2018/08/21

(再)メジャーマイナー論

 私立の地元色の薄い学校が活躍することの多い昨今の高校野球で、公立の農業高校、金足農業が大活躍しています。無論、頑張っているのはみな同じで、地元も、他県も、私立も、公立もないわけですが、火が付くと、そこだけを応援してしまう報道姿勢にはいい加減辟易です。
 ということで、全く検索もできなくなっているので、このえこひいき報道への批判?考え方?屁理屈?である、私のものすごく古い記事をここに(少し改変して:古い部分は注を入れました)再掲します。今も昔も全く変わっていないのがよくわかりますねえ。


 メジャーマイナー論 2004/11/27の記事
 
 メジャーマイナー論とは何か。簡単に言うと、多くの人から応援されたり勝って欲しいと思われる人やチームをメジャー、逆にメジャーの引き立て役になったり、負けて欲しいと思われる人をマイナーと呼ぶ私の造語です。時にマイナーというのは不当に悪役にされたり、報道されたりするので、その救済っていうのがメジャーマイナー論の1つの主旨であり、また、人間というものは常にマイナーへ落とされる可能性があり、その精神論を唱えるのも、メジャーマイナー論です。
 
 具体的な例を1つ。ただいま、女子プロゴルフの賞金王争いが熾烈になっています(注:当時の話です)。女王不動(ふどう)か、新生宮里(みやさと)か、明日のリコー杯の結果にかかっています。この二人の真剣勝負・・・、と言いたいところですが、どうも世間では、どちらかというと宮里藍に逆転で賞金女王になってもらいたいと言う雰囲気が強いように思われます。この、賞金女王になってもらいたいという立場にたった宮里のことをメジャーと呼んで、逆に負けて欲しいと思われている不動の立場をマイナーと呼んでいるわけです。これが如実に現れているのがテレビやら、新聞などの報道です。とても平等にどちらが勝つかなんて感じではありません。逆転賞金女王誕生といわんばかりの雰囲気でニュースで紹介され、新聞に書かれています。一見すると、「そんなに偏った報道ではないのでは?」と思うかもしれませんが、それは気持ちの上で宮里が勝ったらいいなって思いつつ新聞なんかを見れば偏りは感じないかもしれません。おそらく不動ファンの立場から見ると失礼なって感じがするのではないでしょうか。ちなみに私は宮里藍と結婚したいぐらいの宮里ファンなんですが(本気!)、残念ながら私の性分なんでしょうか、このメジャーマイナー論が染み付いている私は、このようなメジャーマイナー化が起きてしまった時点で賞金女王は不動さんになってもらいたいと思ってしまうんですね。そうでなくても、もう少し報道は世間受けではなくて、メジャーマイナー論的な意味で平等に扱えないものかと怒りを覚えるわけです。これは判官びいきではありません。判官びいきは、判官びいきされている人がメジャーですから、ちょっと違います。
 
 こんなメジャーマイナー論的な例はスポーツ等勝負の世界でよくみられます。相撲の世界でいうと、「小錦(注:ハワイ出身の巨漢力士)」、今風に言うとKONISIKI?なんかはマイナーの典型だったでしょう。とにかく彼が勝つと場内にため息が漏れ、負けると割れんばかりの拍手で包まれる。あんな状況でよく戦っていたものだと感心したくなります。しかし、皮肉なことに、彼は大関を陥落し、負けがこむようになったら半メジャー化し、全く逆の状況になりました。つまり、弱い小錦なら受け入れるってことですから世間は厳しいものです。
 
 私の大好きな将棋の世界でもありました。羽生善治が前人未踏の7冠(注:永世7冠ではない)達成目前のとき、羽生君がメジャー化、相手の谷川浩司がマイナー化しました。将棋なんて全く知らない世間の人が、なんかかわいらしい天才が偉業を達成しそうだぐらいのノリで羽生君を応援し、戦っている最中なのにもう7冠達成みたいな報道がされました。谷川浩司って知らない人が多いかもしれませんが、十七世名人の称号を持っているえらい棋士なんです。ちなみに羽生君は永世名人の称号は持っていません。どちらかと言えばメジャーな道を歩んできたはずの谷川浩司が突然世間から仇役にされたときはどんな気持ちだったんでしょうか。自分が負けたほうが世間は喜ぶんですから・・・。
 
 もしかすると、皆さんの中には、「勝負の世界であれば、世間からどう言われようと、どう思われようと、勝てばいいじゃないか」と思われたかもしれません。それはそれでおっしゃるとおりです。そんな逆境の中で負けたとき、世間が冷たくて・・・なんて言い訳にもなりませんし、勝負自体には何も不正やハンディはないのですから。また、応援するのにも、「宮里と結婚したいんだったら、普通に宮里を応援すればいいじゃん」と思われたかもしれません。それもまたおっしゃるとおり。ファンなのに応援しない方がおかしいといわれれば確かにそのとおりです。それを、全く否定するつもりはありません。それはそれ、そんな状況に遭遇すると、いつもの私の屁理屈的な思考が動き出してしまうのです。私は、マイナー落ちした人を応援したいんです。不当な報道に物が言いたいんです。世間の向いてる方向の逆を向きたいんです。なぜって、それは、「そこにマイナー落ちした人がいるから」としか言いようがありません・・・。

 追記:コメント欄より
 (上記記事の主旨は)主に報道に対する不満ですね。あるいはそんな報道に乗せられるのではなく、純粋に勝負として、勝負している当人の背景をよく知ろうよ、という訴えです。それを大げさに、極端に、「マイナー落ちした人を応援」としました。

 メジャーマイナー論と報道のセンス 2006/8/25の記事

  「時を考える」さんが何で勝った人を褒めないの?という記事をアップされています。先日の高校総体で、卓球の愛ちゃんが負けちゃったという報道がされたのですが(注:愛ちゃん=福原愛 当時高校生)、勝った相手の宇土さんが全く相手にされていないと言う話です。これは、私が勝手に提唱するメジャーマイナー論の一端と考えていいでしょうか?(注:上記記事)。

