2012/06/15

無駄論的数学的”DIY”

 食器棚に置いてあるお皿は、何枚も積み重なっていますよね。妻が突然「取り出しやすいように、お皿を二段に積みたいから、棚の中にちょっとした仕切りの棚をつくりたい」と言い出したのが今回のお話の始まり。テレビでやっていたDIY番組を見て、小さな棚を作ろうというのですが、ノコギリもカンナもないんですけど、できるんですかね・・・。

 というわけで、材料を買いに行ったホームセンターでのやりとりが今回のお話です。奥行きが28cm、幅が47cm、高さが7.5cm(+板の厚み)のコの字型の棚を作る計画です(妻の希望サイズ)。要するに高さ7.5cmの足の部分の板2枚と、お皿を載せる幅47cmの上板の合計3枚の板が必要と言うことです。ホームセンターではカットのサービスがありますから(有料)、適当な板を買ってカットしてもらえば、ノコギリもカンナもいらないかなあと漠然と考えておりました。

 一応、DIYド素人の我々夫婦が考えた板のカット図(図の長さは適当)が下の感じです。91cm×30cmの板がありましたので、幅を28cmに切って、その板を下記サイズのように切れば、目的の棚の材料ができあがります。端っこが結構余りますが仕方ありません。
2

 というわけで、釘やキリやサンドペーパー、そしてこの板を購入しました。そして板をもってカットコーナーへ行ったのですが、ここに大きな落とし穴が待ち受けていました。

 我々が、上記のようなカット図を見せると、そのカットコーナーのおじさん(はっきり言って変なおじさん)が、

11cm以下のカットはできませんね・・・

いやー、ちょっとこの一言には途方に暮れました。要するに高さ7.5cmの足の板のカットができないというのです。カットは大きな機械でするわけですが、11cm以下の設定は固定ができなくてできないようなのです。折角材料を買いそろえたのにカットできないのでは話になりません。何とかできませんか?とだだをこねてみたのですが、機械のことだけに「無理」の一点張りでした。

 しかし、その変なおじさんがちょっとしたヒントをくれました。

板だいぶ余るから、あまりの部分でとれないかな。7.5cmじゃなくて、残るほうのサイズでなら切れるかもしれないけど。ただノコギリの歯の厚みが2mm位あるから誤差がね・・・

ちなみにこの変なおじさん、こう言うと、「切り方決まったら呼んでちょうだい」といってそそくさとどこかへ行ってしまいました。後でよくよく考えてみると、このおじさんのアドバイスは全くのナンセンスでお話になっていないのですが、ただ、7.5cmで切るのではなく、残る方のサイズで切るというのはまさにこの問題の”解”でした。頭の悪い私ですが、ちょっとばかりピーンとひらめきました。

 よくよく考えてみれば、7.5cmで切ろうとするからいけないわけで、全体が91cmですから、91-7.5=83.5cmで切ってもらえばいいのです。そうすれば83.5cmと7.5cmの2枚の板が切り出せるではありませんか。そう思いついたところで、さっきの変なおじさんを呼び出し、早速83.5cmでカットしてもらいました。しかし・・・・

 そこはやっぱり素人のわたくしでございました。変なおじさんの「ノコギリの厚みが2mm位ある」ということを忘れていました。正確に83.5cmの板の方は切り出せていますが、残りは7.5cmではなくやや短くなってしまったのです。
 ただこれは不幸中の幸いでした。この切り出された小さな板はちょっと歪んでいて、長方形ではなかったのです。どうも、購入した板の端は直角ではなかったようです。いい具合に丁度端切りして直角にした感じになりました。

 それでまたよくよく考えてみれば、ぴったり7.5cmである必要性もないのですから(妻の希望サイズなので、1mm位ずれても、同じサイズの板が2枚取れればいいのですから)、ノコギリ歯用に3mmの余裕をとって、83.5-7.8=75.7cmでカットしてもらい、さらに75.7-7.8=67.9cmでカットしてもらいました。そしたらおよそ7.5cmの、うり二つの板が、見事に2枚取れたではないですか。いやー、めでたしめでたし。何が11cm以下はカットできないですか。正確でなくてもいいのであればちゃんとカットできるじゃないですか。変なおじさん、頼むわ・・・・。

 ということで、完成したちょっとした棚が下の写真。
Dscn0157

 釘を買う時にアドバイスを受けた、変なおじさんではない別のおじさんが、「コの字型は弱いから、背板を入れた方がいい」と教えてくれたので、そんな補強も入っております。我々夫婦のケーキカット以来の共同作業にしては大変よくできました・・・。結婚6年、今まで何やってきたのやら・・・・。冷え切った夫婦??。

 ということで、ブログなどで、ホームセンターの木材カットの話を何件か見てみると、随分ずさんなカットも多いようですね。今回の変なおじさん、確かに変なおじさんで、まともなアドバイスもできない人でしたが、相当にカットは正確だったかもしれません。結構ぴったりできあがりましたから・・・。変呼ばわりしてごめんなさい。もう2度とお世話にならないと思いますけど(今後は別の大きなホームセンターに行きま~す)。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「自然・科学」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック!
  かなり前からツイッター始めています。よろしければfollowしてください。ほとんどつぶやいていませんが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/03/10

メディア生態系理論

 いつもながらお久しぶりの彰の介です。
 そして、いつもながら、ばかばかしいことを理屈っぽく考えている彰の介です。

 このブログを始めた頃から、何度も何度も、「ネットの世界と既存メディアの関係」のことを考えてきて、特に、その争いといいますか「ネット対マスコミ」的なものの見方には、何度も、もの申してきました。過去記事にも書いていますが、ネットでブログを書いているような人間は、当然「ネット派」なわけで、私もそう分類されることになってしまうわけですが、しかし、ネット派のマスコミ攻撃にも辟易するものを感じていました(派閥論と駐禁症候群本質論と派閥争いなど・・)。

