2008/07/18

むなしきかな(4)

 最近テレビを見ていて気になるのが、やたらと放送される、テレビ番組の予告・宣伝コマーシャルです。提供各社のコマーシャルをさしおいて、自社テレビ局の番組の宣伝を流したり、或いは別番組に積極的にゲストとして出演者を出して宣伝するなど、テレビ局の必死さが伝わってきますが、ある意味むなしき話です。

 詳しくは知らないのですが、ドラマ等の番組の宣伝を流すのは、決して提供各社のコマーシャルをさしおいているわけではなく、提供が少なくてあいてしまうんだとか・・・。そんなあいた枠に視聴率を上げるために番組宣伝のコマーシャルを入れ、本物のコマーシャル提供社をなんとか確保するという作戦のようですが、なかなかマスコミの大王のはずのテレビの世界も厳しいようです。

 番宣コマーシャルはまだしも、主役級の俳優・女優が、朝もはよから、ニュース・報道番組に呼ばれて、番組の見所を宣伝させられているのは、個人的には実にむなしき光景です。バラエティ番組のゲストとして、なんでこの人が出てるの?なんて思ったときは、たいてい新番組の番宣です。番宣が元の番組の一部を食ってる場合もあり、むなしいというか何というか、一言で言うと、うっとうしいことこのうえなしです。

 原因が、景気低迷による提供の減少や、ネット業界に宣伝費を食われている現実があるのでしょう。ただ、あくまで個人的な意見ですが、番宣だらけの番組や、いい場面でのコマーシャル突入といった手法がふんだんに使われている、提供社のための番組は、上記の通り正直うっとうしいので、あまり見たくないのが現実です。これはむしろテレビ局の意図とは逆のはずです。こういう負の循環が起きていることは実にむなしき話で、誰かが気づかないと、ますます泥沼に落ちていく・・・・、そんな気がしてなりませんが、民放の皆さん大丈夫ですか。

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2008/07/17

むなしきかな(3)

 最近では、学校の先生が、生徒に「先生はお金払って先生になったの?」と聞かれるそうで・・・。
むなしきかな、むなしきかな。でも、お金上納したからこそ先生になっている方も残念ながらいるわけですから、仕方ないですね。ただ、これが大分県だけのことかどうかは、まったくわかりませんが・・・。というか、その手法のえげつなさの程度はともかく、同様のことは多かれ少なかれどこにでもあると考える方が、ごく自然かもしれません。

 というのも、中学生の時、「この先生、明らかに僕より頭悪い・・・」と感じる先生がいました(笑)。中学といえば、専門教科別になるわけですから、中学生ごときに頭が悪そうと勘ぐられること自体大問題ですが、でも、そん先生がいるんだからしょうがないですね。高校の時の数学の先生では、出した宿題の問題が解けないとうわさの先生もいました(直接の担当ではないのでわかりませんが)。いずれの先生も、お金や口利きで職に就いたかどうかは不明です・・・。

 しかし、大分のような金銭、口利きによる受験操作は行われなかったとしても、いわゆる謝礼という文化は、日本全国津々浦々にはびこっているような気もします。正規の方法で、順当に就職したとしても、上司となる人には、「今後ともよろしくお願いいたします」という感じで、菓子折の一つくらい持っていくのが礼儀といえば礼儀のような・・・(笑)。まあ、菓子折の中身や、中身による差別が露骨になると、大分のように総点検ということになるのでしょうが、何事も、程度問題でしょうか。

 最近、先生の指導力がよく問われますが、さらにこんな不祥事が起きると、ますます先生の求心力が低下しそうです。それを考えると、程度問題なんて言ったことは甘すぎますか。一回リセットした方が良さそうなことは、間違いないようです。

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2008/07/15

むなしきかな(2)

 飛騨牛につづき、次のむなしきものは・・・・、「うなぎ」。

 これまた、先日スーパーに行ったところ、うなぎの蒲焼きがたくさん売っていました。以前からこのブログで書いていることですが、昨今のだだくさな、うなぎの食い散らかしを、大変うれいている私です。ところで、うなぎの蒲焼きにも、むなしき表示がされていました。

 「一色産うなぎ」。あの偽装うなぎに使われたのと同じようなシールが、しっかり貼付されていました。そして、大量の蒲焼きが置いてあるそのコーナーには、

「当店のうなぎは全て愛知県一色産の国産うなぎです。安心してお召し上がりください」
との張り紙が・・・。むなしきかな、むなしきかな、あえてそう書かれると、むしろ買う気が失せるというものです。

 そもそも、うなぎは焼きたてをお店で食べるものであって、あのパックに入れられた、蒲焼きのうなぎはどうも好きになれません。まあ、それは許すとしても、許せないのは、パックごと冷凍してあるうなぎの蒲焼き・・・。冷凍したり、作り置きするようなことで、余計なうなぎ様の命を奪うくらいなら、必要なだけ、注文が入っただけ、焼いていただいた方が経済的であり、資源的にも合理的だと考えます。

 また、蒲焼きのうなぎは、どう見ても、中国産か国産かの区別はつきません。今後も残念ながら、同様の不正は行われるのではないでしょうか。
 そう考えれば、責任の所在が曖昧で、シールが貼り替えられれば全く区別がつかないスーパーやコンビニで売るようなことはやめて、魚屋さんや、うなぎやさんに責任を持ってもらい、生きたうなぎを直接さばいて、我々に提供してもらった方がいいのではないでしょうか。産地やブランドではなく、そのできばえと誇りで、勝負してもらいたいものです。

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2008/07/14

むなしきかな

 先日地元岐阜に帰ったときのこと。
家では焼き肉パーティーとなり、岐阜のブランド牛、飛騨牛を食べることになりました。

 これがまた、以前からなのか、最近なのか、例の偽装事件以降なのかわかりませんが、買ってきたお肉には、わざわざちゃんと「飛騨牛・5等級」と表示されていました。まあ、正真正銘の飛騨牛だということなのでしょうが、ああいう事件後ですと、なんとなくむなしい表示です。むしろうさんくさいというか、いろいろとかんぐってしまいました。

 というのも、買ってきていたお肉、その産地・等級の表示に似つかわしくない、ちょいとお安めのものであり(母がけちったらしい!)、それよりもなにも、そんなにおいしくない・・・・・。うむむ、偽物か・・・・・。

