2014/07/31

人間相対性理論(医学と統計学の曖昧)

 医学は科学であるということに、疑いの余地はありません。そこには微塵の曖昧さもありません。こんな当たり前のことを疑っている人間、ましてや、医師の中にそんな人間がいようはずはありません。私以外・・・。おっと、私は医師ではなく、やぶ医者でした・・・。

 前回前々回の当シリーズを読んでいただければわかるかと思いますが、私は、当然のことながら、医学は科学であり、科学としての真理の追究をやめてしまったら、当然それは問題と考えています。しかし、現代の医学が、絶対的な答えを提供できているかといわれれば、そこに疑問を持っているわけであり、目の前の事象、事象で対応を変えていかないと、よい結果は生まれない場合があると考えているのです。

 医学の科学性は、おおざっぱに言って2つあります。一つは、基礎医学であり、もう一つが臨床医学です。基礎医学は、生命の正常な仕組みを解き明かし、病にいたる異常を説明し、病態を整理するための学問で、そこに曖昧さを持ち込むことは普通ありません。敢えて言えば、あまりに生命の仕組みが複雑すぎるため、まだまだ解明できていないことが非常に多いことに由来する曖昧さはあるかもしれませんが、だからといって「さじ投げた!」的な結論にはなりません。よくわからない場合は、「原因不明」とされますが、その意味は「原因はあるはずだが、まだはっきりしていない」ということであり、現在進行形で研究中であるという宣言でもあります。

 一方臨床医学とは、基礎医学を基にして、診断治療を行う実践編というとわかりやすいでしょうか。繰り返しにはなりますが、こちらも基本的に曖昧さは持ち込まれません。しかし、人間相対性理論(医学と料理人の曖昧)で書いたとおり、個々、個人の体はそれぞれに背景が違い、それぞれに違ったブラックボックスでもあるため、特に治療に関して、一律に行うことがいいことかどうかわかりません。ある意味、教科書通りではない曖昧さが生じるのは当然だと考えています。誰がそう考えているかと言えば、私が考えているのであり、全ての医師の共通認識かどうかはよくわかりません。おっと、私は医師ではなく、やぶ医者でした・・・(くどい?)。

 そんな臨床医学における、主に治療分野において、その科学性を担保しているのが、統計学という学問です。例えば、Aという薬と、Bという薬を、ある病気の患者100人ずつに投与します。Aという薬で50%に、Bという薬で70%の患者にある一定の効果があったとすれば、この50と70という数字の差に意味があるのかどうかを計算し、意味があると判定されれば、Bという薬がAという薬よりも効果が高いという科学的な証拠が得られたと考えるわけです。

 こういった統計学的な科学的な証拠がでてくると、臨床の現場が一変することがあります。当然のことながら、その病気の患者が現れた場合、普通医師は、Aという薬ではなく、Bという薬を使います。何となくAの方がいいような気がするとか、Aの方が好きだからとかいう、医師の曖昧な裁量が排除され、絶対的な科学的証拠があがった以上、Bを使うのが科学的に合理的な判断とされるわけです。場合によって、このような証拠を基に、ガイドラインと呼ばれる治療法が学会から提唱され、Bが高い推奨度をもって、第一選択薬に選ばれるわけです(上記の例はあくまで適当な例であり、多分不適切ですが)。

 そんな状況下で、私が「かん」によって、何となく、Aという薬の方がいいような気がして、ある患者にAという薬を使っていたとすると、若手の先生から「Aではなく、Bの方が効果が高いというエビデンス(証拠)が出ています。そもそもAという薬の効果については、エビデンスはありませんよね。なぜAなのですか?」と叱られることになります。このあたり、上司ではなく、若手の先生に叱られるのが常というもので、本当に怖くてしょうがありません。怖くてしょうがないのですが、一応そこには経験とかんに基づく曖昧きわまる屁理屈というものが存在することを説明しましょう。

 上記のAとBの薬の話は、非常にいい加減な作り話ですが、わかりやすいので、この例を使って屁理屈を垂れてみます。まず、だまされてはいけませんが、AもBもある病気に一定以上の効果がある患者さんが、それぞれ50、70%ですから、Aが効かない薬というわけではありません。敢えて、Bという薬がAという薬よりも「効果が高い」という証拠が得られたと表現しましたが、一定以上の効果という意味では、変わらないわけです。

 診断についても重要です。確実に診断ができる分野もありますが、診断に確信が持てないことも残念ながらよくあります。「この病気だろうとは思うけど、血液検査のこの項目が、この病気の典型例とは言えない、本当にこの病気と診断していいのだろうか・・・」なんて思うことは日常茶飯事です。しかしその病気っぽい・・・となれば、何らかの治療をしなければなりませんが、この時「Aという薬なら広く別の病気でも効果があるから、まずはAで治療しよう、診断がはっきりするか、或は、このAの効果が出てこなければBに切り替えよう」と言う考え方は、許容されないのでしょうか。

 或は、「患者さんの年齢、合併症を考えると、Bという薬のこの副作用が気になるなあ、ここは無難にAで治療しよう」なんて考えることもあります。これも許容されないのでしょうか。

 このあたり、全く逆のことも真であり、私の意見が正しいというわけではありません。診断が曖昧なのは、“やぶ”だからとも言えますし、副作用が出てもいないのに心配するのはおかしい、早期に効果のある薬を使わなければいけないのに、そのチャンスを逃している・・・などと、これまたお叱りを受けるかもしれません。

 まあ、そうなんですけどね、世の中、そんなに絶対の「診断」ができ、その時わかっている最良の(証拠のある)治療法が絶対的なのかどうかといわれると、やっぱり私は疑問ですね。70%は賛同しますが、30%が疑問です。何が疑問なのかと言えば、統計学は、確率であり、平均であるということです。目の前の患者さんが、平均的なその病気の患者さんで、平均的な薬の効果が期待できるという補償は、あくまで確率的なものだということです。典型的な患者にはぴたっと来るのでしょうが、ちょっと例外があったり、複雑な患者であれば、絶対とは言えないというのが私の考え方なのです。