 そして今回も、全く同じことを書こうとしているわけですが、言葉を変えて、ネットも既存メディアも「生態系」の中の一員じゃないの?と言いたいだけなわけです。・・・と結論を書いてしまったので、これにて終了でもいいのですが?、まあ私の屁理屈にも少しの間お付き合いください。

 今回は、その序論で、本当の「生態系」に関する、私の屁理屈です。上記、ネットだ、メディアだ、マスコミだといろいろ書いてありますが、本日は全く出てきませんのでご安心ください。自然界の生態系のお話です。

 生態系という言葉の、正確な定義を私は知りませんが、食物連鎖とか弱肉強食という言葉で言い換えてもいいかもしれません。植物が光合成で得たエネルギーを、草食動物が食べ、それを肉食動物が食べ、それらの糞や死体を微生物が分解し、植物の栄養になって・・・というエネルギーの循環と言ってもいいのでしょう。たぶん。

 そこで私の屁理屈ですが、「弱肉強食」という言葉に私流の理屈をつけてみましょう。
例えば、シマウマは、ライオンの餌食になるという関係であり、俗にライオンが強くて、シマウマは弱いとされるわけです。ライオンは”生態系ピラミッド”の頂点、その下にシマウマが存在することになります。

 確かに一匹一匹を比べればそういう強い弱いという関係になりますが、「生態系」の中で考えた場合、決して強い弱いの関係はありません。ある安定した生態系を考えると、食べられる側が存在しない限り、その上の上位の捕食者の存在はあり得ません。いくら強くても、弱いものを食い尽くしたらその種は滅んでしまうことになりますから。
 
 いや、むしろ、生態系における強さ弱さというのは、あるいは、安定性というものは、全く逆かもしれません。種として食べられる道を選び、生態系の中に組み入れられた場合、すなわち、その生態系において、欠くべからざる”エサ”となった場合、種としては大変安定して生き延びることができるという考え方もできると思います。

 その道の専門家ではない私が、何でそんなことを考えたかと言えば、海の中の「鰯の群れ」や、田んぼの「オタマジャクシ」がむしゃむしゃと他の生き物に食べられるシーンを見るたびに、何でこんなにいろいろな生き物に食べられる、いかにもか弱い「エサ」のような生き物たちが、ずっと自然界を生き延びてこられたのだろうと疑問に思ったからです。

 生物というのは、いかに他の生物から食べられないようにという「弱肉強食」の理論から徐々に進化してきたかのように語られることが多いのですが、どう考えても、鰯やオタマジャクシは食べられないように進化してきたとは思えません。まあそんな弱い生き物たちがどうして生き残ってきたか、いや、むしろ繁栄してきたのかという答えとして、(正しいか正しくないかはわかりませんが)私の出した答えが上記に書いた、「エサとして生態系に欠くべからざる存在になること」というわけです。

 よく、「ほ乳類の祖先は、恐竜から隠れるように暮らしていた」なんてことが語られることがありますが、それが弱肉強食的に、恐竜が強くて、うろうろしていると食べられるという意味で言われているとしたら、それは全くのでたらめでしょう。ほ乳類の祖先が、恐竜の時代も生態系の中に組み込まれていたとしたら、食べられたからと言って絶滅することはないわけです。カエルやオタマジャクシが、次々にタガメやヤゴや、魚や、鳥に食べられても、絶滅しないのと同じ理屈です。必要不可欠な存在になれば、むしろ強食よりも種として安定というのが私の考えなのです。

 ということで、本日語ったことは、おそらくメディア生態系理論にはあまり関係ないような気もしますが、人間のための、人間的切り口でこの自然界の生態系をみた場合は、現在のネット対マスコミ的な派閥論的言い争いの無意味さを語る丁度いい例になると思います。が、本日はこれまで・・・。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「自然・科学」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/10/21

まことしやかな「幸福の木」の話

 世の中、まことしやかに語られるウソというのが非常に多い・・・ということを常々感じている、屁理屈屋の彰の介です。このブログの中にもいろいろと、そんな話(ウソではない話かもしれませんが)をちりばめてきました。中には、私が勝手に解釈している「新説、珍説」の類もあるので、この彰の介の証言こそ要注意という噂もありますが・・・。

 例えば・・・、非常に初期のこんな記事、亀のあくび。あくびは空気を思いっきり吸い込むためにする行動と考えられているようですが、本当にそうなんだろうかと考えてみた記事です。何しろ、うちの亀様が水の中であくびをしたのですから・・・。ちなみに、亀を飼う場合、必ず日光浴が必要であり、日に当てるか、白熱灯?を浴びせないといけないと書物には書いてありますが、うちの亀様は明るいところにいるだけで、10年以上生きています・・・。

 例えば・・・、現在のところ、「彰の介の証言」で、最も読まれている記事が快気祝いと快気内祝いという記事。俗にマナーとされていることですら、いろんな見解があって、全然統一されてないじゃんと感じたお話です。ちなみにマナーといえば・・・、私の父の葬式の時、一応「葬式に関する本」を読んだのですが、はっきり言って何の役にも立ちませんでした。一般論的な「マナー本」だったのでしょうが、宗旨宗派の違いや、地域性の違いがあまりにも大きすぎて、逆に混乱しただけというのが本音のところです。

 そして本日の「幸福の木」です。およそ12年ほど前買ってきた我が家の幸福の木を観察するうち、世間で語られている幸福の木に関する諸説はほとんどウソだろうと感じています。幸福の木といいますと、いわゆる観葉植物なのですが、以前我が家の幸福の木に花が咲いた時、このブログで記事にしておりました(幸福の木の花)。写真付きなのでぜひ見てください。