 もちろん、5等級の飛騨牛とはいえ、肉の部分や、加工日などによって、大きく味は変わるのでしょうし、もちろんいい肉を買ってきたとしても、味は調理した者の責任ですけどね。まあ、味付けは塩を振っただけ、振ったのは私・・・。悪いのは私ですか?・・・。

 偽装がされていて、値段が高くなってしまったお肉を、表示だけを見てありがたがって食べる。そして、味の違いがわからない。わからないから、また偽装する・・・、というのが、この手の問題の悪循環でしょう。今回の私の経験は、5等級だろうが、飛騨牛だろうが、「安かったら、まずかった(もとい、おいしくなかった)」と言う話で、あまり問題性が無いような気もしますが(笑)、あらためて、ブランド狂の日本人に問題を感じますし、一度うさんくさいと思ってしまうと、ブランドの表示というのは、むなしい限りです。

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2008/07/11

エコ・幻想(5)

 エコを語っている私は、エコな生活を送っていません(笑)。

 最大の「非エコ」は長い一人暮らしでしょうか。高校卒業してから、あれこれ人生の半分以上を一人暮らししてきましたが、こんな効率の悪い、非エコはありません。2年ほど前に結婚したとはいえ、一人暮らしが二人暮らしになっただけで、家族3世代の生活というわけではありません。核家族どころか、老人の個人生活も増えていますから、日本中非エコ世帯大増殖中と言えましょうか。

 一人暮らしの非エコといえば、食べ物の効率の悪さでしょう。私はもっぱら便利を求めて、主食は「コンビニ弁当」でした。コンビニ弁当は安くて便利の象徴です。非エコの固まりであることはいうまでもありません。
 私の高校時代までを思い出すと、ゴミといえば燃えるものというイメージが強いのですが(実家では小さな焼却炉を買って燃やしていた)、一人暮らしで出てきたゴミは、弁当の容器のような燃えないゴミ、プラスチック系ゴミばかりです。

 ふと、30年ほど前を思い出せば、うちのおばあさんが、プラスチック系の容器を大事に押し入れにしまっていたことを思い出します。今では、その頃のプラスチックとは比べものにならないほど、丈夫でいい容器を、毎食毎食ゴミとして出してしまっています。リサイクルという手があるとはいえ、ペットボトルでわざわざ水やお茶を買う時代です。あれもこれもと次から次へとゴミゴミゴミ・・・。大事にとっておいたら、ゴミ屋敷といわれてしまいます・・・。

 そうは思いつつも、なかなか便利からの脱却は難しいものです。だからこそ、ものの値段が上がって、もったいないを感じることができる現状を、悲観する必要も無いのではないかというのが、今までの私の主張です。

 そんな私の考える最新のエコが、スパーなどでたくさん見かける、食品トレイの有料化です。要するに、「タッパー持参運動」ってのはダメですかね。「エコ袋」というのがだんだん浸透しつつありますが、出来合いのおかずは、持参した容器で持ち帰るという発想です。それこそたったの数十年前には、ボールやたらい?洗面器??持参で豆腐を買っていたわけですから、できないことはないでしょう。

 なにしろ、便利を提供するのをやめてもらって、料金を負担させられないと、エコする気も起きません。現在、燃料費が高騰しているわけですが、考え方を変えれば、未来を守るために、「楽と便利を買う時代」が到来したということではないでしょうか。あまりお金を出せない我々庶民は、タッパーもってスーパーへ行きましょう。

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2008/07/10

エコ・幻想(4)

 エコを考えるときに、食料問題は切っても切れない関係であると感じています。
 前回も書いたように、食物を使って燃料を作るなんていうことはそもそも論として本末転倒で、エコでも何でもないような気がします。
 そして、安く、手軽に、日本中の、あるいは、世界中の食材が手にはいるということは、まさに「非エコ」の象徴といえるかもしれません。エコを訴えつつ、手軽にを実践したいのであれば、それに見合う十分なコストを支払うべきで、つまりは、お金持ちしか買えないという格差社会こそ、真のエコだったりすると考えたりもしています。

 以前、同様の内容で、だだくさな食卓だだくさな食卓2というエントリーをしたことがあるのですが(だだくさ=もったいない、無造作に)、わずかここ20年ほどで、食卓というものががらっと変わってしまったような気がします。私はまだ自分がおっさんとは思っていない年頃(30代後半・・・)ですが、それにしても、ほんの少し前には、決して、だだくさには食べられなかった食材が、お店に、食卓にあふれる世の中になりました。

 私は、大きな意味でのエコの観点から、例えば、ウナギは超高級食材になればいいと考えています。養殖という「超・非エコ」によって、安くて手軽を享受しているわけですが、そのおかげで、環境にかけている負荷の大きさや、ましてやウナギそのものが、絶滅するかもしれないということを考えれば、正直食べられなくてもいいような気がしているのです。

 そんなことを書くと、私の感覚が「グリーンピース的」だと思われてしまうかもしれませんが(笑)、そんな感覚とはちょっと違います。私が考えていることは、値段はともかくも、ほんの数十年前には、こんなにありがたみもなく、だだくさに食い散らかすようなことはなかったわけで、以前のように、ご馳走としてありがたく食べたいと思っている、ただそれだけなのです。

 むしろ、燃料費が上がり、えさ代が上がり、コストがかかることで、ウナギの値段が上がった方が、昔の感覚を社会が取り戻せるのではないかと考えたりもしているわけです。その方が、絶対「エコ」ですし、健全ですし、自然を守っていけると思うのです。

 むむむ、何となくこの「エコ・幻想」が、変な方向に向かっているような気がしなくもありませんが、もっと変な方向へ行きましょうか・・・。

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2008/07/09

エコ・幻想(3)

 ガソリンなど燃料価格の高騰とともに、現在問題になっているのが穀物価格の高騰です。原因はいろいろといわれているようですが、その一つに、トウモロコシ等の穀物が、食料や飼料として使われず、バイオエタノールの原料になっていることがあげられています。

 私はどうしても、この直接間接的に人間の食料にするべき穀物を、燃料に変えるという行為が、とても「エコ」とは思えないのですが・・・。

 そもそも論として、食料を燃料に変えるということ自体が本末転倒という話もあります。車を動かすために、飢え死にする人間がうまれてしまうことは、まったくもっておかしな話です。
 ついでにいえば、高く売れる穀物の生産のために、森が切り開かれているという噂もあり、これまた全く持って本末転倒もいい話です。