 メジャーマイナー論の説明を、前の記事から簡単に抜粋して整理すると、

多くの人から応援されたり勝って欲しいと思われる人やチームをメジャー、逆にメジャーの引き立て役になったり、負けて欲しいと思われる人やチームをマイナーと呼ぶ。時にマイナーというのは不当に悪役にされたり、報道されたりするので、その救済がメジャーマイナー論の1つの主旨であり、また、人間というものは常にマイナーへ落とされる可能性があり、その精神論を唱えるのも、メジャーマイナー論である。(マイナーへの考え方であり、メジャーにケチをつけるのが主旨ではない)
 
 ちょっとパターンは違うかもしれませんが、上記愛ちゃんのニュースで言えば、愛ちゃんがメジャー、宇土さんがマイナーであり、愛ちゃんに勝ってみごと優勝したのにもかかわらず、愛ちゃんが負けたことをより強調するための引き立て役にされただけで、たたえられるわけでもなんでもないということです。勝手に想像するに、次回この両者が対戦すれば、より愛ちゃんがメジャー、宇土さんがマイナー化されて報道されるでしょう。リベンジして愛ちゃんが勝ったりすれば、まさに仇を討ったような話になってしまうことは想像に難くありません。勝っても負けても、引き立て役に過ぎない、そんな役柄を作り出してしまう報道というのはどうなんでしょうね。それとも、報道が悪いというより、メジャーをより引きたてる報道を欲している、我々の側に問題があるのでしょうか。

 ところで、先日の高校野球(注:2006年当時です)では、日本中に大ブームを起こした?人物が現れました。もちろんその人は、ハンカチ王子こと早実の斎藤佑樹投手です。その端正なマスクに溢れる汗を、ハンカチで拭う姿がとてもかわいいという話ばかりでなく、歴代の大投手ともひけをとらないその活躍に、彼は連日ワイドショーで取り上げられることになりました。
 
 その活躍や、彼の甘いマスクを嫉妬こそすれ(笑)、否定するつもりは全くありませんが、メジャーマイナー論的には、彼への報道というものは、実に危ういものだったと感じています。要するに、彼は事実上メジャー化してしまったわけですが、彼の人気をあおればあおるほど、相手の駒大苫小牧高校や、そのエース田中投手がマイナー化するという現実があったということです。まあ、双方の活躍をたたえるということで、ぎりぎり、ひどいメジャーマイナー化は抑えられたかも・・とは思っていますが、そんな危機感が報道にあったかどうかは疑問の残るところです。特に、斎藤投手がワイドショーに取り上げられたのが、決勝戦当日の朝、さらに、引き分け再試合となったその当日の朝であったことは、その危機感のなさ報道のセンスのなさを非常によく表していると考えます。互いに全力を尽くして戦おうとしているその当日に、斎藤投手のいとこからハンカチの出所を聞き出したり、同級生に斎藤投手がどんな少年だったかを聞き出すインタビューを報道するなんて、危機感もセンスも何もないと考えるのは私だけなのでしょうか。いずれにしても、駒大苫小牧高校および田中投手が、早実および斎藤投手の引き立て役になりかけた事実は、メジャーマイナー論的に見逃すわけにはいかないのです。

 しかし恐ろしいのは、ハンカチ王子というメジャーが現れたからこそ駒大がマイナー化したわけですが、一歩間違えば、駒大がメジャー化し、相手チームがマイナー化したかもしれないということを考えなくてはなりません。特に今大会では、駒大が「甲子園夏三連覇」という大偉業を抱えていましたし、さらに春の選抜を不祥事で辞退していましたから、「そのつらさを乗り越えた」な~んてことを大々的に報道すれば、優勝してもしなくても、相手チームがただの引き立て役につくりあげられた可能性は十分にあったと考えられます。
 
 まあ、偏屈な私が、そんななかったことまで心配してしまって、報道の皆さんには申し訳ありませんが(笑)、残念ながら、現在の報道にメジャーマイナー論的視点はほとんどなく、話題性や視聴率が上がればいいというのが現実でしょう。「自分が負けると、世間が喜ぶ」というマイナー化は、勝負師であれば乗り越えなくてはならないものかもしれませんが、しかし、自分達がメジャーやマイナーを創り出しているという危機感を、報道には常に持ち続けていただきたいと考えている、偏屈男の彰の介でした。

 追記:マイナー化されかけた、田中投手は、その後メジャーに行ってしまいました(失笑)。
おあとがよろしいようで・・・・。

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2016/05/03

多文化共生社会のウソと日本人の心

 多文化共生社会・・・いい言葉ですね。国際化、グローバル化などという言葉と同意語的に使われているような気がしますが、ともかくも、多くの外国人、多くの異文化の人々とそれぞれの文化を認め合い、幅広く交流が持てることはいいことですね。と、言いたいところですが、私の屁理屈的には日本人の多くが、これら、いい言葉を間違って理解しているような気がします。私のただの屁理屈で、杞憂であればいいのですが。

 同じではありませんが、文化の交流という意味で、「郷に入れば郷に従え」という言葉で考えてみましょう。わかりやすく、日本人が外国に行った場合を考えると、日本人の常識やルールで行動せず、その外国の習慣や文化、法律などに従って行動しろということになりましょうか。服装や、挨拶、マナー、食や宗教的タブーなど、気を付けなければいけないことは多々あると思います。

 日本人の誤った理解、それは、上記、日本人が外国に行った時に、いろいろと気を付けようと考えるのにもかかわらず、逆に外国人が日本に来た時にも、その外国人をおもんばかって対応しようと考えることです。「郷に入れば郷に従え」ですよ、日本に来た外国人は日本のルール、習慣に従わなければならないはずで、なんで日本に来た外国人をおもんばかって、その国のルールや習慣に合わせなければならないのですか?。