 まず、ウソとは関係ありませんが、市販の幸福の木、或いはその類似のドラセナ属?の多くは、おそらく矮化剤か何か薬剤が使用されていると思われます。市販されている時、或いは業者に管理されている施設などの幸福の木の葉は、非常にきれいな黄緑色で、その大きさも丁度いいのですが、自宅で育てていると、葉は非常に濃い緑色になり、なんといっても葉の形が細長くなってきてしまいます。一言で言えば「だら~ん」と垂れ下がってしまうと言えばいいでしょうか。多くの市販されている植物に、この矮化剤が使われているようで、私もハイビスカスやミニバラで経験していますが、これっていいことなのやらどうなのやら、現実を知るとちょっとがっかりしてしまいます。

 幸福の木のウソというか伝説といえば、その「花」に関することです。上記の記事で書いたとおり、我が家の幸福の木にも花が咲きましたが、花が咲くというのが非常に珍しいため、いろんなウソ情報が飛び交うことになったのでしょう。

 まず、幸福の木の花は10年に一度くらいしか咲かないとされています。なかなか咲かないので、まことしやかにそうされていますが、実は、我が家の幸福の木は、2008年も、2009年も、2010年も、3年連続で花を咲かせているのです。ネットで調べてみると、2年連続、3年連続なる報告が散見され、けっして「10年に一度」でないことは確かです。知恵袋の回答には「60年に一度」といった記事も見られ、かなりいい加減ですね。

 幸福の木に花が咲くと、木自体枯れる・・・なる説もありますが、これも全くのウソですね。花芽の上には成長しない、成長しにくいという話もありますが、そんなことも全くありません。

 どうすれば花が咲きやすいかの話ですが、最もまことしやかに語られているのが、「根詰まり」説です。根詰まりをおこしていると、花芽をつけやすいというのですね。ストレスから子孫を残そうという本能が働くというのですが・・。
 今回の話の展開からすると、決して根詰まりしていなくても花が咲くということを、私が証明したかに思われてしましますが、実は我が家の幸福の木も、5年以上同じ鉢に植えっぱなしで、根詰まりをおこしているかもしれません。しかし、根詰まりというのは明らかに樹勢を悪くするはずで、非常に体力を使うであろう「花」を咲かせることを行ったら、どんどん木が弱っていくだろうと考えます。我が家では、3年連続で花を咲かせていますが、樹勢は衰えることなく、次々に新しい葉をつけ成長しています。そんなことを考えると、根詰まりによるストレス説は、おそらくウソだろうというのが、私の考えです。

 ちなみに花を咲かせるためには、他にも「できるだけ日光に当てる」「水をあまり与えない」「肥料を十分施す、施さない」など諸説ありますが、どれが本当だか全くわかりません。我が家の場合、家の中で育てているので、明るいにせよ日光を直接当てるようなことはありません。肥料はほとんど与えていません。最初に植え替えた時に入れたのみです。今年は少しずつ液肥を与えていますが。水は確かに少なめかもしれません。葉っぱがちょっとたれてきた?と思うと与える程度ではあります。

 どれが正しいのか正しくないのか全くわかりませんが、結局のところ検証データが全くなく、噂に過ぎません。噂に過ぎないにも関わらず、いろいろとまことしやかに語られるというのは非常におもしろいですね。世の中意外にそんないい加減な情報で満たされているような気もします。今のところの関心事は、2011年、我が家の幸福の木に4年連続で花が咲くかどうかということですが、正直厳しいでしょう。なかなか報告もないようですから、もし咲いたら大々的にこのブログで発表したいと思います。もちろん過去に撮った写真を使って、偽造するくらいのことは簡単にできそうですが・・・・。今回は肥料を与えすぎたような・・・。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「自然・科学」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック!

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010/03/18

無駄論的「しかみ像」

 巌流島の決闘で、宮本武蔵が佐々木小次郎に対して

「小次郎敗れたり!」

と叫んだとされています。何でも小次郎が刀を鞘から抜いたとき、その鞘を放り投げてしまったとか。それを見た武蔵が、前段の台詞の後に「勝者が、(その後しまうはずの)鞘を投げ捨てるわけがない!」と言ったとか(ドラマなどで見かけたような気がします・・・)。事実か作り話か知りませんが、要するに、小次郎に対する武蔵の心理的な揺さぶりであったことは間違いありません。しかし、言われてみればなるほどと思えることで、心構えからして、小次郎は負けていた、隙があったと言えるかもしれません。まあ、無論、勝った後のことばかりを考えて負ける場合も世の中には多く(いわゆる油断大敵というたぐいの話)、なかなかそのバランスは難しいですが・・・。

 そんな佐々木小次郎とは全く逆?というには、話のもっていき方が強引ですが、徳川家康の「しかみ像」のお話も、屁理屈好きの私にとっては格好のネタになります(しかみ像はこんな感じです)。三方原の戦いで、武田信玄にボコボコにされた徳川家康が、その戒めのために自身の憔悴しきった顔を描かせたとされ、慢心の自戒として生涯、座右を離さなかったと解説されています。臥薪嘗胆とよく似た話と言えばよいでしょうか。しかし、徳川家康が、本当に敗戦直後にこの絵を描かせたとすれば、非常に不思議に思うことがあるのです。

 そもそも、当時戦国最強とも言われた武田信玄が徳川家康に襲いかかっているのです。家康にとっては、もしかしたら、「この戦いで死ぬかもしれない」ぐらいのことは頭をよぎっていたに違いありません。そして、一発勝負で打って出て、生涯唯一の敗戦とも言われる大敗を喫し、命からがら逃げ帰るはめになったわけですから、「助かった」という思いはほとんどなかったでしょう。むしろ今城が包囲されたら、戦いに出る前の状態よりもさらに状況が悪く、「やっぱり城を枕に死ぬかもしれない」とより強く思ったに違いないわけです。