 そんなそもそも論を置いておいたとしても、本当にバイオ燃料はエコなのでしょうか。
 理屈としては、バイオ燃料を燃やして発生したCO2は、また畑でトウモロコシに生まれ変わるので、計算上CO2は発生しないというのですが。どうもこの理論、聞けば聞くほどうさんくさい話です。

 私の感じるうさんくささは、この話が「永久機関」の話によく似ていると思うからです。太陽電池で電球を光らせたら、太陽電池を使って、その光を利用して発電し、また電球を光らせる・・・、という誰もが一度は考える永久機関の幻想と何かだぶっているように感じるのです。要するに、永久機関の話は、どこかに「抵抗」が働いていて、うまくいきません。電球の光のエネルギーを100%の効率で電気に変えることはできないでしょうし、電球そのものに電気抵抗がありますから、どんどん電気が目減りしていくのは明かです。

 つまり、トウモロコシに蓄えられたエネルギーは、100%の効率でバイオエタノールへ変換され、100%の効率で自動車の動力に変わっていくのでしょうか。だとすれば理想的ですが、この効率が100%でなければ、目減り分のエネルギーが必要になりますから、そのエネルギーを生み出すために、CO2が余分に発生しませんか?。
 そう考えれば、このエネルギー効率は、本当に、トウモロコシの育成収穫のサイクルに見合う効率なのでしょうか。ひいては、トウモロコシを作るに見合う効率なのでしょうか。
 値段がつり上がったことで、農家の金銭的な効率は相当に見合っているのでしょうが、エネルギー効率はちゃんと「エコ」と呼べるものなのでしょうか。

 このあたり、私には知識がないので、明確にお答えいただける方がおられれば教えてください。
 私は、極めて非効率だろうと感じていますが・・・。

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2008/07/08

エコ・幻想(2)

 ガソリン高いですね。いっちょまえにええ車(非エコ車)に乗っている私は(笑)、道にガソリン撒きながら走っているようなものです。まあ、通勤は徒歩ですので、エコの鏡のような存在のはずですが・・・。

 実際のところよくわかりませんが、この燃料費の高騰は、結局のところ「エコ」ですね。
 
 自動車に乗らなくなり、ちょっとしたところなら歩いたり、自転車に乗ったりする、これはまさにエコです。

 ガソリンの高騰が、ものの値段をつり上げているとすれば、今までだだくさに使っていたものも、大事に、必要な分だけ使うようになるでしょう。
 
 食品のマイレージなんていう発想もあるようですが、地産地消がどんどん進んでいくのかもしれません。外国から安く食品を買い、食い散らかして捨てている現在よりも、あるものを無駄なく消費する姿の方がよっぽどましだと思いますし、食物自給率の解決にもつながるかもしれません。

 安くて、楽だということは、それだけ環境に負荷をかけているということです。この環境への負荷の方向へ偏りすぎた現状を、見直すいい機会ではないでしょうか。
 ガソリンが高騰しない限り、エコの行動に移すことは正直難しいことですから、この痛い出費が、災い転じて福となすことを祈るばかりです。

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2008/07/07

エコ・幻想

 うむむ。またまたお久しぶりになりました。彰の介です。
 さぼり続けてまた一ヶ月以上がたってしまいました。
 ブログをやめてしまうのも自由かとは思いますが、これがまた、やめずに放っておくことができるのもブログの一機能と申しましょうか。誰も文句を言いませんね。夏休みの宿題のように、8月の終わりになってあわてるような、あの緊張感(笑)がブログにないところが、意志の弱い私系の人間にはたまらないと言いましょうか・・・。

 そんなことで、本日は短くまとめます。
 最近テレビで「エコ」という言葉がやたらと登場しますね。CO2というのもキーワードでしょうか。こうすると、CO2がどれだけ削減できるなんていうテレビ番組や、自然番組がずいぶん放送されているようです。

 まあ、それはそれ、自然主義者の私ですから、賛同すべきことのはずなのですが、一言だけ言うならば、「エコ」をテレビ番組で強く言うのはどうなんでしょうね。何しろ、その番組作りに一体どれだけのCO2を排出し、テレビを見ることで一体どれだけのエネルギーを使っていることか・・・。

 私はこういう自己矛盾が大好きなので(笑)、ぜひとも

「明日のエコでは間に合わないから、テレビの電源をお切りください」
的な放送がされるのを楽しみに待っています。

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2008/05/27

本質論と派閥争い(2)

 本質的な問題がよくまとまらず、一体どの方向に進めばよいのか・・・、人間誰しも迷い込む道かもしれません。日本の歴史を振り返れば、「幕末」なんていうのは、まさに大海原に船一艘、さてどっちにこぎ出そうかという状況だったのではないでしょうか。ちょっと過去記事をなぞりつつ、屁理屈的本質論?を語っていきましょう。

 この、日本の近代化の始まりであるこの「幕末」「明治維新」というのは、一見一本道に進んだと錯覚しますが、実際は、あっちによれ、こっちによれ、まあ、うんの固まりで結果論的に最短距離を進んだという気がしてなりません。その時代についてのわかりにくさは、以前、無駄論的幕末維新という駄文を書いたことがあるのですが、一歩間違えば、派閥争いに終始し、見事にヨーロッパ列強の餌食になっていたかもしれません。

 私は歴史家ではないので、素人的意見の展開をすることはお許しいただくとして、「幕末の本質論」とはいったい何だったのでしょうか。
 まあ、いろんな言い方はあるのでしょうか、本質中の本質は、「中国(清朝)のように、ヨーロッパ列強に植民化されない」ということにつきるでしょう。そして、その目標のため、いかなる道筋を考えるかです。

 さて、この道筋の一つに、「ヨーロッパの進んだ技術をいち早く吸収する」ということがあると思われます。そのためには、外国人と交流しなければなりません。
 が、が、が、「攘夷」なるスローガンのおかげで、外国人との交流はけしからんという風潮があり、開国派といわれる人たちが、天誅の餌食になってしまいました。これがよく考えれば実におかしな構図になっていて、開国派というのは、諸外国に対抗する実力をつけることを考えているわけですから、本質論的に中身は攘夷派と同じです。当時日本に、「ここは一回、ヨーロッパの植民地になろう」なんて考えているバカは存在しないはずで、ちょっと本質を考えれば、開国だろうが、鎖国だろうが、攘夷だろうが、そんな議論はただの派閥争いに過ぎないわけです。
 それは、攘夷を実行した藩に限って、外国の軍艦や鉄砲を買い、留学生を送ったりしているわけですから、その本質論の見損ないがあったことは明かではないでしょうか。
 