 私がその典型と考えるのが挨拶です。基本的に日本人は頭を下げて言葉で挨拶を交わします。決して、体が触れ合うような挨拶をしません。最もポピュラーな、肌と肌が触れ合う挨拶(表現が微妙ですが)といえば、握手ということになりますが、政治家や、芸能人?、大会社のビジネス的な場面??など特殊な場合を除いて、日本人に握手の習慣はありません。ましてや、初対面の女性に対して、私が握手を求めたとすれば、それをセクハラという人はいないとしても、なんとなく気持ち悪いと考えるのが普通ではないでしょうか。女性の手を握りたかったのか?と勘違いされるだけでしょうし、私に握手された女性は、トイレでしっかり手を洗うことになるのでしょう。

 ところが、握手どころか、国によっては、ハグをして顔をくっつけてチュッチュする挨拶(これも表現がなんですが)もあります。テレビなどで、外国の有名俳優などが来日した際、日本の女性にあの挨拶をしているのを時々見るのですが(一般に有名人にハグされて、女性は喜んでいる風ですが・・・)、本来、日本人に、特に男性が女性にそのような挨拶をすることは、上記の通り日本ではタブーなはずです。私はそんな場面を見るたびに、「強制わいせつ罪で逮捕しろ!」と叫んでいるのですが、残念ながら、その国の文化だからと漠然と受け入れてしまっており、日本の、日本人のタブーとして、日本人が外国人にアピールするなんてことは微塵もありませんね。

 要するに、日本人は、「郷に入れば郷に従え」ではないのです。とにかく、自国の文化は心の底に抑えこんで、他国の文化に合わせることしかしないのです。日本人が唯一、外国人に強制する日本の文化、それは、「玄関先で靴を脱がせる」、これだけです。まあ超屁理屈的には、「とにかく外国の文化に合わせる」という、相手に合わせるということが日本人の文化、日本人の心だと言ってしまえば終わりですが、外国人の考える国際化、グローバル化、多文化共生と、日本人の考える国際化、グローバル化、多文化共生には大きな隔たりがあるのは間違いないでしょう。

 そんな認識の違いがあることを全く考えずに、多文化共生がその言葉のイメージだけで、いいことだと考えるのは問題ではありませんか。昨今のヨーロッパ、そして、今後の日本における移民問題を考える前に、認識しなければいけないことだと思うのですがいかがでしょうか。

 たぶん、この話もう少し続けます。

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2016/04/13

目的と手段の混同とガソリンの燃費の話

 言論とは何のためにあるのかと言われれば、より良い目標・目的に向かっていく手段の選択のためという部分があります。しかし、往々にして議論が激しくなると、目標・目的を忘れ、手段のための手段が議論されることもあります。言論をふくめて、我々の個人、社会すべての行動は、常に「目的は何だったのか」というところへ立ち戻る必要があるのかもしれません。

 ちょっと屁理屈的な例を出してみましょう。表題のガソリンの燃費です。どうしても自動車を使わなくてはならない家庭において、少しでも家計を楽にするために、ガソリンの燃費をよくするということは当然考えることでしょう。昨今の自動車には、画面に燃費が表示されるものも少なくありません。ガソリン1リットル当たり何Km走ることができたかが、一目でわかるようになっています。

 一般に、ガソリンの燃費をよくするためにはどうしたらよいかといえば、急発進をしない、無駄に加速しない、できるだけ惰性で走るなどがあげられるでしょうか。私の乗っている自動車も燃費が表示されるため、燃費の上下に一喜一憂している自分に気が付きました。

 そして、ごく当たり前のことなのですが、この燃費を上げるためには、信号のできるだけ少ない大きな道を使うということがあります。裏道のような細かい道を、止まり止まりしながらこちょこちょと運転するよりも、高速道路のような、あるいは高架された国道のような大きな道の方がはるかに燃費の数値は良くなります。ということで、私は無意識のうちに高速道路の無料区間を通勤に使うようになり、行先によっては、200円ほどかかる有料区間を使うようになりました。そして、表示される燃費が上昇するたびに、「家計にやさしいし、エコだなあ・・・」と悦に入っていたのです。

 しかし、ある時、はたと我に返りました。この高速の無料区間、少し通常の通勤道路よりも離れているのです。つまり、大回りしているのです。従って、この道路を使うことで、間違いなく燃費は上がりますが、大回りしている分、実際のガソリンの使用量が減っているのかどうかは全く分からないのです(細かく計算したり、統計を出したりすればわかるのでしょうが)。

 そう、今回の屁理屈的お話において、目的はガソリンの使用量を減らして、ガソリン代を減らすことであったはずなのに、私はその一指標である、燃費を上昇させることに一生懸命だったわけです。燃費がいい=ガソリンの使用量が少ないとは言えません。ましてや、有料区間を使ってしまったら、家計にやさしいも何もあったものではありません。

 もし、ガソリン代を少しでも減らすというということこそが目的であるということをしっかりわかっていれば、近くへの買い物は歩いていくなど、無駄に自動車は使わないという手段も出てきます。燃費というのはあくまで一指標であり、それが目的にかなっているかどうかは、ちゃんと計算して、数字を解釈しないといけないというお話です。

 まあ、屁理屈話といったのは、もっと大きな目的と現実も考えなくてはならないという話です。そもそも、自動車という大きな買い物をした時点で、よほどの長距離を運転しない限り、ガソリン代云々というのは誤差範囲かもしれません。自動車は100万円~するわけですし、さらに燃費をよくするためにハイブリット車を買ったとすると、普通のガソリン車より数十万円くらい高いでしょうか。それをガソリンで元を取ろうとするのは無理があります。また、生活の質を上げるために自動車を買うわけですから、今度はガソリン代に固執して、それこそ重い荷物を抱えて、ある程度の距離を歩き、大変な思いをしながら買い物をすることに意味があるのかないのかも考えなければなりません。そういう意味では、常に目的と手段を総合的に見直す必要性があるという話です。

 人間というものは、しょっちゅう目的と手段を混同してしまいます。そしていつの間にか手段のために意味のない行動をとっていることもあります。小さい話であれば、上記のようなガソリン代と燃費の話、大きな話であれば、世界大戦のような戦争(一体何のために戦っているのかわからなくなっているのに総力戦になってしまう)まであります。そして、言論というのも同じ状況に陥っているのを非常によく見かけます。相手の手段を否定することだけに固執して、肝心の目的の達成のための議論が全く進まない。無理に批判し合うから、それぞれ相手をバカだ、嘘つきだとやり合う・・・。