 ところが、私の想像とは全く逆で、ここで徳川家康はこの「しかみ像」を描かせているのです。もし、私の想像するように、「今襲われたら死ぬかもしれない」と思っていたとするならば、生涯の戒めとするべき肖像画をこの場で描かせるわけがありません。今死ぬかもしれないのに、生涯の戒めも何もあったものではないからです。ある意味、この戦いを切り抜けて、生涯を全うできるという楽観的な展望がなければ、こんな絵を描かせるようなことはないはずです。そう考えると、このとき家康は全く死ぬ気がなかったと思われるのです。それは、「死ぬまであきらめてはいけない」という様な自分を奮い立たせるような、ぎりぎりの心理状態ではなく、むしろ楽観的という概念がないくらい、生きることが当たり前の家康の心が私には感じられるのです。

 三方原の戦場から、命からがら逃げ帰る道中、家康は恐怖のあまりウンチを漏らしたという噂があります。しかし、その後、「しかめ像」を描かせたというエピソードを聞くと、まもなく落城する敗者の武将(ウンチまみれの)の姿は全く見えてこず、「今何をすべきか、武田に襲われないようにするには、守り切るにはどうしたらよいのか?」ということをごく当たり前に考えている一武将の姿しか想像できないのです(ウンチまみれは変わらないかもしれませんが・・・)。
 私の考える、この「しかみ像」を描かせた家康の心理は、文才のない私ではこの程度にしか書き表すことができませんが、そこには強烈な家康のパワーとスケールが感じられ、天下人たる人物だったということが、いやと言うほど私には伝わってくるのです。鞘を捨てて揚げ足をとられる小次郎とはくらぶべきもありません。

 もし家康と話ができるのであれば、もちろんいろいろ聞きたいことがあります。一つだけと言われれば、「関ヶ原の合戦での勝算はどの程度だったのか?」というのを聞いてみたいのですが、上記のような家康の心理を考えると、聞くだけ野暮かもしれません。当然勝つつもりだったとも、負けるかもしれないとも、五分五分だったとも、そんな答えは返ってこないような気がします。あえて言えば、「そこに関ヶ原があったから戦っただけ」???てな返事が返ってくるのだけでしょうか。
 
 つまり、被害妄想系の私では、天下は取れないと言うことです。私が家康だったら、桶狭間の戦いの後、三河に独立すらせず、今川のもとに逃げ帰っていたでしょうから・・・・(嫁さんと子供残してきたから)。

 (しかみ像が戦いの直後に描かれたかどうかはわかりません。正確なことをご存じの方、ぜひ教えてください)

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「自然・科学」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック!

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2009/10/29

無駄論的中日ドラゴンズ反省会

 久々に、我が中日ドラゴンズネタです。
 しっかり、CSに負け、今更ながらではありますが、中日ドラゴンズネタです。はっきり言って、反省会です。

 今年のプロ野球は、WBCの日本二連覇から始まったわけですが、我が中日ドラゴンズは全くこのWBCに選手を出しませんでした。もちろん、選手が勝手に決めたことなのか、或いは監督、球団の意向なのかは知りません。しかし、この選手を出さなかったことについて、私は「今年は優勝しても意義がない」と力説?しておりました(WBC、私の選ぶMVP)。

 結果的に、シーズンも、CSも、私が大評価した「原監督」率いる巨人に完敗という結果になりました。まあ、結果論的評論ですが、当然でしょう。「優勝しても意義がない」というか、「当然の報い」であったと考えます。
 
 おそらく、球団?落合監督?は、WBC参加を無駄?、或いはただのリスクと考えたのでしょう。確かに、試合でけが人が何人も出て、シーズンを通して、或いはシーズンの一時期を棒に振った選手は何人かいます。したがって、中日の選手が、WBCに出ていれば、誰かが怪我をして、戦力がダウンし、2位すら確保できない状況になったかもしれません。が、逆に言うと、今年の中日は、そんなリスクを完全排除したにもかかわらず、優勝を逃したことをどう考えたらいいのでしょうか?

 私はず~とこのブログで「無駄論」を唱えているわけですが(笑)、まさに、今年の中日は、この「無駄論の精神」が欠如していたと思われます。無駄なことを無駄だと言っている人たちは、決して成長しません。なぜなら、そういう人たちは、成長や成功を計算できると勘違いしているからです。つまり成功は「うんがよかった」、失敗は「努力が足りなかった」という謙虚さが生まれないわけです。成功は「自分の努力のおかげ」、失敗は「うんが悪かった」となるわけですから、成長しないわけです。まさに、今年の中日は、WBC不参加により、大事な何か、大きな成長のチャンスを自ら放棄してしまったのではないか?と思わずにはおれません。

 私は、以前から落合監督を相当に評価していますが、どうもここ数年は冴えませんね。はっきり言って、最近の中日は弱い!でしょう。なんとなく、与えられた大鑑巨砲・外人部隊の体制を、見事にチェンジさせた原巨人とは、随分差ができてしまったような気がしてなりません。さてさて、来年の中日やいかに・・・・。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「ニュース・一般」ブログランキングにも清きクリックを! ↑↑クリック!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/17

無駄論的柳川立花藩

 先週、やっと夏休みが取れたため、夫婦で九州へ行ってきました。昨年が、鹿児島から熊本、今年は、熊本から柳川を通って福岡という旅程となりました。
 基本的に、我々夫婦の行くところ、ほとんどが”雨”なわけですが(雨男・雨女)、今年は、晴男に晴子で大変暑い思いをしました。今後何か天変地異が起きないことを祈るばかりです。