 そう、目の前の患者さんが、例外的なのか、それとも平均的なのか、それを客観的データだけでなく、様々な経験から(別名「かん」)、証拠にとらわれずに治療法を選んだり、何度か診察することで、治療法を調節しようと考えているのです。まさに曖昧の極みであり、マニュアル化できるものではありません。屁理屈屋の思考過程に絶対的信念があるとしたら、それは、「絶対なんて絶対にない」ということのみかもしれません。

 しかし、何度も書きますが、現代医学において、私のような考え方は相当に邪道であって、おおっぴろげに言うことは許さない雰囲気があります。医学も、曖昧を許さず、一律の診断や治療が絶対化されつつあるのです。「だからそれは、NHKの今日の料理のレシピと同じだと何度も言っているのに・・・」、とは言えませんので、小さな声で、こうしてネットの片隅で、独りごちさせていただいているわけです。

 とは言え、皆様におかれましては、決して私の口車に乗らず、最良の医療をお求めになりますようお願いいたします。

(上記私の意見は、例えば、診断にぶれようもなく、命に直結するような、癌の治療などには基本的に当てはまらない話です。基本的に同業者向けの愚痴であり、メーカーや権威に対する意見とお考え下さい。最後に書きましたように、患者として医療を受けられる場合は、医師の提供する統計学的データを素直に聞いていただき、自らの治療を判断していただきますことを願っております。ここまで読んでもらって、申し訳ありません。)

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2014/07/24

人間相対性理論(医学と町工場と職人の曖昧)

 前回(人間相対性理論(医学と料理人の曖昧))、絶対的で適切な答えがあるはずだ・・・として考えられている、今の医学の傾向に、刺客を送られるのではないかということを恐れつつ、ちょっと反旗を翻してみました。説明として料理をあげてみましたが、私の意見に賛同いただけるものなのかどうかはわかりませんが。

 私自身は、医学という科学を、相対的で曖昧な学問と捉えているところがあります。ただ、そういう態度一辺倒でいるのは実に危険なことで、時に冷や汗をかくことがあります。若い先生方に、経験則から医学的な説明をすると、「それは、エビデンス(証拠)のある話なのですか?」等と言われて答えに窮することがあるのです。怖いですね。

 一応、私の感覚では、そのエビデンスとやらが「NHKの今日の料理のレシピ」で、私の経験則が、有名シェフの「さじ加減」というつもりで、えらそうに話しているのですが、なかなか、そういう価値観を持っている医師は少なく、私の独りよがりな考えなのかなあと感じてしまいます。

 そんな私にとって、非常に大好きな言葉が、前回から何度となく使っている言葉である「かん」という言葉です(漢字だと勘ですか?)。この、「かん」という言葉がよく出てくるのが、町工場の名工と呼ばれる方々や、職人さんたちです。よくテレビで、この名工と呼ばれる方々の作業の様子を映していますが、例えば1000分の1ミリだけ金属を削るなんていう神業についてどうやっているのかと聞かれると、「“かん”だね」なんて答えているわけです。極めて私好みの答えです。

 これも、右手の握力を何Kg、左手の角度を何度にして、ちょっとアレして、こっちをコレして、何秒間研磨すれば、何ミリ削れる・・・ということを絶対的なデータとしてマニュアル化出来るのかもしれません・・・、が、もちろんそんな説明はとても無理だから、「“かん”だね」という話になるのでしょう。いわゆる、「体が覚えている」という話ですね。「習うより慣れろ」という言葉もありますが、仮にマニュアル化出来たとして、それをいくら読み込んでも、体が覚えていない人間がまねできない作業であるということは言うまでもありません。

 また、1000分の1ミリをわざわざ削る話と同じですが、その手間を惜しまない作業ぶりには本当に感嘆します。最後の一手間で、ぴたりと刃先を合わせたり、寸分狂わず組み立てたりする様は、感動以外の何ものでもありません。その一手間が無くても製品としては使えると思いますが、「自分にしか作れない」という職人魂が、それを許さないのでしょう。

 そんな町工場や各種職人さんの超絶的な技術や丁寧さ、アイデアが、最近見直されつつあるわけですが、まさにこれは絶対的なマニュアル化や機械化が出来るような世界ではなく、極めて曖昧な「職人のかん」に支えられた世界です。しかし、おそらく日本が世界に誇るであろう、これらの技術も、グローバル化という経済の流れに、徐々に絶滅への道をたどっていると聞いたことがあります。確かにテレビで映される名工は、どの方も高齢で、後継者がいないという工場も少なくありません。完成度が極めて高く値段が高い物よりも、安くてそこそこのものがよく売れる時代になってしまったということが原因なのでしょうか。大企業が潰れないよう政策をとるのと同様に、中小企業の技術の継承も大事だと思うのですが、そちらの関心は薄いのでしょうか。

 どうしてそんな話をしているかと言えば、そんな町工場の超絶技術ではないにしても、身の回りの「もの」の質が随分落ちているなあと感じざるを得ないからです。
 先日も卓上扇風機(手のひらサイズの小型扇風機)なる商品をとある場所で景品としてゲットしたのですが、とてもではありませんが、使える代物ではありませんでした。確かに今時っぽく、電源はUSBでとる形式で、電池やコンセントにつなぐ必要はありません。パソコンをしながら、涼やかな風が少しでも吹けばいいのかなあとは思ったのですが・・・。

 残念ながら、その扇風機、非常に音がうるさいのです。外箱には静音っぽい表示がしてありましたが、大嘘でした。また全くダメなのが、ファンが回ると、固定できずに動き出してしまうことです。これでは、使いものになりません。さらに致命的なのが・・・、ぜんぜん風を感じられないのです。一体この商品を作った会社というのは、何を作ったのでしょうか。風がこなければ何の意味もありません。大変もったいない話ではありますが、即ゴミ箱行きとなった次第です。