 そのあたりは、過去に書いてきたとおり、どこまで行っても正しいか間違っているかわからない曖昧論の世界であり、言論の自由の下では、究極的には何でもありというのが私の立場ですが、意見を発信する以上、目的を見失わないようにしましょうというのが本日のまとめになりますか。

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2016/03/24

民意とエリートと衆愚政治

 民意とは何か。わかりやすく、国民の多数決の結果であると多くの人が思っていますが、果たしてそうでしょうか。(以前のエリート論と民意がわけのわからない文章になったため、ある意味書き直しです。)

 例えば、私が、「消費税増税絶対反対、アンケート結果からも増税反対が過半数を超えている。政府は民意を聞け!」と意見発信した場合、その文章はいかにもそれらしいわけです。しかし、そのアンケートに答えた国民というのは、日本の税制、財政、経済、その他を熟知したうえで、そう答えているわけではありません。それこそ、「日本の財政は火の車である。増税に反対というのはただ税金を取られるのが嫌なだけ。そんな内容のないアンケート結果を民意とは何事!」と言われれば、確かにそうかも・・・なんて思う方もいるでしょう。

 私の民意に関する考えはこうです。国民の大半は、難しいことはわからないか、無関心です。馬鹿にしているわけではありません。過去のエリート論に述べてきたとおりです。すべての国民が例えば日本の政治や財政や経済についてペラペラ話し出したら、その方が気持ち悪いというものです。よく、国民はもっと政治について関心を持って、政策について考えるべきだなどとそれらしい意見を言う人がいますが、むしろ、そういう意見を発信する人間が、国民の中の少数派の政治マニア(エリート)であって、多くの国民は政治マニアではありません。そんな政治マニアでない大多数の国民にアンケートなどを取れば、なんとなく賛成か、なんとなく反対か、よくわからないと答えるにすぎないわけです。

 したがって、それこそ消費税率を上げるべきでない、いや上げるべきだと言い合っているのは、国民のごく少数派の政治マニアがさらに2つに割れて論争しているだけであり、その定義が国民の多数決の意見とするならば、民意などとはとても言えない代物であると私は考えているのです。

 敢えて私なりに民意というものを定義するのであれば、現在使われている文脈で民意というものを考えるのであれば、

私の意見、それが民意
としか、言いようがないと考えています。
 
 例えば、私自身は、消費税の増税はするべきではないと考えています。したがって、私にとって、消費税増税反対というのが民意です。なぜなら、私なりに勉強して、それが正しいと信じているからです。増税するとさらに国民の格差拡大、貧困化につながると信じているからです。消費増税に賛成することは絶対に間違いだと信じていますから、アンケート結果がひっくり返ったとしてもそれを民意とは認めません。
 
 という意見なので、本当は書きたくないのですが、その流れで消費税増税賛成の方にとっては、消費税率を上げることが民意です。消費税を上げないと、財政が成り立たない等々と信じているわけですから、それが日本の未来にとって良くないと信じているわけですから、それこそが民意なわけです。アンケート結果がどうであっても消費税増税反対を民意とは認めないでしょう。
 
 少数の政治マニア(エリート)の論争が「民意だ!民意だ!」と叫びながら言論空間で戦われ、国民全体の多数決という定義での民意の奪い合いを起こします。そして、勝った方は「民意の勝利」「民主主義の勝利」「国民は正しい判断をした」等とそれらしく勝ち誇り、負けた方は、「衆愚政治だ(馬鹿な国民が誤った判断をした)」等と嘆くことになるのでしょう。民主主義の限界を、或いは、ポピュリズム的な政治動向を「衆愚政治」と大昔の偉人の時代から言ってきたと思うのですが、それはその実、上記のようなエリートによるただの敗者の弁に過ぎないというのが私の意見です。
 
 しかも、自分の意見が正しいと思えば思うほど、いかなる方法を使ってでも民意を奪い、政治経済等をより良い方向に向かわせたいと思うものです。しかし、実は、全く正しくなく、どんどん国民を不幸のどん底へ陥れることもあるわけです。つまり衆愚政治の犯人は、衆愚たる国民ではなく、間違った自分の意見を強弁し強要する一部のエリートということになるのではないでしょうか。
 
 昨今、自分の意見が正しいと思えば、あのヘイトスピーチも真っ青の暴言を平気で書き綴る人たちがいます。しかし、実際には私の意見も含めて、自分の意見が正しいのか、間違っているのか、それは神様しかわからないのですから(ある種の曖昧論)、もう少し謙虚になるべきとも思いますし、この駄文が謙虚にかこつけて攻めるだけの方々に対する批判になればと思います。

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2016/03/17

マスコミの言論の自由と曖昧論

 大阪市の校長先生が、「女子は2人以上子供を産め」(敢えてこう書いてみました)とかなんとか発言したことが物議をかもしています。リンクが切れる可能性がるので、下記に発言をコピペしておきます。

今から日本の将来にとって、とても大事な話をします。特に女子の人は、まず顔を上げてよく聴いてください。女性にとって最も大切なことは、子供を2人以上産むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。なぜなら、子供が生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか子供を産むことができません。男性には不可能なことです。「女性が子供を2人以上産み、育て上げると、無料で国立大学の望む学部に能力に応じて入学し、卒業できる権利を与えたらよい」と言った人がいますが、私も賛成です。子育てのあと大学で学び、医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けばよいのです。子育ては、それほど価値のあることなのです。もし、体の具合で、子供に恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれない子供を里親になって育てることはできます。次に男子の人も特によく聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです。子育てをしたらそれで終わりではありません。その後、勉強をいつでも再開できるよう、中学生の間にしっかり勉強しておくことです。少子化を防ぐことは、日本の未来を左右します。やっぱり結論は、「今しっかり勉強しなさい」ということになります。以上です。
   この発言の中身について私の意見を最初に表明させていただければ、「主題について間違っているとは思わないが、表現の仕方があまりにも悪い。考え方も一部私の考えとは違う。」ということになります。    この校長先生の主題と本当に意見が同じかどうかはわかりませんが、
昨今、仕事でキャリアを積むことが何よりも優先されるという価値観がありますが、女性として、子供を産み育てるということも立派な仕事であり、社会へ貢献することになります。キャリアを積むことよりも劣った価値観ではありません。