 私は、戦国時代マニアのつもりですが、あまり九州の戦国時代については詳しくありません。それは、私が特に戦国時代にはまったきっかけとなる、「信長の野望、戦国群雄伝」に九州地方がなかったからだと感じています(笑)。もう一つ詳しくない理由が、九州の戦国武将の名前の漢字がなかなか読めないことにあります。大友宗麟は読めますが、大友義鎮は読めません。よしちん??。息子の義統も読めません。よしとう??。高橋鎮種って何者?ちんたね??。戸次鑑連なんて絶対読めません。とつぎかんれん??。だれそれ??。最近の信長の野望を島津でやったときは、全く漢字が読めないので、適当にニックネームのように「よしちん」とか、「かんれん」とか呼びながらやっていましたが、おかげでまったく理解が深まりませんでした・・・。

 実は、今回、柳川での舟遊びが旅程に組まれたため、この柳川について下調べをしていました。柳川は、江戸時代、立花藩であったとのことで、藩祖立花宗茂について調べだしたら、戦国マニアの本能に火がついて、よしちんやら、、かんれんやら、ちんたねのことを調べる羽目になりました。まあ、マニアですから、楽しいんですけどね。 
 調べるうちにわかったことは、鎮は「しげ」、鑑は「あき」、統は「むね」と読むらしいことです。この3つの字が読めると、結構慣れてきて、九州のいろいろな武将の名前を読むことができるようになりました。宗麟の義鎮は「よししげ」、息子義統は「よしむね」、戸次は「べっき」(戸次川は「へつぎがわ」と読むらしいのですが・・)って覚えるしかありませんが、鑑連は「あきつら」、鎮種は「しげたね」・・・、こういうのが読めると、なんとなくマニアっぽくて良いですね。ちなみに高橋鎮種の父は吉弘鑑理・・・ってやっぱり読めないんですが、「あき」は読めるようになりましたから、理を「ただ」と読むと覚えればいいだけですね。「よしひろあきただ」・・・まあ、名前か苗字かよくわからない名前です。高橋鎮種の初名が、吉弘鎮理とWikipediaに書いてありますが、おそらく、「ちんり」とは読まず(笑)、「しげただ」と読むのでしょう。

 そういう意味では、立花宗茂というのは、「むねしげ」と実に読みやすいのですが、残念ながらこれは最後の名前らしく、若い頃の呼び名のなかには、「統虎」やら「鎮虎」やら書いてありますから、これだと読めませんね。ふりがながなければ「とうとら」に「ちんとら」です。父の「ちんたね」は、「高橋紹運」の呼び名のほうが有名ですね。養父の「かんれん」も、「立花道雪」のほうが断然有名です。ともに猛将であり、息子の宗茂もそんな環境で鍛え上げられ、鎮西一とも呼ばれる武将に成長したのでしょう。

 ただ、私のいい加減な理解では、立花宗茂は関ヶ原の戦いのとき、西軍について大津城攻めをし、改易されたと思っていたのですが、改易後に再び柳川に立花藩が成立したのですね。調べてびっくりですが、関ヶ原の戦いで改易された大名の中で、大名として返り咲いたのは立花宗茂ただ一人のようです。しかも、全くの旧領にです。敵ながら、家康には相当に気に入られていたのでしょう。

 まあ、そんなこんなを調べていて、だいぶ九州の戦国にも明るくなりました。旅も下調べがあるかないかで、思いが変わってきますね。マニア的にたいへん有意義な旅になりました。立花を調べすぎて、福岡黒田藩のことをあまり調べられなかったのは残念ですが、まあ、また今度の機会にでも・・・。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「自然・科学」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/27

無駄論的「幸村と信繁と小十郎」

 以前、戦国武将のソムリエなるマニア文を書いたことがありますが、最近、「歴女」なる言葉も一般化され、さらに女性に戦国武将ブームが起きていることは、私のようなマニアにとって大変うれしい限りです。

 先日、朝の番組で歴女の特集?をやっていましたが、この時人気の武将として「片倉小十郎」の名前が挙がっていました。NHK大河ドラマの「伊達政宗」では、たしか西郷輝彦さんが演じていたと記憶しますが、伊達政宗、一の家臣とはいえ、歴女の人気武将になるとはびっくりです。武将的には、伊達成実の方がかっこいい気がしますが(私見・・・)。どちらかと言うと一門武将よりは、忠臣のほうが、”はやり”という事なのでしょう。

 ところで、片倉小十郎よりは明らかにメジャーで、イメージ的にもかっこよく、そして最後は意地を貫いた武将と言えば、「真田幸村」の名前が挙がると思います。当然、歴女にも人気であることは想像に硬くありません。そして、昨日のNHK歴史秘話ヒストリアで、「ザ・ラスト戦国ヒーロー~伝説に秘められた誇り~」として、この真田幸村が取り上げられていました。

 マニア的には、真田幸村という名前は誤りで、「真田信繁」というのが正しいわけですが、このNHKの番組は、当然そのことを知りながら(だと思いますが)、あまりこだわりなく、名が通っている「幸村」で通していました。この「信繁」という名前は、おそらく、武田信玄の弟、「武田信繁」からつけられたのではないかと想像するわけですが、歴女の方、ぜひこの武田信繁にもご注目ください。なかなかにすばらしい人物です。うむむ、また一門武将だから、はやらないか・・・。