 あと、最近感じているのが、延長式のコンセントのできの悪さです。どこのできが悪いかといえば、プラグを差し込む時にさくっと差し込めないことです。何となく引っかかり感があるのです。昔はそんなことありませんでしたが、皆様はそう感じませんか。その他、切れないはさみ、ふたがしっくり閉まらない入れ物、等々・・・・そんなこんな、質の悪さを感じることは例を挙げればきりがありません。

 まあ、特に卓上扇風機の話は極端すぎますが、身の回りの多くの物が、多少の使い心地よりも値段を下げることに集中し、職人のかんに頼るような非効率な生産は敬遠され、最後の仕上げの一手間をも省く様になってしまったのでしょう。
 もちろんそれは、経済的な理由が大きいのでしょうが、私的には、「かん」とか「職人魂」とかいう曖昧な世界観を排除するという世の中の流れの結果ではないかとも考えているのです。経済の効率化は世の中の必然的な流れであり、曖昧で相対的な「かん」というものを排除し、「職人技」を必要としない、マニュアル化や、スイッチポンで同じ物ができてくる機械化こそが目指すべき「絶対的世界観」であるという風潮が、この日本にも押し寄せてきているのではないかと感じざるを得ないのです。もちろん、これもバランスの問題であるのは言うまでもありませんが。

 再び、この話を医学に置き換えてみると・・・、経験則による「かん」による診断や治療を排除し、エビデンスとやらに基づいて診療を行えば、質の悪い卓上扇風機のような診断や治療が、そこら中で行われる・・・・おっと、またしても口が滑ってしまいました。いやいやそんなことはありません。医学は科学ですから、科学的データたるエビデンスに基づけば、誤るようなことはありません。ということで、刺客が送られないことを祈るばかりです。
もうちょっと続く・・・。

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2014/07/17

人間相対性理論(医学と料理人の曖昧)

 私は職業柄やぶ医者をやっていますが(久しぶりにこの台詞が出た!)、一般に医学というのは、科学であると考えられています。正常な人間の仕組みがあり、病気となる原因が存在し、そして薬や手術で、その原因を除去したり、人間本来の治癒能力を引き出したりするわけで、その思考過程は、曖昧を許さない科学であります。

 と言いたいところなのですが、現実には、理路整然と診断や治療ができるわけではありません。現代の医学の知識ではまだまだわからないことも多いのです。しかも人間の体の仕組みはまだまだブラックボックスであり、例えば薬剤を投与した時、その期待される機序通りに効果が出るかどうかは、実際投与してみないとわかりません。しかも、個々の人間が、それぞれ違ったブラックボックスであるため、効果が出る症例、出ない症例、むしろ副作用が強く出る症例・・・といった具合に、一定の効果が期待できないことも多々あるということになります。

 診断も同じで、所詮病名というのは、人間が医学という学問を仕立てて整理整頓したものに過ぎません。神様が、こういう病気があって、この病気の特徴はこうこうこういうものだと教えてくれたわけではないのです。従って、しっかり「~病」と診断することが出来ない場合や、病気の特徴に例外というものが絶えず存在し、我々を悩ますことになるのです。

 実はそれだけではありません。人間個々に性格の差というものあります。医学的ではない話ではありますが、場合によっては、患者その人の性格をくみ取って治療を選択していかないと、本人の人生への納得を得られないこともあるかもしれません。

 まあ、そんなこんなを考えてみると、「医学は科学であるという探求心を決して忘れてはならないけれども、実臨床となると、教科書や論文に書いてある、理路整然とした病理的作用機序や診断分類法を、「絶対的真理」と考える方が、答えを得にくい場合もあるなあ・・・」というのが漠然とした私の気持ちなのです。
 
 そんな私が大事にしているのが、結局のところ「経験則」ということになりましょうか。医学にふさわしくない言葉ではありますが(偉い先生に見られたら怒られるのだろうなあ・・)、いわゆる経験に基づく「かん」と「さじ加減」ということになります。ただ、この経験則というものは、まさに「曖昧の世界そのもの」だけに、これを強調しすぎると医学が科学からどんどん離れてしまいます。そして、これをよしとしない雰囲気が、現在の医療の世界に相当に強いと感じています。

 私が考えていることは、前回ともつながる?ことですが、料理をつくることを考えればいいでしょうか。例えば、NHKの今日の料理のレシピを参考にすれば、そこそこおいしい料理が作れるのでしょう。塩が小さじ1杯、醤油が大さじ2杯・・・、さらに、強火で10分煮る・・・等と事細かに書いてあるわけですから、その通りやればいいのです。その参考書に、曖昧な表現はありません。(ちょっとあるかもしれないけど無視・・・)

 ただ、それで、この世で一番おいしい料理ができあがるかと言われれば、あくまで、そこそこの料理ができるとしかいいようがないでしょう。曖昧ではないため、一見ぶれがないようですが、それで超絶料理ができるものではないと思います。
 有名シェフであれば、その日届けられた食材の違いや、気温、湿度、あるいは、客の好みを考えた上で、「かん」による塩や醤油の「さじ加減」を行い、最高の料理を作り出すと思われます(あくまで想像・・)。

 では、気温何度、湿度何度、魚がどういう状態の時に、塩加減はどうするのかというマニュアルが存在するのかといえば、当然そんなものは無いと思われます。バリエーションが無限大であり、マニュアル化は普通不可能です。そこで結局のところ、上記のごとく、シェフの経験に基づく「かん」による塩や醤油のさじ加減がされた後、味見をしてさらに調節するという手順でおいしい料理が作られることになると考えられるわけです(あくまで想像・・・)。