の様な表現ならいかがでしょうか。私の文章でも、反発される方はいるでしょう。子供を産み育てるという価値観について公然で発言することを、すぐにナショナリズムにつなげる方々や、女性の社会進出の否定につなげる方々が少なくないからです。
 
 しかし、もっと普通に考えてはどうでしょう。恋愛を否定する人はいない。結婚を否定する人もいない。夫婦に子供が生まれ、家族が増えることを喜ばない人もいない。なのに、なぜ公然で子供を産み育てることの大切さを発言してはいけないのか。私の考えは、結婚か仕事か的な二元論への反発です。
 
 意見が違うといえば、キャリアを積むことと、子供を産み育てることに私は差はないと考えているのですが、文章的には、子供を産むことの方がいいことという意見のようです。また、子供を産み育ててから、キャリアを積むのは私の想像するところ、無理だとおもいます。これは価値観の違いであり、曖昧この上ない内容に、校長の立場で一つの方向へもってお行こうとするのはいかがなものなのでしょうか。この発言に関する意見はそれとして・・・。
 
 若干疑問に思うことがあります。
 この記事に限ったことではありませんが、こういう記事が、新聞で、テレビで話題になるということは、当然批判的にこの発言を取り上げていることになります。もし、マスコミが取り上げず、学校関係者から意見が出され、教育委員会から処分されるだけであったとすれば、地元で問題視されるだけで終了でしょう。しかし、このニュースはテレビの朝の情報番組でトップ扱いされているわけです。従って、全国的に話題となり、より多くの人から批判されることにより、基本的にこの校長は再起不能でしょう。まあ、テレビに出ている姿は強く反発され元気そうでしたが。
 
 マスコミが取り上げる、取り上げないの基準はあるのでしょうか。また取り上げることにより、普通に批判されるだけで済んだ人々が、下手をすれば自殺に追い込まれることもあります。要するにニュースの取捨選択は極めて責任が重いと思うのです。言いたい放題、やりたい放題のマスコミ関係者が、話題の人々を幸にも不幸にもする力を持ちながら、「言論の自由」を掲げるのを見ると反吐が出る私でございます。
 
 (上記の通り、この校長の発言をそっくりそのまま賛同しているわけではありませんが)どうしても、子供を産み育てることの大切さを訴えることが嫌いで問題視したかったマスコミが普段何をやっているか、それを思い出してみてください。

 歌手の○○さんと女優の××さんの結婚会見です。
「ご結婚おめでとうございます。」「ありがとうございます」
「お子様は何人くらいほしいですか」「2人くらいはほしいですね」
「男の子?女の子?」「最初の子は女の子がいいかな?・・・」

 結婚したら子供を産み育てるということを前提、強制し、子供の人数まで面前で答えさせて、国家への貢献を約束させているマスコミが、批判する立場にあるのでしょうか。
 もちろん、屁理屈こねすぎであることはみなさんよくお分かりかと思いますが。

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2016/03/10

信教の自由と曖昧論

 言論の自由と曖昧論言論の自由と曖昧論(2)の中の、「言論の自由を振りかざすな」とか「自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき」という言論も言論の自由は保障しているが、言論のレベルを下げている・・・とか、そんな私の屁理屈についてこられなかった方に、今度は、「信教の自由」にもひとコネして説明し、より偏屈な世界へ皆様方をお連れしたいと思います。

 信教の自由は、日本国憲法第20条で、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する(後略)」とされています。

 例えば、オウム真理教が世間からバッシングを受けていた時を考えてみます。麻原教祖の髪の毛1本1万円、ふろの残り水2万円、ヘッドギア100万円(具体的値段忘れましたので、たぶんこんな感じですみません)など、強引な金集めが世間から非難されることがありました。
この非難に対し、ああいえば上祐氏などは、

我々には信教の自由がある」・・・一段ロケット
そして「仏教だって戒名にいくら払っているのか?」・・・二段ロケット

という、二段ロケットで、世間をけむに巻いておりました。多くのコメンテーター・評論家などは、常識で非難するのですが、信教の自由があるといわれれば、基本的に反論できません。鰯の頭も信心と言われればそれまでで、基本的に自由とされているからです。さらに二段目のロケットを食らって、何も反論できていませんでした。

 ただ、この一段目のロケット、屁理屈屋の私にかかるといろいろと疑問がわいてきます。
 信教の自由??、なにそれ??。
信教の自由は、日本においては前述の日本国憲法で保障されています。ですが、当然、オウム真理教の内部に信教の自由などないではありませんか。

わかります?

 オウム真理教はオウム真理教という教えを守っていく宗教団体であって、オウム真理教の中で、「私、仏教がいいなあ・・」という信教の自由は存在しません。また、宗教はその性質上、布教活動をするわけですが、当然オウム真理教の信者になることを勧めるのであって、「信教の自由だから、仏教でもいいよ」という布教はありえません。またWikipediaによれば、信教の自由とは、信仰を変える自由も含みます。オウム真理教が信者の脱会や批判、それに絡む教団批判に寛容どころか、(無関係の人まで)殺人を犯したことはご存知の通りです。

 つまり、オウム真理教そのものに、「信教の自由」等という概念は存在しないのです。わかりやすくオウム真理教を例にしましたが、一般論として、信者が明確な宗教に関して(オウム真理教と比べるのはなんですが)その程度の差はあれ、その内部で「信教の自由」は同様に存在しないのは当然です。