 私は、武田家の家督争いの中で、武田信繁が信玄に殺されずに、重臣として武田家を支えたことは、「戦国七不思議」の一つだと考えています。ちなみに七不思議のその他六不思議は、全く考えていませんが・・・。信玄の父、武田信虎は、武田家の家督を、長男の信玄ではなく、弟の信繁にと考えていたらしく、それが父、信虎追放の原因の一つであったと考えられるわけですが、そうだとすると、信繁はみすみす当主の座を逃したことになります。信繁を取り巻く家臣団もさぞがっかりしたに違いありません。当然のことながら、当の信繁やその家臣団に、それなりの色気があり、不満を抱えていたとしたら、親兄弟、殺しあっても当たり前の戦国時代、家督争いや、暗殺沙汰が当然起きたに違いありません。そう考えると、信玄が信繁を殺さなかったのが非常に不思議なわけですが、おそらく、信繁が相当にできた”弟”であり、そのあたりの雰囲気を敏感に感じとり行動し、乗り切っていったに違いありません。

 そして、武田信繁の最後は、かの「第四回川中島の合戦」。おそらく、武田信玄にとって、この信繁の戦死は相当につらく、武田家にとって相当なダメージだったに違いありません。信玄の身代わりになって死んだと言ってもいいようなこの信繁の死はなんともいえませんね。歴女の皆様、もっともっと武田信繁に注目してください!!。

 ところで、本題の?真田幸村の話ですが、NHK歴史秘話ヒストリアによれば、大阪夏の陣で最後を迎える前日、自分の子供たちを、敵将である伊達政宗の家臣「片倉小十郎」に預けたというのですね。ついでに、この小十郎に預けた幸村の娘を、小十郎が正室(後室)に迎えたというのです。ということで、真田幸村を冒頭の歴女注目の片倉小十郎につなげてみました・・・と言いたいところですが・・・。

 そんな、真田幸村と片倉小十郎の関係を全く知らなかった私は、なんとなくおかしいなあ??とテレビを見ながら感じていました。真田幸村の娘を片倉小十郎の正室??にするには、年齢的にどうか?、小十郎はそろそろ死ぬんじゃなかったか?と感じたわけです。

 そんな疑問を感じたため、いつもどおり手っ取り早くWikipediaで調べたわけですが、私のかすかな記憶の通り、「片倉小十郎」は病床に臥して大阪の陣には参戦しておらず、夏の陣の翌年には死んでいるんですね。で、調べた結果、幸村の子供たちを預かったのは、小十郎の息子の「片倉重長」であり、冒頭歴女に人気の片倉小十郎ではなかったわけです。
 Wikipediaによれば、「「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになった」とのことで、NHKの番組の中で重長のことを「片倉小十郎」としてしまったようですが、全くの説明不足としか言いようがありません。当然「片倉小十郎」といえば、片倉家初代の、歴女に人気の「片倉小十郎景綱」と考えるのが普通ですから、NHKの凡ミス?(本気で知らなかったのかも・・・)でしょう。マニアはそういうところを見ているのですから、NHKの気の緩み方が気に入りませんね。
 
 と言うことで、全く持って取り留めのない話に終始してみました。まもなく、新しい「信長の野望」が発売されるとのこと、改めて、ゲームを通して、歴史を勉強しようと考えている私、彰の介でございます。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「自然・科学」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック! 

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009/02/26

無駄論的「心の狭い太公望」

 故事成語のエピソードに屁理屈をたれるシリーズの第3弾、本日の主人公は「太公望呂尚」、故事は「覆水盆に返らず」です。

 太公望といえば、俗に釣り好き方のことを言いますね。これは、太公望と名づけられることになる呂尚という人物が釣りをしているときに、後の周の文王にスカウト?されたという故事によります。これまた、みらいぽーとさんのページをリンクしておきます。しかし、偉い方がどこの馬の骨とも知らぬ人物に声をかけますかね。また、少し話しただけで、その見識を見抜くことなどできるのでしょうか。まあ、まったくのファンタジーな世界です。

 ということで、殷王朝を倒し、周王朝建国の立役者となる太公望ですが、この人物、意外に心が狭いというエピソードを発見しました。それが、「覆水盆に返らず」という故事です。意味はやっちまったものを元に戻すことはできないということですが、この故事の主が太公望であることはまったく知りませんでした。

 

殷王朝末期、若き 呂尚 は、妻を娶りました。 しかし、彼は、学問を修めることに力を注ぐ余り、働くわけでもなく、夫婦の生活は苦しかったのです。それでも呂尚は、気にも止めずに勉学に励んでいたため、ついに妻は夫に呆れて、「とてもあなたにはついていけません。」と言って、出ていってしまいました。 呂尚は、なおも努力を重ね、深い学識を備えましたが、依然として貧しいままでした。
 しかし、ある日、 渭水 のほとりで、1人釣り糸を垂らしていると、通りかかった身分のあると思われる者が、声をかけてきました。話をしてみると、その人物は、賢人として誉れの高い周の 西伯昌 ( せいはくしょう 、後の文王) で、「あなたこそ、我が太公(祖父)の望んだ人物だ。」と言って、彼を太公望と呼び、師として敬いました。
 西伯との出会いによって、呂尚は、天下にその名を知らしめることとなりました。その彼の元に、ある日、出ていった妻がひょっと現れ、「昔は、食事にも事欠くほどの貧しさでしたのでお暇をいただいておりましたが、このように立派になられたので、やっぱりあなたの妻としてお側に仕えさせていただきます。」と言いました。
 呂尚は、無言のまま盆に水を汲み、それを庭先の土へこぼすと、別れた妻にその水をすくうように言いいました。彼女はその水をすくおうとしましたが、水は土にしみ込んで救うことができません。そこで呂尚は、言いいました。「覆水盆に返らず(一度こぼれた水は元に返すことはできない)。一度別れたものは、再び一緒にはなれないものだ。」