 ここで問題にしたいことは、料理の世界で、味見をして後から加減を調節することを”よし”としない雰囲気があるかどうかです。つまり、そこに食材があり、そこに調味料があり、気温や湿度や、調理器具の具合を勘案すれば、料理を作る前に、適切な塩や醤油の量が本来決定されているはずだ・・・、そして、その塩や醤油の量をマニュアル化し徹底すべきで、「かん」による「さじ加減」で調理した上に、味見して調節するなど邪道である!・・・という考えがあるかないかです。

 もちろんそんな話がないのは当然です。皆さんは、おいしく仕上がるはずの塩や醤油の量は本来決定されているはずだから、その量を忠実に守って作られた、おいしいはずの料理がいいですか。それとも、シェフが、最後に味見をしてちょっと調味料を追加し、おいしく仕上げてくれた料理がいいですか。まあ、聞くまでもないことだと思いますが、私なら当然、科学的で絶対的ではなさそうだけど、シェフの「かん」という曖昧さから生まれた後者の方を選びますね。

 ところが、それが、科学たる医学となるとそうはいきません。原因(病因)があるから結果(症状・病態)があるはずですから、症状・病態を突き詰めれば必ず病名が決定することになります。そして病名が決定すれば、必ず適切な治療が決定されることになります。なぜなら、医学とは科学であり、必ず科学的で適切な答えがあるはずだからなのです。

 ということで、医学は現在、どんどんマニュアル化が進んでいます。治療のガイドライン化、根拠のある治療法の提示、それに基づく治療アルゴリズム化など、医者がやぶでも治療が出来るように懇切丁寧に方針が示してあり、私も重宝します・・・。これを料理に当てはめると、NHKの今日の料理を見ながら診療に当たるのと同じなわけですが・・・、おっと、これ以上言うと、権威の先生方から刺客を送られるので、このあたりにしておきます(汗)。でも、別の言い回しで、今後も私の意見は書いていきますけど・・・。

 勘違いされるといけないので、「基本が大事である」ということは、強調しておきます。ただその中で、マニュアル化という科学的根拠に基づく“絶対”と、経験に基づく曖昧という“相対”が、丁度バランスをとることが重要だと考えている今日この頃のやぶ医者の私なのですが、なかなか世の中は微妙な方向に進んでおります・・・。
さらに続く・・・。

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2010/06/10

夕張診療所の受け入れ拒否報道について

 先週末、研究会のため東京に行ったのですが、研究会終了後、あざらしサラダさん、dawnさんと「密会」しました。こうしてばらしていますが、「密会」です。いろいろなお話を聞けて、大いに刺激を受けました。機会がありましたら、多くの違う分野の方々と意見を交わしたいと思っています。

 この場でも少し話題に出たのが、「夕張市立診療所:自殺図った男性の救急受け入れ拒否」という報道の話題です。抜粋したのが(ちょっと改変)下の記事です。

夕張市は、市立診療所が、自殺を図り心肺停止状態になった男性の救急受け入れを断っていたと発表した。市の説明では、首をつり自殺を図った男性(心肺停止状態)を診療所に受け入れ要請したが、外来患者診療のため、対応不可能として断られたという。市立診療所の村上医師は「首つりと聞いて検案(死亡確認)のケースと判断した。緊急性が低く、自分は外来もあったため、他の医療機関で対応してもらいたいと伝えた」と話している。・・・・・

 夕張市立診療所(夕張医療センター)と言えば、財政破綻した夕張市にあって、地域医療のために孤軍奮闘している、同診療所の村上医師の様子が何度もテレビで報道されています。この診療所で救急患者の受け入れ拒否があったという内容の記事ですが、ネットではその報道姿勢に批判が出ているようです。当の村上医師も反論しています(なぜ私は救急患者の受け入れを拒否したのか)。
 私は職業がらやぶ医者をやっている関係で、救急外来の裏側を何度か記事にしていますが(救急外来の裏側救急外来の裏側(2)など)、今回の報道について私なりの意見を書いてみたいと思います。

 まあ、おおよそ、私の意見もネットの論調と同じなのですが、なぜこのような報道がされたのか全く理解できません。なぜならば、「救急車のたらい回し」が以前話題になりましたが、はっきり言って受け入れ拒否というのは、日常茶飯事な話題なわけで、日本中で一体何件の受け入れ拒否があるのかわからないほどです(少なく見積もっても一日数百件規模か?正直いえば、数千件に上る可能性あり)。それは、北海道に限ったとしても、年間数件なんてことは当然あり得ません。そんな状況の中で、どうして夕張診療所のみが、受け入れ拒否を批判されるのか、それが全く理解できないわけです。要するに、他にも山ほど、拒否をして批判されるべき医療機関はあるはずなのにどうして批判されないのでしょうか。

 今回の場合、患者が亡くなったということが問題なのでしょうか?。無論、心肺停止の患者についても、日本中で受け入れ拒否があるのは明らかで、これも夕張診療所に限った問題ではないと思われます。しかも、今回の場合、受け入れ拒否による時間のロスが死因とは全く考えられません。おそらく、記者としては、夕張診療所の不適切な対応で患者が亡くなったとしたいのでしょうが、そう考え、立証することははっきり言って無理でしょう。

 ただ、記者が夕張診療所だけを批判していることは理解できないとしても、「他の多くの病院が受け入れを拒否しているから、夕張診療所の拒否も許される」という理屈は当然通じません。私は、多くの医療機関で受け入れ拒否が日常茶飯事に起きていること自体が問題ではないと思っているわけではないのです。このあたり、受け入れ拒否の実態と裏側については、別の記事で身内批判をしたいと思うのですが(売国奴的な記事・・・)、じゃあ、夕張診療所はそのあたりどうなのかと言えば、今回、その夕張診療所の実態を知って、ちょっと驚いているところです。