 であれば、信教の自由とは何か。
それを規定する日本国憲法を、日本、あるいは世間と置き換えてみましょうか。日本において、日本国内において、「あなた方が、特定の宗教を信じて生活することを認めますよ」ということですから、信教の自由とは、本来、世間様(日本国民)の元にあり、世間様(日本国民)こそが発する言葉ではないでしょうか。「ちょっとあの人たちおかしなことをやっているけど、「信教の自由」があるんですから、認めてあげましょうよ」という使い方が正しいのではないかというのが私の意見です。発言主は世間様(日本国民)であって、決して、宗教団体自体ではなく、自発的に「俺達には信教の自由がある!!」と叫ぶための言葉ではないのではないでしょうか。

 そう考えると、信教の自由というのも、日本国憲法には明確に「何人に対してもこれを保証する」と極めて明確に書かれておりますが、実に曖昧な概念であることが分かります。鰯の頭を含め本来どんな宗教活動も認められるはずですが、先ほどの世間様の言葉の中の、「おかしなことやっているけど・・・」の程度、線引きによっては、当然認められない場合があるということを含有しているのが「信教の自由」と私は考えるのです。

 もちろんそれが行き過ぎて、権力が線引きを大きく変えることにより、様々な宗教を弾圧することもあるでしょう。そんな時こそ、「信教の自由があるはずだ」と世間様(日本国民)が立ち上がり、線引きの見直しを迫る必要があるのです。
 ということで、宗教団体が、たやすく「信教の自由」を叫ぶのは、(本当の弾圧を除き)世間様(日本国民)に見放されつつあるのに、「俺たちの活動を認めろや!この野郎!」的なわがまま野郎の発言と同等だというのが私の意見です。残念ながら話の流れ上、このわがまま野郎的発言も、「言論の自由」が許してしまっておりますが・・・。

 ちなみに、ああいえば上祐氏の2段目のロケットも私の屁理屈を使えば簡単に論破できます。過去記事に何度も書いてきましたが、これは駐禁症候群と呼ばれる(私の造語)批判テクニックです。仏教で戒名に何十万円も払うという事実を本人は批判的に話しているのですから、それと同様に、麻原の髪の毛に値段をつけること自体よくないことだと本人自身が認めている墓穴発言に過ぎません。「上祐さん、あなたのおっしゃる通り、仏教の金集めはおかしいですね。それと同様にあなた方の資金集めもおかしいですね。それを自らお認めになる上祐さんはすばらしい」と褒め殺して終了です。

 私の屁理屈は宗教に近いのでしょうか。世間から、「お前の屁理屈はわからん!ネットから消えろ!!」と言われたら、「私にだって信教の自由と言論の自由があるぞ!」と反論させていただきましょう。

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2016/03/07

言論の自由と曖昧論(2)

 前回、言論の自由について書いたのですが、もう一度書き直してみたいと思います。言論の自由が当然守られているという現実の中で、ある言論というか意見発信が、

自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき
という、方向に向かっていることを最近よく見かけると書きました。

 しかし、それを批判的に言ったことと明らかに矛盾しますが、上記のような言論の自由とは明らかに反する意見ですら、言論という土俵から排除してはいけないというのが私の考えなのです。

 わかります?。

「自分の意見は正しいのだから、正しくない他者の意見は言論の自由には当たらないから、排除されるべきだ」的な言論でさえ、言論の自由は保障しているということです。

 だからこそ逆に、いくら保障されているとはいえ、上記のような自分の意見のみが正しい的な言論には、辟易ですし、ある意味極めて危険だと感じます。そのあたりが極めてあいまいなわけですが、曖昧だからこそ私的には、そういう自分中心の言論は慎みたいと感じるばかりです。そして、いくら相手が間違っていようと、相手のやり方が汚かろうと、それこそ、言論封殺をちらつかされて自分の意見を攻撃されようとも、残念ながら、それはやはり言論という土俵の上で戦うしかないと感じています。

 いやいや、場合によって相手はその土俵から自分の言論を封殺しようとしているのに言論の土俵で戦うしかないなんて、彰の介は馬鹿か??って言われそうですね。しかし、現実現代の日本社会であれば、それやすやすと封殺なんてできません。封殺されそうだ!!的な言論の場が、必ずどこかに存在しているものでしょう。そうした封殺の動きこそ、むしろ悪いイメージを国民に与えかねない、自爆のような気がしますが。

 そして、もう一段ややこしい話をすれば、それでいて私は、たやすく「言論の自由」「言論封殺」なんて言葉を言論に持ち込むべきではないとも感じているのです。というか、それらが持ち込まれている言論こそ、「自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき」という言論の応酬だと言いたいのです。つまりは、レベルが低いのですよ。

 レベルが低い・・・、ついつい本音を書いてしまいましたが、誰かがレベルを下げてしまうと、言論の自由の下では、そのまますべての言論のレベルが下がってしまいます。

 言論の自由とは、自由ゆえに曖昧で、ルールがあってないが如くなってしまう。だからこそ、言論の自由を振りかざすな、それこそあってないけどルール違反だ・・・という、私彰の介の超超屁理屈を一気に書きなぐってみました。

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2016/03/02

言論の自由と曖昧論

 敢えて問題発言調で話を始めたいと思います。
 言論の自由、これは日本国憲法第21条において保障されております。集会を開くのも自由、言論の名のもとに何を言っても自由、表現の自由は憲法が保障しています。

 ということは、あの見るに耐えない、ヘイトスピーチ的なものも、憲法で保障されているのでしょうか?。表現の自由、言論の自由をことあるごとに訴えているメディア関係者は、特にヘイトスピーチに対して強く批判されているように思いますが、これって、何か矛盾していないでしょうか?。自分たちの表現は憲法が保障しているはずだが、ある種の考え方を持つ人たちの表現は規制されるべきだというわけですから。

 もちろん、私的には矛盾しているなどと考えていません。憲法よりも優先されるものは、常識や慣習のはずです。法律論的にこういう考え方が正しいのかどうかは全く知りませんが、あの見るに耐えない行動としてのヘイトスピーチが、常識的に正しいこととは思えず、憲法の保障するものとは別物であると考えるからです。