 もう一点の道筋を言えば、「江戸幕府に、諸外国への対抗能力はないこと」もあげられるでしょう。そのためには、幕府を解体する、すなわち「倒幕」が必要になってくるわけです。
 その、「倒幕」という本質論に気づいていながら、派閥争い、メンツ争いを繰り返していたのが、薩長両藩ということになりましょうか。そして、本質論を諭したのが、坂本竜馬であることは言うまでもありません(無駄論的坂本竜馬)。
 
 しかしながら、坂本竜馬のすごいところは、本質論の上にもう一つの矛盾した本質論に気づいており、その矛盾を見事に両方成し遂げてしまったところにあります。
 もう一つの矛盾、それは、倒幕は必要だが、国内戦争になれば諸外国につけ込まれる可能性があるということです。ご存じの通り、この矛盾に、「大政奉還」という大どんでん返しを演出し武力無しの倒幕に成功してしまうのですから、武力倒幕一辺倒の西郷あたりとは、格が違ったと感じてしまいます。
 そして、そんな本質論には気づくことなく、佐幕派、倒幕派、武力倒幕派など、派閥争いをしてきた連中の大きな渦の中に、坂本竜馬は消えていったということになりましょうか・・・。

 久しぶりに、意味不明系のネタを書いてしまいました。次回は、今回と同じように、過去記事をなぞりながら、もう少し時代を進めてみましょうか。

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2008/05/26

本質論と派閥争い

 世の中、本質的な議論を装った、派閥争いが横行しています。派閥争いというとちょっと意味が狭いかもしれませんが、一方的な意見の言いっぱなしとでも言いましょうか。表しか見ない、あるいは裏しか見ないとでも言いましょうか。まあ、人間とは所詮そんな生物かもしれないのですが・・・。

 例えばですが・・・、小泉純一郎という人物がいます。さて、彼をどう評価するかですが。
 評価する方は、自民党をぶっ壊した、郵政民営化を成し遂げた、等をあげるのでしょうか。評価しない方は、格差社会を作った、選挙を劇場化した、等をあげるでしょうか。

 私が言いたいのは、この、「評価する方」「評価しない方」というふうに分けてしまうことに問題があるということです。まあ、それを冒頭、「派閥争い」と表したわけですが。
 私個人の意見を言えば、小泉純一郎の人物評は、支持組織(郵政しかり、道路しかり)に大なたを振るった希代の政治家であり、できればさらに任期をのばして、官僚機構にも風穴を開けてほしかったと思っています。正直、私の人生の中で出会った最高の政治家かもしれません。
 が、が、が、イデオロギー的な面は、全く評価していません。ただの左に曲がれないハンドルの持ち主としか言いようがありません。このあたりは全く相容れないところです。

 ですから、政治家としての行動を評価しているからといって、イデオロギー的なことまで黙認はできませんし、イデオロギー的なことが合わないからといって、政治的な面の全てが間違っていたなんて評価はできないわけです。しかし、おうおうにして、「評価派」と「批判派」に分かれて、全評価か、総批判の一辺倒になりますから、それはまさに「派閥」の討論ではありませんか。

 例えば、悪名高き、後期高齢者医療制度。まあ、この制度に問題がないとは言いませんが、これを批判する側の意見を聞いていると、ただの「批判派」による全否定のみです。まあ、全否定するのは結構なのですが、否定するからには、本質論を覆い隠すことは許されません。本質論、すなわち、「老人に医療費を支払わせるわせるとはけしからん!」と言うのであれば、どなたが代わりにお支払いするのか、はっきりさせるべきです。

 実際は、派閥争いの方が大変で、本質論を見失ってしまうこともあります。派閥争いはなくとも、本質論を見抜けないこともあります。本質論を見抜けないから、派閥争いに終始したり、無駄なことを繰り返すこともあります。人間、ふっと我に返ると、本質論を見失っている自分に気がつくこともあります。
 今後も、本質論と派閥争い、気づいたことを書いていきます。

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2008/05/04

神頼みと宗教観(3)

 それで、続きの「非科学的」なお話。
 書きながら、私は基本的に科学者の範疇に入る「医師なのか」ということを自問自答しております。おっと、科学的思考のできない、やぶ医者だということを今更ながら思い出しました・・・。

 妻の病気に関して、まるでそれを予言するかのようなことがいくつかあったわけですが(前回)、その他にも、それほど連絡を取っていなかったような妻の友達から突然電話が入るなど、なんかいろいろと不思議なことはありました。

 私にとっての究極の「非科学的」な話といえば、実家にかえって、父の遺影に向き合ったときのことです。遺影ですから、父の晴れ姿の時の、何とも言えないいい表情をしている写真が使われているわけですが、妻の無事を祈ろうとしたとき、何となくその写真の表情が変わったように感じられたのです。それはもう優しい表情で私に語りかけてきました。といって、なにか聞こえてきたわけでもなく、実際に写真の口が動いたわけでもないのですが、「心配するな、大丈夫だ」というメッセージを間違いなく感じ取りました。

 まあ、究極の非科学ではありますが、妻にはそのまま報告しました。当たり前の話ですが、父からのメッセージを受け取ったからと言って、妻の病気に関して私が全く安心しきってしまったかと言えば、もちろんそんなことはありません。実際手術が終わり、病理所見の報告が終わってやっと安心したのは当然のことです。しかし、重くどんよりとした気持ちの中で、少し晴れ間が差したような気分になり、大変気持ちが楽になったことを思い出します。

 ということで、やっとスピリチュアル番組の非科学性を理由とした批判の話になるわけですが、前回も書いたように、上記のような私の気持ちを、わざわざ「非科学的だ」と批判されることは、本当に大きなお世話です。
 「あんた、そんなこと本気で思っていると、霊感商法にひっかかっちゃうよ」と言われるかもしれません。しかし、だとすると、ひっかからないようにするためには、父が死んだら、もう霊とか千の風にもならず、存在しないのだから、墓参りも不要、仏壇も不要、そもそも先祖を敬う心があるから、霊感商法にひっかかるという理屈になってしまいます。しかし、一般の日本人の宗教観は当然ながらそこまでドライではありません。