 夕張診療所の村上医師の反論にも書いてありますが、この診療所の常勤医はこの村上医師のみであり、それでいて、19床の入院施設を持ち、40床の老健も併設というのですから、これだけでも相当に大変な勤務だと想像されます。さらに在宅医療を行いながら、特老やグループホームとも提携して対応しているというのですからびっくりです。実際、何人の非常勤医師がいるのかわかりませんので一概には言えませんが、一人の常勤医でこの規模の仕事をこなし、さらに救急車を普段は受け入れているというのですから、私はもう脱帽の一言で、とてもまねできません。村上医師には過労死しないように気をつけていただかねば・・・。

 この村上医師のハードワークだけでも、救急車の受け入れは難しいということが簡単に想像できるのですが、さらに、この医療機関があくまで診療所であり(定義上19床以下は病院ではなく診療所)、皆様が普段かかっている、お近くの開業医さんと立場は全く変わらないということを考えなければなりません。普通、開業医さんのところへ救急車をどんどん運ぶということはあり得ません。ましてや、心肺停止患者おやです。このあたり、村上医師のいわれている、救急指定の病院ではないということだけでも、十分搬送される理由はないということになると思います。そう考えると、やはり、今回の報道がいきすぎであるということは明らかではないでしょうか。

 また、この件で、市長が「このようなことが二度と無いように・・・」的な謝罪を行ったようですが、これもおそらく村上医師ははらわた煮えくりかえる思いだと感じます。救急車をみろというのであれば、常勤医師を連れてこいといいたいでしょう。何もしてくれないくせにという気持ちがイヤというほど伝わってきます。

 まあ、あえて村上医師の反論に物申すとするならば、鬱病の対策をいくら行政がしたとしても、自殺者がゼロになることはおそらく無いわけで、今回の自殺者が出たのは行政のせいかのような言い方はどうかと思います(ただ、行政は確かに何もやっていないようですが・・・)。そのせいかどうか、ネットを見ていると、一部、自殺者だから診なくていいと勘違いしているような意見もありますし、診療所の状況が上記のような状況の上に、「自殺者を」診る必要はあるのか・・という医師の本音が見え隠れするところは、気になるといえば気になりますが。

 ということで、私の結論は、「この診療所に受け入れ拒否の批判をするのは、酷すぎる」ということになりましょうか。私自身、受け入れ拒否自体がいいことだとは全く思っていませんので、「酷すぎる」という表現としましたが、上記考えていただければ、普段受け入れているだけでもすごい話で、今話題の夕張診療所だから叩けばニュースになるというだけの記事であることは明らかです。
 私の立場からは、日常茶飯事的に起きている受け入れるべき病院の受け入れ拒否について、次回?そのうち?チクリたいと考えています。

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2009/05/28

マスコミによる「第1号叩き」の罪

 なんとなく、今回のインフルエンザ騒動は、マスコミの報道を見る限り収束向かっているようです。というか、マスコミの報道が下火になってきたから、インフルエンザが収束してきているともいえますが・・・。

 ところで、今回の騒動で、マスコミの患者叩き?というか「第1号叩き」は度を越えていたと思います。報道することはともかく、叩く必要はありません。もちろん、あおりも必要ありません(「あおる」?「過対策」?どっちなの?インフル報道)。

 そんな中、我々・・と言うと語弊があるので、医療関係者たる私が考えたことと言えば、「地域における第1号患者が来ませんように・・」という切なる思いです。まだ私の場合、病院の勤務医ですからいいほうかもしれませんが、開業医の先生の中に、相当に風評被害というのを意識した方は多かったのではないでしょうか。また、今のところ聞いていませんが、医師の中で「感染第1号」にでもなったら、ものすごい吊るし上げを食うことになるでしょう。これは想像を絶するバッシングの嵐になると思われます。
 
 そこで、全くの創造的ファンタジーな話ですが、そのあたりのマスコミ対策を想定し、危機管理体制をとった医療関係者、医療機関、場合によっては自治体?がおそらくあっただろうということです。
 まあ、その一つの手段が、発熱患者の診療拒否なわけですが(発熱で診療拒否)、そこまでしなくても、怪しい患者に、インフルエンザの検査をしなければいいだけの話です。インフルエンザの検査さえしなければ、新型インフルエンザは発生しません。発生さえしなければ、吊るし上げや、風評被害は出ないわけです。特に弱毒とわかってからを考えれば、人命にかかわる話でもありません。ほんの数年前まで、インフルエンザの薬なんてなかったわけですし、まじめに対応すれば損をしそうだと考えることは想像に硬くありません。

 さらにファンタジーな話を考えれば、自治体レベルで新型陽性を握りつぶしたところはなかったのでしょうか。都市部はもちろん、田舎でも観光地などで発生すれば、その風評被害ははかりしれませんから。握りつぶしはひどい想像かもしれませんが、まじめに検査し検体を送ってくる普通の医師を、煙たく思っていた自治体はあったかもしれません。上でも書いたとおり、検査さえしなければ、新型は発生しないのですから・・・。
 まあ、日本はともかく、隣の大国あたりは、握りつぶしているか、あるいは途中で検査をやめてしまったのではないかと考えている、私、彰の介でございます。

 上記の話は、私の勝手な想像で、なんの根拠もありませんが、マスコミの報道のあり方への警告とだけ受け取っていただければ幸いです。とにかく、第1号はごめんこうむりたいというのは、私の中では本音中の本音です。残念ながら、私の勤める病院では、今回のインフル対策がマニュアル化されているため、なかなか自分だけの一存で逃げ切れるものではありませんが、まあ運が悪かったと考えるしかありませんか。

 今後、強毒で伝染力の強い病原体が発生したとき、今回のような報道の問題ごときで、対策が後手後手に回りでもしたら最悪と言わねばなりません。というか、今回弱毒で、政府の初期対応がやりすぎとの批判もあり、「まじめな対応は損するだけだ」というのが今回の教訓だとすれば、これまた最悪です。
 そしてこの秋、街中で何かが起きていても、誰も何も言い出さないかもしれません。そして、誰かが「第1号」のリスクをとって語り始めたとき、すでに日本中で新・新型が蔓延していたとしても、不思議ではありません・・・。