 どうですか。太公望は家庭を顧みず自分のしたいことだけして妻に逃げられたにもかかわらず、ちょっと運良く出世したからといって、返ってきた妻にもう一緒になれるかと言い放ったのです。心狭きことこの上ないと感じませんか。はっきりいって、妻を責めることなどできないでしょう。何をえらそうに「覆水盆に返らず」でしょうか。勘違いもはなはだしいというものです。天下に名を知らしめたわけですから、「昔は苦労をかけた」といって度量のあるところをみせてほしかったなあと感じるばかりです。

 まあ、といいつつ、糟糠の妻という言葉もあり、妻のほうも出て行かずに貧苦をともにしていれば、このような悪妻の汚名をかけらずにすんだと思わなくもありません。簡単に言うと、二人の相性が悪かったというだけのことでしょうか。社会で、組織で、集団で力を発揮する人物が、決していい家庭を築ける人物ではないという好例??でしょう。

 ということで、また突っ込みどころのある故事や話を見つけたら、容赦なく叩き切ろうと思います。今年のテーマは「評論はファンタジー」で心が固まりつつありますので、こういう「どっちの(別の)解釈もできるじゃん」的話は見逃しません。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「自然・科学」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック! 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009/02/23

無駄論的「管仲と鮑叔牙」

 故事成語のエピソードに屁理屈をたれるシリーズ第2弾、本日は「管鮑の交わり」で有名な管仲を懲らしめましょう。

 管仲(かんちゅう)といえば、中国の春秋時代、斉の国の王様「恒公(かんこう)」を覇者たらしめた宰相として有名です。そしてこの管仲の管と、その無二の親友、鮑叔牙(ほうしゅくが)の鮑をとって、「管鮑(かんぽう)の交わり」という言葉がありますが、例によって みらいぽーと さんのところで意味を確認しますと、「利害によって変わることのない親密な交際」ということになっております。同じような言葉に、「刎頸の交わり」というのがありますが、こちらは廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)の話で、エピソードが違うだけで、お互いのためなら首を切られてもいいというような同じような意味の話です。

 時代背景を細かくお話しすると、それだけで大変なことになるので、ぜひ教科書を参考にしていただきたいと思います。簡単に言うと、1.管仲と鮑叔牙は無二の親友だった、2.それぞれ斉の国の別々の王子に仕えていた、3.謀反などいろいろあり(省略・・・)、それぞれの王子を次期王様にするため、親友同士だが戦うことになった、4.鮑叔牙の仕えていた王子が争いに勝って(これも中身はおもしろいですが省略・・・)、斉の王様(恒公)になった、5.戦った以上、管仲は殺されるべきだが、その才能を高く買っていた鮑叔牙は、恒公を説得し、管仲を斉の国の宰相に推した、6.管仲はその才能をいかんなく発揮し、恒公を春秋時代初の覇者たらしめた・・・・ってなとこでしょうか。
    
 当然のことながら、ことが王の座をめぐる争いですから、負けた方は殺されることになります。負けた王子や管仲は隣国に亡命中でしたが、この亡命先の国に恒公から次のような要求がされたと、某小説では展開されていました。
 

血を分けた王子は、こちらで殺すにはしのびないのでそちらで殺してほしい。ただし、管仲は、殺しても殺したりないくらいなので、こちらへ生きたまま送ってほしい

 殺されることなく送られてきた管仲を、鮑叔牙は宰相へ推挙したという展開ですが、まあ、これを利害を超えた親交というのであれば、その前に、争わずに王を決めることはできなかったのでしょうか。上記省略していますが、それぞれの王子を王にするため、管仲も鮑叔牙も権謀術数いろいろやってるわけですから、何とも理解に苦しむ親友関係です。

 さらに、管仲という人物も、自分の作戦失敗で王子を死に追いやってしまったにもかかわらず、のこのこと敵の宰相につくあたり、全く武士道精神(←これは日本人のみ?・・・)のない人間です。生き恥をさらすとはこのことです(言い過ぎか・・・)。しかも、どうしても理解できないのが、後生、「斉の恒公を覇者たらしめた人物は管仲」とされ、管仲の評価は非常に高いわけですが、次のエピソード(管仲自身の鮑叔牙の友情の述懐)からも、本当に管仲を額面通り評価すべきかどうかは、疑問だらけです。
 

私(管仲)がまだ若かった頃、鮑君と一緒に商売をやったが、いつも分け前を彼よりも多く取った。しかし、彼は私を欲張りだとは言わなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、ある時、彼を助けようとしてやったことが失敗し、かえって彼を窮地に陥れてしまったことがあったが、彼は私を愚か者だとは言わなかった。事には当たり外れがあるのを知っていたからだ。私は何度も出仕してはその度にクビになったが、私を無能だとは言わなかった。まだ、運が向いて来ないだけだと知っていたからだ。戦さの時に何度も逃げ出したが、それを卑怯だとは言わなかった。私に年老いた母がいるのを知っていたからだ。また、糾さま(管仲が仕えた王子)が敗れ召忽が自殺したとき、私だけが縄目についたが、それを恥知らずだとは言わなかった。私が小事にこだわらず、未だ天下にその名の 顕 ( あらわ ) れないことだけを恥じていることを知っていたからだ。私を生んでくれたのは父母だが、私を育ててくれたのは鮑君だ。

 一言で言えば、管仲というのは、「開き直りの天才」であり、「ただの無神経男」ではありませんか。鮑叔牙の優しさが無ければ、全くしょうもない人物であったことは明かです。つまり、私からいえば、鮑叔牙の方が、実際問題として仕えた王子をしっかり王の座につけましたし、このしょもない男の尻をたたいて働かせましたし、断然優秀な人物と考えますが違うでしょうか。それがなぜか「斉の恒公を覇者たらしめた人物は管仲」と評せられるのが、私にはよくわかりません。