 日本人にとって最大の問題は、あの程度のスピリチュアル番組で、霊感商法が成立するような、軟弱な宗教しか世間に存在しないこと、そして、個人個人が、霊感商法を跳ね返すだけの宗教観を持ち合わせていないことでしょう。まさに私もそういう典型的な日本人です。本来、迷いが生じたとき、相談すべき寺の住職は、お酒に高級車、何かといえば寄付のお話しばかりで、全く頼りにもなりません。まさに葬式と法事のためだけの存在です。個人的には、強い信仰心も宗教心もありません。まさに、上記のような非科学的話をかぎつけられれば、霊感商法の餌食になる下地は十分に持ち合わせているといえるでしょう。
 
 しかし、信仰心が少ないとはいえ、先祖の霊は我々を見守ってくれていると漠然と感じていますし、一般的宗教的慣習を、しなくていいとは思いません。その昔、上岡龍太郎が、葬式やお墓は無駄だとして、「私が死んだら、遺骸をゴミ出しに出してくれればいい」なんて冗談を言っていましたが、さすがに法律的に問題がないと仮定しても、私にそこまでできるドライさはありませんね。
 つまり、「非科学的」だとする批判は、日本人の基本的宗教心の批判につながるわけで、理論的におかしいと感じますし、スピリチュアル番組をやめれば霊感商法が無くなるかと言えば、まったく根本的解決にならないことは明らかだと感じるわけです。

 ということで、私が一体、何が言いたいのか、さっぱりわからないあなた、本日から「彰の介教」に入ることをおすすめします。入会金は、一口10万円、何口でもいいのですが、多ければ多いほど、神のご加護が得られると思いますよ・・・・。壺も販売中・・・。

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2008/05/03

神頼みと宗教観(2)

 前回に引き続き、「非科学的」なお話です。私の妻が病気で手術することになったのですが、何となくそれを予言するような、警告するような・・・、と勝手に考えている出来事がいくつかありました。

 一つは、亡くなった父から譲り受けていた、自動車のお話。とある日に、運転席側の窓ガラスを下げたら、上がらなくなってしまう故障に見舞われました。ボタンを何度操作しても何ともいうことをききません。それが夜だったので、とりあえず、その上がらなくなった窓をあげてもらおうと、近くの修理工場でみてもらったのですが、コレがまたびくともしません。結論的には、ベルトが何かに引っかかっているという話になり、正規の工場でみてもらうと言う話になり、その晩は、開いた窓にゴミ袋を覆って雨風を防ぐという、何ともみすぼらしい状態になってしまいました。
 
 ところが、これがまた、翌日、何気なく窓ガラスをあげるボタンを操作すると何事もなかったかのように、ヒューッと窓が上がるではありませんか。昨日は一体何だったのだろう・・・。

 その後、窓を決して下げないようにしていたので何事もなかったのですが、今度は、冷却水減少の警告ランプが頻回につくようになりました。これまた近くの工場で、冷却水を入れてもらったのですが、あっという間にまた警告ランプが点灯しました。さすがに観念して、正規工場に修理を依頼したところ、どこかよくわかりませんが、水漏れしていることが判明しました。正直、故障の連続に、そのまま下取りしてもらって、新車を買おうかなんて話まで出たのですが・・・。

 結局その車を修理してもらい、その車を取りに行ったときのこと、なぜか、「数珠」が座席においてあります。「コレなんですか?」と車屋に聞いても、「もともとこの車の中にあったものではないのですか?」といわれるだけです。明らかに私の知らない数珠なので、不思議に思ったのですが、おそらく、運転席のドアの窓を修理したとき、座席下のもの入れの中にでも入っていて埋もれていた、もともと父の使っていた数珠だったでしょう。
 雰囲気が伝わらないかもしれませんが、父の使っていたと思われる数珠が突然出てくるというのは、それが数珠なだけに、なーんとなく引っかかるものを感じました。
 
 勝手な想像ではありますが、今から思うと、変な車の故障や、突然のこの数珠の出現は、天国の父が、妻の病気を警告していたような、そんな気がしてなりません。

 その後、もう一つ、振り返ってみてもしかしてと思った出来事が、幸福の木の開花です。偶然といえば偶然、考えすぎといえば考えすぎ、しかし、妻の病気が発見されるまさにそのとき、10年に一度とも言われる花が咲いたのです。何となく警告、何となくちゃんと治療すれば大丈夫だよということを、木自身が全エネルギーを使って教えてくれていたのではないのかと、勝手に想像しています。

 なーんて、極めて「非科学的」な想像で、全く根拠のない、上記のようなことを書くと、霊感商法の手助けになるからいかんとしかられるのでしょうか。
 「おいおい、ただ車が故障して、木に花が咲いただけだろう」と言われればそれまでの話です。それまでですが、上記のような想像をするのは、私の基本的な宗教心に基づく、私自身の勝手な想像であり、もし「非科学的だ」と、わざわざ非難されるようなら、正直大きなお世話だと言いたくなります。

 まあ、こういう私の勝手な話題を書くのもご迷惑かと思いますが、もう少し引っ張らせてもらいます。もう一点、私の感じた、「非科学的」事実を書かせていただき、やっと結論にいけるかどうか・・・。

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2008/05/01

神頼みと宗教観

 昨今、エハラー等の出演に代表されるいわゆるスピリチュアル番組が人気でしたが(今も人気あるかも)、番組そのものの行き過ぎた演出、非科学性を批判されることがありました。さらには、ああいう番組そのものが、霊感商法などに利用されることもあり、放送すべきでないという意見もあったようです。私も、行き過ぎや決めつけはいけないとは思っていますが、「非科学的」ということを理由にした批判には、もの申したい年頃です(笑)。中年・・。おじさん・・・。

 またしても、個人情報に触れますが、昨年後半に、私は父を亡くしたのですが(前回記事)、さらに今年に入って私の身辺に激震が走りました。前々回記事に書きかけたのですが、実は妻の体にガンが見つかり、手術することになったのです。一応、医師であるところの私は、へいぜいを装っていたつもりでしたが、周りから診れば、目がつり上がってしまっていたかもしれません。

 家族を含めた周囲の人間が浮き足立ってしまっていたのですから、当の本人の心境は推測すらできません。が、とにかく、彼女の口から出てきたのは、私の実家に帰り、墓参りをして、さらに父の遺影にも手を合わせたいということでした。墓参りすることや、仏壇に手を合わせることは、常識的に言って別に悪いことではありません。私も協力して、墓掃除をし、妻と一緒に手術の成功をご先祖様に祈りました。
 