 ということになると、憲法の条文自体、「一切の表現の自由はこれを保証する」と実に明確に書かれているのにもかかわらず、そこには「日本や世界の常識、慣習、価値観等により一概に保証しない」という言外の「表現の規制」を内包していると考えることもできます。となると、常識?慣習?価値観?なんてものは、人により、国により、年代により、立場により、そして、その人の思想により、宗教により、人種により??、微妙に違うわけですから、明確な文面とは裏腹に線引きが難しく、実に曖昧で、結局運用次第としか言いようがないものだと言わざるを得ないわけです。

 で、何が言いたいかといえば、あの明らかなヘイトスピーチならともかくも、あるいは逆にそれをも含めて、たやすく「言論の自由」などという言葉を発してはいけないのではないかと思うことです。言論の自由を害されると感じた場合、自分の言論が間違いなく常識に照らし合わせて常識なのか、公共の害になっていないのかどうかをちゃんと判断できるかどうか。言論の自由から明らかに逸脱していると感じたとき、間違いなくその言論が常識を超越して公共の害になっていると判断できるかどうか。あまりにひどい言論を見たとき、それをたやすく言論という土俵から追い出そうとしていいのかどうか。

 昨今のいろいろな議論を見るに、言論弾圧だ、言論の自由だという言葉がよく飛び交っているのですが、私から言わせれば、結局のところ多くの場合は、

自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき

という文脈で使われていることが、あまりに多いと感じるのです。どちらかが正しい、どちらかがおかしいというわけではありません。自分なりにあまりにもおかしい言論だと思っても、あまりにひどすぎると思っても、言論の土俵から追い出さず、ただただ言論によって戦うしかないのではないかというのが私の考えです。そうでなければ、真の言論の自由は守られないはずです。普通の言論が、実は大いなる誤りで、ひどいと思われる言論の中に、本当の答えがあったらどうなのでしょうか。

 無論、私の持っている答えは、言論の自由の線引きなど曖昧で正解がないということであり、より良い言論をもたらすための方策を持ち合わせるわけではありません。ただただ、自分の言論とも呼べない世迷言を、言論から追い出してほしくないがために、自分と意見が違っても、だからと言って言論から追い出すことはしてならないと感じるばかりです。

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2016/02/29

「曖昧論」再び

 いろいろと考えをめぐらせている間に、いつの間にか、年末、新年も過ぎ、2月も終わって3月に入ろうとしております。新年のご挨拶もできなかったのは、初めてかもしれません。時のたつのが早いのか、私がさぼっているのが長いだけなのか、このブログに記事を書かない期間が3か月以上になってしまいました。

 ネットの片隅でひとりごちるこのブログですが、誰も読んでいないとしても、私自身の考えをまとめるために必要です。今後はもう少し真面目に更新いたします。
 な~んて、このブログを以前から見ていただいている方はよくお分かりかと思いますが、この、真面目に更新するとか、短くていいから更新回数を増やすとかいう類の目標は、達成されたためしがありません。あるテーマについて書くなんていうのも書いたためしなし・・・でございます。

 ということで、毎度の有言不実行として今回掲げているのが、またしても曖昧論。エリートに限らず、多くの人は、そこには必ず答えがあると信じていますが、現実には不確定要素がいくつもあったり、言論のように幅広い考えがあるのに、一つの考えに収斂するなんてことは普通あり得ないでしょう。世の中は、曖昧なはずなのです。

 ところが、曖昧なはずなのに、答えがあると思い込んでいるから、いろいろと矛盾や、不幸なことが起こってくる。そんなことの連続が人間の歴史といえるでしょう。ただし、答えがない、曖昧だと気付いたとしても、曖昧なわけですから、気付いただけで不幸がなくなるわけではなさそうですが。そんな意味のない言論、それが曖昧論というわけです。

 少し話は外れますが、皆さま、病気になって病院に行ったとき、どんな医師だったら、安心でき頼りになるでしょうか。一応、一応、私はやぶ医者をやっているわけですが、これまた私にかかられた患者様というのは、やや?ものすごく??不安になることでしょう。

一般的に、

「あなたは急性気管支炎です。この抗生物質を飲めば必ず良くなります。」

と言ってもらえれば、安心できるでしょう。
でも、やぶ医者の私は、たぶん患者様にはこのように説明します。
「あなたは急性気管支炎だと思います。抗生物質を出しますが、熱が続くかもしれません。咳は病気がよくなっても続く方が多いです。高い熱が続いたり息苦しいなんてことがあったら、また必ずかかってください。」

まあ、要するに、曖昧なのですよ。病名も断言しない。薬が効くとも言わない。悪くなるかもしれないとまで言う。まあ、患者様はかわいそうに、私にかかったばかりに、不安な気持ちで病院を後にすることもあるでしょう。でもでもでも、本当に診断も、治療も、ただただ断言することが正しいのでしょうか。

 まあ、誰に何と言われようと、私の持論は、曖昧論。真実も、未来のことも、決して誰にも分らないと思っているわけです。現実には、上記の私の説明に食って掛かる方はほとんどいないわけで、あまり問題になることはないのですが、本当は「断言型」の方が安心できる方も少なくないでしょう。稀に・・・、曖昧なことを言っていると、「私が望んでいるのはそんなことじゃない。病名が知りたいんだ病名が!!」と怒りだされる方もいらっしゃいます。そうなると、病名をしっかり言っていただける病院へどうぞという話になり、変な病名つけられて、めっちゃくちゃな治療されても知~らない・・・と思いつつ、いやいや、自分の技量の足りなさに、反省する日々が始まるわけです・・・。

 そのあたりは、医師と患者の相性の問題と言ってしまえばそれまでです。医師側も、患者側も、正しいか正しくないかは、神のみぞ知る、それが曖昧論主義者の私の考え方なのです。よく似た話は、人間相対性理論(医学と料理人の曖昧)(医学と町工場と職人の曖昧)(医学と統計学の曖昧)にも書きました。