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2009/05/21

「あおる」?「過対策」?どっちなの?インフル報道

 一応私は「マスコミ派」でないことをアピールしておかないといけないと思い、本日のエントリーです。
 
 日本中、新型インフルで大変なことになっていますが、マスコミ報道の一貫性のなさにはびっくりです。今回のインフルエンザに対して警戒するよう注意を呼びかけているのか、別に普通でいいのか?、政府、地方の対策が生ぬるかったのか、厳しすぎるのか?、一体全体どっちだと言いたいのかさっぱりわかりません。実際の所、注意を呼びかけるどころか、あおりにあおったあげくに、政府の対策はやり過ぎだ!!と批判する・・・、まあ、マスコミとはそんなものですか。

 だいたい腹が立つのは、関西圏でのインフル大発生を、まるで外国の出来事のように報道していた在京テレビ局が、いざ首都圏に発生となれば、過剰の5乗くらいの「あおり、つるし上げ報道」をしてしまっていることで、全く納得がいきません。別に首都圏だからといって何も特別なことはないのですから。
 だいたい、首都圏第一号の女子高生の通っていた高校の校長先生を、泣かせるまで責め立てる必要はあったのでしょうか??。

 第一号が出たからと言って、その女子高生の乗っていた飛行機の席から、乗っていた電車から、そんなに細かく報道する意味はあるのでしょうか。そして、降りた駅や、通っていた高校からの中継は必要なのでしょうか。そこだけ、その駅や学校だけが危険地帯なのでしょうか?。

 もし、そこまで報道するのなら、すなわち、感染地帯だったアメリカへの渡航を許した学校長がそんなに悪いのであれば、また、第一号患者の足取りがそれほどに問題であるのであれば、それら報道が「あおり」ではなく「注意喚起」なのであれば、もっと別のことを訴える必要もあると思われます。
 たとえば、関西に向かう、そして関西からやってくる人間のシャットアウトが絶対に必要ですから、東海道新幹線をストップさせるべきだと報道すべきです。だって、感染地帯へ行ったり行かせたりしたらつるし上げするんでしょ?、当然ですよね。首都圏の電車もストップ、羽田の閉鎖も当然のはずです。つまり、私は今回の報道そのものが、やり過ぎだと感じているわけです。

 さらに問題なのは、これらの報道が関西での大発生を受けてからの報道だと言うことです。すなわち、徐々に、今回の新型インフルが、弱毒であるという認識が広まりつつあるなかで、「首都圏」というお膝元でおこったことで、あわてふためいて「あおる」のもどうかと思うわけです。しかも、こういう過剰と思われる第一号叩きをしている同じ報道番組の中で、解説委員なる人たちが

「弱毒なのに今回のような厳しい対策が必要だったのか?。市民生活を混乱させ、経済的打撃を負わせた政府の対応を厳しく追及すべき!!」

なんて発言しているのですから、あまりにもおかしすぎます。具体的に私が見たのは、辛坊さんであり三反園さんなのですが、おいおい、そんな発言するなら、あなた方が今出ている、その番組のインフル発生に対する「あおり」報道をまずやめましょうよ、と言いたいですね。なにしろ弱毒なのですから。校長のつるし上げも、女子高生の飛行機の席も、学校の校門や駅からの中継も、何も必要ないではありませんか。
 一体全体、テレビの報道は、現在のインフル対策を行き過ぎと見ているのか、甘すぎるとみているのか全くわかりません。その場その場で、それらしい批判を繰り返しているに過ぎないようにも感じます。とにかく一貫性は全くありません。まあ、はっきり言って経済的損失の大部分は、マスコミによる風評被害だと思うのですが、どうでしょうか。

 そのあたり、今回の新型インフルに対する、政府、地方の対応に関し、私自身がどう評価しているかといえば、結果論として反省点は当然あるにしろ、総論的な対策はおおよそ妥当だったと考えています。結果論として弱毒だからというのは、今だから言えることで、メキシコではかなりの人が亡くなっているとされていた時に、弱毒と判断するのは不可能だったと思われます。そう考えれば、当初強毒として対策の手を打ったのは至極当然ではないでしょうか。そして現在、弱毒というデータがそろってきた時点で、対策を切り替えるという方向で進んでいるわけで、特に問題ないと思われます。また、弱毒だからといって、無策に蔓延させていいとも思えません。通常の季節性と同様の対応をとりつつも、きっちり検査をし、集団発生の情報をしっかり把握し、適当な対策を打っていくべきと思います。

 ついでに言うと、今回のインフル騒動では、マスコミの対応が医療機関にある問題を引きおこしていると考えます。まったくの想像の世界ではありますが、その当たりは次回に・・・。

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2009/05/07

発熱で診療拒否

 新型インフルエンザの影響で、「発熱」患者の診療拒否が報道されています(新型インフル 診療拒否相次ぐ…都内で92件)。
 まあ、はっきり言って、私は絶対におきると思っていましたが、まさかこんなにも早く、しかもマスコミに嗅ぎつけられるとは思ってもいませんでした。水面下で起きることは目に見えていましたが。

 当然ですが、発熱患者が「新型インフルエンザ」か「その他の疾患」か、発熱という現象だけではもちろんわからないわけです。万が一、新型インフルエンザであればえらいことなので、発熱と聞いただけで体よく断る病院が出てくるというのは全く私の予想の範囲内でした。

 問題なのは、今のところ、あくまで今のところですが、大半の発熱患者は「新型インフルエンザ」ではないことでしょう。ちなみにこの記事を書いている時点で、日本の新型発生は報告されていません。したがって、上記、新型インフルエンザであればえらいことになるというのは、あくまで言い訳に過ぎません。断るのが先で、言い訳が新型インフルエンザということになりますか。

