を例にしましたが、一般論として、信者が明確な宗教に関して(オウム真理教と比べるのはなんですが)その程度の差はあれ、その内部で「信教の自由」は同様に存在しないのは当然です。

 であれば、信教の自由とは何か。
それを規定する日本国憲法を、日本、あるいは世間と置き換えてみましょうか。日本において、日本国内において、「あなた方が、特定の宗教を信じて生活することを認めますよ」ということですから、信教の自由とは、本来、世間様(日本国民)の元にあり、世間様(日本国民)こそが発する言葉ではないでしょうか。「ちょっとあの人たちおかしなことをやっているけど、「信教の自由」があるんですから、認めてあげましょうよ」という使い方が正しいのではないかというのが私の意見です。発言主は世間様(日本国民)であって、決して、宗教団体自体ではなく、自発的に「俺達には信教の自由がある!!」と叫ぶための言葉ではないのではないでしょうか。

 そう考えると、信教の自由というのも、日本国憲法には明確に「何人に対してもこれを保証する」と極めて明確に書かれておりますが、実に曖昧な概念であることが分かります。鰯の頭を含め本来どんな宗教活動も認められるはずですが、先ほどの世間様の言葉の中の、「おかしなことやっているけど・・・」の程度、線引きによっては、当然認められない場合があるということを含有しているのが「信教の自由」と私は考えるのです。

 もちろんそれが行き過ぎて、権力が線引きを大きく変えることにより、様々な宗教を弾圧することもあるでしょう。そんな時こそ、「信教の自由があるはずだ」と世間様(日本国民)が立ち上がり、線引きの見直しを迫る必要があるのです。
 ということで、宗教団体が、たやすく「信教の自由」を叫ぶのは、(本当の弾圧を除き)世間様(日本国民)に見放されつつあるのに、「俺たちの活動を認めろや!この野郎!」的なわがまま野郎の発言と同等だというのが私の意見です。残念ながら話の流れ上、このわがまま野郎的発言も、「言論の自由」が許してしまっておりますが・・・。

 ちなみに、ああいえば上祐氏の2段目のロケットも私の屁理屈を使えば簡単に論破できます。過去記事に何度も書いてきましたが、これは駐禁症候群と呼ばれる(私の造語)批判テクニックです。仏教で戒名に何十万円も払うという事実を本人は批判的に話しているのですから、それと同様に、麻原の髪の毛に値段をつけること自体よくないことだと本人自身が認めている墓穴発言に過ぎません。「上祐さん、あなたのおっしゃる通り、仏教の金集めはおかしいですね。それと同様にあなた方の資金集めもおかしいですね。それを自らお認めになる上祐さんはすばらしい」と褒め殺して終了です。

 私の屁理屈は宗教に近いのでしょうか。世間から、「お前の屁理屈はわからん!ネットから消えろ!!」と言われたら、「私にだって信教の自由と言論の自由があるぞ!」と反論させていただきましょう。

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