 しかしまあ、この天才的な開き直りができる無神経な人物こそ、真の政治家とも言えましょうか。改革断行を行うのに、あっちにもこっちにも遠慮していたら何もできません。文句を言われようが、何があろうが、ばっさりと改革を断行し、「国のためには仕方ありません」と開き直る力というのは、そうそう凡人には持ち合わせていない力ではあります。ある小説でも、改革断行が鮑叔牙自身ではできないから、この開き直りの天才管仲にやらせたというストーリーを展開していましたが、実際そうだったかもしれません。
 が、そうであったとしても、やはり私は、管仲よりも鮑叔牙の方が遙かに優秀という評価に変わりはありませんが・・・。

 現在の日本では、改革が断行できない開き直りの天才的な政治家はたくさんいますので、全く困った限りです。ワインを飲んでおきながら、風邪薬と開き直りますか・・・。
 ということで、次回は「太公望」あたりをばっさりと切りましょうか。
 (なお、上記表現において、わかりやすく”王”や”王子”などの言葉を使っていますが、厳密には時代的に”王”は周王朝の王のみです。)

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「自然・科学」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック!

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2009/02/19

無駄論的「隗だけお得?」

 久々に戻ってまいりました、無駄論シリーズでございます。
 以前、無駄論的故事成語として、折檻傍若無人辟易完璧、という故事成語の出典を紹介しながら、出典時の話と現在使われている意味が違うのではと考察しました。私が考察した動機については、上記記事に書いてありますが、いわゆる言語学者による「正しい日本語」という概念への挑戦であり、出典と現在使われている言葉のハザマで、辞書も実に中途半端な意味を載せていることに気づいたまでの話です。

 今回は、ただ単に、そのエピソードについて屁理屈をたれたいというだけの理由で「隗より始めよ」を取り上げたいと思います。意味は「手近なところからはじめよ、言い出したものからはじめよ」と辞書に載っていますが、現在はほとんど後者的な使い方といえるでしょうか。言い出したものというか、まずは範を見せるべき人物そのひとから実行しなさい的な意味で使われていると思われます。
 この言葉の故事は「千里の馬」の話と、そして「隗(郭隗という人物)」の話と2本立てになっており、まずは前者から、以前も利用させていただいた、みらいぽーとさんのページを使って引用させていただきます。 

「昔、ある君公が千金をもって、一日に千里を走る馬、いわゆる千里の馬を手に入れたいと求めましたが3年経っても手に入れることが出来ません。 すると、宮中の小間使いが探しに出ました。彼は、3ヶ月後に千里の馬を見つけましたが、すでにその馬は死んでいました。しかし、彼はその死んだ馬の首を五百金で買って帰りました。 君主はカンカンに怒り、『私が欲しかったのは、生きている馬だ。どうして死んだ馬に五百金も払って来たんだ。』と言いました。小間使いは、動じずに、『死んだ馬ですら五百金で買ったのです。生きている馬なら、いったいいくらで買うのだろうと思うでしょう。千里の馬はたちどころにやって来るでしょう。』果たして、1年も経たないうちに千里の馬が3頭ももたらされた、ということです。」

なかなか面白い話で、なるほどと感心させられます。しかしそれと、隗より始めよは、ちょっと変な方向へ向かったものといわざるを得ません。燕という国の王様が、今回の主人公で家来の郭隗に、「天下の賢者を招き、国政を委ねて、斉に被った恥をすすぐにはどうしたら良いだろうか。」と聞いたときに、上記千里の馬の話をした上で、 
「王がもし、優れた人物を招聘したいとお望みであれば、まず、この私、郭隗よりお始め下さい。(先づ隗より始めよ) 私のような者でも取り立てられるとすれば、私より優れた人物はなおさらだと思うでしょう。きっと、千里の道を厭わずにやって来るに違いありません。 」そこで、王は、郭隗のために宮殿を築いて、彼を師と仰ぎました。すると、 楽毅 ( がっき ) (趙の名将)や 趨衍 ( すうえん ) (陰陽説の祖)などが、ぞくぞくと集まったのです。

郭隗という人物は、よくもまあぬけぬけとこんな話を王様にしたものです。ということは、先づ始めるのは別に郭隗でなくても、凡人を師と仰げばだれでもいいという話になりませんか。だいたい、真の賢者が、凡人に宮廷を与えてのほほ~んとしている王様の元に集まるはずがありません。見所のある王様だからこそ賢者が集まるわけで、こんなよくわからない手口で賢者が集まったらえらいことです。もしも、この国なら上にいけると思う人物がいたとしても、それはあくまで立身出世目的ですから、正直、金目当てのだめ人間もたくさん集まることになるでしょう。

 結局のところ、得をするのは「郭隗だけ?」ではありませんか。というか、郭隗は確信犯に違いありません。自分の生活を楽にするために、王様を言いくるめたとしか考えられません。まあもちろんのこと、こういう言いがかりをつけるのは、私彰の介しかしないとは思いますが・・・。

 ついでに言うと、この「隗より始めよ」も、その故事と現在使われている意味はまったく違ってしまっています。現在の意味で言えば、「王様こそが身をただし、民の範であれ、そうすれば続々と賢者が王様の元に集まる」という感じの故事成語であってほしいわけですが、実際には、「金でつって賢者を集めろ」という話で、がっかりというかなんと言うか・・・。

 ということで、久しぶりに彰の介らしい屁理屈をこねこねさせていただきました。できれば次回、「管鮑の交わり」で有名な、管仲をこてんぱんにしてやりたいと思います。

 人気blogランキングに登録しています。ぜひ清きクリックを!
 ↑↑クリック!
 BlogPeople「自然・科学」ブログランキングにも清きクリックを!
 ↑↑クリック!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