 その大半の、非新型インフル発熱患者は、診療を拒否されたらどうするのでしょうね。発熱外来はあくまで新型インフルを想定した外来ですから、おそらくパンクします。したがって、発熱患者で、明らかに渡航暦などリスクがない患者は、診療拒否する理由がないと思うのですが(あくまで今のところです)どうでしょう。さっそくにも、これら報道のいきすぎを指摘する意見も出ているようですが、私はそうは思いません。
 
 ただ、日本で感染の確認がされるのは時間の問題でしょうし、さらに国内での感染が広がった場合、発熱外来だけではパンクすると思われますが、そのときの対応が今のところ示されていません。現状の対応は、私の勤める病院も決まっていますが、感染が広がった場合の対応は全くわかりません。できればこれ以上感染が広がらないことを祈るばかりですが。

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2009/04/23

臓器移植法改正の是非

 臓器移植法改正の議論が国会でされているようです。
 ただ、聞こえてくる議論は、昨今このブログで言うところの派閥争い的議論が多く、各論の投げ合いのような気がしてなりません。そこで、総論的な私の意見をここに書きたいと思います。

 主に議論になっているのが次の2点だと思われます。
 

1.本人の意思が確認できない場合、家族の同意があれば臓器移植できるかどうか。
2.小児の場合、家族の同意があれば臓器移植できるかどうか。

 簡単にいうとこういう感じでしょうか。
 
 私の考えの根本は、本人の意思を最優先すべきということです。次に家族の意思でしょうか。したがって、大原則として、本人が「臓器移植拒否」の意思をドナーカードなどで明示している場合は、家族がなんと言おうが当然のことながら移植できないと考えます。
 
 本人が臓器移植可の意思表示をしている場合は、家族の意思を尊重すべきでしょう。家族が同意すれば移植へ、反対すれば移植はしないということでいいと思われます。

 問題は、本人の意思がわからない場合ですが、これは本人の移植に対する考えを表示する権利の放棄であると考えます。基本的にドナーカードを携帯するべきと考えますが、それとともに、常に家族に意思を明確に話しておくことも重要であると思います。したがって、意思表示がない場合は、家族の考えで移植に同意するかしないかを判断すればいいと思います。本来、移植されるのがいやなら、生前にはっきりいやだと明示しておくべきです。

 脳死を一律人の死とする案が出ているようですが、これについては私は異論があります。やはり旧来どおり、移植を前提にした脳死は死としていいと思われますが、本人あるいは家族が移植を望まなかった場合、それは死を意味しないような気がします。脳死の状態が死か生かは、それぞれ個人家族の死生観によると考えるからです。移植されてもよいと意思表示されている方は、脳死=死という死生観であり、移植拒否の方の多くは、脳死は死ではないという死生観をお持ちでしょう。このあたり日本人の死生観として統一できてはいないと思われます。

 問題は、小児の場合、特に幼少で意思表示はできるわけがない時期はどうするかですが、私は、個人的意見として、現在の禁止から一歩踏み出し、小児の場合は親が移植の可否を判断し、日本の小児臓器移植の道を開けるべきと考えています。

 現在、移植という手段がある以上、どんな手段を使ってでも自分の子供の命を助けたいとおもう親心を否定することは無理であると考えます。それが、昨今の海外移植につながっていることは言うまでもありません。その海外移植が今後できなくなるのであれば、日本の医療技術をもってすれば助かる方法があるのにもかかわらず座して死を待つしかありません。したがって、私は小児領域の移植の手段を閉じるべきではないと考えています。

 「自分の子が脳死になったら臓器提供できるのか!!」的な反論をされる方がありますが、これはまったく間違った反論だと感じます。子供が脳死になったら全員臓器移植を強制されるわけではありません。したがって、親の死生観に基づき、これを死と受け止められなければ、はっきりと、移植拒否を明示すればいいのです。多分、私がその立場になれば、(その場にならなければわかりませんが)、想像するに限りなく100%に近い確率で「移植拒否」をすると思います。それでいいではありませんか。臓器移植に賛成しながらおかしいですか。いや、臓器移植に賛成なら、自分の子供の臓器を提供しろという考えこそ大問題だと考えます。
 さらにいえば、自分の子供の臓器を取り出せば別の子供が助かるなどということを考える必要はまったくありません。

 小児の場合、脳死判定に疑問があるなどの事例が出され、脳死移植に反対の意見があるようですが、これも同様に、疑念のある方は、はっきりと移植拒否をされればいいのではないかと思います。お互いの死生観をぶつけあって議論するのではなく、それぞれの死生観を尊重するということではだめでしょうか。

 最もあってはならないのは、先ほども書いた、「移植に賛成すれば別の命が助かるのに・・」的な雰囲気であり、さらに、医師が医師の死生観に基づき、患者家族に移植を求めたり、拒否するよう仕向けたりすることではないでしょうか。医師による興味本位、病院の宣伝のための誘導はもってのはかであるのは言うまでもありません。

 ということで、賛否両論あるかとは思いますが、私の考えを書かせていただきました。上記の通り、私は基本的に現行法よりも一歩進んだ移植法を考えていますが、しかし、移植が強制ではないということを、自分の意思が重要であるということを重ねて強調させてください。上記で、説明不足、あるいは誤解を招く表現があるかもしれませんので、ご指摘受ければ場合により訂正させてください。

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2009/04/07

芸能人肺結核報道

 ハリセンボンの箕輪はるかさんが、肺結核で入院だそうですね。
 ぜひとも療養につとめて、早期に復帰してほしいと願っております。

 ただ、患者が売れっ子の芸能人ということで、各方面、対応の大変さは並みのものではないと思います。私も職業柄やぶ医者をやっていますから、その大変さを考えると顔面蒼白です。

 対応の大変さとは何のことかといえば、結核患者が出た場合、接触者を洗い出す必要があるわけです。ところが、患者が芸能人で、各地で番組やらライブやらやっていたとすると、接触者数は計り知れません。