 最初に書いたように、有言不実行ではありますが、言論の自由と言論弾圧について、ちょいと考えております。民意についても少し書いたのですが、結論を書ききらず、また文章にしたいと思っています。その他、考えていることと、目的がねじれてるなんてことも最近よくありますから、それも、ぶった切ってみたい・・・じゃなくて、曖昧に事を片付けたいと思っています。

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2015/11/10

デフレな世の中の不安な日々

 ブラック企業なんていう言葉が聞かれ始めてもうずいぶんな日にちが流れているような気がしますが、先日、今の世の中ってこういうものなのかなあ?と考えしまうことがあったため、いろいろと私の勝手な解釈も含めてご報告まで。

 私はお金持ちなので(笑)、滅多にチェーン店的なお店や、ファミレス的なところに入って食事をしたりすることはないのですが(その手のお店の全てが私の口に合わないわけではありませんが・・・(笑、大見栄))、妻と、とあるショッピングセンター的なところへ行った時のお昼に、そこに出店している、とあるその手のラーメン店に入ることになりました。

 日曜日ではあったものの、少し時間がずれているのに、結構な人だかりで、順番であれこれ30分くらい待たされたでしょうか。ただ、入る前から、私は、店のなかをのぞき込んでいて、気になったことがあったのです。何十人も入れるお店なのに、どうも働いている、いわゆるウェイトレスさんが一人しかいないのです。

 順番が回ってきて、やっと店内へご案内となったのですが、そこで、あれ??っと思うことがありました。はいどうぞと指さされた、我々の座る席の隣の席も、一個離れた席も、ちょっと離れた席も、食事が終わったどんぶりやら何やらが、全く片付けられることなく、そのまんまになっているではありませんか。もちろん我々が案内された席は片付けられているのは当然ですが、何とも気分の悪さを感じてしまいました。

 店内に座ってみて、客の見える範囲内で(厨房を除き)働いているのは、さっきのウェイトレスさんだけではなく、もう一人、できたラーメンなどを運んでくる人がいるのはわかりました。

 基本的なウェイトレスさんの動きを見ていると・・・、次に呼ぶべき客が2人だとすると、2人席にそのままになっているどんぶりを片付ける、客を呼び込む、水を汲んで置く、会計の人がいたら会計する、注文をとる、またどこかの席のどんぶりなどを片付けて、客を呼び込む・・・の繰り返し。と、文字にして書けばたいしたことはなさそうですが、それぞれの作業にそれ相応の時間はかかるので、確かに客が去った席のどんぶりを片付ける時間なさそうです。その、もう一人の、ラーメン運んでくる人も、少しは片付けなどをやるのですが、すぐに見えないところに入ってしまっていたところをみると、もしかして、ラーメンづくりもしているのか、ご飯をよそったり、汁物や餃子の準備等の作業もしたりしているのかもしれません。まあ、よく働く二人だと感心してみていました。

 しかし、感心ばかりしていられません。先ほども書いたように、片付けるべき物がそのまんま、待ち時間も長い。だからウェイトレスさんもう一人雇って仕事を分担すれば、もっと回転するし、サービスも良くなると思うのだけど、こうやって少人数で人件費を抑えるのが当たり前の世の中になってしまったのでしょうか。あくまで余計な邪推ですが、このウェイトレスさんもただのアルバイトで、決して高い時給をもらっているわけではないでしょう。よく働くからといって、時給が相場の1.5倍、2倍ということも残念ながらなさそうです。

 デフレの時代で何が起きているかと言えば・・・、お客は安くないと来てくれないので、単価を下げる。そのために経費を削減する。すなわち、人件費を削り、多少のサービスの低下も目をつぶる。どんぶりそのままなんて言うのは、基本的に客には関係ないので放置し、アルバイトのウェイトレスさんの仕事量当たりのお給金は下げる。給料が下がっている人が多ければ、安い物しか売れないので、さらなる人件費とサービス低下を引き起こす・・・。

 私は経済学者でも経済評論家でもないので、そんな私の理屈に信憑性はありませんが、当たらずとも遠からずではないでしょうか。ところが、そんな風に、ウェイトレスさん仕事大変で可哀想的な物の見方でこの店を眺めていた私に、衝撃の事実が突きつけられたのです。

 私はラーメン屋に入ったのにも関わらず、新メニューという豚生姜焼き定食を頼んだのですが、出てきた生姜焼きに愕然としてしまいました・・・・。

 確かに私はお金持ちなので(笑)、そもそも普段から良いものしか食べていないわけですが(笑)、その生姜焼きの豚肉、もう残念としか言いようがない、切れ端の切れ端みたいな肉で作ってあって、添えられたキャベツは、シャキシャキならぬ、カピカピ?カヒカヒ?だったのです。味は・・・、味は決して悪くないですよ、若干私は味覚のストライクゾーンが広いこともありますが、食えないとか、不味いなんてことはありません。でも、生姜焼きという言葉から頭の中で想像していた物とは別物の、いかにも残念な物が目の前に出てきた時、ウェイトレスさんの時給の低下?、片付けもされないような店内環境?、いやいやそんなものではなく、商品そのものこそ経費削減の中心であって、口に入れた時の不快感さえなければ、それが一体どんな材料を使っていようが、どんな化学物質を使って味付けをしてあろうが、安さこそが最優先される世の中になってしまったのかなあということを、思い知らされてしまったというわけです。

 デフレの時代と言われて久しいわけですが、給金が下がる、格差が広がる(特に新自由主義的施策を進めれば)、ブラックな職場が増える、等の問題が指摘されています。が、もう一つ、安さが第一の目的になるために、商品やサービスの質が落ちていくということが挙げられそうです。しかし、一見するとそれは、まるで無駄を省いたような、見た目は変らないような、味は決してまずくないような物だったりするわけで、つまり、まがい物や手抜きの横行を許しているような気がしてなりません。

 それって、日本の物作りの歴史からはどんどん遠く離れてしまっているような、そんな思いにふけってしまっている私は、ただの贅沢な人間ということなのでしょうか??

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