 さらに、彼女は、家族からもらったガン封じのお守りと、私が近くの神社で買い求めた、身代わり人形のお守りを、肌身離さず、手術前も手術後も、持っていました。今でも大事にしています。決して特別な信仰心があったとは思われない、普通の日本人である私の妻ですが、極限とも思われる状況の中で、神頼みして自分に降りかかった災難と闘っていこうとするその気持ちは、ごくごく当たり前のものだと思うのです。

 まあ、こんな話とごちゃごちゃにするのは、ある意味極めて不謹慎ではあるのですが、冒頭に書いた、「非科学的」な事に対する批判こそ、行き過ぎるのは問題があると考えるわけです。「先祖の霊にお祈りする」という、極めて普通の行動も、考えようによっては、極めて「非科学的」なことです。ましてや、神社のお守りというものが、科学的に病気を治す効力があると証明されているものでないことは明らかです。

 ご批判覚悟で言うならば、正直、霊感商法で売られる壺も、神社のお守りも、「科学」的見知から言えば同じたぐいのものでしょう。「江原さんは何も見えていないから騙されるな」と批判するのであれば、「先祖の霊なんていないのだから、先祖に手を合わせるなんてナンセンスだ」としっかり訴えるべきです。一般の、普通の日本人が持ち合わせる宗教心の上に、霊感商法のあくどい連中の口説き文句があり、江原さんの透視の言葉があるのですから、「非科学」を強調した批判は、イコール、日本人の普通の宗教心に対する批判そのものだと考えるのです。

 で、結論が「霊感商法の正当化」でも、「江原さんはちゃんと見えている」ということでもないことだけは強調しておきます。結論にいく前に、いろいろと非科学的な出来事を次回にも書かせていただき、非科学批判に反論していきたいと思っています。ちなみに、私の妻の手術は順調に終わりました。極めて非科学的なことではありますが、「天国の父が助けてくれた」と、私は本気で信じています。

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2008/04/29

アテにならない病院ランキング

 私は、職業柄やぶ医者をやっている関係で、書店に並んでいる「病院ランキング」や「名医紹介」のたぐいの書籍を見つけると、一通り目を通す癖がついています。むろん、若輩の私がそんな書籍で紹介されるわけもないわけですが、特に自分が専門としている分野のランキングや、勤めている病院、出身の大学病院の評価などは気になるものです。しかし、この病院ランキングほどアテにならないものも無いのです。

 あまり個人情報的なことは、書くべきでないと思いつつ、書いてしましますが、昨年後半から、私の身辺にいろいろなことが起きたということを、前回の幸福の木の花で書きました。その最大の出来事が、父の死でした。私の父は、肝臓が悪く、肝硬変、肝臓癌となり、体力が衰えたとが原因となり、別の病気で亡くなったのですが、この肝臓の治療を、まあ、その地方ではかなり肝ガンの症例をこなしている先生に診てもらっていたのです。

 しかし、その別の病気にかかり、別の医療機関で治療することになったとき、改めて肝臓の評価をしてもらったのですが、その父のかかりつけの先生が「肝臓癌はよく診ていてくれたが、肝臓そのものはあまり診てくれていなかった」ということに気づきました。肝臓癌の兆候はないか、再発していないかということは非常に慎重に検査をしてくれていましたが、肝臓そのものの機能の衰えに対する評価が全く甘く、ほぼ無治療だったのです。

 我々医者の世界は、専門分化が進み、よく言えばスペシャリストといえますが、悪く言えば専門バカがたくさん存在しています。そんな状況で、「お腹は診ていたが、肺は診ていなかった」とか、「心臓は診ていたが、糖尿病は診ていなかった」といった、科を越えた専門バカ的問題が残念ながら存在するわけですが(私を含めて)、肝臓の専門家の中で、肝臓癌だけ診ていて、肝臓の評価が甘いなんて普通あり得ない話です。炊き込みご飯は上手に炊けるが、基本の白ご飯が炊けないみたいな話で、後からびっくりしてしまったという話です。

 しかし、先日、とある病院ランキング本をみていると、そんな先生がしっかり載っていたりするわけです。まあ、その道で、数はこなし、論文を書いて、評価されるべき先生であるということは間違いありませんが・・・。まあ、極めて複雑な心境です。というか、ランキング本そのものの性質が、そういった評価しかできないわけですから、やむを得ないと言えましょうか。

 その他にも、(半分内部告発になりますが)、全く臨床のできない先生が、ランキングに入っていたこともあります。その本は、患者さんがランキングに参加するといった内容のものでしたが、要するに、外来での患者さんに対する対応は非常にいいのでしょう。その点は否定しませんが、うむむむ・・・。これ以上お話しできません・・・。

 私がこの世界で出会った、もっとも腹が立つ医者も、とあるランキングに載っていました(怒)。その医者の性格の悪さといったら無く、その医師の周りで働く若手医師が2人も3人も、去っていきましたし、私も被害を被ったので、さっさとその病院を出て行ったのですが、そんな医師も患者さんにとってはいい人なのでしょうか。まあ、これは単なる私の個人的恨みの話ですが(笑)、そんなことはもちろんランキングには影響しないわけですから、怒ってもしょうがないか・・・。

 まあ、ランキング本が、一つの指標、目安として使われるならいいとは思いますが、過信や絶対視は全くできないと言う話です。どちらかといえば、「医師がこっそり教える、あの医者にはかかるな!ランキング」の方が、えげつない医師の裏側が垣間見えて、おもしろいと思いますが・・・。

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2008/04/28

幸福の木の花

 ご無沙汰をしております。彰の介です。
 一応、仕事が一段落したので、ぼちぼち再開・・・といきますか。
 広大なネットの世界の片隅で、独りごちるページ「彰の介の証言」、今年度も、いろいろとごちていこうと思います。

 といいつつ、再開最初は、ごちることなく美しい花の写真でお楽しみください。少し前になるのですが、十年に一度くらいしか咲かないとも言われる、幸福の木に花が咲きました。Dsc01540


 幸福の木に花が咲いたのですから、なにかいいことがあるかなあ?と期待していたのですが、残念ながら、我が家に一つの不幸が訪れるとは思ってもいませんでした。いや、実は不幸が、何とか不幸中の幸いとなりましたので、むしろいいことだったのかもしれませんが。また、おいおい、昨年後半から私の身に降りかかったいろいろな出来事を語っていこうと思います。個人情報無視で・・・。