 医療機関でも、結核患者が出たとなれば、患者家族、職場・友達などはもちろん、院内の医療従事者も、ほんの少し接触したかもしれないというだけで、レントゲン等の検査を受けることになると思います(そのときの状況によりけりですが)。たとえば、その患者さんと直接会っていなくても、そのとき外来にいたとか、外来に出入りしたという理由でも接触者リストにはいる可能性があります。もちろん入院中の患者さんから結核菌が検出されたとなったらさらに大変なことになります。

 今朝、フジテレビの小倉さんの番組をちょっとだけ見てから出勤したのですが(最後まで見てないのでどうなったのかわかりませんが)、最初にこの肺結核のことが取り上げられていました。その中で、小倉さんが、
 

「現在治るようになってきている病気であるのに、本人の実名公開や、パニックのような報道をしていいのか」

 的な発言がありましたが、残念ながらまったくの認識不足としか言いようがありません。本人と事務所の考え方もあるかとは思いますが、私は実名公開したことは、最悪の事態(結核の大発生)を考えると英断であり、逆に当然かなあとも思えます。

 また東京都に届出があったとき、担当の都の職員は顔面蒼白になったに違いありません。何しろ接触者が尋常な数ではないのですから。だからこそ、電話相談を受け付けている現在の対応も、当たり前というか、それしかしょうがないと思われます。間違っても、パニックの助長とは思えません。

 まあ、新聞の見出し一面にば~んと載せる行為が、いいかどうかはなんとも言えません。上記感染拡大の危険性を考えての報道ならともかく、そんなことはまったく考えてはいないでしょうから。それはただのパニックへのあおりに過ぎないかもしれません。

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2009/03/19

新研修医受難の季節

 ついこないだ紅白歌合戦を見たと思ったら、もう3月も半ばを過ぎました。もうすぐ桜舞う4月ですね。
 私は職業柄やぶ医者をやっていますが、我々医療界において、4月というのは特別な月でもあります。それは患者様にとっても特別な月なのですが。

 4月、それは年度の始まり、フレッシュマンが仕事を開始する月です。もちろん、病院も同じ、つまり、医者に限っていえば、新しい研修医の先生方が働き始めるわけです。いいですね。ういういしいですね。

 今をさかのぼること10数年前、当時は医師国家試験の関係で5月の連休明けでしたが、医学部を卒業したばかりの私も期待に胸を膨らませ、医者という仕事を開始しました・・・・。

 期待に胸を膨らませ???、もちろんうそです。不安な気持ちでいっぱいの中、仕事を開始したのは言うまでもありません。医師国家試験に合格したことと、すぐに医者として働けるかどうかということは、まったく別問題であり、はっきりいって、国家試験に合格したとしても、風邪薬の名前すらわからないのですから。

 私の場合、就職2日目に当直がありましたが、まあ、なんというか、しどろもどろだったことはいうまでもありません。患者さんから話を聞くのが精一杯で、投薬検査その他は上級医に相談することになるわけです。

 しかしまあ、この時期、研修医が何もできないことを知っていながら、上級医というのはここぞとばかりに、上級医ぶる悪い癖がでて研修医を困らせるわけです。

「はあ?そんなこと聞くの?基本からなってないね!。」

「点滴やってよ。はあ?点滴すらできないの?何もできないんだね・・・。」

 だから基本どころか風邪薬の名前すら知らないんです。点滴?できるわけないんです。学生時代に医療行為なんかやれるわけないんですから。しかし、上級医にもいろいろあって、面倒見のいい今の私のような(←強調)上級医もいれば、仕事嫌いの癖に下っ端に冷たい上級医もいて、当直などでは、上級医のあたりはずれが運命を左右することになるんですね。

 ただ、この時期、研修医を狙っているもう一種類の天敵が存在しています。それは・・・看護士の皆様・・・。基本的に、看護士さんというのは、医者の命令で動くシステムになっているわけで、まあこういうと語弊がありますが、当然医者のほうが看護士より偉いという関係にあります(簡単に言えばです)。しかし、フレッシュな研修医より、明らかに経験をつんだ看護士さんのほうが仕事をこなせるわけで、この時期、研修医はここぞとばかりに看護士の皆様の餌食になるんですね。

「先生、早く診察してください、患者さんが待ってます!!」

「え!こんな治療するんですか?ちゃんと上の先生に確認してください!!」

「この方にこんな検査必要なんですか??」

 うむむ、思い出すとなぜか胸がどきどき、冷や汗が出てくるのはなぜなんでしょう?。上記、要するに、いじめで言ってるだけですが(笑)、研修医としては、まったく反論するだけの力を持ち合わせないため、ぐっとこらえるしかないんですね。仕事ができるようになっていけば、自然と皆さん優しくなっていくものです。数人の例外を除いては・・・。

 そんなわけで、患者の立場になった場合も、この時期研修医の先生に診察してもらったり、注射してもらうようなことがあるかもしれません。
 私の立場上、患者様に置かれましては、寛大なる御心をもってして、研修医の治療を受けていただけませんでしょうかとお願いするしかありません。その道を通らなければ、まともな医者にならないのですから。
 
 いや、現在、医師不足が叫ばれる中、研修医の確保のために、あるいは研修医の医療行為による患者様からの苦情をなくすために、実に研修医に甘い病院も出現しています。基本的に研修医に医療行為をさせない、5時には帰宅、休日は出勤しないなど、医者として大丈夫かと思うようなことまで許しているところがあります。が、結果として、働かない、いつまでたっても基本手技が上達しないなどの問題があって、百害あって一利なしというのが私の考えです。だからこそ、患者様の御心におすがりするしかありません・・・。

 ということで、緊張のあまり、食事もまともに喉を通らなかった「あのころを」を思い出した私です。初心忘れるべからずと言いますが、忘れたい思い出です・・・。

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