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2008/03/27

人生の岐路

 うむむ、人生36年、もしかして、今私は人生の岐路に立たされている・・・らしい・・・。
 大事な仕事をやり遂げなければならないにもかかわらず、なぜか気合いが入らず・・・・、いや、現実逃避ばかり・・・。
 いかん、いかん、この峠をこえないと、いや、越えさえすれば人生が開けるのでは・・・。

 何のことはありません、人生に関わる大仕事に取り組むため、しばらくこのブログの更新をお休みするというお知らせです。最近、そうでなくても私自身にいろいろな事件があり、更新は渋っておりました。とりあえず一ヶ月ほどお休みします。何かしらの成果があれば、個人情報の範囲外でお知らせします。

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2008/02/29

ロス疑惑

 「ロス疑惑」、懐かしいですね(世代がばれる・・・)。
 今回、三浦和義がロス市警に逮捕されて大ニュースになっているわけですが、どうもこの「ロス疑惑」には昔から不思議に思っていることがあります。

 今回の逮捕について、日本、アメリカの違いはあるにしても、「日本で無罪となった人間を逮捕するか?」というアメリカへの非難の声があります。そのこと自体の問題点は置いておいて、一般人の私から言わせると、完全な「白」での無罪ならともかくも、いわゆる「灰色」というか「疑わしきは罰せず」というか、そういう状況での無罪であるだけに、逮捕されてもあまり同情できない面がどうしてもあります。

 「灰色だ、疑わしきは罰せず、とか言ってるけど、無罪は無罪でしょうが!!」というご批判があるかもしれません。確かに、無罪である以上、蒸し返して「灰色だ、クロだ」というのは問題があるでしょう。しかし、このロス疑惑に限っていえば、「無罪=白」とは言えず、残念ながら「灰色」と言わざるを得ません。なにしろ、「一美さん殴打事件」で彼は有罪になって、服役していたのですから。

 1981年8月31日に起きた「殴打事件」。愛人に妻を殺そうとさせた殺人未遂で、彼は懲役6年の実刑判決が出ています。そして「疑惑の銃弾」事件が起きたのが、1981年11月18日。いくら「一美、一美」と何度も叫んだと言われても、残念ながら3ヶ月前には殺そうとしている人ですから、この灰色具合はいかんともしがたいものがあります。

 「殴打事件がいくら有罪だといっても、銃撃事件は無罪なのだから、やっぱり灰色じゃなくて白でしょ!!」とまたしてもしかられそうですが、何も私は銃撃事件の判決に問題があると言っているわけではありません。無罪になったにも関わらず、「灰色だ」と言うことが問題であるのと同様、殴打事件で「有罪」となっている人間を、罪のない人間のように扱うのには無理があると言っているのです。銃撃事件の無罪は、殴打事件の冤罪を意味しません。銃撃事件の「無罪」を強調するのであれば、当然殴打事件の「有罪」も強調されなければならないと思うのです。

 ロス疑惑の不思議さ、それは、彼が無罪を勝ち取った瞬間、「有罪」の部分が社会から忘れ去られたことでしょうか。

 まあ、戦前の「疑わしきは罰する」が決して復活してもらっては困るわけですが、社会が彼に許した寛容というのも問題ではなかったのかなあと思った次第です。むろん、そのことと、銃撃事件の無罪、今回のアメリカでの裁判の行方とは、関係のない次元の話ですが・・・。

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2008/01/09

木陰の警察に意味はあるのか?

 朝、私の通勤途中(私は歩き通勤)の信号のある、まあまあ大きな道路の交差点を過ぎたあたりの木陰に、警察の皆様が隠れています(笑)。おそらくシートベルト着用の有無などの取締りをするために、交差点からは見えにくい木陰に隠れていると思われるのですが、毎朝その様子を見るたびに、意味無いなあと感じています。

 私が今住んでいるところはちょっとした田舎で、私の言う道路の交差点に関して言えば、北に抜ける道が、交差点を過ぎたところで曲がりながら細くなります。この曲がっているところがミソで、左手にちょうど木が何本か生えているために、ちょっとした死角になっているのです。ここに交番があるのですが、交差点からは50m程度にもかかわらず、この交番は全く見えません。そして、ここに、くもの巣を張るように警察が目を光らせているわけです。

 冒頭にも書いたように、私はこの「隠れて取り締まる」ということに何の意味があるのか、全く理解できません。実はこの交差点、90°に交わっておらず、さらに南東の角が小高い岡の端に当たる関係で、非常に見通しが悪く、自動車が歩行者無視(あるいは気付かず)で右折、左折することがよくあります。また、正直言うと、田舎にありがちな信号無視の類も少なからずあるので、歩行者である私は、場合によって命がけの道路横断になるのです(やや大げさですが・・・)。
 
 それを考えると、もし、警察の取り締まりの理由が、「交通事故の予防」にあるとしたら、当然、この交差点に立って交通整理をしてもらいたいのです。交差点に警察が立ったからといって、シートベルトの取締りができないわけではありません。交差点に立つ警察を見て、あわててシートベルトをしたり、携帯電話の通話をやめるドライバーもいるのでしょうが、それはそれで、十分抑止効果が出ているわけですから、十分目的にかなっています。ついでに我々歩行者も安全に道が渡れるので、その効果たるや木陰に隠れる取締りの何十倍にもなるでしょう。

 飲酒運転の取り締まりも、抜き打ち的に行う位なら、居酒屋等の飲食店の駐車場の前で、「お酒飲んでいませんよね?」と声かけしつつ、啓蒙した方がいいのではないかと思いますが、そういうことはあまり行われていませんね。本当か嘘か知りませんが、俗に、「警察には罰金のノルマがある」と揶揄され、その取締りに意地の悪さを感じることが多々ありますが、真の目的が何なのかをはっきりさせ、その目的に沿った方法を取ってもらいたいものです。
 おっと、真の目的が「交通事故の予防」ではなく、「罰金徴収」だから、木陰に隠れるのか・・・・、ここまで書いてやっと気付いた・・・(笑)。

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2008/01/04

高齢者は「お餅禁止」を

 新年明けましておめでとうございます。
 本年もやぶ医者の屁理屈、遠吠え、嫌味、わがまま、しょうも無い話など、要するにどうでもいい記事にお付き合いください。

 ところで、正月(元日)を久しぶりに(約10年ぶり)実家で過ごし、雑煮を食べた私が、新年早々こういう話題もなんなのですが、今年もまたこんな記事が新年の風物詩かのように載っています( <餅の事故>のどに詰まらせ都内などで5人死亡)。

東京都内などで1日から2日にかけて、お年寄りらが餅をのどに詰まらせる事故が相次いだ。都内では59~92歳の男女計13人が病院に運ばれ、2人が死亡した。 東京消防庁は「お茶や汁物と一緒に食べたり、小さく切って食べるようにしてほしい」と注意を呼びかけている。
 新年の病院の当直をやっていると、一人や二人は「もち誤飲」の患者が運ばれるもので、全国で調べたら、一体何件の事故があるのか見当もつきません。

 「餅が食べられないくらいなら死んだ方がいい」と言われるかもしれませんが、正直、この誤飲の事故の多さを考えると、高齢者のお餅は正直禁止してもいいくらいではないかと感じているのは私だけでしょうか。一般の方まではともかく、脳梗塞などをわずらい飲み込みの悪い方、障害などがあって施設におられる方などは、考慮してもいいのではないかと感じています。特に老人保健施設などでは、スタッフの数と、入所している方の数に開きがあるわけですから、目が届かない事態が起きることも多いと思われます。それを考えると、せめて、老健などの施設では、禁止すべきと考えますが・・・。

 まあ、正月ぐらいは、正月らしくというのもわかるのですが、餅の誤飲は最初に書いたように、新年の風物詩ではありません。小さく切って食べろというのが、根本的な解決策とは、到底思えません。

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2007/12/30

新・救急外来の裏側

 私は職業柄やぶ医者をやっていますが、過去に救急外来について記事にしたことがあります。特に、救急車などの患者受け入れに関して、その問題点について、救急外来の裏側(2)で気合を入れて語らせていただきました。

 しかし、昨今の関西地方に多い、救急車の受け入れ拒否について、再度意見を述べさせてください。なぜ、このような受け入れ拒否が多いのか、その理由を私なりに考え書かせていただきます。ちなみに、報道によれば、医師不足の影響などという結論にしているところもありますが、はっきりいって、全然関係ないと思います。
 
 30病院に拒まれ死亡 大阪の89歳 到着まで2時間、こんなニュースがテレビ、新聞で報道されました。しかも、こんなことが大都市圏の大阪で起こっているのです。

大阪府富田林市で、下痢や嘔吐(おうと)など体調不良を訴えて救急搬送された同市内の女性(89)が、府内の計30病院に受け入れを拒否された末、約2時間後に搬送された病院で心肺停止状態となり、翌日夕、死亡していたことがわかった。受け入れを拒んだ病院の多くは「別の患者を処置中で対応できなかった」などと説明している。
こんな、信じられない、嘘のような本当の話が、何度も起こっていることはとんでもないことです。

 はっきり言いますが、30病院どこも忙しくて受け入れられなかったなんてことは、絶対にありえません。処置中など、言い訳に過ぎません。また、ベットが満床?ベットに余裕が無い?といって断った病院も実に怪しいものです。厳密に言えば、満床であることと、救急車の受け入れの問題は別問題です。記事によれば、一度かかったことのある患者しか診ないといって断った病院があるようですが、はっきりいって、こんな病院、普段から、かかりつけの患者でも、処置中などといって断っているに違いありません。

 だから私が、これら断った病院がサボっていると言いたいのかというと、実はそうでもありません。ぜひ、予習までに、読まれていない方は救急外来の裏側(2)を読んでいただきたいのですが、この搬送拒否の最大の問題点は、おそらく、大阪の3次救急(最重症の患者を診る救命救急センター)の体制に問題があると確信しています。その問題点が、別の記事の中に書いてあるのですが、

富田林市消防署長らは、重症患者を治療し、府内に13か所ある救命救急センターに要請しなかったことについて「容体は安定しており、病院を探している間に急変した」と説明した。
 なんと、30病院に断られているのにもかかわらず、府内の救命救急センターには受け入れの有無を問い合わせていなかったのです。

 2時間近くも病院を探しているのに、救命救急センターに問い合わせすらしなかったのはなぜか?、その答えは、記事にあるように、もともとこの患者の病態が安定していたため、救命センターへ運ぶべき患者ではないと判断したからなのでしょうが、その意味するところは全く逆で、「大阪の救命救急センターが、安定している患者の搬送を拒否している」実態を浮き彫りにしているのではないかと考えます。私はこの救急隊の対応が、どうしても理解できないのですが、やっぱり問い合わせすらしなかったのは、明らかにおかしいと言わざるを得ません。絶対断られるという確信がないと、問い合わせすらしないということを説明できないと思うのです。つまり、救命救急センターが、普段から「その患者は3次の病態ではないから2次病院へ搬送してくれ」と相当に拒否されているからこそ、問い合わせすらしなかったのではないかと考えているわけです。

 私は、2つの救命救急センター(もちろん3次救急)併設病院に勤務歴がありますが、両病院とも、一切の「患者選択(=患者の選り好み)」はしていません。救急隊から連絡があれば、原則全ての患者受け入れです。そうするとどうなるかと言えば、残念ながら3次救急でありながら、1次救急の極めて軽症の患者から、心肺停止の真の3次救急まで、全ての患者が運ばれて来ることになるのです。近隣の病院全てに断られ、わざわざ1時間以上かけて、一次二次の患者が救急車で運ばれてくるのことも、日常茶飯事に経験しています。それを考えると、この大阪の現実が、全く理解できないのがおわかりいただけるでしょうか。

 3次救急病院が3次救急の患者を担当し、2次救急病院が2次救急の患者を担当するというのは、はっきり言って机上の空論、全くの理想論に過ぎません。なぜなら、見た目の安定度と、真の重症度は、診察して、検査をしない限りわからないからです。上記89歳のおばあさんは、何次救急の患者だったのでしょうか。結果からいけば、明らかに3次救急の患者です。お隣の奈良県で起こった、妊婦たらい回しにおいて、奈良の救急救命センターは、2次病院へ搬送してくれと、自院への搬送を断っていますが、その後この妊婦が死産した結果を考えれば、この患者は本当に2次救急の患者だったといえるのでしょうか。
 そう考えると、大阪の救命救急センターの「患者選択」の実態をはっきりさせることこそ、問題の本質だと感じているのです。つまり、3次病院に受け入れ拒否がなけ